第四章
保健室から出た後、校内の自動販売機で飲み物を買い、一息ついたところで霧崎と難波を探す。しばらく歩くと、玄関前で二人の人影を見つけた。
「あら、天宮君。話はもう終わったの」
「それより聞きたい事があるんだが……。難波」
「……僕に何か?」
「女子バスケ部はまだ帰ってないよな?」
「え? あそこはまだ部活中だけど……」
「よし」
俺はもう一度、頭の中に飛び交う憶測を一旦整理し、二人にこれからの行動を伝えた。
「お前が言ってた、山浪と川島っていう部員を尾行するぞ」
「なっ!?」
真っ先に反応したのは難波である。
「何を言ってるのさ!? 本気でそんなこと言ってるのかい!」
「普段から多人数で行動している人間というのは、どんなネタでもよく話す傾向がある。もし奴らが嘘をついているのであれば、どこかで重要な証言をポロっと漏らす可能性があるからな」
「君は、尾行までして彼女たちを疑うのかい!?」
「そのつもりだ」
「君はどこまで……」
難波が歯を噛みしめたところで霧崎が割って入る。
「待って、幸人。……いいわ。私達も同行しましょう」
「ちょっと! 明花!」
「幸人だって、しっかり解決したいんでしょ?」
「……っ。それは」
「それとも……見たくないから断るの?」
霧崎がいつもより強い口調で難波に詰め寄る。それはいつものミステリアスな感じではなく、まるで部下を気遣う上司のそれと似ていた。
「……分かったよ」
難波は苦し紛れに返答を出す。
別に彼女たちが犯人と決まったわけじゃない。ただ、少しでも些細な情報を漏らしそうな彼女達なら、尾行のしがいがあるだけだ。ごくごく一般の話す人、というのは自分の中だけで情報を溜めこんでおくことをしない。話のネタとなれば、どこかポロっと漏らすかもしれない。
これは完全に憶測で、博打的な行動だが、今は情報が欲しい。合コン部と結凪のためにも――。
「……」
俺は頭を横に振る。
違う。あくまで留年だ。勘違いするなよ、俺。
◆
女子バスケ部達がざらざらと数人歩き、玄関を突っ切って、校門を抜ける。
校門の近くの茂みで待機していた俺たちは、さっと飛び出し帰り際に別れた女子バスケ部員の一部を尾行した。一人は茶色のポニーテールを携えた女『山浪』と、もう一人はくせ毛の強そうな女子『川島』だ。
「あれが山浪と川島か?」
俺は難波に確認をとると、こくんと頷いた。
視認した数はざっと二人。運が良かったのか他の部員とは別れたようだ。とりあえず、まずは様子見だ。俺たちは彼女と一定の距離を置きながら、なおかつ見失わないように尾行を続ける。
「うふふ。なんだか変な気分になってきたわね」
「……呑気だね、明花は」
「あら? 貴方は楽しくないのかしら?」
「……こんなことして何になるのか、全然わからないよ」
俺の後ろで、難波が苦しそうに息を漏らす。
「だが、見てみないと分からないのも確かだ」
「そうだけど……」
「……ん? ちょっと待て。静かに」
俺は二人に静止の合図を出す。
女子バスケ部の二人は、少し立ち止まってだるそうに手や腕を伸屈させていた。二人の様子を見ながら俺はポケットからあるものを取り出す。そして気づかれない位置まで、歩道にある障害物に隠れながら、できるだけ彼女たちに近づいた。
『はぁー。今日もかったるかったよねー』
『ホントホント。いつにもまして厳しかったもんねー。あ、そういえば』
『何?』
二人の会話がこちらまで聞こえてくる。俺たちは黙って彼女達の見えない死角、曲がり角で待機していた。
『この間のアレ、どーなったんだろうね?』
『あ、アレってもしかして!』
女子のうち一人が、何かを思い出したようにその言葉を放った。
『えっと誰だっけ? あ、そう! 持田部長の友達の結凪だかって言う人の写真でしょ!?』
『そうそう! 今頃どーなってんだろうね』
