第20話 小麦麦酒とニシンの塩漬け
魔霞み山の麓にある、エフィンという名の村に辿り着いた修馬。折角なのでゆっくりしていきたいところではあるのだが、本来の目的地はここから西にあるというバンフォンの町。少しだけ休憩を挟んだら、すぐにここを発つつもりだ。
木々の多い田舎道に、北欧を思わせるような三角屋根の木造家屋がぽつりぽつりと立ち並ぶ。革製の水筒に入った残り僅かな水を少しだけ口に含んだ修馬は、何かを探すように辺りを見回した。
「綺麗な川が、あればいいんだけどなぁ」
水筒の残量を音で確認しつつ道の両脇を何気なく眺めていると、一軒の大きな建物の脇に井戸のようなものがあることに気付いた。櫓のような屋根まで付いた、中々しっかりとした井戸だ。
しかし勝手に使うのも悪い気がした修馬は、その井戸と同じ敷地にある大きな建物に目を向けた。そこは何らかのお店であることを示す看板が掲げられている。文字こそ読めないが魚や野菜の絵も一緒に描かれているので、恐らくそこは食堂なのだろう。
「飯屋か……」
金は先程手に入れていたのでここで食事休憩し、ついでに井戸の水も貰えるよう交渉してみよう。我ながらグッドアイディアだ。
赤く塗られた扉をゆっくりと開く修馬。カウンター席とテーブル席が複数ある広い店内は、半分以上埋まっているようだった。ホールに従業員が見当たらないので、カウンターの中にいる髭のおじさんに対し来店アピールすると、「1人なら、こちらへ」と空いているカウンター席を勧められた。テーブル席の方がよかったが、混み合っているので仕方がない。
しかし席に通されたはいいが、メニューが読めない。さて、何を頼めばいいのだろう?
「マスター、この店のお薦めは?」
「あんた、旅の人だね。この店の名物は小麦で造った自家製麦酒だよ」
「えっ、バクシュ!?」
自分で発音しつつ、それがビールのことだと気付いた。だがそうじゃない。俺は腹が減ってるんだ。
「じゃあ、食べ物で何かお薦めはある?」
「えっ、食べ物でお薦め!?」
今度は何故か、店員の方に驚かれてしまった。この店は酒しか置いてないのか?
他の客は何を注文しているのかと思い、とりあえず左の奥に座っている男性客に目を移してみると、そいつは陶器のジョッキを持ったままにやにやした表情で視線を合わせてきた。くすんだ色の長い金髪を後ろで縛っている、風来坊のような男。
「おい、そこの若い冒険者! 旨い飯食いたいんだったら簡単さ。よその国に行けばいいんだ。この国は旨い料理は作っちゃいけないって、法律で決まってるんだからな!」
「馬鹿言っちゃいけないハインさん。この国にだって旨い食べ物くらいはある」
風来坊の言葉に反論する髭の従業員。しかしお薦めを聞かれて驚いてるくらいだから、本人も旨い物などないと思っているに違いない。
ハインと呼ばれた男は席を立つとふらつく足取りで近づき、そして修馬の隣に腰掛けた。
「まあ、そう言う訳だ。一緒に飲もう。この店に旨い食い物などないが、ここの麦酒は格別だ。おっちゃん、小麦麦酒2つくれ!」
勝手に酒を注文するハイン。昼間なのにだいぶ出来上ってるようだ。体全体からアルコールの臭いが漂う。
「俺の名はハインだ。あんたの名前は?」
「修馬だけど……」
「シューマ? シューマときたか。こいつはお笑いだ。喜劇だ! いや、童話か?」
上機嫌で残っていた麦酒を飲み干すハイン。タイミング良く先程頼んだ、2杯の麦酒が修馬とハインの前に置かれる。
「そいつは俺の奢りだ。乾杯しよう」
陶器のジョッキを持ち上げるハイン。修馬も合わせてジョッキを持ち、互いの器をぶつけあった。「乾杯」
しかし乾杯はしたもののハインはジョッキには口を触れず、急に落ち込んだように顔を伏せ溜息をついた。感情の浮き沈みが激しい。よくわからないが、こいつは多分やばいタイプの酔っ払いだ。
「どうかしたんですか?」
流れ上、そう聞かざるをえないので言ったのだが、はっきり言って酔っ払いの愚痴など聞きたくもない。
「あ? あー、仕事でヘマしちまってなぁ。もう、飲まずにはいられないってわけ。全くよーっ!」
グビグビと喉を鳴らし、麦酒を飲むハイン。修馬も少しだけジョッキに口をつけた。
「あれ?」
動きが止まる修馬。思っていたビールの味じゃない。
「どうした?」
「意外といける」
もうひと口飲んでみたが、やはり旨い。苦い飲み物を想像していたのだが苦味は少なく、冷えていないせいか逆に甘みとフルーティな香りが口の中で炭酸の泡と共に広がっていった。何だこれ?
