第108話 曇天の善光寺
善光寺交差点でタクシーを降りる修馬と珠緒。そこから古き時代の風情が残る石畳の通りを走り、寺を守護している仁王門を潜る。そこから長く続く仲見世通りの向こう側には、巨大な山門が見えた。天気は良くないものの、まだ明らかな異変は起きていないようだ。何かが起きてしまう前に、2人は通りを走っていく。
厚く垂れ込める葡萄の房のような形ある暗雲。時折光っては、地上に雷鳴を轟かせている。
悪天候のため通りを歩く人はまばらだったが、先にある山門前に、七三分けの男が肩を強張らせ立っているのが見えた。その周りには何やら僧侶たちが集まり、合掌しながら念仏のようなものを唱えている。
「あれは……?」
珠緒が声を上げる。その男から発せられる並々ならぬ殺気。あれは伊集院ではない。恐らく、天魔族ではないだろうか。
「気をつけろ。あれは人間じゃない魔物だ!」
修馬が警告すると、走っている珠緒は肩掛けバッグから神楽鈴を取り出し、シャンシャンと鳴らした。
「そのようですね。かしこみかしこみ申す……」
左手で持った神楽鈴を天に掲げた珠緒は、目を閉じ、気合を込めて細かく鈴を鳴らした。彼女の髪が、ふわりと宙に舞う。
「『朝霧飛ばし』!!」
前に突き出した右手から目には見えない風圧のようなものが前に飛び出す。風の圧力は、木の葉と共に山門前の広場に到達したが、七三分けの男が大きく声を発すると、木の葉を巻き込んだ風圧は何かにぶつかったかのように弾けて周りの僧侶も全員一緒にばたばたと倒れた。
「下らない余興、だな……」
七三分け、ダークブロンドの髪をかき上げこちらを睨むのは見覚えのある顔。山高帽を被っていないので気づかなかったが、そこにいたのは天魔族、ウェルター・ハブ・ランダイムだ。やはり、善光寺というメッセージは伊集院の罠だったのか?
「出でよ、初代守屋光宗『贋作』!」
手の中に出現する、一振りの刀。修馬は鯉口を切り、ウェルターに襲い掛かった。
だがその刃は何かにぶつかり、弾き返されてしまった。ウェルターの目の前には、透明なバリアのようなものが張られている。
「そちらから出向いてくれるとは、手間が省けるよ」
不敵に口角を上げるウェルター。そもそもこの男は、先日、守屋家の屋敷の前で、伊織が真っ二つに叩き斬ったはずだが……。
「お前、やっぱり生きていたのか?」
「天魔族の生命力を侮るなよ、人間。とはいえ、体を引き裂かれた屈辱は忘れもしない」
ウェルターはへその辺りを手で押さえる。あれで生きていたとは驚きだ。修馬が異世界では死なないように、友理那が現実世界では死ななかったように、天魔族の連中もこちらの世界では死ぬことがないのだろうか?
「天之羽々斬は無いと言ったはずだ。一体これ以上、何の用がある?」
修馬が尋ねると、ウェルターは首を横に曲げ不気味に舌なめずりをした。
「それは簡単な理由。お前のことを殺しに来た」
山門の奥、本堂に続く道に雷が落ちる。激しい雷鳴に気を取られている隙に、ウェルターの背後に大きな水柱が立っていた。水属性の魔法か?
「行け、水竜。その力を開放し、全てを呑み込んでしまえ!」
ウェルターが言うと、水柱だったものが蛇の如くうねり、天高く舞い上がった。腰を落とし、空を見上げる修馬。空からはぽつぽつと雨粒が落ちてきている。
一体、どんな攻撃が来るのか?
身構える修馬は、宙に漂う管状の水の中に、生き物のような目のような二つの光を見つけた。三日月の如く細い瞳孔。
「キシャーッ!!」
牙を剥き、鳴き声を上げる管状の水。あれは魔法ではなく、水の魔物か?
