第225話 空の色彩
「ギー様っ!!」
跪いた魔王の元に、四枷たちが慌てた様子で集まってくる。
「……大丈夫だ、血はもう止まった。心配ない」
魔王のそんな声が聞こえ、少しだけ振り返った修馬はゆっくりと肩を落とす。
初代守屋光宗『贋作』による居合抜きで、魔王の両魔眼を斬り裂いた手応えはあったが命に問題はないようだ。回復力の凄まじい天魔族なので、怪我の心配は必要ないだろう。
しかしながら、勝負はこれで着いたはず。魔王を跪かせることができれば『アグネアの槍』を渡すという約束だったのだから。
壁のように高く燃え上がっていた炎が、徐々に小さくなっていく。
視界が開けてくると、伊集院たち、それと捕らえられていた友理那の姿が目に飛び込んできた。
「ユリナ様っ!!」
友理那の元に真っ先に跳び出したのはマリアンナ。そしてココと伊集院もそれに続く。
「よくぞご無事で……。私が不甲斐ないばかりに、ユリナ様に辛い思いを……」
喜びの涙を流すものの、それ以上に酷く憂い悲しむマリアンナ。だが友理那は、そんな彼女に優しく声をかける。
「あなたのせいじゃないわ、マリアンナ。それに私はあなたたちが助けに来てくれると信じておりましたから、何も辛いことなどありませんでしたよ」
そう言われ、上手く言葉が返せないマリアンナはただ静かに頭を垂れている。友理那は優しくマリアンナを抱きすくめ、その両腕で包み込んだ。
「マリアンナ。こんな辺境の海まで私を助けに来てくれてありがとう。修馬たちの力になってくれてありがとう。……ココ様にも、ご心配をかけてしまい申し訳ありませんでした」
「礼には及ばないですよぉ、ユリナ王女。僕は僕の信条で、シューマたちについてきただけだからね。それにこの旅は、とっても楽しかったんだ。人より長く人生を歩んだ僕でも、家族と過ごした幼少期に匹敵するくらいとても楽しい時間だったよ」
そう言ってココは、無邪気な笑みを浮かべる。
「そういうことだ。俺も修馬も礼を言ってほしくてここまで来たんじゃないしな。みんな時勢の流れに沿って動いていただけだ。マリアンナもあんまり恐縮することはないんじゃないか? 必要以上に負い目を感じていると、姫様も困ってしまうぞ」
友理那の後ろ手に巻かれた縄を解きながら伊集院は言う。良いことを言っているのだが、ドヤ顔なのが少しだけ腹立たしい。
修馬も友理那の傍らに行きたかったが、突然襲ってきた尋常でない疲労で膝が動かず、成す術もないままその場でへたり込んでしまった。
するとその時、跪いている魔王が閉じたままの目でこちらに振り返る。
「シューマよ、実に見事な攻撃だった。一切の殺気を出さずに繰り出す、光の如き剣技。あれは我も避けることが出来ぬものだったが……、しかし何故首を斬らなかった? あの閃光のような一撃ならば、あるいは我が首を跳ねることもできたのではないか?」
確かに怒りの感情が渦巻いていた時は、魔王の首を斬り落とすことだけを考えていた。
だが友理那の声が聞こえ、伊織さんの言葉を思い出した時、修馬は心の奥底で眠ってしまっていた正気をどうにか取り戻すことができたのだ。
この勝負は殺し合いではない。魔王を跪かせることさえできればいいのだ。
「あんたを殺したら人間と天魔族の間に遺恨が残る。これ以上争いの種を残すのは本意じゃないんだ。目を斬ったくらいなら自分で治せるんだろ?」
修馬はそう思い言葉にしたのだが、四枷は互いに顔を見合わせ若干困惑の表情を浮かべている。この雰囲気は一体何だ?
魔王の顔色を伺ったサッシャは小さく頷くと、修馬に対し視線を向けた。
「ギー様の魔眼は、両目とも幼少期に移植手術した魔眼なんですよ。生まれつきの魔眼なら天魔族の持つ自然治癒力で再生することもできたでしょうが、ギー様の魔眼はもう元には戻りません」
「……えっ?」
予想と異なる状況に、脳の理解がついていかなくなる。
もしかしてこれは、天魔族に対し余計な怒りを買ってしまいましたか?
