第109話 天稟の魔道士
雨脚が強まっていく、正午過ぎの空。その雨雲の下を漂う蛟は、心なしか先程より姿が大きくなっている気がする。雨が水の魔物をより強力なものにしているのだろうか?
「あの魔物には、こちらの攻撃が効いていないようですね」
珠緒の言葉に修馬は素直に頷き、眉の上についた水滴を手で払った。
「あいつの実体は、水に近い性質なんだと思う。地属性か雷属性の攻撃以外は通用しないかも」
そう口にするや否や、頭上高い位置で円を描いていた蛟が、こちらに向かって一直線に突っ込んできた。
「いけないっ!! 返りの業風!」
巻き上がる上昇気流。珠緒のカウンター攻撃が見事に決まると、蛟は粉々に弾け無数の水滴と散ったが、しばらくするとその水滴が集合していき、またその竜のような姿を形成していった。
「残念ですが、私は風術しか使えません。広瀬くんは?」
「俺は……」
修馬は右の肩に視線を送る。そこには黒い球体のタケミナカタが、仏頂面で居座っている。彼がこの状態では、異世界の武器は召喚出来ない。
武器を持たぬ手を、ゆっくりと握りしめる。一体どう対抗すれば良いだろうか? ここは一度退避して、タケミナカタの本領が発揮できる場所まで誘い出すか、それとも……。
そんなことを思案していると、天から「ギャーッ!!」と奇声が聞こえてきた。牙をむいた蛟が弧を描きながら勢いよく突進してくる。
考えがまとまらない修馬が何も出来ずに足をすくめていると、後方にいた老僧が念仏を唱えながら修馬と珠緒の間に跳び込んできた。
同じタイミングで接近する蛟と老僧。しかし読経を続ける老僧が、強く地面を踏みしめると、蛟は何かに弾かれるように角度を変え、上空へと跳ね返されていった。よくはわからないが、善光寺の老僧に守られたようだ。
「た、助かりました。ありがとうございます」
「うむ。だが、状況はあまり変わらない。……いや、むしろ悪くなるのではなかろうか?」
老僧はそう言うと、ねずみ色の空を見上げた。厚い雨雲の中から雷光が瞬き、重低音が空に轟く。
「それは、どういうことですか?」
修馬が聞くと、老僧は風でも読むように視線と首を動かした。
「……何かが来るようだ」
「来る? 何がですか!?」
「それが何かはわからないが、怪しげな気配ではある……」
考え込むように空を見上げる老僧。合わせて修馬も視線を上げると、東の空の端に何かが浮かんでいることに気づいた。
それは人の形をしているのだが、どういうわけか空を飛び、こちらに向かってきていた。羽織っている白いシャツが風に煽られ、ばたばたと揺らいでいるのがわかる。
やがて上空まで接近してきた、綿麻の白シャツとくるぶしの出ているアンクルパンツをはいた人物。それを目にした修馬の背中に冷たい汗が流れた。あいつはまさか……?
