第167話 守屋家の朝
異世界にて、槍で腹を貫かれた修馬は、とんでもない悪夢でも見たかのように脂汗をかき現実世界で目を覚ました。
起きたばかりだというのに高鳴っている心臓。からからに乾いた喉に無理やり唾液を流し込み、恐る恐る腹の辺りをさすってみる。勿論、向こうの世界での怪我はこちらの世界に持ち越さないし、向こうの世界でも一晩寝れば完治しているはずだ。
痛みがないことを確認し、ようやく安心して深く息を吐いた。全くとんでもないめにあったもんだ。そしてゆっくり左側に寝返りをうつと、視界の中に正座で佇む老婆の姿が映った。
「う、うわっ!?」
慌てて体を起こす修馬。そこに座っていたのは、この家に住む伊織の祖母であった。だが何故この部屋にいるのか?
「ど、ど、ど、どうしたの婆ちゃん?」
そう聞くと婆ちゃんは、そこで目を覚ましたかのように静かに瞼を開き、上目遣いで修馬の顔を見上げた。
「あんた、槍で腹を突かれたね……」
「えっ!?」
再び腹を押さえる修馬。どうして婆ちゃんに、異世界の出来事が理解出来るのか?
「婆ちゃん、神託でもあったの?」
「神託? ああ、神託ねぇ」
理解したのかしていないのか、よくわからない様子でそこから立ち上がる婆ちゃん。そういえば婆ちゃんはどんなに朝早く起きてもいつも茶の間に居て、夜寝室へ行く時も修馬が見ていない隙に移動しているので、動く婆ちゃんを見たのは結構久しぶりな気がする。まあ、それはどうでもいいことなのだが。
「神託と言えば、今度は大妖怪が現れたみたいだよ」
振り返って背中を向けた婆ちゃんにそう言われ、修馬の背筋は身長を計る時のように真っすぐになった。
「大妖怪……って、何?」
そう聞いたのだが、婆ちゃんは背中を向けたままちょっとだけ振り返り「……さあ」とだけ言って、修馬が寝ている部屋から出ていってしまった。
開けていった襖の隙間から、仄かに味噌汁の匂いが漂ってくる。時計に目をやると、時刻は7時20分。そろそろ朝食の時刻だ。
畳んだ布団を押し入れにしまった修馬は、寝汗で湿ったTシャツを着替えクロップドパンツをはいた。そしてトイレを済ませ、洗面所で顔を洗い、のそのそと茶の間に歩いていく。テーブルの上には、すでにいくつかのおかずが並んでいた。絶妙なタイミングだった。
「おはようございます、修馬くん」
台所から味噌汁の鍋を運んできた伊織が、背後から声を掛けてくる。
「あ、おはようございます」
軽く頭を下げると、伊織の後ろから海藻サラダの入った器とポテトサラダが乗った大皿を持った伊集院が現れた。
「お、生きてたのか修馬」
「……お陰様でな」
言い方に棘があったので、若干ムッとしたまま言葉を返し、空いているところに腰を下ろした。長方形の大きなローテーブルを2つ並べた長細い食卓には、婆ちゃんと葵、茜の双子姉妹が座っている。
「話は聞いたぞ、修馬! 向こうの世界の雷術使いにコテンパンにやられたんだってな。折角、大蛇神楽復活させてやったのに、何やってんだよ!」
何故か嬉しそうに煽ってくる双子の妹、茜。だが、その情報は間違っていないので否定することも出来なかった。
「コテンパンというか、ワンパンだ。一撃でやられたからな、修馬の奴」
そう言って笑い合う、伊集院と茜。どうやら悪い2人が結託してしまったようだ。
「雷術は強力な術ですからね。その使い手と戦う時は、充分に気を付けなくてはいけません」
茜とは違い、身を律するように淡々とした口調でそう告げる葵。相変わらず同じ血が流れているとは思えない2人だ。
「流石、現実世界の雷術使い様。言葉に説得力があるぅ」
茜はそう茶化したが、葵は顔色も変えずにじっと座っている。子供を見て思うことではないのかもしれないが、こんな落ち着いた人間に私はなりたい。
「はいはい。それくらいにして、ご飯にしましょうか」
珠緒がご飯の入ったおひつを持って台所からくると、その後ろから揚げ物が盛られた皿をそれぞれに持った友理那とアイル・ラッフルズが一緒にやってきた。
「今日のおかずは、ハムカツとコロッケですって。いっぱい食べないと元気が出ないからね」
「そうですよぉ。美味しいご飯をいただきましょう」
今朝の献立は、ハムカツとコロッケの揚げ物2種と、茄子の煮浸し、こんにゃくの甘辛煮、卯の花、海藻サラダにポテトサラダ、野沢菜漬け、そして残り野菜の味噌汁だった。総勢9人で囲む食卓。まるで大家族のドキュメンタリーでも観ているかのようだ。
「……そういえば、あの後どうなったのか修馬は知らないよな?」
修馬が味の染みた茄子の煮浸しを食していると、横の伊集院がそう話しかけてきた。彼の言うあの後とは、恐らく異世界で気を失ったその後のことだろう。
「知ってるわけない。あの『雷鳥』とかいう奴らは倒せたのか?」
「いや」
伊集院は小さく否定すると、中央がねじれたこんにゃくの煮物を口に運んだ。
「倒しちゃいないけど、俺らは上手く首都に逃げ込んだよ。お前らはどうかわからないけど」
