第214話 海の彼方
修馬たちは今、白獅子イシュタルの背に乗り辺境の海域『ヴェストニア』を目指している。
乗用車くらいの大きさに膨れ上がったイシュタルは、雲の上を跳ねるように駆けていった。
「こ、これは、飛翔魔法の比じゃないな……」
強風を顔面に受けながら伊集院が言う。
「あはははは。イジュ、舌噛まないように気をつけてね」
イシュタルの首元に座ったココは、慣れた様子で空の景色を楽しんでいる。全く大魔導師様は大したものだ。
速いのはありがたいことだが、凍てつく風が肌に刺さるようで痛い。出来ればもう少し速度を落として欲しいななどと考えていると、その気持ちが通じたのかイシュタルの走る速度が半減した。
「そうだね。これくらいの速度で行こうかイシュタル。ついでにここからだと島が見えないから、高度も下げよう!」
首元に跨るココがそう言うと、イシュタルは「にゃー!!」と鳴いて、眼下の雲の中に突っ込んだ。そこは濃霧の中のような真っ白な世界。そして体に湿り気を蓄えながら下層雲を出ると、青い海が下方に現れた。
四方陸地が見えない海の上を、白い獅子が颯爽と駆けていく。
徐々に慣れてきた修馬は、空の旅の気持ちよさを感じ始めていた。一面に広がる空と海。風は冷たいが日差しは温かいので、環境はそれほど悪くなかった。高さに対する恐怖も幾分和らいでいる。
そしてそこから数時間空を進んでいくと、やがて風の弱い海域の上空に辿り着いた。ただその変異に気づいたのはマリアンナだけだった。
「風の匂いが変わったな……」
鼻の利くマリアンナが呟く。
風の匂いと言われてもいまいちピンとこない修馬だったが、念のために鼻から空気を吸い込んでみる。やはり潮の香りがするだけで、変わった様子は伺えない。
「風かぁ。もしかしたらこの辺りが凪の海域ってところなのかな? もう少し海面に近づいてみようかイシュタル」
ココに言われると、イシュタルは前に進むのをやめ、ゆっくりと降下していった。そして海面から20メートルくらいの高さに下りた時に、初めて海の変化に気づいた。海上に風がなく、海面は湖のように穏やかだった。
ココの言う通り、ここが凪の海域で間違いなさそうだ。サリオール国家元首から聞いた民話では、凪の海域が辺境の海域『ヴェストニア』の入り口になっているということだった。
波音が全く聞こえない静かな海。
この辺りに雲は見当たらないのだが、進行方向の遥か先には巨大な雲が浮かんでいた。夏を感じさせる積乱雲。先頭に乗るココはあの雲の下がヴェストニアではないかと言った。あの一帯から気圧の変化を感じるらしい。
意志の疎通が取れているように、イシュタルはその積乱雲に向かって疾走していく。もしも帆船でここまで来ていたらいくら船魔道士がいたとしても、この無風海域を越えるのは困難だっただろう。本当にイシュタルには感謝しかない。
その後しばらく進んでいくと、海面に波が出始めてきた。上空には先程の積乱雲がかなり接近している。恐らくこの先が凪の海域の終点。
「いよいよ近づいてきたね。見てよ、あれ!」
そう言って前を指差すココ。そこには小さな島が浮かんでいた。
「えっ、あれが竜の虚ろ島!?」
「違うよ、シューマ。あれは島じゃなくて、生き物か何かの頭だよ」
「頭っ!? 生き物の? まさか、あれが絶海の……」
島と見間違えた苔色の頭部が、大波を上げながら海面の上に浮上した。歪んだ楕円の頭が現れると、その下方にある金ボタンのような濁った2つの目玉が上空を駆けるイシュタルを睨んだ。あれこそがアーシャが言っていた『絶海の暴君』と呼ばれる大だこに違いないだろう。
想像を絶する大きさに言葉を失う修馬。離れているのでよくわからないが、頭部だけで2、30メートルくらいありそうだ。
近づく前に逃げた方が良いかもしれないな……。
そんなことを考えていると、修馬たちの真下の海面からぷくぷくと大きな泡が吹きだし始めた。これは一体?