『なんか保健室で休んでたとか言ってたけど?』
『え? マジで? それって超重傷じゃん』
『つーか、あんな意味不明な部活立ちあげるからでしょ。合コン部だっけ? あからさまに名前から淫らって感じでキモイよね』
『超同感。でもうまくいったよねー』
『うまくいったって、写真の事?』
『いやだってバレそうだったじゃん、あれ』
『あー、あれはマジで焦ったわー。でも案外見つからなかったね。みんなガヤガヤ喋ってたし……つかさ、ぶっちゃけ無事に撮れたのも---」
「……そんな」
見れば、愕然とする難波は足を地に付けている。
その時、俺は既に彼女たちの目の前にすがたを現していた。
「さっきの話、聞かせてもらおうか?」
「っ!?」
二人は気づいたのか、犯罪がバレたかのようにこちらを見やる。
「あ、あんた誰!?」
「合コン部の部員って言えば通じるか?」
「げ……」
「今の話、詳しく聞かせてもらおうか。誰が何を撮ったって?」
息が荒くなる。声も普段より強い。
まるで、込上がってくるマグマをせき止めているかのように、体が熱かった。
「……っ」
二人は怯えた表情を見せる。
「どうなんだ?」
俺が強く言い放つと、ポニーテールの山浪がオドオドしながら言葉を漏らす。
「あ、いや、その。あたし達は何もしてないって言うか!」
「何もしてないなら、さっきの話はなんだ? どう考えてもお前らの仕業としか考えられないような発言を多く聞いたぞ」
「別に何も言ってないし……」
「果たしてそれはどうだろうか」
と、俺はあらかじめスイッチをつけていたボイスレコーダーを見せる。
そこには録音時間を示す時計が回っており、先ほど彼女たちが話していた会話が流れていた。
「つまり、どういう事か分かるな。お前たちが白を切るつもりなら、公の場に出してしまってもいいんだぞ?」
「うっ……」
バスケ部の一人が顔面蒼白になって俺の携帯を見る。
「お前達がやったのか?」
自然と眼に力が入る。言葉の音程がだんだんと低くなる。
「わ、わ、私達は、そ、そう! 持田部長に言われてやったんだよ!」
隣で見ていた川島が声をあげる。同時に山浪も便乗するように喋り出した。
「そ、そうだよ!」
「ほほう? 証拠は?」
「証拠はって言われても……だって私達、結凪とかいう人の事全然知らなかったし……ほんとに持田部長に言われてやったんだって」
一瞬、口が止まる。
そういえばこいつらは先ほど、結凪の事を『結凪とか』と言っていた。あれは紛れもなく他人事のような言い方だった。
「持田の指示でやったのか?」
俺は事実を再確認させるように、二人を問い詰める。
「そう! あの日、持田部長に指示をもらってやってたんだよ! でも指示って言ってももすごく小さなものだけど……」
「どんな指示だ? そのあとはどうした?」
「なんかこう、目線で伝える的な感じっていうか……。それを見てあたし達は携帯カメラを使ってとったの。んで、撮った写真はとにかく回せるだけ回せって言われて……んで、そういうの面白がりそうな奴らに写真を回したんだよ。ほら……よくいるじゃん、ネタになりそうなの好きな奴とかさ。でも、一晩でこんなに回るとは思ってなかった。……最初は私達、めちゃくちゃ興味本位でやったんだけど……正直、ちょっとまずいことしたって思った……かも」
「……」
俺は頭を整理する。
つまりこいつらの証言と、俺の推測を合致させるととこうだ。
あの結凪の写真は、持田が裏で指示してこいつらにとらせたもの。合コン部の会場では、持田は部屋の隅で難波と話していた。その際、持田は挙動不審な様子をしていたと言っていた。それが彼女達のいう目線での合図の前兆だったと考えられる。
そしてそれが、持田が結凪の様子を窺っていたと仮定したら。
線と線が、しっかりと交わったような感覚があった。
「分かった。信じよう」
「ほ、ほんとに!?」