「だから言ったろ? この店の麦酒は最高なんだ。おっちゃん、こいつに小麦麦酒もう1杯!」
まだふた口しか飲んでいないのだが、追加で注文をしてしまうハイン。普通、子供が酒場なんかに来たらミルクでも出して散々馬鹿にした挙句帰らされそうなものだが、ここの人達は平気で酒を出してくる。問われる異世界の倫理観。
「俺まだ子供だから飲めないんだけど……」
そう言うとハインは驚いたように口を大きく開いた。
「子供? お前幾つだ?」
「17歳」
「ふざけんな、大人じゃねぇかっ! 乾杯しよう」
2回目の乾杯を強要してくるハイン。異世界において17歳は、もう大人として扱われているようだ。2杯目のジョッキが目の前に置かれ諦めた修馬は、現在飲んでいるジョッキを一気に飲み干した。うん、旨い。俺はお酒がいける口なのかもしれない。
飲み終わったジョッキをカウンターの上に音と立てて置くと、ハインが無表情でじっとこちらの顔を見ていることに気付いた。また鬱症状だろうか?
「お前の黒い髪、珍しいな」
そう言われ、前髪に触れながら視線を上げる修馬。どこに行っても、この黒い髪は目立ってしまうようだ。
「実は俺は特別な命を受けて、とある黒髪の女を追っていたんだが、後一歩というところで滝の上から身投げされちまったんだ……」
ハインはそう言うとがっくりと肩を落としたが、それを聞いた修馬は自然と呼吸が荒くなった。
滝の上から落ちた黒髪の女って、間違いなくアルフォンテ国の王女、いわゆる『黒髪の巫女』のことではないか。何気なく話しているが、一国の王女を追っているこいつは一体何者なのか?
「何で、その黒髪の女の人を追ってるの?」
探りを入れようとそう聞いたのだが、ハインもそれ以上は口を滑らさず「さて、何でだったかなぁ?」とはぐらかされてしまった。
その後も色々聞いてみたのだが、全てのらりくらりとしてまともな回答は返ってこない。
「けど、滝の上から落ちたのなら、その黒髪の女の人は死んじゃってるかもね」
「いや、生きてる」
急に即答しだすハイン。修馬もすぐに言葉を返した。
「何でわかるの?」
「御屋形様がそう言ってた」
自信満々にそう答えるハイン。妙な敬称だが、御屋形様とは一体?
そんなことを言っていると、気を利かせた髭の従業員が茹でたじゃがいもが添えられた魚料理を一緒に提供してくれた。ハインは顔をしかめ「ニシンの塩漬けだ……」と呟く。
ニシン? 異世界にもニシンがいるのか?