「まずい!! 上昇しろっ!!」
叫ぶ伊集院。
それと同時に海の中から太さ2メートルほどの巨大な触手が突き上げるように伸びてきた。
「くそっ!! 『インフェルノ LEVEL2』!!」
魔法による炎で攻撃を仕掛ける伊集院。
海面から出てきた触手は灼熱の炎に焼かれると、うねらせながらまた海の中に沈んでいった。しかしたこの触手は当然1本ではない。今度は2本の触手が出てきて、同時に襲い掛かってくる。
「きりがなさそうだな」
「そうだね。イシュタル、高度を上げよう!」
伊集院の火魔法とココの雷魔法で迎撃し、2本の触手は海に沈んだ。その隙にイシュタルは宙を蹴り、上空へと退避していく。
それでも大だこは別の触手を空に向かって伸ばしてきたが、もう届く距離ではなかった。
やがて諦めたのか管状の口から大量の海水を吐き出すと、大だこは海の中に再び沈んでいった。巨大な波紋が荒れた海面に更に波立たせる。
ほっと肩を撫でおろし、腹の底から息を吐き出す修馬。
「はぁ……。あれが絶海の暴君か。船で遭遇していたら完全に沈められてたな」
「本当だね。想像より、ずっとやばそうな生き物だったよ」
愕然とする修馬に対し、ココは楽観的に笑う。
まあ仮定の話で深刻に考えてもしょうがない。とりあえずは絶海の暴君も乗り越えることが出来た。後は『竜の虚ろ島』とやらに向かうだけ。
空の上から大だこのいなくなった海面を見つめていた修馬は、気を取り直し空を見上げた。
辺境の海域から竜の虚ろ島に向かうためには方法がある。それは上空に現れるという『雲の道しるべ』を見つけ、辿っていくということ。
だが上空には巨大な積乱雲が張り付いていて、そのような雲は確認出来ない。
「……ないな」
「何が?」
不思議そうな顔で修馬を見るココ。
「いや。こんなでっかい雲の下じゃあ、雲の道しるべってやつが見つけづらいなぁと思ったんだけど」
「ああ、雲の道しるべかぁ。確かにねぇ……」
そうして修馬とココが空を見上げてぼんやりしていると、急にマリアンナが「あっ!!」と声を上げた。
「違う、下だ! 海上に道が出来ている!!」
海に道?
どういうことかと思い海を見下ろすと、遠くの海面に白く真っすぐな一本道が横切っているのが見えた。
「あれが雲の道しるべ……、なのか?」
海面の照らす光の帯。果たしてあれが雲の道しるべと呼ばれるものなのだろうか?
よくわからないながらも、海に出来た光の道に向けイシュタルは走る。そしてその真上に辿り着くと、修馬たちは感嘆の声を上げた。
「何だこれは……」
「く、雲が割れてる」
修馬と伊集院はそう言った後に絶句した。
修馬たちの真上の浮かぶ巨大な積乱雲。それが何かで切断したかのように、綺麗に真っ二つに割れていたのだ。その割れた先の上空からは日の光が漏れ、海上を道のように白く照らしている。
「雲の道しるべとはこういうことだったのか」
「うん。これに沿って進めば良いみたいだね!」
マリアンナとココは納得したように大きく頷く。
修馬は当初雲の道しるべが飛行機雲のような細い雲だと想像していたのだが実際はその逆で、巨大な雲の割れているその隙間、及びそこから漏れる日差しの道こそが雲の道しるべだったのだ。
「よし、そうとわかれば後は進むだけ。イシュタル、この光の道に沿って真っすぐに行ってくれ!」
「にゃー!」
雲の隙間から漏れる光を浴びたイシュタルは、その白い毛が白金のように輝いた。そして修馬の言葉を理解しているかのように、雲の道しるべを走っていく。
ここヴェストニアの海上は凪の海域と違い、強風があらゆる方向から容赦なく吹いてくる。修馬たちはがっちりとイシュタルに捕まり、その身を屈めた。後はこの道を突き進むのみ。
そして暫しの間荒れた海の上を駆けていくと、やがて前方に霞に囲まれた島影がぼんやりと見えてきた。
「……あれか?」
恐らくあれが、目指していた竜の虚ろ島だと思われる。
しかしそれは島というよりも、海の上に壁が立っていると表現した方が正しいような断崖絶壁の島だった。
船であれば上陸は難しかっただろうが、修馬たちが乗っているのは空飛ぶ白獅子。イシュタルはそのまま空を駆け、島を取り囲む霞の中に突入していく。道しるべとなる光も途絶えてしまったが、最早関係はない。
そして白く霞む中から抜け出ると、イシュタルは天空の島の上空へと躍り出た。
潮の香りが消え、清々しい空気に囲まれた竜の虚ろ島。そこには先程まであった積乱雲も無く、真っ青な青空が広がっていた。
「……さて、ここからどうしたものかな」
掴んでいたイシュタルの毛から手を放し、修馬は独り言ちる。空から見下ろす限り、森と草むらがあるだけで人工物の類は見当たらない。
その時、空を旋回していたイシュタルが、あくびでもするように口を広げ「にゃー!!」と大きく鳴いた。
「何? どうかしたのか?」
「あー、そろそろアイルの魔法が切れちゃうみたいだ」
ココの言葉に眉をひそめる修馬。
「……魔法が切れる?」
そう口にした瞬間だった。イシュタルは突然その姿を白獅子の盾に変化させてしまった。
「はぁっ!? あああああぁぁぁぁぁっ!!!」
支えるものを失い、森に向かって真っ逆さまに落ちる修馬。
慌ててホッフェルの靴に備わる重力操作の力を使おうとしたが、靴を履いた足だけが軽くなって頭が逆さになりその状態で森の木々の中に消えていった。
「うわっ!!!」
驚いた鳥たちが奇声を上げ、森から一斉に逃げ出す。
枝にぶつかりながら落下した修馬は、最後ぎりぎりのところで身をひるがえし足で着地することが出来た。これはオリンピアンもびっくりのスーパーウルトラC。
ポーズを決めようと両手を広げると、時間差で落ちてきた白獅子の盾が修馬の頭頂部に見事直撃し、鈍い音を立てた。
「ああっ!!」
脳震盪を起こしたように足元をふらつかせる修馬。何とか立て直そうとしていたが結局そのまま白目を剥き、その場で背中から倒れてしまった。
―――第36章に続く。