修馬たちが行動を起こすよりも早く、白シャツの人物が宙に浮かびながら地上に向かって手のひらを向けた。
「大いなる力の根源たる火の精霊よ、その猛る灼熱で目の前の敵を焼き尽くし給え……。『インフェルノ』!!」
伸ばしたその腕から、火炎放射器のような炎が大きく広がる。バチバチと音を立てて燃える紅蓮の炎で、辺りの温度が一気に上昇した。急いで身を退く修馬と珠緒。だがその炎が襲い掛かったのはこちらではなく、ウェルターの方だった。
「愚かな真似を……」
ウェルターが両手を前に掲げると、その目の前に凸レンズ型のバリアのようなものが張られた。白シャツの放った紅蓮の炎は、バリアに命中し流れるように横に反れていく。
「魔法障壁か……。俺の火術を防ぎ切るとは大したものだな」
白シャツが言うと、ウェルターは強く歯ぎしりをし、舌打ちをした。
「我らを裏切るのだな、祐……」
たすく。ウェルターは白シャツのことをそう呼んだ。空を見上げる修馬。あるいはと思っていたが、宙に浮く白シャツの人物はやはり、伊集院祐に他ならなかった。
「裏切ったのはどっちの方だ。お前らは俺のことをどうするつもりだったんだ?」
「ほう。己の役割を理解してしまったのか。これは困ったな……」
ウェルターは表情も変えずに言うと、小さく手を動かした。それに呼応するように、蛟が回転し伊集院目掛けて突っ込んでくる。
「後ろからくるぞ、伊集院っ!!」
敵ではあるのだが、思わず声を出しまった修馬。宙に浮きながらゆっくり振り返った伊集院は、苛立ったように眉を寄せ両腕を天に掲げた。
「上等だ。消し飛べ、『アストラルファイア』!!」
伊集院と雨雲の間に、太陽を連想させる巨大な炎の塊が出現する。その炎の塊は角度をつけて落下すると、迫りくる蛟の頭部に激しくぶつかった。
一瞬の静寂の後、空に轟音が響く。水蒸気爆発が起きたようだ。白い煙が立ち込める中、伊集院も凸レンズ型のバリアで身を守っていた。奴は一応無事のようだ。
「馬鹿め……、水竜に火術が効くはずもない。あいつはヴィンフリート様から何を習ったのか?」
蔑むような言い方のウェルター。確かに水属性の魔物に対し、火属性の魔法は相性が悪い。だが伊集院は、そこから更に火術を放ってきた。
「インフェルノ!!」
炎の渦が一直線に飛んでいく。そして蛟と正面からぶつかると、再び小さな爆発が起きた。溢れる熱気と水蒸気。
伊集院の奴は確か四大元素の全てを操れるはずなのに、何故、火術にこだわるのだろう? 地属性の魔法を使った方が、圧倒的に有利なはずなのに。
その時、伊集院の背後に怪しげな人影が見えた。烏帽子に平安装束を着た、千年前の貴族のような格好をした時代錯誤の優男。瞬きを繰り返す修馬。一瞬幻かと思ったが、その人物は確実に存在している。
「そろそろ終わらせてやる。『インフェルノ LEVEL3』!!」
伊集院の手のひらから出る炎の勢いが突如大きくなる。放たれた炎の渦は蛟の体をそのまま飲み込むと、大きな水蒸気を拡散させながら、やがて外側に広がって溶けるように消えていった。
「我が水竜を火術で蒸発させた、だと……」
腰を手で押さえたウェルターが小刻みに身震いしている。
「これがセンスの違いだ。お前如きでは、この俺には勝てねぇ」
そう言って地上に降り立つ伊集院。背後にいた平安装束の優男は、どこかに消えてしまっていた。
「天魔族屈指の魔力を持つヴィンフリート様を持ってして、『天稟の魔道士』と言わしめたその才能は本物だったということだな」
「おい、三下。二度とその通り名を口にするな。俺の名は伊集院祐。天魔族に復讐を誓う者だ」
「残念だな……。このことをヴィンフリート様が知れば、どれだけお怒りになるだろうか?」
「そんなことを心配する必要はねぇ。お前はここで俺に殺されるんだからな」
震えるウェルターに、伊集院は手のひらを向ける。
「くくくっ、それこそ必要のないこと……。この勝負、お前らの勝ちだ。だが我が師、サッシャ様を含む四枷と呼ばれる天魔族に到底勝てはしない。今からせいぜい逃げる準備でもしておくのだな……」
それだけ口にすると、ウェルターの膝が崩れ地面に前倒しになり、彼の体は上半身と下半身が真っ二つに裂けてしまった。これは一体どういうことか?
「こやつ、術の力で延命していたようじゃが、やはり刀で斬られたのが致命傷になっていたらしい」
肩の上のタケミナカタが言う。先日の伊織の抜刀術で勝負はすでに着いていたようだ。
ウェルターの亡骸は、石畳の上であっという間に体が溶け骨と化すと、その骨も粉々に砕け、風に撒かれてどこかに散っていった。