見たことも聞いたこともない魚だったら食べるのに躊躇もするだろうが、知っている魚ならその限りではない。早速フォークを使い、ニシンを口に運ぶ修馬。
「ああ……」
魚の臭みを塩だけで消そうとしている、塩っ辛いだけの絶望的な味付け。たまらずじゃがいもを食べてみたのだが、こちらは本当に茹でて皮を剥いただけのものだった。じゃがいもに対しこんなに憎らしい気持ちになるのは、生まれて初めての経験だ。
額に皺を寄せハインの顔を窺うと、「だろ?」とでも言いたげな顔をしていたので、こっちも「だな!」とでも言いたげな顔をして返事とした。
しかしながら、それがきっかけで更に意気投合した2人は、そこから大いに盛り上がった。
「ところでシューマは本当に冒険者なのか? 武器の1つも持たずに旅するとは、中々やるな。もしかして体術使いか?」ハインは修馬の全身を隈なく眺める。
「体術って、武道家ってこと? 戦闘は得意じゃないけど、一応武器は使うよ」
そう言ったのだが、修馬の何処を見ても武器らしい物は何も持っていない。話が噛み合わないのか、何か考えるような顔を浮かべるハイン。そんな彼の腰には、左右に刃渡り30cm程の短い剣を帯びている。木目調の鞘に収まった、2本の短剣。
「ハインは2つも剣も持ってるんだね。1本は予備?」
「うんにゃ。こいつは2本で1組のいわゆる双剣ってやつだ。それもこの世に1組しかないっつう、貴重な双剣だぞ」
ハインは自慢げに語ると、右の方の短剣を逆手で鞘から抜いた。薄い緑色の刀身が輝く、美しい短剣。
「ハインさん、店の中で剣を抜かないで貰えるか?」
カウンターの中から、髭の従業員が面倒くさそうに言ってくる。
「悪い、おっちゃん。ちょっとシューマに自慢したくなっちまったんだ」
にやけた顔でこちらを向くと、ハインは短剣を器用にくるりと回転させ順手に持ち替えた。短剣の周りから異様な波動が溢れだす。
「『涼風の双剣』よ、僅かな力を開放しここに駆け抜けろ!」
ハインがそう唱えると、短剣を中心に小さなつむじ風が巻き起こった。修馬の前髪が風で逆立ち、店内の窓と扉がガタガタガタと派手に揺れる。
風で乾いた瞳を何度か瞬かせる修馬。これは自律防御の魔法が備わっている王宮騎士団の剣のように、何か風の魔法的なものを有している武器なのだろうか?
「驚いた。今の風はその短剣から出てるの?」
「フフフ、その通り。風を発生させるこの双剣を使えば、どんなに足の遅い奴でも、駿馬の如く駆けることができるんだ」
そしてまた、短剣を華麗に回転させ鞘へと戻すハイン。彼は得意気な顔でこちらを眺めている。悪戯心が浮かんだ修馬は、対抗するように不敵な笑みを返した。ハインのそのドヤ顔を、一瞬で凍りつかせてやる。
「じゃあ、俺の武器を出してあげるよ……。出でよ、なんとかの双剣!」
名をちゃんと聞いてなかったので、適当な名称を唱えてみる。それでも修馬の両方の手の中から光が溢れた後、ハインが腰に帯びている物と同じ薄い緑色の刀身の双剣が、そこにしっかりと握られていた。
「おいおい、器用な奴だな。お前は盗賊か? いつの間に人の双剣を盗んで……、ってあれ?」
己の武器を確認するハイン。だが、盗んだわけではないので、双剣は2本とも変わりなく腰にぶら下がっている。
「見たか。これが俺の武器召喚術さ!」
「召喚術!? この世に1組しかないこの武器を、どっから召喚したんだ!?」
「どっから?」
どこから召喚するなどということまでは、考えたことがなかった修馬。確かにこの何とかの双剣は、今この場に2組存在する。ハインの言う通り、この世に1組しか存在しない物だとするのならば、この双剣はどこから出てきた物なのだろう?
「細かいことはいいじゃん。飲もう!」
答えに困った修馬は、誤魔化すように陶器のジョッキを持ち上げた。
「そうだな。どうせ難しいこと言われてもよくわかんねえだろうし、酒でも飲んでた方がよっぽどいいや。飲もうっ!」
そしてまた乾杯した2人は、どうでもいい下らない話で盛り上がり、麦酒を次々と飲み進めた。次第に頭の中がくらくらしてきて、今まで感じたことがないような多幸感に包まれてきた。
もはやバンフォンの町に行くことなどすっかり忘れてしまっている修馬は、夕方まで麦酒の味に酔いしれるのであった。