62. 準備
62 準備
やってきたのは昨夜と同じ入り江だった。そこで暑さに耐えながら海を眺めていると、ざざっと波音を響かせ、テナが海の中から現れた。その傍らにはロルも一緒だ。プルプルと海水を振り払い、楽しそうに声を上げる。
「ぷはー! ご主人様、少しなら歩けたよ!」
「少しというと、どれくらいだ」
「えっと。10歩くらいかな」
「10歩、か」
今回の作戦では、海底に扉の管理者の印をつける必要がある。それも以前に砂国の湖で設置したような浅瀬ではなく、入り江内全体の海底に広く設置しなければならない。その為にテナの魔法を使って海底を移動できるかどうか、ロルを実験台に試していた。
「思った以上に難しいですね」
テナが大きく息をつきながらつぶやく。人魚族である彼女だけならば海底を移動できるが、普通の人間はそうはいかない。そこで魔法により空気の塊を維持して海底を移動できないかと試しにやってもらったが、いまいちうまくいかないようだ。
「空気の塊を維持するのは難しいか」
「はい。ちょっと今すぐにはできないかもしれません」
おそらくテナが苦戦しているのは、テナの魔法が空気ではなく水を操作するからだろう。空気の塊を海水で包み込むようなイメージで操作する必要があるらしく、繊細な感覚が求められるようだ。
またテナが言うに、魔法とはかなり大雑把な感覚で使用するらしい。例えるならば手で物をつかむ事は誰でもできるが、掌全体ではなく小指だけ動かせと言われると難しい、それと同じようなものだと説明された。
「魔法というやつは意外と融通が利かないんだな。もっと自由自在なのかと思っていた」
「大雑把な操作なら問題ないのですが、今回のように細かく動かすことは、水を創り出すより難しいかもしれません」
え? 水を創り出すことができるなら、リヴァイアサンを入り江に閉じ込める今回の作戦が破たんするような。
「水って創り出せるのか?」
「はい。あまり多くは無理ですが。せいぜい私自身をすっぽり包むくらいでしょうか」
「リヴァイアサンはどうだろう」
「海水を操作することに比べて、水を創り出すという現象ははるかに難しいです。いくらリヴァイアサンといえども、この入り江を一杯にするような大量の水は作り出せないと思いますよ」
保証はないということか。まあ、やられたらお手上げだな。
「それに水を創り出しながら操作することは、少なくとも私にはできません。私の攻撃を捌きながらでは、さらに難しいでしょう」
リヴァイアサンにどの程度のことが実現可能なのか、実際には全くわからない。テナはぶっつけ本番で戦うしかないだろう。まあ大変なのはテナであって俺ではないが。
「ご主人様。また海中散歩の実験をなさるのでしたら、次は私がやってみたいのですが」
エルフのアーシュが瞳をキラキラさせながら言ってきた。どうも水の中を歩けるという響きに胸を躍らせているらしい。たしかにこいつの好きそうな話だが、あまり遊んでいる時間はないんだよな。
「いや、別の方法を試そう。テナ、船を用意できるか?」
「小舟でよければ」
「あぁ。よろしく頼む」
◆
次に試したのは、単純に船の上から海に飛び込み素潜りで海底を目指す方法だ。海はきれいなので普通に海底が見える。海上から当たりをつけた上でテナに手伝ってもらえば、狙った場所に潜ることも難しくないだろう。
「それでは、つかまっていてくださいね」
「あぁ」
何度か失敗した後、身体には重りをつけていたほうが潜りやすいことがわかった。どうせ水中ではテナにしがみ付いていればよく、合図をすれば多少の重りなどものともせずに急速浮上してくれる。一人では無理だったろうが、人魚族のテナがいれば数十mの素潜りも楽々だった。
まあ見た目には少女にしがみ付いているだけなので、かなり情けないが。
『ここでいいですか?』
潜ってしばらくすると、テナが声を掛けてきた。人魚族は海中でも会話できる。頭にひびく不思議な声だったが、とにかく目を開けて場所を確認し、海底に印を設置すると、すぐにテナの肩を叩いて合図して浮上した。
「ぷはぁ……はぁはぁ」
「リョウ様。休憩しますか」
「大丈夫、と言いたいところだが、そうしようか」
海中で目を開くことも含めて潜水には慣れてきたものの、何度も繰り返すのはさすがに厳しい。生贄祭の日までにかなりの数の印を設置しないといけないので大変だ。
いま潜っている場所は入り江の入り口あたり。狭くなっているとはいえ幅50mはある。まずはこの場所に多くの扉を開き、海水が流れ込んでくるのを防ぐ必要がある。とりあえず、最大の大きさの扉を6か所ほどは開く予定だ。
要らない経路を解除したり最大数を増やしたりしたので、扉はあと20か所ほど設置できる。ポイントは最近使用していなかったので30万近く溜まっている。最大(消費20000)と大(消費2500)を組み合わせて設置すれば、排水するのに十分な面積を開けるだろう。また開くためにある程度平らな場所は選んであるが、障害物をどける必要はあるので、後でテナにやってもらう予定だ。
「人族というのは不便な体をしていますね。これだけで参ってしまうなんて」
船の上で休憩中、テナが海から顔を出しながら話しかけてきた。
