第15話 日常に潜む魔物
誰もいない教室で、窓を覗きこむ修馬。朝から続く雨のせいで、水捌けのよい校庭が沼地のような景観になってしまっている。
当然こんな日は、屋外で部活動をする者などいるはずもない。実際に先程校舎に入る際に、エントランスのところで野球部がバットの素振りをしているのを目撃していた。きっと体育館もいっぱいなのだろう。
野球部に知り合いがいなかったのは不幸中の幸い。別にやましいことをしているわけではないが、一々説明するのも面倒なので、目的を済ませてとっとと家に帰ることにしよう。
机の中の荷物を入れスクールバックを手に取り、いざ帰ろうかと思った丁度その時、教室の前の扉がガラリと開いた。突然の来訪者。
他のクラスメイトだったら面倒だ。しかし担任教師の望月だったら、昨日迷惑を掛けたようなので一言を礼を言わなければならない。そんなことを思いつつ視線を向けたのだが、そこにいたのはクラスメイトでも担任の望月先生でもなかった。というよりも、そもそも人間じゃない。人型の魔物。そこに立っていたのは、右手に棍棒を持った褐色で頭でっかちの化け物だった。
「な、何だっ!?」
素早く後ずさり、後ろの机に尻をぶつける修馬。異世界に生息していそうな魔物が、何故か今、俺の目の前で肩を揺らしている。これは一体どういうことなのか?
クラスメイトが悪戯でやるには、クオリティが高すぎる特殊メイク。そうなるとこれは、自分が異世界に転移されてしまったように、この魔物もまた異世界からこちらの世界に転送されてきたということなのだろうか? それとも単純に、俺の頭がおかしくなってしまっているのか?
「グゥゥッ!」と低い唸り声を立てる褐色の魔物。どうにかしてこいつを追い払わなくてはいけない。修馬は己の右手首に刻まれた刻印に目をやり、強く手を握った。
そして心の中で何度も念じる。出でよ、流水の剣。出でよ、王宮騎士団の剣。出でよ、振鼓の杖。しかし、何度念じても修馬の手の中に武器が現れることはなかった。
何でなんだ。俺は武器召喚術が使えるようになったんじゃないのか?
ひたひたと近づいてくる褐色の魔物。しかしどんなに強く願おうとも、やはり武器は出てこない。焦燥感で指先が震える。
重そうな首を左右に揺らし、褐色の魔物はゆっくり歩を進める。武器の召喚を諦めた修馬は、持っていたスクールバックを思い切り投げつけ横に回避した。
褐色の魔物はバックを棍棒で薙ぎ払い、そして今一度振り被ると修馬の机の上を強く叩きつけた。硬い天板にひびが入り、ステンレスの脚が少しだけ歪む。ゴリラのような腕力。
「だ、誰か……」
エントラスにいた野球部の連中に助けに来てほしかったが、悲しいほどに声がでない。
激しい息遣いを立てながら、恐ろしい顔をこちらに向ける褐色の魔物。やけくそになった修馬は、近づいてくることを拒否するようにがむしゃらに腕を振り回した。
そんなことをしても当然、怯むはずもないのだが、右手に持つ棍棒を高く掲げた褐色の魔物は、その状態のまま何故か急に呻き声を上げた。頭の大きさに対して小柄な体が、くの字に折り曲がる。
何が起きたのかはすぐにわかった。修馬の右手にはいつの間にか金属バットが握られており、闇雲に腕を振っていたのが功を奏して、その金属バットが褐色の魔物の脇腹にジャストミートしていたのだ。
突然出現したこの金属バットは何なのか? 俺が召喚した武器という認識で良いのだろうか?
