第159話 夕暮れの棚田
目の前の山の斜面に広がる無数の棚田が、傾いた太陽の日を浴び橙色に染まっている。その美しい景色は、自然と人の手によって造られた芸術と言っても過言ではなかった。
「棚田か……、初めて見たな」
道を歩きながら修馬が言うと、傭兵のジーグラスは得意げに笑みを浮かべた。
「中々綺麗なもんだろ? ……っていうかお前、棚田自体は知ってたのか?」
「棚田なら俺の国にも一応あるからな。直接見たことはないけど」
「そうか。ということは、お前の国でも米を食うのか。話が合いそうだな」
にやけながらそう語るジーグラス。白米の旨さを分かち合えるというだけで、なんだか同じ釜の飯を食べた戦友的な雰囲気が出てきた。やはりベルクルス公国の国民も炊き立ての新米を食べたら、ベルクルスに生まれて良かったと思うのだろうか。
「この段々畑は稲を育てているのか。しかし、ベルクルス公国の主食はパンだと思っていたが、それは違うのか?」
棚田をしげしげと眺めながらマリアンナが尋ねる。
「まあ、そうだな。首都ベルディスクに住んでる奴らはもっぱらライ麦のパンを食ってるが、その周りの先住民族が住む地域は昔から米を炊いて食べているんだ。首都に住んでるのは、おおよそガーランド家と共にやってきた移民の子孫だからな。あいつらとは文化が違う」
首都とその周りの地域では豊かさに違いがあるというのは先程聞いていたことだが、それは歴史的にも色々と理由がありそうだ。
「この国はガーランド家の国だと聞いていたけど、最初からそうだったわけじゃないのか?」
修馬がそう尋ねると、ジーグラスは右手に広がる棚田を一瞥して小さく口角を上げた。
「そうだ。何もない土地にガーランド家が国を造ったわけじゃない。かつてこの地には、『アズベルト王国』という小さな国があった。それが俺たち先住民族の住んでいた国」
「ということは、あんたも先住民族の子孫なんだな」
「ああ」
ジーグラスはどこか誇らしげにそう答えると、続けてこの国の歴史について教えてくれた。
古の昔、この地にあったアズベルト王国。その国の民の多くは、稲作を中心とした農業で生計を立て穏やかに暮らしていた。だがある時、ガーランド家が率いる船が王都の港に辿り着くと、軍隊が一気に制圧していき、王の住む城は僅か3日で落城してしまったのだそうだ。
その後、争いに敗れた王族の多くは処刑され、他の国民は王都から追放されてしまった。そしてアズベルト王国の王都だったところがそのままベルクルス公国になったが、その後、王都と王族を失ったアズベルト王国は当然のように衰退し、残った国土も全てベルクルス公国に併合されてしまったということらしい。
「自分の国が無くなっちまうってのは、悲しいことだろうな。先住民族はガーランド家のことを相当恨んでるんだろ?」
柄にもなく伊集院が他人の痛みに共感しだした。もう、雨は勘弁してほしい。
「現代を生きる俺たちにとっては、ただの昔話だよ。今更、ガーランド家の連中を恨んでも仕方がねえ。この国に暮らしている以上、奴らの恩恵を受けることだってある。ただ、ベルクルス公国の国民だというだけで、ガーランド家と同じ戦争屋と呼ばれちまうのは納得がいかないがな」
ジーグラスは不機嫌そうに眉をひそめ、小川に掛かる板張りの橋を渡った。彼は傭兵職に就いているものの、武器類は一切所持していないので、基本的に争いごとは好まない人間なのかもしれない。
「そんなことを話してたら、家が見えてきたな。あの一番手前のが俺の家だ」
棚田の麓に沿って、木造の建物が幾つかぽつりぽつりと存在する。その一番手前にある比較的大きい建物がジーグラスの家なのだそうだ。
「でかい家だな」
その家は戸隠山にある守屋家の屋敷ほどではないが、周りの家に比べると随分立派な建物だった。もしかするとこの地域の中ではそこそこのお金持ちなのかもしれない。
「首都ベルディスクにある建物に比べたら、大したもんじゃねえさ。まあ、折角だから寄ってけ。茶でも飲ましてやるよ」
ジーグラスにそう言われ、修馬は仲間たちの反応を見た。皆、小さく頷き同意する。長旅で疲れているので、この辺りで休憩を取ることにしよう。
沈み始めた日の光を受け、荒れた轍の上を歩いていく。棚田の方からは「げげげげっ、げげげげっ」というカエルの鳴き声が聞こえ始めてきた。ここは日本の田舎の夏の景色によく似ている気がする。
やがてジーグラスの家の前まで辿り着くと、庭先にある手作り風の椅子に女性が腰を下ろしていることに気づいた。彼の配偶者だろうか?
「お帰りなさい」
西日の逆光に照らされ、顔が確認出来ない女性は言った。
それを聞き、やはり彼の配偶者だということに確信を持ったが、ジーグラスが言った次の言葉でそれが間違いなのだと気づかされた。
「……ん? 誰だ、お前は?」
女が顔を上げると、そのタイミングで西日が雲で隠れ、褐色の顔が修馬たちの目に鮮明に映る。不敵に笑う褐色の肌の女の顔には、幾何学的な白い模様がタトゥーのように描かれていた。
「……お前は」
「長旅ご苦労様。こんなに早くベルクルスに辿り着くとは思わなかったわ」
そこにいた女はこれまで幾度となく顔を合わせてきた宿敵、クリスタ・コルベ・フィッシャーマンに違いなかった。