伊集院の言葉を聞き、半分ほど口に入れていた茄子が外に飛び出そうになった。
「は? どういうことだ」
「言った通りだよ」
あまりにもよくわからないので詳しく聞いてみると、腹を貫かれた修馬は追撃を喰らいそうなところを馬に乗ったジーグラスによって救出され、そのままどこかに走り去っていったらしい。
「馬って、馬車の馬か? あの混乱の中でどっかに逃げてった気がしてたけど……」
修馬は2種の揚げ物の中からコロッケを取り、中濃ソースをたっぷりとかけた。濃い味が好き。
「混乱してたのか、そのうちの1頭が逆走して戻ってきたところを、上手いことジーグラスが捕まえて乗りこなしたみたいだ」
伊集院は自分の小皿にハムカツを取ると、ソースの代わりにポテトサラダを乗せ、大きな口でかぶりついた。変わった食べ方をする野郎だ。
「ふーん。で、伊集院たちは首都ベルディスクに逃げれたってわけか」
「ああ。修馬とジーグラスがどこに行ったのかは、まだわかってないけどな」
「まあ、他の皆が無事ならそれでいいよ」
修馬は白米を口の中に詰め込み、コロッケと共に咀嚼する。とりあえずは、あの精鋭部隊から逃れられただけでも良しとしよう。だが『母なる聖戦』は共に打ち倒すとアーシャたちと約束しているので、いずれは戦わなくてはいけない。今のうちに雷術への対策を練らなくては。
箸休めに取った野沢菜漬けを、米の残る口の中に放り込んだ。適度な塩味と仄かな酸味が、揚げ物と中濃ソースでこってりした口をリフレッシュさせてくれた。
「じゃあ今は、3人とも離れ離れになってしまっているのですねぇ。寂しいことです」
アイルに言われ修馬と伊集院と友理那の3人は、それぞれお茶碗を持ったまま顔を見合わせる。友理那に関しては魔王の城に軟禁されているらしいので、当然一緒にはいないが、伊集院とも常に行動を共にしていたわけではないので、まあ、アイルが言うような寂しさのようなものは無い。お互い向こうの世界では死にはしないから、その辺りは心配してなかったりもする。
「今はベルクルス公国から帝国に向かっているところだよね。旅は順調?」
友理那はそう言って、卯の花を綺麗に箸で摘まんだ。彼女は異世界の住人なのに、やたらと和食の食べ方が様になっている。もしかすると前世は、こちらの世界のお箸の国の人だったのかもしれない。
「色々トラブルもあるけど概ね順調だよ。なあ、伊集院?」
「まあな。帝都に向かう船も、虹の反乱軍が乗せてくれるって言ってくれてるし大丈夫だろ」
修馬と伊集院がそう言うと、アイルは驚いたように持っていた味噌汁のお椀を置いた。
「まあ、反乱軍と一緒に帝国に行くんですか? 随分喧嘩腰なんですねぇ」
「そりゃあそうさ。俺たちは帝国と戦いに行くんだ。あいつらはただじゃおかねえ」
前のめりになって語気を強める伊集院。だが、アイルも対抗するように前のめりになると、すぐに頬を赤らめ引っ込んでしまった。本当に女に弱い奴だ。
「うーん、そうなんですか? 師匠が言っていたことと少し違う気がしますが……」
アイルの言う師匠とはココのことだ。修馬とココはウェルセントにあるアイルの店から旅立つ時、皇帝に会いに行くと言っただけだった。修馬もその時は話し合いに行くような認識だったが、今の状況でそれは完全にありえないだろう。間違いなく争いは起こる。
「最早、戦争は避けられない状態だからね」
修馬は味噌汁のお椀の中に箸を入れた。余り野菜の味噌汁らしいが、具材にはレタスやグリーンカールなんかも入っている。食べてみると、これらの葉物にはあまり火が入り過ぎないようにしているようで、シャキシャキとしていて意外と旨い。
「大丈夫でしょうか? 戦争が起きれば、オミノスの復活にも影響を与えてしまうのでは?」
深く考えを巡らせるアイル。人々の争いによって発生する邪念が、龍神オミノスの養分になるのだと以前ココも言っていた。彼女もそれを懸念しているのだろう。
「アイルちゃん、そんなに心配すんなよ。禍蛇が蘇っても、ウチらが天之羽々斬を完全なものに仕上げるから全然問題ない。修馬たちは安心して禍蛇を復活させろ!」
コロッケを箸で摘まみながら、自信満々に言ってくる茜。しかしその剣を使って禍蛇と戦うのは、結局こっちの役目だ。
「駄目ですよ茜。お父様が天之羽々斬を打っているのは、万が一にも禍蛇が復活してしまった時のため。蘇らないのであれば、それに越したことはありません」
強い口調で戒める葵。確かに禍蛇と戦わなくても良いのなら、それに越したことはない。だが現在、向こうの世界で言うところの龍神オミノスは、現実世界と異世界の間、いわゆる時空の狭間に、仮に封印されているだけの状態。彼女の言う通りには、恐らくならないだろう。
それと共に、朝方婆ちゃんが言っていた大妖怪というのも、今は気になる。黒鳥に雷鳥に、禍蛇に大妖怪。向かうところ、敵ばかりだ。
修馬は左手に持つ味噌汁のお椀を上げ、口をつけた。かつおだしの風味と味噌のコクに交じり、様々な野菜から染み出た優しい甘みのスープが、喉の奥を温かく潤した。