「まあ、サッシャの言う通りだ……。しかし、元より物見えぬ目。オミノスはこちらの世界から姿を消し、その役割を失ってしまったのだから、もうこの魔眼はいらぬのだ」
そう言って己の目元を押さえる魔王。
するとそこに、軽快な歩き方でココが近づいていった。
「……何をしにきた? モンティクレール家の跡継ぎ」
若干焦った様子でヴィンフリートが聞く。
「うん。ちょっと魔王さんに用があるんだ」
ココは活舌よくそう言うと、魔王の傍らに寄り添いしげしげと顔の辺りを見つめた。
「どうした? 大魔導師。我の命でも奪いに来たのか?」
「違うよ。その目、見えないんでしょ。僕が魔法で元の目に戻してあげるよ」
ココのその言葉を聞き、衝撃を受けたように目を見開く四枷たち。
「人間の扱う治癒魔法……、それは禁忌の術のはず。一体何の利点があってそれを使おうというのだ? 大魔導師ココ」
怪訝な声でそう問いただすクリスタ。
それに対しココは得意げに口を横に広げると、魔王の隣に周り小さく耳打ちした。何を言っているのかは、こちらには聞こえてこない。
「成程、そういうことか……」
目を閉じたまま神妙な表情を浮かべる魔王。
一体何を話していたのだろう? 魔王は納得しているようだが、修馬は何故か妙な胸騒ぎがしていた。
「うん。だから僕に任せて貰えるかな?」
「……そう言ってくれるのであれば、好意を受け取ろう。やってくれるか、大魔導師?」
こくりと頷き朗らかに笑ったココは、魔王の顔に向かって腕を伸ばし、その小さな手のひらを真っすぐに掲げた。
静かな広間内に清らかな風が吹き抜ける。そして薄暗い天井付近からは、星のような光の粒が瞬きながら零れ落ちた……。
「大いなる力の根源たる火の精霊よ、悪しき病を焼き尽くし給え。
輪廻の如く流れ天地を潤す水の精霊よ、忌まわしき穢れを流し給え。
悠久の時を廻る風の精霊よ、癒しの息吹を与え給え。
古より大地に宿る地の精霊よ、その膨大なる力を我らに与え給え。
そして天空に散らばる数多の精霊たちよ、ココ・モンティクレールの名のもとに、ギー・ルシュファル・アデルハイザーの欠損する身体を修復し給え。
……今こそ輝け、『禁じられし光』!」
長き詠唱の後、ココの手のひらから真っ白な光が放たれる。
その光は薄暗い城内を一瞬だけ明るくし、そして放射状に走り去り、儚く消えていった。
「……これで大丈夫。目を開けてみて」
どこか安心したように腕を下げるココ。
魔王は閉じていた瞼を重々しくゆっくりと開く。潰されたはずの眼球は元に戻っており、紫がかった瞳がキョロキョロと動いた。
そして心配そうに見つめる四枷たちと目が合うと、魔王はどこかつまらなそうに表情を曇らせる。
「お、御屋形様。目は見えるようになりましたか!?」
気遣うハインに対し、どういうわけか魔王は「はぁ」とため息をつく。
「ハイン。お前は何ともつまらないな」
「ええっ!?」
そう驚いたのはハインだけではない。他の四枷たちも何を言っているのか理解できないのか、身じろぎもせずにその様子を伺っている。
「お前は私が想像していた通りの顔だと言っているのだ。全く持って意外性に欠ける」
それを聞いたヴィンフリートが吹き出すと、魔王は更にこう続けた。
「ヴィンフリート。言っておくが、ハインだけじゃなくお前の顔もだぞ。サッシャとクリスタもそうだ。全員、我の思い描いていた通りの造形。折角大魔導師に目を治して貰ったのに、これでは喜びも半減してしまうというもの」
魔王がそう言って笑うと、四枷全員が魔王の側に寄り添い喜びを分かち合った。
「わたくしは主がこの顔を正確に想像していてくれたことを光栄に思います」
「私に関しては、魔眼移植前にお目にかかっているのですが……」
それぞれの想いを口にするクリスタとヴィンフリート。
魔王は彼らに、母親のような慈愛に満ちた笑みを向ける。そして少しだけ涙を滲ませたサッシャは「ギー様。私たちの顔では満足していただけませんでしたが、他に何かご覧になりたいものはありませんか?」と尋ねた。
首を上げ虚空を見つめる魔王。
その視線は、修馬が擲弾発射機でぶち壊した大きな穴に向けられた。
「そうだな。我は空というものを見てみたい。魔眼を移植する前の赤子のころには見たことがあったのだろうが、流石に記憶がないからな」
大穴から漏れている日差しが遮っているため、そこから空の色を伺うことはできない。ただ薄く黄みがかった白い光が透けているだけだ。
「空ですね。かしこまりました。目が開いたばかりでは少々眩しいかもしれませんが、翼の無いギー様の代わりに、私が空にお連れしましょう」
