第201話 真の名前
目の前で起きていることを受け入れられない。
ライゼンはそんな様子で、魔族化した姉のクジョウを凝視している。
以前ライゼンは、自分たちに流れている天魔族の血は薄く、邪号を暴かれたとしても魔族化することはないと明言していた。その理屈で言えば、姉であるクジョウも当然魔族化は出来ないはずである。
目の前にいるクジョウは、蝙蝠のような黒い羽を広げ羽ばたかせると、小さく飛び上がり玉座の背もたれの上に足を乗せ静かに着地した。あの羽は、間違いなく飾りのようなものではないだろう。
「ライゼンよ。長い年月を経て、誤って伝わってしまったのだ。わたくしたちの名前は」
「名前が違う? 何だそれは。意味がわからん」
苛立っているように、語気を強めるライゼン。しかしクジョウは、無表情の中にも微かに笑みを湛えている。全てを理解しているかのような、自信に満ちた優しくも恐ろしい表情。
「それはとても単純な話。わたくしたちの邪号は、『モレア』ではなかったということ」
「何だと……? じゃあ、俺たちに勇者モレアの血が流れてるって話が嘘だったとでも言うのか?」
マルディック家の一族には、天魔族と共に勇者モレアの血が流れている。ライゼンはそれを、誇らしいことのように言っていた。勇者の血筋というのは、彼にとってのアイデンティティなのかもしれない。
「勿論そこに偽りはない。だがしかし、我々は先祖である勇者の名前自体を誤認していたのだよ」
「……どういうことだ?」
それでもまだわからないといった表情のライゼン。
対するクジョウは背もたれの上から跳び上がり黒い羽を羽ばたかせると、ライゼンを見下ろすくらいの位置で制止した。
「かつて龍神オミノスを封じたという勇者の名は、モレアではない……。『モリヤ』だ」
「モリ……ヤ?」
そう呟くライゼン。だがすぐに彼は身をもだえさせ、苦し気な嗚咽を上げだした。何か体に異変が起きている様子。
「そう。つまりお前の真の名は、ライゼン・モリヤ・マルディックということ」
宙を浮揚しながら、邪号を告げるクジョウ。
すると苦しむライゼンの背中にも蝙蝠のような羽が現れ、そして額の中央から大きな角が生えてきた。真なる邪号によって、ライゼンは完全に魔族化してしまったのだ。彼は痛みを堪えるように、悲痛な声を上げ続ける。
「う……、うわーっ!! 何だ、何だこの出鱈目な力は!?」
「それが天魔族の持つ無限なる力。ライゼンよ、この力を持って共に世界を統べよう。わたくしたちには、その力がある」
鋭い爪の伸びた手を差し伸べるクジョウ。だがライゼンはそれを手で払いのけ、血走る目で睨みつけた。
「こ、断る!! 俺は孤児院のガキどもを育てるので、精一杯だっ!」
「それは残念だな。ライゼンよ」
クジョウは胸元に隠し持っていたダガーナイフを握りしめ、体を回転させライゼンに向かって斬りかかった。
しかしライゼンは己の短剣でそれを弾くと、羽を使って一度後方に跳び上がり、そしてそこからクジョウに反撃を仕掛けた。激しくぶつかり合う姉弟。
「一体、何が起きているというの? 訳がわからない……」
目の当たりにしている出来事を理解出来ないマリアンナは、何かを恐れるようにそう呟いた。
思いもよらぬ成り行きに、修馬も同じように動揺を感じていた。戦争はもう終わったのだと思っていたが、争いの火種は未だに燻ぶり続けている。
「どうなっているんだ帝国は? 本物のベルラード三世は生きてるのか?」
「本物がどうしてるのかはわからないけど、僕はローズが言ってたことを思い出したよ」
ココがそう言うと、伊集院はそれに反応するように「あっ!」と声を上げた。
「そういえばローゼンドールは言ってたな。ベルラード三世は皇帝になったとたんに、クソみたいな性格に変わったって」
クソみたいと言ったかどうかは覚えてないが、確かにローゼンドールは修馬たちが泊まっていた厩の前で、そのようなことを口にしていた。
つまり皇帝が即位した前後の時期に、クジョウとアッカは入れ替わった可能性が高い。
クジョウの放つ雷術をライゼンは神懸かった速度でかわし、そして反撃を繰り出している。2人の戦闘は目で追えない程速く、そして獰猛な獣のように荒々しかった。とても止めに入ることなど出来ない。
広い室内を滑空し、高速で殴り掛かるクジョウ。
「ふむ。姉弟喧嘩など久しぶりだな」
「喧嘩の時、俺はいつも手加減をしていた。悪いが今回はしねぇぞ」