身震いをする暇もなく、襲い掛かってくる水の魔物。修馬は即座に水属性に有効な『天地の槍』の召喚を試みた。しかし、どういうわけか手の中に武器は現れない。修馬の全身に鳥肌が走る。まずい。やられる。
「させませんっ! 『返りの業風』!」
飛び出した珠緒が神楽鈴を下から振り上げると、竜巻の如く爆発的な上昇気流を生み出し、それを直に喰らった水の魔物は水滴となってばらばらに吹き飛んだ。
「お坊さん方、今のうちに参拝客を避難誘導してください!」
いつになく声を荒げる珠緒。ウェルターの攻撃で倒れていた僧侶たちは、素直に頷くと参道に向かってそれぞれ散っていった。これでとりあえず、一般人の被害を出さずに済みそうだが……。
「何で、異世界の武器が召喚出来ないんだ! タケミナカタ!!」
と口にするよりも早く、ハンドボール状のタケミナカタが肩の上に出現した。勿論、この黒い球体の状態では、本来の力は発揮できない。
「ここは異教の宗教施設の敷地内。気持ちの問題ではあるのだが、今一つ本気が出せないのじゃ」
「気持ちの問題ならどうにかしろよ! 寺も神社も似たようなもんだろ!?」
「ぐう。相変わらず無茶苦茶なことを言う小僧じゃ……」
タケミナカタが困ったように体を縮めているその時、大きな山門の向こうから紫色の袈裟を着た老僧が姿を現した。老僧は身を屈め差してきた傘を地面に置くと、小雨の散る曇天を見上げた。水滴となっていた水の魔物が、徐々に集まりだし、先ほどの姿に戻りつつある。
「水妖の類か……。境内で殺生は好まぬが、どうしたものかのぅ」
「どうするもこうするもない。ここは年寄りの出る幕じゃないからな!」
ウェルターが老僧に手のひらを向けると、そこから緑色の水流がレーザービームのように真っすぐに放たれた。
しかし老僧は怯みもせずに、つまらなそうに立っている。そもそもウェルターの攻撃は、届く前に消えてしまったようだ。
「悪しき力。それは私に届かんよ」
「くそっ! 貴様も只者ではないということか。ならば本気で答えてやろう。水竜よ、存分に暴れるがいい!!」
ウェルターが天に向かって両手を掲げると、空を漂う水の魔物が「キシャーッ!」と遠吠えを上げた。最初に見た時よりも二回りほど巨大化している。
「あれは『蛟』のようだな」
老僧の言葉を聞き、再度修馬は空を見上げた。
「みずち?」
「ああ。言ってみれば、龍の成り損ないだ」
蛟と呼ばれる魔物は空を周回していたのだが、しばらくすると大きく牙を剥き、真下に向かって突っ込んできた。
凄まじい破壊音と共に、瓦と木片が飛び散る。蛟は山門の屋根に穴を開けると、地面ぎりぎりで旋回し、また天に昇っていった。まるで巨大な弾丸のような速度と破壊力。
「ご住職っ!! ご無事ですか!?」
珠緒は動揺したように声を上げるが、老僧は飄々とした態度で穴の開いた山門の屋根を見上げた。
「無事ではあるが、結界が破壊されたな。形あるものはいずれ滅するということですか……」
そうしている間に、身を翻した蛟が襲い掛かってくる。結界となっていた山門が壊れたのは、まずいかもしれない。
「届けっ、『一番風』!」
珠緒は風の力を利用して、尋常でない速度で駆けていく。そして山門の前に立ちはだかると、迫りくる蛟に圧縮した風圧を正面から叩きつけた。再び霧散する無数の水滴。
「無駄なことを……。私の作り出した水竜は、そんなことでは倒せやしない」
ウェルターの言葉通り、宙に散らばる水滴は徐々に集まっていき、水の魔物へと形を成していく。珠緒は息を切らせながら、その肩を震わせた。
珠緒の風術は効かないし、修馬は異世界の武器を召喚出来ない。水のような実体の魔物相手に、一体どうやって戦えばいいのだろうか?