そう言って身を屈めるサッシャ。
だがその時、何故か修馬が左手に持っていた白獅子の盾が、突如として金色の光を放ちだした。
「うー……、にゃー!!!」
大きな鳴き声が城内に響き渡る。
光の中から現れたのは、白獅子のイシュタル。何がきっかけかはわからないが、盾から姿を戻したようだ。
そして息を合わせたように、ココがその背中に飛び乗る。
ココはイシュタルの首元に足をかけると、長いたてがみに埋もれるように後頭部に抱き着いた。
「ねえ! 空に行くっていうんなら、イシュタルが乗せてってくれるみたいだよ!」
ココの言葉に同意するように、イシュタルは今一度「にゃー!」と鳴く。
「この白獅子が、ですか……?」
戸惑った様子のサッシャをよそに、魔王は立ち上がり一人勝手にイシュタルの背中に飛び乗った。
「ふむ、サッシャよ。この獣、中々乗り心地がよいぞ!」
「えっ、待ってください。私も一緒についていきます!」
魔王の後を追い、慌てて飛び乗るサッシャ。
修馬が他人事のようにその様子を遠巻きに見ていると、イシュタルの背の上からココが声を上げた。
「シューマも一緒に乗りなよっ!」
「えっ、俺も?」
この竜の虚ろ島にくる時、修馬たち4人はイシュタルの背中に乗ってきた。つまりその背中にもう1人は確実に乗れるということ。
疲労と痛めつけられた体で、まるで言うことを聞かない状態だったのだが、いざ動いてみると驚くほどスムーズにすっと立ち上がることができた。むしろ平時よりも体が軽く感じる。不思議な感覚。
そして彼らのいるイシュタルの背中に飛び乗る修馬。先程まで死闘を演じてきた魔王と席を共にするのは、何とも緊張感があるが仕方がない。
「それじゃあ、快適な空の旅へ出発進行!!」
ココの掛け声と共に床を蹴り、高く跳び上がるイシュタル。
そして破壊された壁の穴に向かって、一気に駆け上がっていった。
真っ白い光の中を通り抜ける。
そして目が慣れてくると、心地よい風が流れる城の上空へとたどり着いていた。そこは竜の虚ろ島の景色が一望できる場所。
澄んだ空気と、豊かな日の光。
永遠とも思えるほど遠くまで続く空は、頂点からのグラデーションが美しく移ろい、水平線の上には霞を帯びた白い雲がゆっくりと形を変化させ風に流れていた。
「……これが、これが我らの住む世界か」
上擦った声で魔王が呟く。
「勿論です、ギー様。空の景色は如何ですか?」
サッシャが尋ねるものの、それについて魔王は何も答えない。いや、答えることができないだけかもしれない。
初めて見るその雄大な空の景色。普段から見ている修馬でも美しく思えるのに、盲目だった人が初めて見る空は一体どのように映るのだろうか? それはきっと、修馬の想像力ではとても計り知れないことなのかもしれない。
「サッシャよ、この空の色は何という色なのだ?」
「これは青という色です、ギー様」
「青? 成程、これが青という色か……」
イシュタルは空の上で、大人しく制止している。
しばらくその空の景色を見ていると、魔王の瞳に微かに涙の粒が滲んだ。
「何時だったかハインに青という色について聞いた時、奴はどこか冷たい印象のある色と教えてくれたのだが、やはり他人の言うことなど当てにはならぬものだな……」
どういう感情かはわからないが、そう言って鼻を鳴らす魔王。
少しだけ肩をすくめたサッシャは「左様でござますか……。それではギー様は、青という色にどのような印象を抱かれましたか?」と聞いた。
「わからぬか、サッシャよ」
不敵な笑みを浮かべると、魔王は更にこう続けた。
「空の青の、何と暖かきことか……」
空の青が暖かい……。
そんな風に捉えたことのなかった修馬は、改めて空を眺めた。幾度となく見てきた空の景色だが、その時の修馬にはそれがまるで別の物でも見るように感じることができた。
修馬の目に溜まる水滴によって、光が屈折し空に一筋の虹色が煌めく。
この世界は誰かが手を加えずとも、ただそれだけで美しい。
南からの風が、強く吹きつける。
いとおしむように首を上げていた魔王だが、小さく息をつくと目元を押さえ、イシュタルの背中の上で体調を崩したかのようにうな垂れた。
「だ、大丈夫ですか? ギー様」
すぐにその背中に手をあてるサッシャ。
「ああ……、問題ない。だが少し疲れてしまったようだ。獣よ、ありがとう。もう下りてくれて構わぬぞ」
「にゃー!!」
魔王の言葉に強く返答したイシュタルは、空を蹴り、天魔族の城の壊れた壁面に向かって一気に下降していった。