85. ヨトゥン山脈
85. ヨトゥン山脈
カルサ島の開拓が一段落したので、以前から行こうと思っていたヨトゥン山脈に向け、西方諸国の拠点があるブルーレンを出発した。馬車に乗って北の街道を進み、港町のブルグを経由してさらに北東へ進む。目的の場所は山脈にあるというウードという辺境の街だ。
ウードを目指す理由は、調べた限りそこが西方諸国の中で最も寒い街だからである。西方諸国も寒冷な気候なのだが、ヨトゥン山脈一帯はその中でも北部に位置する山地で、場所によっては一年中雪が解けないという。今回はその寒さを求めての旅だ。
「アーシュ、結構登ってきたと思うが、ヨトゥン山脈とやらには入ったのか?」
馬車の手綱を取りながら、隣に座るエルフのアーシュに話しかける。彼女は楽しそうに周囲の景色を見渡していたが、質問されると姿勢を正して答えてきた。
「いえ、この辺りはまだ違うはずです。ブルグからさらに10日以上かかると聞きました。山脈に入ってからもウードに辿り着くまで、険しい山道を進まなければならないはずです」
「それじゃあ、あまりのんびりしていると夏が終わってしまうな」
砂国や南部諸島ではあまり感じないが、この世界にも季節はある。いま西方諸国は夏なのだが、これから夏が終わると寒さがひどくなり、ウードへ向かうことが難しくなってしまうそうだ。できればその前にたどり着きたいところである。
「ご主人様、夏の間に向かうのはわかりますが、そもそもヨトゥン山脈を目指す理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「ん、説明しただろ。休暇みたいなものだ。道中何か用事があるわけでもない」
「しかし、前々から行きたかったとおっしゃっていました。私はヨトゥン山脈の伝説に関する本を読んで昔から憧れていましたが、ご主人様もそうなのですか?」
憧れていたというのはアーシュらしい理由だが、俺の理由とは随分と違っている。俺がヨトゥン山脈を目指す理由は、『扉の管理者』を使って冷蔵庫のようなものが作れないかと思ったからだ。
当然ながら、この世界には冷蔵庫などという便利なものは存在しない。そのため肉や魚のような生鮮食品というものは貴重な存在であり、塩漬けや香辛料によって日持ちさせた食品が一般的だ。だからこそブルーレンで今も行っている魚取引のような商売が儲かるわけである。
しかし『扉の管理者』があれば、冷気を取り込むことで冷蔵施設が作れるかもしれない。冷蔵庫、冷凍庫は簡単に作れそうだし、工夫すれば冷蔵運搬馬車とかも作るかもしれない。他にも色々と利用する方法はあるだろう。
「そうだな。ヨトゥン山脈はとても寒い気候らしいから、俺の力を使って冷蔵施設を作れないかと思っていたんだ」
「冷蔵施設……そうですか。寒さを利用するためですか」
アーシュはすぐに納得してくれたが、同じく馬車の中で話を聞いていた猫獣族のナスタが質問してくる。
「ご主人様。なぜ寒い場所である必要があるのでしょう。保管するだけなら砂国の倉庫でもできますが」
「そりゃあ商品を長持ちさせるためだろ」
「寒いと長持ちするのですか?」
ナスタがキョトンとした様子で聞いてくる。どうやら冷蔵する意味を知らないようだ。アーシュは知っていたようだが、ナスタは暑い気候の砂国出身だからだろうか。
「水も凍るような寒い場所だと、物が腐りづらいんだ。とくに肉や魚みたいなすぐ腐るものを凍らせておくと、長い期間保管できる」
「そうなのですか。不思議な話です」
「まあ砂国みたいな暑い地域じゃあ知られていないのかもな。というかナスタは氷どころか、雪すら見たことないんじゃないのか」
「雪は以前、ブルーレンで見ました。空から白い粉が降ってくるというとても不思議な光景に感動したものです」
「去年の冬か。たしかに結構降ったな。それならノーラは見たことないわけだ」
馬車の端で会話を聞いていた狐獣族のノーラにも話をふると、慌てた口調で答えてくる。
「えっと、はい。雪というのは、空から降る冷たい粉のことですよね。白くてフワフワしているとロルが教えてくれました。でも、見たことはありません」
「ウードに着けば嫌というほど見られるだろうよ」
「はい。楽しみです」
◆
ヨトゥン山脈に入り、険しい街道を10日ほど進むと、割と大きな宿場町であるユンナという街に到着した。東に向かうと帝国へと続く道が合流している街で、温泉が有名らしく、小さな割に立派な宿が多くあった。今回は旅路を急いでいたので、奴達を連れてゆっくり温泉を楽しむのはまたの機会にし、すぐに出発した。
ユンナの街を出発してさらに数日ほど山道を登り続け、ようやくウードの街に辿り着いた。出発したブルーレンと比べると明らかに寒く、上着を着ていないとつらいほどだ。ただ一年中雪が解けない話は誇張だったようで、遠くの山には残っていたものの、街中に雪は残っていなかった。
とりあえず商人達がよく利用するという高級宿の一室を借り、今後の行動を考えることにした。アーシュ達の他に、牛獣族のサラも合流している。
「まずはナスタ、例の紹介状の相手を訪ねるから、これから商会を訪ねて先方の都合を聞いてきてくれ」
「かしこまりました」