まあ、とりあえずは金属バット対棍棒という鈍器同士の対決を挑むことができる。これで勝負は互角? いや、一撃入れている分、こちらの方が有利だと今は考えよう。
命の危機をひしひしと感じていた修馬だったが、同時に心躍るような興奮も体感していた。生まれて初めての感情。
真っすぐに捕らえた褐色の魔物の頭部に、振りかぶった金属バットを思い切り叩きつける。重苦しい声を上げ、痛みを訴える魔物。その隙に修馬は、何度も何度も金属バットで痛めつけた。動きが遅い分、こちらの攻撃が面白いように良く入る。
普段ならこんな残虐なことはできなかっただろうが、今は気持ちが高揚していて敵を同情するような気持ちは一切沸いてこなかった。
そういえば、中学校時代に担任だった教師から教わったことがある。可哀そうだと思う心理状況は、自分は可哀そうな人間じゃなくて良かったという優越感からくる罪悪感なのだそうだ。
確かに今は、自分自身も命を奪われるかもしれないという非常に危機的な状況下にいるので、相手のことを哀れに思うようなこともなく、無慈悲に攻撃を加えることができるのだろう。
ただ、今はその相手は魔物なのだが、これが仮に人間だったとしても、結果は同じだったのだろうか? 俺は極限状態に置かれたら、人を殺めることができるのか?
恐ろしい考えが頭に浮かび、修馬の腕がぴたりと止まった。冷静な気持ちが広がっていくと共に、すでに虫の息と化した魔物に対し急に罪悪感のようなものが芽生え始めた。俺はこいつに、止めを刺していいのか?
戦うことが急に恐ろしくなり、体が動かなくなる。するとそれを見計らってか、褐色の魔物が力を振り絞り大きな雄叫びを上げた。
「グゥオオオオッ! グゥオオオオッ!!」
棍棒を振り上げる褐色の魔物。攻撃はおろか、どういうわけか逃げることすらできなくなってしまった修馬。
だが、棍棒が風を切って襲いかかろうとしたその時、目の前の魔物の体が突然、謎の発光体によって包み込まれてしまった。
呆気にとられる修馬の目の前で、苦しげな声を上げる褐色の魔物。何が起きたのかわからない。しかしわからないながらも、修馬は強烈な既視感を覚えていた。夢の中の異世界でも、これと似た体験をしていたからだ。
やがて叫び声が途切れ光も霧散するように消えていくと、中から炭化した魔物が姿を現した。これは、泉の近くの山小屋に住んでいる女児、アシュリーが使っていた光術に酷似している。
「なぶり殺しなんて趣味が悪いわね。相手が魔物とはいえ、倒すなら極力一撃で決めてあげた方がいいと思う」
背後から声が聞こえる。振り返るとそこには、黒縁眼鏡を掛けたポニーテールの女生徒が気だるそうな様子で佇んでいた。昨日、屋上で会った転校生だ。
「あんたがやったのか……?」修馬は聞く。
「あんたじゃないわ。鈴木友梨那って、自己紹介したでしょ」
「2週間前に来たばっかりの転校生だろ。ちゃんと覚えてるよ」
「覚えてないわ」
そう言うと、鈴木友梨那はチェック柄のシュシュを外しポニーテールを解いた。艶のある栗色の髪がふわりと肩に下りる。そして掛けている黒縁眼鏡を外すと、彼女はどこかで見覚えのある姿に変貌を遂げた。
それは異世界に転移された初日に、森の中の泉で出会ったタヌキ顔の美少女。
「お、お前、泉で会った裸の女っ!? 何でここにいるんだ!?」
狼狽する修馬。現実と異世界が本格的にごちゃごちゃになってきた。もしかしてこれもまた夢だったりするのか? 月並みに頬をつねろうとする修馬。だがそれより先に、友梨那の平手打ちが左の頬に飛んできた。静かな教室にパーンッと甲高い音が鳴る。滅茶苦茶痛い。つまりこれは夢ではないということ。
「お前じゃないって言ってるでしょ。友梨那よ、友梨那! いい加減覚えて」
腰に手を当てて怒りを露わにする友梨那。呼び方で怒っているのか、裸の女と言ったのが気に障ったのかはわからないが、正直女って怖い。
「ゆ、友梨那ちゃん。いや、友梨那さん? 友梨那様?」
「様はやめて。王女様じゃないんだから。私のことは友梨那でいいわ」
王女様じゃないという部分を強調して、友梨那は言う。いや、強調しているように聞こえただけかもしれない。だがそのことにより、修馬は夢の中の出来事を鮮明に思い出すことができた。
「友梨那はどうして魔法が使えるんだ?」
そう聞いてみると、威勢の良かった友梨那が何かを考えるように急に黙り込んでしまった。2人以外は誰もいない教室に、校庭の雨音がしとしとと心地よく沈む。
「もしかして友梨那は異世界の住人……。それもアルフォンテ王国の王女、いわゆる『黒髪の巫女』なんじゃないのか?」
異世界で聞いた話では、黒髪の巫女は亡くなったとも、生きているとも言われていた。一体どちらの情報が正しいのか何て、何も知らない修馬には判断がつくはずもなかった。
だが目の前にいる彼女の名前を頭の中で何度も反芻しているうちに、城下町レングラータで聞いた黒髪の巫女の名前がはっきりと蘇ってきた。
その名は、ユリナ・ヴィヴィアンティーヌ。そして、この転校生の名は鈴木友梨那。ゆりなという名前が一致している。果たしてこれは、単なる偶然なのだろうか?
