41. 蟻
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悲鳴が聞こえた――ロルは確かにそう言った。いつもはくりくりとした可愛らしい瞳が、今は鋭く見開かれて広場の方向に向けられていた。
「悲鳴? 人のか?」
「はい。広場の方で何かあったみたい。どうしよう」
どうしよう、か。何があったかは知らないが、悲鳴というなら普通じゃない。今すぐ離れた方がいいだろう。扉を使って逃げてもいいが、さすがに人目が多すぎる。とりあえず走るか。
「とりあえず屋敷まで戻ろう。情報収集するのはその後だ」
「わかりました。こっちです」
ロルが俺の手を取って走り出す。ロルの全力疾走に引っ張られ、人々の合間をひいひい言いながら駆け抜けていると、悲鳴の原因が明らかになった。
突然、道の一角が盛り上がったのだ。
「なっ!」
「ご主人様、下がって!」
ロルが俺をかばうように前に出る。同時に盛り上がった地面から、巨大な蟻が勢いよく飛び出してきた。
「ぎゃああぁ!」
蟻は地面の傍にいた猫獣族の男に襲いかかり、ガシガシと顎を動かして肉を抉り始めた。何が起きたかも理解できていない男が、突然の痛みに叫び声を上げる。その光景を見て、周囲の人々からも悲鳴が上がった。
その後も地面に開いた穴からわらわらと蟻型の魔物が出現してきた。あっというまに恐慌状態となった人々が逃げまどう中、突然の状況に驚いて固まる俺の手をロルが力強く引っ張った。
「ご主人様! 逃げましょう!」
「あ……あぁ」
急かされて走り出す。ロルは持ち歩いていた小刀を手に、周囲の人に襲いかかる蟻どもを避けながら屋敷へと導いてくれた。
走りながら、先程の魔物について考察する。あれは前に見たことがあるラージアントのように見えた。しかしラージアントはゲルルグ原野の魔物のはず。こんなところに出現するわけがないと思うが。
「今のはラージアントか?」
「ううん。似ているけど、すこし色が違うように見えたよ」
ロルが否定してきた。ラージアントではないのか。しかしそうじゃないにしても簡単に街の人を食い殺していたところを見るに同じくらいの強さ、つまりランク3程度の強さはあるのではないか。しかも一匹や二匹ではない。大量に現れたのだ。これは尋常ではないぞ。
「ご主人様。急いで!」
「あぁ」
とにかく一度屋敷に戻ろう。もし屋敷に穴を作られては大変なことになる。
◆
屋敷に辿り着くと、幸いにも何事もなかったようで、いつも通り平穏な雰囲気だった。まだこの辺りには出現していないらしい。
「あ……ご主人様」
倉庫の前にいたドワーフのアンが、俺に気が付いて姿勢を正した。それに気付いたのか、倉庫からリースも出てきて頭を下げてくる。
「お帰りなさいませ、ご主人様。今日受け取った綿織物が先程届いたので、ブルーレンの倉庫に運びこんでおきました」
「ご苦労。それより、大変なことが起きた」
「……なんでしょう」
慌てた調子で言ってしまったのだろう。俺の言葉に反応して、リースの瞳が怪しく光った。恥ずかしながら、余り向けられないその表情に少しぞっとしてしまう。
しかしロルがお構いなしに説明する。
「姉さま。蟻に似た魔物が街中に現れたの。街の人が襲われてる」
「蟻といいますと、ゲルルグ原野のラージアントですか?」
「わからない。色が少し違うように見えたけど」
「そうですか。ご主人様、すぐに倉庫へ。アン、皆を倉庫に集めてください」
「……は、はい」
リースの指示を受けて走り去るアン。それを見送るなり、リースは俺の手を取って倉庫に連れ込んだ。倉庫ならば扉を使っていつでもブルーレンに逃げられるから、ここに皆を集めようと言うのだろう。さすがリース、わかっている。
やがて集まった奴隷たちに先程見た光景を説明すると、猫獣族のナスタが青い顔で言ってきた。
「それは……サンドアントです」
「サンドアント?」
「はい。数十年に一度大発生して。周囲の動植物を食い荒らす凶悪な魔物です。この魔物のせいで滅びた街がいくつもあるので、砂国では大変恐れられているのです」
ナスタが言うに、この辺りではサンドアントという魔物が時たま大発生するようだが、それが運悪く街中に出現すると大惨事になってしまうそうだ。
「このラーシャーンの街が襲われたことは無いのか?」
「いえ、数百年前に大発生したといわれています」
大発生したのにこうして街が繁栄しているということは、その時は撃退したのだろうか。そう聞くと、ナスタはこくりと頷いた。
「はい。その時は伝説の勇者サヴァン様が巣の内部に一人で乗り込み、サンドアントたちを産み出すクイーンアントを討伐して街を救ったといわれています」
そう言えば、王宮の前にそんな銅像があった気がする。あれはサンドアントを討伐した男のものだったのか。もうちょっと真面目に見ておけば良かった。しかし巣の内部に単身乗り込むとかすごい奴だな。
「今のこの街にそんなことができる奴がいるのか?」
「おそらく王宮兵が対応して、地上のサンドアントはある程度撃退されるでしょう。しかしクイーンアントまで撃退できる者がいるかどうか……」
地上のサンドアントを撃退しても、今日見た感じだと新たに穴を作られて際限なく出現してきてしまいそうだ。クイーンアントを討てば出現は止まるそうだが、それが出来なければこの街は数日で廃墟になってしまうぞ。
「ご主人様。いかがなされますか。ブルーレンに避難されるのでしたら、急いで本館の荷物も運びだしますが」
リースが提案してくる。たしかにここは逃げた方が安全だろう。速やかに撤収すれば、少なくともやられることはない。
しかし逃げた後、もし仮にラーシャーンが壊滅してしまえば、俺が仕込んでいたこの国の儲け話が全部おじゃんだ。それはちょっとやってられないぞ。
「サンドアントを撃退することは可能か? ロル、アーシュ」
「もちろん!」
即答するロルに対し、アーシュは少しだけ考えてから答えてくる。
「私とロルちゃんなら、一匹ずつならば倒すことは可能でしょう。ですが大群に囲まれると危険です」
そうなるとやはり屋敷から出るのは危険か。今なら何とかする方法があるにはあるが、急がないと手遅れになってしまう。
危険を冒して街に出るか、安全を期して撤収するか……どうするべきか。
「ご主人様。もしも街に出られることを考えているのでしたら、夜を待った方がいいと思います」
アーシュが進言してきた。いまは確かに夕方だから、しばらく待っていれば日は暮れると思うが。
「夜というのはどういう意味だ?」
「ゲルルグ原野のラージアントには、夜に動きが鈍くなるという性質があるとフィズさんから習いました。実際に原野を移動している間、夜に襲われることは無かったと思います」
そう言われれば、たしかにラージアントに襲われるのは移動中の昼間ばかりだった。護衛については冒険者たちに任せていたから深く考えていなかったが、ちゃんと理由があったんだな。
「そうなると、サンドアントも夜になると大人しくなるということか」
「わかりませんが、待ってみる価値はあるかと思います。少なくとも今すぐ動くのはあまりにも危険だと思われます」
それならアーシュの言う通り夜まで待ってみるか。それまでは本館の貴重品を避難することにしよう。
「わかった。それじゃあ本館と倉庫に扉を繋げるから、皆で手分けをして屋敷の荷物を運び出そう。ロルとアーシュは今すぐ武装して、周囲を警戒しておいてくれ」
「はい!」
「わかりました」