「治安はそこまで悪くないと聞いているが、気を抜くなよ。その猫耳も隠しておくように」
「はい。お気遣いありがとうございます。気をつけて参ります」
「それとサラ。お前もついていって、何か美味そうなものがあれば買ってきてくれ。今日の夕食に加えよう」
「お任せください、ご主人様ぁ」
大きな胸を自信満々に張って頷くサラ。新しい街の料理を知るには、とりあえずサラを自由にさせてしまうのが一番手っ取り早い。これまでの旅で学習済みだ。
二人が出て行った後に残ったアーシュとノーラがテーブルの横で直立していたが、椅子に座るように促すと二人とも両隣の椅子を選んで座ってきた。
「さて。やはり予定通りにはいかないものだな」
「申し訳ございません。ここまで険しい道のりとは思っていませんでした」
「いや、山脈というくらいだからきつい道なのはわかっていた。そういう意味ではなく、俺が言っているのはこっちのことだ」
そう言って、部屋の隅に置いていた木板に目をやる。板にはブルーレンとつながる扉を開いていたのだが、先ほどから暖かい風が一方的に吹きこんでいた。扉の前に立つと目を開けるのも一苦労なほどの勢いだ。
当初の狙いでは、扉を使ってウードの冷気を砂国や南部諸島に送り込むことで冷蔵庫を作ってみようと考えていた。しかしこのように一方的に扉から風が吹き込んではそうもいかない。最初はなぜここまで強い風が一方的に吹き込んでくるのか分からなかったのだが、ウードに近づくにつれて風が強くなるのを見て、到着直前にようやく気が付いた。
「考えてみれば当たり前のことだが、実際に来てみないとわからないものだな」
「暖かい風が吹き込んでくる理由がお分かりになったのですか」
「あぁ。これは気圧のせいだ」
「気圧、ですか」
ノーラが狐耳をぱたんと倒しながら首をかしげた。聞いたことのない言葉のようなので、簡単に説明する。
「気圧っていうのは空気の重さのよる圧力のことだ。標高が高いと頭の上にある空気の量が少ないから、海の近くと比べると気圧が低い。そうするとこの二つの地点を繋げれば水が高い場所から低い場所に流れるように、空気が流れてきてしまうんだ」
俺の説明に、アーシュとノーラは二人ともわかったようなわからないような、微妙そうな表情を浮かべていた。まず空気に重さがあるという時点で、あまり実感がわかないのかもしれない。
「よくわかりませんが、とにかくその気圧という物のせいでこの暖かい風が吹き込んできているのですね」
「暖炉に火をつけなくても暖かいのはうれしいです」
興味深そうに頷くアーシュとは対照的に、ノーラはのんきな感想を言ってきた。まあ確かに暖房としては利用できるかもしれないが、砂国や南部諸島に冷蔵庫を作るのは難しそうだ。
「小さめの倉庫でも借りて冷気だけ扉で送ろうと考えていたが、どうやら無理なようだ。やはり大きめの屋敷と倉庫を買うことにしよう」
この街で保管庫を用意すれば、それは天然の冷蔵庫として機能する。商品を移動させるのが面倒だが、冷蔵庫を用意するにはそれしかないだろう。
「かしこまりました。しかしそうなると、また奴隷の手が足りなくなるかもしれませんね」
先日シュリとレンという新入り二人を仕入れたが、今回またウードに屋敷を購入するとなると再び人手不足に陥るかもしれない。この街で買えるのなら、適当に探してみるか。
「この街は一応、帝国領なんだよな」
「はい。自治権は与えられているそうですが、ガロン帝国の勢力圏です」
「となると人族以外なら奴隷販売は許されているということか」
「おそらくはそうでしょう。ご主人様、一応確認しておきますが、まだ仕入れていない種族の奴隷をお望みなのでしょうか。えっと、もちろん女性の奴隷です」
アーシュが質問の最後に一言チクリと付け足してきたが、間違いじゃない。むしろ重要な点が抜けている。
「アーシュやノーラのように美しい女性の奴隷を、だな」
「あ、ありがとうございます」
目を見開き、慌てて頭を下げるノーラだったが、アーシュの方は余裕げに笑みを浮かべるだけだった。さすがに慣れている。そのアーシュが続けてくる。
「我々の中にいない珍しい種族をお求めならば、巨人族をお探しになってはいかがでしょうか」
「巨人族?」
「はい。ヨトゥン山脈に住む伝説の種族です」
アーシュが言うに、巨人族とはヨトゥン山脈の奥深くに住むという亜人種であり、帝国でも滅多に売りに出されない希少な種族らしい。
「物語本には出てくる種族なのですが、実際に見たことはありません」
「よくわからないが、本当に実在する種族なのか? 少なくともここに来るまでには見かけなかったと思うが」
「巨人族の伝承は各地に存在しますので、間違いないと思います。あまり良い話はありませんので、奴隷として従えるとなると問題は多そうですが」
巨人族というのは、無知で乱暴な下等種族として西方諸国の人々に伝わっているそうだ。巨人族というくらいだから巨大な身体で戦闘や労働には使えそうだが、雑務が多い俺の奴隷にはあまり向かないかもしれないな。
「まあ、明日会う商人にも聞いてもみるか。とりあえず今日のところはゆっくりしよう。動くのは明日からだ」
「かしこまりました」