ライゼンは交差させた腕で攻撃を防ぐと、手首を掴んで遠くに投げ飛ばした。だが羽のあるクジョウは、壁にぶつかる寸前で空中停止し再び襲い掛かる。
「構わぬ。わたくしとて、弟相手に本気など出したことはないのだからな」
「言ってろよっ!!」
激しい戦闘を繰り広げながらも、会話を続ける余裕があるライゼンとクジョウ。天魔族の力は本当に底が知れない。
「『神解き』……」
クジョウの持つダガーナイフの先端から、雷光がほとばしる。
ライゼンは手にした短剣を振り抜き、その軌道を強引に反らせると、雷撃は壁一面を覆う巨大オルガンにぶつかり「ブオンッ」と音を立てた。
「知っているとはいえ、やはり魔眼の力は厄介だな」
「魔眼なら後からでもつけられるであろう。魔法が使いたいのなら、手術してみたらどうだ?」
ダガーナイフを振り抜いたクジョウは、その勢いで斬撃を飛ばす。
「断る!! お前のように無感情な人間にはなりたくないからな!」
だがライゼンは羽を使って身を翻し、その攻撃を避けた。
「それは勘違いだ、ライゼン。魔眼と感情表現の乏しさに因果関係などない」
風のように素早く移動してくるクジョウ。そして一瞬の内にライゼンの懐に入り込むと、その場で大きく放電させた。
体をのけ反らせるライゼン。しかし雷撃を喰らったはずの彼は、声も上げずに霧のようにその姿を消した。
「……認識操作だ」
姿を消したところとは、全く違う場所から現れるライゼン。彼は視覚認識を操作し、自分の偽物を我々に見せていたようだ。
しかし認識操作なら、クジョウもお手の物だった。彼女はくるりと回転すると、自分の姿と同じ分身を2体作り出した。
「ふむ」
3人のクジョウは声を合わせ小さく頷くと、次々にライゼンに飛び掛かり、ダガーナイフを突き放った。
ザクッと、何とも耳心地の悪い音が辺りに鳴り響く。
3人のクジョウが握るダガーナイフは、それぞれライゼンの胸部に深々と刺さっていた。
ライゼンの口からは大量の血が吐き出され、3人のクジョウがそれを被る。しかし赤く染まったのは真ん中のクジョウだけ。両隣は返り血を浴びることなく、そのまま消えてなくなった。
「……よく、わたくしが本物だとわかったな」
そう言うと、クジョウもまた血反吐を吐き出した。ライゼンの短剣もまた、本物のクジョウの胸元を捕らえていたのだ。
「認識操作では、俺の方に分がある。本物を見極めることなど……、簡単なことだ」
「ふむ。確かにそうかもしれない……」
2人はナイフを突き刺しあったまま、互いにもたれかかった。短い刃物から赤い血が滴り、2人の足元に小さな血だまりができる。
「一緒に死ぬぞ、クジョウ」
「……わたくしは、死ぬのか?」
どこか他人事のようにクジョウは尋ねる。それを聞いたライゼンは、悔しいような悲しいような顔で歯を食いしばった。
「ああ、少しは哀しいか?」
「哀しい? さあ、それはわからない」
「そうか。なら何で涙を流している?」
ライゼンの言うように、クジョウの金色の右目からは一筋の涙が流れていた。魔眼の輝きを映したかような、限りなく尊く、そして美しい宝石のような涙。
「わからない」
「最後までわからないのか……」
ここで修馬は無意識に足が動いていた。もう戦争は終わったというのに、この2人を死なせてはいけない。そんな気持ちだったのだと思う。
「近づくなっ!!!」
最後の力を振り絞り、大声を上げるライゼン。反射的に足を止めた修馬に向かって、ライゼンは涙を流しながらこう懇願した。「頼む、一緒に死なせてくれ……」と。
肩を震わせるライゼンを抱きすくめ、クジョウは微かに口角を上げた。
「死とは決して悲しいことではない。これは恐らくお前に会えたからだ。ライゼン」
「何だよそれ……。もう2人とも死ぬんだぞ」
「いいじゃないか、2人で死ねるんだ。奇しくももうすぐ『星降りの大祭』が行われる。もしも生まれ変われるなら、またお前と姉弟として生まれたいものだな」
2人の足元の血だまりが尋常でない程に広がっていった。残念だが、もう何をしても助かることはないだろう。
「……そうだな。どうせ一緒に死ぬんだ。次は双子なんてどうだ?」
「それはいい。今度はずっと一緒に居られるな、ライゼン……」
能面のような顔だったクジョウに微かに笑みが浮かんだ。抱き合っているライゼンも、また薄く笑っている。
2人は微笑を浮かべたまま、もたれかかり合い。そしてそのまま事切れた。