第110話 耽美な智神
ウェルターを倒し、静まり返る善光寺山門前。あれだけ降っていた雨はいつの間にか止み、空一面を覆っていた暗雲も北の空に徐々に流れ出した。
幾らかの距離感を保ちつつ、お互いの様子を伺う修馬と伊集院。元々微妙な関係性だったが、今はどう接したら良いのかすらよくわからない。先程のやり取りから察するに天魔族とは決別したようだが、帝国との関係はどうなっているのだろうか?
「伊集院くん……」
二人の空気を察したのか、珠緒が声をかける。伊集院は少し俯きがちに振り返り、珠緒の顔を覗き込んだ。その様子から、戦う意思は感じられない。
「この世の全てを破壊すると言われている禍蛇が、今まさに蘇ろうとしています」
珠緒にそう言われるも、伊集院は口を半開きにしたまま言葉を返さない。想定していなかった言葉に、戸惑っているようでもある。
「ほう、禍蛇ですか……。若い人の口からそのような言葉を聞くとは思いませんでした」
横からそう答えたのは、この寺の住職と思われる老僧だった。
「私は戸隠神社を管理していた守屋家の親族です。ご住職様、やはり善光寺にも禍蛇の伝説は残っているのでしょうか?」
珠緒が聞く。確かに創建1400年と言われている善光寺なら、禍蛇についてなんらかの情報があってもおかしくないかもしれない。
期待して言葉を待つ修馬。だが老僧は首を横に振った。
「成程、守屋家の……。残念ですが幾度の火災に見舞われたこの寺には、禍蛇に関する史料は残されておりません。しかしながら、禍蛇の名は祖父の口から聞いたことがあります。三千世界を無に還すため天から舞い降りてくるという、光の如き蟒蛇だとか」
光の如き蟒蛇。
その言葉に修馬は違和感を覚えた。この世を滅ぼす魔物なら、光ではなく闇の属性を持っていた方がしっくりくるような気がしたためだ。
「まがへび? 世界が滅びる? ちょっと待ってくれ、一体何の話をしてるんだよ!?」
困惑したように伊集院が話を遮った。どうやらこの男、禍蛇のことを知らないらしい。
「禍蛇ってのは、向こうの世界でいうところの龍神オミノスのことだよ。天魔族がオミノスの封印を解いたことで、二つの世界に滅亡の危機が迫ってるんだ」
そう説明すると、伊集院の顔が青褪めてから、薄っすらと顔が紅潮していった。
「龍神オミノスだと? オミノスが蘇ろうとしているのは黒髪の巫女が聖地であるアルコの大滝を穢したからだろ? だいたいそれは異世界の話で、こっちの世界に何の関係があるっ!?」
自分たちや天魔族が、二つの世界を行き来しているのだから、当然、オミノスもそれが出来る可能性はあるはず。だが興奮している伊集院には、それを理解することが出来ないようだ。
「二つの世界は表裏一体。光があれば闇もあるように、表があれば裏もある。異界にて強大な破壊神が蘇れば、こちらの世界にも何らかの影響が起こることは想像に難しくはないですよ」
そんな言葉が聞こえてきたかと思うと、突如伊集院の背後から平安装束を着た男がひょっこり現れた。それは先程の戦いで一瞬だけ姿を見せていたあの優男。
「誰だ、お前はっ!?」
指を差し、強い言葉で問い詰める修馬。だが優男は意にも返さぬように、顔を上げながら「テケテケテケテケッ」と珍妙な笑い声を上げた。
「はいはいはい。一度お会いしておりますが、まあ、いいでしょう。我こそは数多の思慮を修める智神、『八意思兼神』ですよぉ」
重い空気を無視するように、能天気な自己紹介をする優男。ちょっと鼻につくタイプだが、容姿端麗で若き歌舞伎役者のように涼し気な笑みを浮かべている。
以前会ったときは白い球体だったのでわからなかったが、これが伊集院を守護している神様の本来の姿のようだ。
突然怪しい神様が登場したことで、その場の者たちは時間が止まってしまったかのように言葉を失った。落ち着きのある老僧も、これには驚いたのか眉を上げて息を潜めている。
「八意思兼神? 天岩戸を始め、国譲り、更には天孫降臨といった高天原の大きな出来事で、常に参謀的な役割を果たしていた戸隠神社中社の主祭神様ですか……」
そう口にしたのは、一番神様に精通している珠緒だった。そして彼女は顔を伏せ、深く頭を下げた。
神職の家系の人間としては当然の反応なのだろうが、ちらりと横を見ると、伊集院の守護神は困ったように目を細め、少し引いている様子だ。
「我のことはオモイノカネと呼んでいいぞ、守屋家の巫女よ」
そのオモイノカネの言葉を聞くと、珠緒は前のめりで顔を上げた。
「私のことを知っているのですか!?」
「叡智を極めた智神であるがゆえ、大抵ことはわかるよねー。そなたの血筋も、これから蘇るであろう禍蛇のことも……」
南から温かい風が流れていく。ふと気づくと空には青空が顔を覗かせ、太陽の光が微かに降り注いできた。
「ちょっと待て、オモイノカネ。お前は龍神オミノスがどういうものなのか知っていたのか?」
伊集院が尋ねると、オモイノカネは口の上に手のひらを重ねた。
「テケテケテケッ。当然知っていましたよ。まあ異界にて天魔族たちが討伐の手筈を整えていたので、我は静観していましたがねぇ」
「じゃあ、俺が時空の狭間に閉じ込められたオミノスを呼び寄せるための生贄になることも知っていたのか?」
語気を強めて伊集院は言う。生贄の話については修馬も異世界で聞いており教えてやりたかったのだが、伊集院自身もそのことに自分で気づいていたようだ。
「生贄の話は不測の事態でしたから想定外の出来事ですよ。我としては魔王ギーとやらに禍蛇の封印を任せるつもりできたが、どうもそうは問屋が卸してくれないようです」
あっけらかんと話すオモイノカネ。修馬の守護神であるタケミナカタと同じで、あまり守るという心意気が感じられない。神様って意外とこんなものなのか?
「禍蛇はこちらの世界で蘇りを果たしそうですが、これを善光寺の僧侶はどう読み解きますか?」
オモイノカネは続けてそう問いかける。
対する老僧は瞑想するように瞳を閉じ、そして空に向かって顎を上げた。雲の切れ間から、後光のような光が眩く落ちてくる。
「それはいささか荷の重い質問。折角ですが私の立場的に神道の神様が見えてしまうのは如何なものかと思いますので、申し訳ありませんが、無回答ということで失礼させていただきます」
そう言って頭を下げ、ゆったりとした足取りで帰っていく老僧。ただそこから山門を潜った時、「ただ何故なのか、禍蛇は己のことを討伐できる者がこの世に現れた時に蘇るのだと伺っております。その話を聞いた時はただのおとぎ話だろうと思っていましたが、今日貴方たちを見て確信しました。祖父の言っていたことは真実だったのだと。これからの日本を担う若い方々、どうか日本を、いや、世界をお守りくださいませ」と祈るように告げた。
禍蛇を討伐できる者。それは誰を指しているのだろう。修馬なのか、友理那なのか、それとも伊集院のことなのか?
三人は本堂へと去っていく老僧を、ただ静かに見送った。