「だが、これ以上余計なマネはするなよ。とりあえずこの録音したものは公には出さないことにしよう。だが持田を揺さぶる証拠にはさせてもらう。文句はないな?」
俺は追従するように女子バスケ部員を脅す。
「わ、分かった……」
二人は観念したのか首を重く縦に振った。
これではっきり分かった。
どうやら上の人間が指示していた。直々の部下、後輩となればたやすいことか。
そして女子バスケ部達は逃げるように俺たちの前から消えた。
「……」
難波は未だに下を向いたままだ。その表情は分からない。
俺の目は、しばらく力が抜ける事はなかった。
◆
翌日。
女子バスケ部員から、持田に関しての情報を聞いた俺は、今までの情報を整理していた。
朝の登校道、学校の校門を抜けて玄関へ行き靴を脱ぐ。教室にかばんを置いた後、そのまま屋上へ向かう。
この学校の屋上は人気が少ない。教室ではしゃいでるようなうるさい人間は殆どいないし、大人しい奴ばかりだ。人嫌いな俺にとっては最適な場所である。
「これではっきりしたな……」
女子バスケ部、野球部、文芸部との合コン会の時にとられた結凪の写真。それを撮ったのは女子バスケ部員の二人。でもそれは持田からの指示で、合図など事前に知らせてあった。
あの日、持田が難波のところに話に行ったのは、女子バスケ部から意識を外すためだろう。
さらに俺と霧崎は当時、出口付近の壁によりかかっていた。中央には結凪や野球部がいたため、視界は邪魔されて見えない。
テーブルは部屋の中央と、扉から奥の所に三つずつあった。中央は野球部が占領し、壁よりには文芸部が、そして奥のテーブルは女子バスケ部が座っていた。
持田は、文芸部のテーブルに近い壁の側面付近で、難波と話していた。その位置なら結凪の様子を観察でき、なおかつ女子バスケ部へ合図も送れる。また、難波の注意をひきつけていた。
持田が指示した可能性は高い。
俺は屋上への階段を昇った後、見えてきた扉をゆっくりと開けた。灰色の雲がぽつりぽつりと宙を漂い、その上に見える空景色は、雲と同じような濁った色をしていた。生徒の数はまばらで、ぐっすり寝ている者もいれば朝食であろうパンをかじっている者もいる。
俺は屋上のタイルを踏み歩き、人気のない隅っこに移動する。崖落ち防止用の網に背を預けた。
「……」
俺は昨日の事を思い出す。
女子バスケ部の証言を聞いた後の事だ。
事実を聞いた難波は、その日全く口を開かなかった。精神的ショックが大きかったのか、難波は人形のようにただただ黙っていた。
霧崎は難波の様子が心配になり、そのまま俺と別れ、二人の後ろ姿を見送った。所々、霧崎が色々と声をかけていた様子が見えたが、難波は黙々と歩いていた。
だから言っただろう。人を信じたって仕方がない。お前は騙されたんだよ。……俺はそう難波に言ってやりたかった。
しかし言えなかった。口が動かない。難波の様子を見ていると、鎖で縛られたような感覚を覚えたからだ。
その感覚は今日になった今でもよく分からない。
「あ・ま・み・や・く・ん」
「ひぃっ!?」
ゾッとするような声で、誰かが俺の耳元に囁いてきた。
「……って、お前か」
なんとなく予想はしていたが、それは霧崎である。不気味な笑顔を浮かべてこちらを見つめ、してやったかのようにグッ拳を握る。
「いい音色だったわよ」
「嫌な褒め言葉だな……」
霧崎はフフッと怪しい笑い声をあげたあと、俺の横に来て同じように網に背を預けた。
「なんでお前もこっちに来るんだ。おい来るなって、よくわからない寒気がするから」
「なに、つれないわね。もしかして私が怖いの?」
「怖くないな、全然怖くないな。なんなら世界中にお前を怖がらない俺の不動の心を見せつけてやってもいい」
「それは流石に恥ずかしいわ……ナルシストの究極体みたい。天宮くんってそんなに自分大好きだったの」