「素潜りはほとんど経験が無いからな。あいつらみたいに遊びで泳ぐだけならいいんだが」
そういって、船のそばで泳いでいるロルとアーシェを指さす。船の上に残っているノーラと一緒に、ずいぶんと楽しそうに遊んでいた。
「ふふ、楽しそう」
「仕事はいつもあいつらにやらせているんだが、こればっかりはな」
「そうですね。しかし疑うようですが、やはり何かをしているようには見えません。本当に大穴を開けられるのですか?」
「やって見せてもいいが、あまり大きなものを開くことは控えておきたい。本番に差し支える」
「やはり、大穴を開く為に魔力を大量に消費するのですか」
魔力というより、ポイントなのだが。
「どうだろうな。魔力というものが何を指しているのか知らないが、少なくとも大きな扉を開くほうが大変なのは確かだ」
「魔法杖も無しに行うのですよね。変わっています」
「逆に聞きたいのだが、魔法杖というものはなんなんだ? それがなければ、テナは魔法が使えないようだが」
テナが身に着けていたワンドを手に取り、掲げて見せる。美しい赤サンゴを加工して作ったそれには、先端に真っ青な魔核が取り付けられていた。
「魔法杖はサンゴの杖にソルタートルの魔核を組み込んだものだと聞いています。これを持つと、才あるものは魔法を使えるようになります」
「さっき言っていた魔力を持っていることが、魔法の才があるってことなのか」
「どうなのでしょう。魔法を使っているとだんだんと疲れることがあります。これは魔力を消費するからだといわれています。大規模な魔法を使うほど魔力を消費しやすいと教わりましたが、少なくとも私の場合、海のそばで使用する限り疲れたことはありません」
「というと、海から魔力を得ているということか?」
「わかりません。しかし陸地ではすぐに疲れてしまいますので、そうかもしれないですね。リョウ様は魔法を使うとき、身体がだるくなったりしないのですか?」
だるくなることはないが、ポイントを消費するので制限はある。ただ、馬鹿正直に話してもな。
「秘密にさせてくれ」
「秘密ですか……そういえばリョウ様は商人でしたね、っと」
テナは休憩が長引くと思ったのだろう。海から上がって、船のへりに座りなおした。彼女は今、泳ぐのに邪魔な服は脱いでいる。と言っても全裸なわけではなく、胸を隠すサラシと短パンを身につけていた。スレンダーな体形なのでとても似合っている。
「商人なのは確かだが?」
「商人という連中は肝心なことを教えない……と父がよく言っていました」
ニコッと笑みを浮かべながら言われた。申し訳ないが全く笑えない。こちらは真顔である。
「残念ながら、商人に対してはあまりいい話を聞きません。特にクー国の商人は全く信用できないと、兄様がいつも言っています」
「そうか」
「でもリョウ様はクー国の商人ではないのでしょう? たしか西の彼方から来られたとか」
「西の大砂漠を越えた先の砂国の、さらに北の西方諸国からだな」
「ぜひゆっくりお話を聞かせていただきたいですね。私を含めて、多くの人魚族は沿岸部までしか行けませんので」
「まあ、またいつかな」
旅の話をして欲しいと言われたが、正直面倒臭い。暇な時ならまだしも、先ほどから珍しく重労働をしているのだ。もう少し休ませてくれ。
テナは少しがっかりとした表情を見せたが、俺の意図を汲み取ってくれたのか、大人しくロルたちのほうに視線を向けた。俺は目を閉じ、身体を横にする。
「魔法の才があると聞いたときは、愕然としました」
少しうとうとしていたら、突然テナがそんなことを呟いた。目を開けると、テナは悲しげな表情で海を見つめていた。
「私はこの綺麗な海が大好きでした。だけど私はもうすぐ生贄に捧げられて死ぬんだって思うと、あれほど好きだった島の風景も、みんなの声も、潮の流れも、花の香りも、海の肌触りも、すべてが私を拒否しているように感じたの」
水の滴る黒髪をかき上げ、テナはゆっくりと息継ぎをする。
「それからずっと考えた。なんで私なんだろうって。考えているうちにどんどん死にたくない気持ちが強くなって……テルテナ島の為に生贄になることを拒否している自分が、とても嫌だったわ。本当に」
いつの間にか敬語を使うことも忘れ、今にも泣き出しそうな表情でテナは続ける。
「それなのにいま、私はこの時間を楽しく感じている。もしもあなたが手を貸していることがリヴァイアサンにばれたら、島のみんなを危険にさらすのに……ね」
どうやら精神的に結構追い詰められていたようだ。昨夜話した時にはそんな風には見えなかったが……強がっていただけか。
他人の為に死ぬなんて、そりゃ嫌だ。俺なら速攻で島から逃げ出す。自己嫌悪して苦しむなんて律儀な奴だ。
「リヴァイアサンを倒せば何の問題もないんだろう?」
そう言うと、テナは少し驚いた表情でこちらに顔を向けた。
「えっと、まあ、そうね」
「それなら倒せばいいだけだ。俺も力になる」
「……うん」
小さくうなずくと、テナはぶんぶんと顔を振り、よしっと気合いを入れていて立ち上がった。
「それじゃあ、そろそろ続きにいきましょう」
覚悟を決めたのか、まぶしいほどに明るい笑顔だ。その表情からは先ほどの弱気はひとかけらも感じなかった。