しばらく口を閉じていた友梨那だったが、少し表情を緩めると、「ふふふ」と微笑を浮かべた。
「異世界の住人なわけがないでしょ。魔法は向こうの世界で覚えたのよ。コツを掴めば簡単なこと。現にあなただって、魔法のようなものを使えてるじゃない」
友梨那はそう言って、修馬が左手で握っている物を指差した。
改めて手にしている金属バットに視線を落とす修馬。あまり自覚はしていないのだが、やはりこれは俺が召喚した武器なのだろうか? 身を屈めそっと床の上に置くと、暫しの後、金属バットはそこから跡形もなく消え去ってしまった。異世界で武器召喚した時と同じ仕様。
「もっとも、修馬が魔法を使えるのは、その刻印のおかげのような気がするけどね」
今度は修馬の右手首を指差してきた。そこには謎の赤い刻印が刻まれている。確かにこれのおかげで、加護してくれている神様との繋がりが強くなり、召喚術を使えることができる。ということはココが言っていた。
彼女の言うことは間違いないのだが、よく考えると、俺はこんな刺青みたいな印をむき出しにして学校に来てしまっていたのかと思い至り、顔から血の気が一気に引いた。万が一教師に見つかっていたら、とんでもないことになっているところだ。今更ながら慌てて手首を隠す修馬。
「何よ、恥ずかしがることないじゃない。その刻印は何処でやって貰ったの?」
隠した右腕を掴んでくる友梨那。修馬の心臓が大きく脈打つ。
「いや、恥ずかしいわけじゃないけど、こ、こ、こ、これは、コココ……」
「コココ?」
「これは昨日、大魔導師のココがやってくれたんだよ!」
「大魔導師? ココ・モンティクレール!? 私もおととい、魔霞み山の彼の御屋敷にお邪魔したのよ」
「えーっ!?」
そうだ。ココは確かに言っていた。前日に黒髪の巫女が屋敷に来ていたと。ではやはり、鈴木友梨那は黒髪の巫女ということで間違いないではないか?
眉をひそめ、疑惑の眼差しを向ける修馬。
するとそれに気付いたのか、友梨那は「ココは黒髪の巫女が来たって言ってたでしょ」と先手を打ってきた。一体、どういうことなのか?
「私は向こうの世界では、黒髪の巫女だってことにしてるの」友梨那は言う。
「それは、身分を偽ってるってこと?」
「まあ、そういうこと。修馬は黒髪の巫女が滝から落ちて行方不明になってる話は知ってる?」
「うん。城下町で話好きのおばちゃんから聞いた」
修馬は答える。そのせいで王宮騎士団に捕まりそうになったことは、今は関係ないので省いておいた。
友梨那は顔を伏せ1つ息をつくと、ただただゆっくりとその首を上げた。
「丁度それと同じ時期に、私は異世界へと転移したのよ……」
運命とは殊のほか数奇なものだ。これから語る彼女の話を聞いた修馬は、心の底からそう思い至った。