「実際にやるわけないだろってそんな屋上の隅まで引くなよ……。さっきまで近づいてきたのに一気に離れられたらなんか傷つくだろ」
「あら、そう?」
霧崎は顔色を変えてトコトコトコーっと俺の隣までくる。なんなんだもう……相変わらずこいつと話していると調子が狂わされる……。
こいつはこいつで、結凪と話している時と別の次元のやりづらさだ。結凪の場合はただ単に小悪魔なだけだが、霧崎の場合はホラー好きな上になんかよくわからない寒気がする。
ふと、霧崎の手に持っていたものが視界に入った。それは両手サイズの小さな本であった。
「それ、何の本?」
「あぁ、これね? 最近見つけたのよ」
「推理小説か?」
「少し違うわね。言い変えるなら……そう、狂気と不可思議のパラドクスと言えばいいかしら」
「ミステリー系の小説か」
「あまり陳腐な言葉で片付けないで頂戴。この本の事を何も知らない、惨めで杜撰で、豚の養殖場の管理者以下の愚か者」
「どういう侮蔑だよ……愚かなのかどうかよくわからんぞ」
つか、ミステリーを陳腐な言葉と言うかお前は。
「そういう天宮君は、本は読むのかしら?」
「ああ、特に図書室は年がら年中利用するな。あそこはよくわからない大声を上げる野生動物どもがいなくて助かる。図書室の生徒は皆、静かでいい」
「うるさい教室が苦手なのね」
「当たり前だ。あんな訳のわからない単語を発している奴らと一緒の空気なんか吸えるか」
「彼らには、彼らなりの良さはあると思うけど」
「うるさいのが取り柄なだけに見える」
「私としては、良い実験材料にもなりえそうだから面白そうだと思うけど」
「何の実験だ……」
「もちろん、不可思議現象を起こして恐怖力を集めるための、ね」
そういって霧崎は『私、すごいでしょ』的なウィンクをする。
「ずーっと気になってたんだけど、恐怖力ってなんだ? もしや人を怖がらせた時に出てくるエネルギー……などとファンタジックな意味合いじゃないだろうな?」
「……よく分かったわね。貴方、やるじゃない」
合ってんのかよ。
「豚の管理者よりは、マシね」
「それ褒めてるのか?」
と、霧崎と話している途中、俺はあることを思い出す。
「……なぁ」
「突然改まって、何かしら?」
「難波はどうしてる?」
自分でもびっくりだが、なぜだか聞かずにはいられなかった。
「随分と突飛ね。やっぱり貴方達、本当に付き合っているのね」
「アホか。あれはお前が勝手に作った迷惑極まりない嘘だろうが」
「? そうだったかしら?」
霧崎は小学生のように幼く首を傾げる。この野郎。無駄に可愛いトボケ方しやがって。
「まぁいい。それでどうなんだ? 今日は来てるのか?」
「心配せずとも、幸人は今頃教室よ。ただ……昨日の事は引きずっているみたい」
「そうか……」
俺は振り返って、網に手をやり雲を眺める。晴れる気配もなく、未だに俺達を見下ろしていた。
「結凪さんは学校に来ていたわよ。でもまだ立ち直れていないでしょう。保健室へ向かう姿を見かけたわ。声をかけようかと思ったけれど、あまり心配しすぎるのも良くないと思って」
「……」
無意識に拳に力が入った。
それに生じて、少し昔の記憶が蘇ってくる。
「あなたを保健室に連れて行った時も思ったのだけれど、結凪さんも無理をしなくていいのに……と、よく思うわ。終始、笑顔だもの」
「あいつは昔からそういう奴だ」
「え?」
聞き返してくる霧崎に、俺はいつの間にか過去の話をし出していた。
「中学の頃から、いや、もっと前から、あいつは誰にでも人気があった」
「それは聞いたことがあるわ。クラスでも人気者だったのでしょう」
「ああ。常に笑顔が絶えず、誰にでも優しくて明るくて、嘘もクソもない奴だった。俺をそれはずっと横で見ていた」
「そういえば天宮君は、結凪さんと幼馴染なのよね?」
