第134話 塔の上の胡蝶
その日は少し、肌寒い朝だった。
マリアンナに続いてホッフェルの工房から出た修馬は、小さく体を震わせ、薄暗い空に目を向けた。どんよりとした重い雲が、風によってゆっくりと流されている。先行きの悪い天候だ。
「騎士様。貴重なお薬、ありがとうございやした。このご恩は一生忘れやせん」
玄関先に立つホッフェルが、青白い顔で礼を言う。
「気にすることはない。これからは体に気を付けて、甲冑師として更に精進しなさい」
振り返ったマリアンナは、薄く微笑み元気づけた。だいぶ回復した様子のホッフェルだが、まだ普通に働けるほどではないだろう。
修馬は改めて泊めて貰った礼を言い、そして工房を後にした。ココ、マリアンナ、伊集院もその後に続く。
朝だというのに光が閉ざされた町並みは、活気がなく、歩く人たちもまばらだった。湿り気のある石畳の細い道を、修馬たちは黙々と歩いていく。
「強い雨の匂いがする……。数時間後には大雨に見舞われるかもしれないな」
マリアンナが鼻をひくひくと動かし呟いた。とはいえこの後雨が降るだろうということは、嗅覚の優れたマリアンナじゃなくてもわかることだ。風も強く、気温も低い。上空に寒気が押し寄せていると思われる。
「それならもう一晩、この町で宿を取るか?」
修馬が聞くと、マリアンナはココの顔を伺い「いや……」と言葉少な気に否定した。
「一刻も早く東に向かった方が良いと思うよ。僕はシューマたちが来る前に、町の人たちに話を聞いたんだけど、東ストリーク軍は緩衝地帯になっているはずの旧首都エクセイルの一部をすでに占拠しているみたいなんだ。シャンディ准将率いる共和国騎兵旅団が奪還するために進軍していったみたいだけど、昨日言ったように東軍には鋼鉄の武人、マウル・キルドルースがいるからね。戦争みたいな大きな力のぶつかり合いに僕たちの力がどれだけ通用するのかはわからないけど、援護出来るなら早急に行きたいところだ」
ココがそう言うと、伊集院がそれに同調するように大きく頷いた。
「東軍には帝国の連中もいるみたいだからな。この俺を生贄にしようとしたあいつらは絶対に許さねえ!」
やたらと闘志を燃やす伊集院。こいつの魔力は相当凄いという話だが、飛翔魔法が得意だということ以外、今のところ実力は未知数である。
「そういうわけなので、先を急ぐぞシューマ。我々は休んでいる暇などない」
マリアンナに背中を叩かれ、修馬の体は前につんのめた。倒れそうになり、手をバタバタと泳がせる。
「わ、わかってるよ! 戦争はここで終わらせる。鋼鉄の武人とやらは……、まあ、どうにかしよう」
怖気づきながらも、意気込みをどうにか語る修馬。するとその横を、魔法の力で浮遊するココが素知らぬ顔で通り過ぎていく。
「けど、ここから旧首都エクセイルに向かうには、黒鉄の古戦場と呼ばれる山を越えなくちゃいけないんだ。険しい山ではないけど、歩いていけばかなり時間がかかるらしいよ」
「黒鉄の古戦場?」
「うん。かつて鉄鉱石の採掘を巡り争いが行われた場所なんだって。昔の話みたいだけど、その時もストリーク国は今みたいに東西に分かれてしまったんだ。そんな過去があるから、今の王族は同じ轍を踏まぬように教育してきたはずなのに、何でこうなってしまったのかねぇ」
現在東西に分かれ、戦争が始まろうとしているストリーク国。そのストリーク国は過去にも鉄鉱石を巡り、内戦を起こしていたらしい。歴史は常に繰り返すということなのか。
「西ストリーク国の女王、レディアン・ロレーヌ様は聡明なお方です。まだ国が分かれる以前の王女時代には、共和国と帝国の橋渡し役を担っていたという話なので、この戦争にはきっと憂いているでしょう」マリアンナが言う。
「ということは、東ストリーク国側が戦争を仕掛けてきてるってこと?」
「それはわからない。レディアン・ロレーヌの弟でもある東側の王、ラッザム・ロレーヌは、幼い頃は非常に家族思いな子だったと聞いていたのだがな……」
ストリーク国は王位継承を巡り、東西に分断されてしまったのだと、以前ココが言っていた。聡明だという姉、レディアンと、家族思いだったという弟、ラッザムはどうして国を二分するほどの争いを起こしてしまったのだろう。
「ふふふっ。戦争など視点を変えれば、正義もまた違って見えるものよ」
石畳の道を歩いていると、突然どこからかそんな声が聞こえてきた。
「上だ! 見てみろっ!」
いち早く何かに気づいた伊集院が、横にある教会の敷地内の大きな塔のてっぺんを指差した。見上げるとその屋根の上には、褐色の肌をした女が優雅に座っていた。
「クリスタ……っ! まだ、この国に居たのか!!」
その女は天魔族、四枷の一角、クリスタ・コルベ・フィッシャーマンだった。
「天稟の魔道士。こんなところにいたのね……」
口元を押さえ、不敵に笑うクリスタ。そう彼女は龍神オミノスの贄にするために、伊集院のことを捜していたのだ。
修馬とマリアンナが伊集院の前に立ち守ろうとしたが、彼はそれを拒否するように前に出ると、その右腕を空高く伸ばしてみせた。
「俺はお前らの言いなりなんかにはならねえ……。喰らえ、『エアインパクト』ッ!!」
爆音と共に、伊集院の手のひらから何かが放たれる。
バキッッッ!!
屋根の一部が魔法の力によって吹き飛ばされた。目には見えない衝撃波のようなものが飛んでいったようだ。しかし屋根と一緒に直撃したと思われたクリスタは、その破壊された屋根の上に今も座りこちらを見下ろしている。通用していないどころか、何も無かったかのような振舞いだ。
「彼女の姿は幻術みたいだ。攻撃しても無駄だよ」
背後にいるココは言った。
「ご名答。私は今、ベルクルス公国にいる。隣国とはいえ、ここまで幻術を飛ばすのは骨が折れるわ」
そしてクリスタは「ふふふっ……」と笑う。その姿は幻で、声もどこか脳内に直接訴えるような違和感があった。
修馬は敵意をむき出しにする伊集院を後ろに下げ、更に一歩前に出た。
「このストリーク国の戦争は、お前たちが仕掛けているのか?」
「さて、それはどうかしら? 確かに人間が戦争を起こせば、人々の憎しみの力が龍神オミノス復活の糧になるかもしれない。だけど、戦争によって益があるのは私たちだけではないかもしれないわ」
「どういうことだ!?」
修馬が問うが、クリスタはそれに答えない。彼女は背中に羽を広げると、ゆっくりとそれを羽ばたかせ、天に昇っていった。
「ふふふっ。旧首都エクセイルでの戦は、既に始まっているわ。あなたたちが黒鉄の古戦場を越える頃には、すでに雌雄が決している……、かもしれないわね」
暗雲に向かって上昇するクリスタは、やがて空気に溶けるようにその場から消え去ってしまった。