「幼馴染といえばそうだがな。別に特別とかそんなものはない。それに俺はあいつが嫌いだった」
「嫌いだった?」
霧崎は疑問を浮かべた顔で俺を見かえす。
「俺の周りは……そう、親や兄弟は何かと利己的に物事を考える人間ばっかりだった。もう今は慣れてしまったがな。それに、小さい頃に接していた周りの人間も、そんな大層な考え方をした人しか集まらなかったからな」
「あら、昔から友達がいたのね。てっきり天宮君は生まれた時から孤独じゃないかと思っていたわ」
「その通り、昔から孤独だ」
俺の言葉を聞いて、毒を吐いたつもりの霧崎は目を見開いた。
「俺は親の言う事も兄弟の戯言も、友達だった他人も皆、信じる気はなかった。幸せを手に入れる、金を手に入れる、自分の欲を満たす、快楽を追いかける……皆そのためだったら簡単に嘘をついていた。だから俺は人間が嫌いなんだ。そして、……それは結凪も同様だった」
「……結凪さんは常に笑顔を絶やさなかったから、かしら?」
「ああ、おっしゃるとおり。最初は嘘つきだって心の底から思った。なんでこんなに明るく振る舞えるんだって、どう考えたって腹に一物を持っているとしか見えない。人間は嘘をつくのがうまいからな……でも」
「でも?」
「あいつは毎日、俺に絡んできたんだ。誰とも接さず、常に本の世界にひたっていた俺に、うざったいくらい毎日な。俺は何度もあいつから逃げ、時には別室に行ったりして、あいつの目から逃れようとしてたんだが。絶対、声をかけられるんだよ」
「素晴らしい愛を感じるわね」
「気持ち悪い単語でまとめるな。気に入らなかったというのに」
「それで、結局どうなったの?」
霧崎に追及されて口が止まる。
そう……結局。
「結局、俺はあいつのしつこさに負けた」
「あら」
「あれだけ何度も迫られると、逆に縮こまってる方がつらい。適当に相手していたほうがまだマシだと思ったからな」
「結凪さんは嫌いではなかったの?」
「もちろん嫌いだ。あんなゴキブリ並にしつこい奴は勘弁してほしい。……でもなんだか……なんていうかな。よく分からないんだよ。あいつの顔を見ると、あいつが嘘をついているのかどうなのか、分からなくなった」
「もし本当だとしたら?」
「どっちにしても、本心なんて俺には分からない」
「確かに、人の本心はそう簡単にはわからないものね。……そういえば天宮くんは今は一人暮らしなの?」
「ああ。結凪と知り合ってからしばらくして……俺は親兄弟のいる実家を抜け、近くにあるアパートで一人暮らしを始めて、今そこで生活している。。一応親からの仕送りはあるし、迷惑な生活環境じゃなかったし、問題はなかった。ただ、それからも結凪はよく部屋に押し掛けてくるから、結局のところストレスの種は消えることなく芽吹いたままだ」
「あらそう」
そっと下を向いたあと、霧崎はすっと落下防止用の網に手をかける。
「なんだか幸人みたいね」
「あいつの?」
「幸人も、結凪さんと同じように周りから好かれていたわ」
霧崎はそう切りだすと、華奢な顔をくいっと上に向けた。彼女の淡い瞳にはぼんやりと雲が写っているように見えた。
「幸人は、結凪さんと同じく昔から誰にでも好かれていたの。私が小さい時から、彼の周りには人が集まっていたわ。私と話している時の幸人も、とても楽しそうだった。そうね……私が作りあげた人を無に帰す恐怖の物語や、普段のホラー映画の話だって、幸人は馬鹿にせず真剣に聞いてくれた。ほんとう、あの時は驚いてしまったわ」
「……そうだったのか」
……難波も、結凪とそんなに変わらないということか。
あいつ自身、人が好きだと言っていた。その言葉に、俺は偽りを感じない、感じなかった。
俺が嘘をつかれて育ってきた人間なら、難波は人に好かれて育ってきたんだろう。
俺があいつの気持ちに共感できないのも無理はないかもしれない。
なぜならそれは、海で育ってきた生き物と空で育ってきた生き物とを比較するようなものだからだ。
魚は鳥と分かりあえない。
喰うか食われるかの関係だ。
でも魚だって鳥の気持ちを知れば、少しは変わるのかもしれない。
俺は先日の難波の様子を鮮麗に思い浮かべた。
「今回の事件は、幸人にとっては大きな衝撃でしょうね」
「……そうだな」
「あら? 珍しい。認めるのね?」
「何がおかしい」
霧崎は珍獣を見るような目で俺を笑う。
「貴方の事だから『だから言っただろう。人なんて信じたって仕方がない』くらいのことは言うと思ったわ」
「信じたって意味がないのは否定しないがな。……あの時の難波を見てたら、分かる気がするんだ」
「どういうことかしら?」
「あいつの裏切られた時の顔は、昔の俺と殆ど同じだ。あれは本気で人を信じている表情だ。……俺は人が嫌いだし、難波のことなど分かりたくないが、分かってしまうんだ」
「ということは、貴方も人を信じた事が、それなりに『ある』ということね」
「……そういうことになる、のか」
もういつの事だかわからないが、多分俺にも人を信じていた時があったんだろう。
きっとそれは生まれて間もない頃に。
昨日の難波は、小さい頃の俺とそっくりだったのかもしれない。
「もしかしたら、俺とあいつはそう大差ないのかもしれないな」
「そうね……。付き合っているんだし」
「お前まだそれを引きずるか」
「私は信じているつもりよ?」
「自分の嘘を信じてどうするんだよ」
「貴方バカなの……? 私が嘘をいつ言ったというのよ。天宮君はしっかりと現実を見るタイプだと思っていたけれど、未だに交際を認めないなんて……下の青い小僧と変わらないわね。恐怖力を吸い取る価値もない」
俺が反抗したら、霧崎は見事に冷たい言葉で罵ってきた。さっきまでぼけーっと忘れたふりをしたりと何なの? 恐怖力を吸い取る価値もないとか言われても知りませんよ……。
「フフフ」
今度は不気味な……というよりは少しミステリアスな笑い方をする霧崎。すると目を狐のように細めてこちらを見る。
「貴方、ここ数日で変わったわね」
「数日で変われる人間などいない」
「確かにそれは最もだと思うけれど、数日で変わってしまう人も世の中にはいると思うわ。劇的な出会いとか、出来事とか。それこそ物語の主人公のようにね」
「そうか?」
「そしてエピローグを迎えた後には震えあがる程の恐怖が待っている……フッフッフッフ」
「なんでバッドエンドなんだよ!」
霧崎はいつも通りの恐怖スマイルで中二くさい嘲笑をかます。
「仲直りした女の子と、ああ……そこは幸人に言い変えたほうがいいわね」
いや言い変えなくていいから。
「仲直りした幸人と共に数日後、貴方の浮気現場を見た幸人は狂気の声を上げ、天宮君を生け捕りにして恐怖の解体ショー……フフフ、フフフフフ! 考えれば結構面白そうな展開ね……恐怖力の塊だわ」
「何そのあからさまな死亡フラグ。それどこのホラー映画の話だ。てっきり今の会話が何かの伏線とか思ってしまうだろ」
「大丈夫よ。貴方死ななそうな顔してるから。貧乏な顔立ちだし」
「どういう意味だお前……」
「それに幸人は……」
「あ?」
霧崎は空の向こうを見つめる。
雲が少しずつ晴れ、青色が見え始め、町の先まで一望できた。
「そうね。物語の登場人物で例えると、貴方が主人公で彼がライバル、といったところかしら。まぁ、逆も然りだけれど」
「ライバルって……。まぁ元々、気に食わないしな。……嫌いではないが」
「そう」
空の先を眺めていた霧崎はゆっくりとこちらへ顔を向ける。
先ほどの怖い笑みとは違う、温もりと優しさが入り混じったような空気が俺の中へ入ってくる。
しばらく俺は、霧崎の赤い瞳から目を離せなかった。
「……やっぱり貴方、見れば見るほど貧乏な顔立ちよね。死なないのはあながち間違いではないかも」
「黙れ」