39. 忠誠心
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ラーシャーンの屋敷の一室。仕事場として使っている部屋の机に、先程バフトットと締結してきた契約書をひろげていた。目の前には呼び出した犬獣族のリースと猫獣族のナスタが、それぞれ少し緊張した面持ちで立っていた。
「リースはあの場で話を聞いていたからわかるだろうが、今後一ヶ月で綿織物を木箱で100箱ほど用意することになった。これからネフェルにこの話を持っていくつもりだが、その際に二人もついてきてくれ」
「かしこまりました」
「は、はい」
リースはすでに何度か商談に同席させているので自信はありそうな雰囲気だが、ナスタの方はいきなりの命令に戸惑っているようだ。商人の娘とはいえ、取引にまで同席したことはあまりないのだろう。
「今回の取引は長丁場になる。契約の大枠は俺が取り付けるが、実際の商品受け渡しについてはリース、お前に一任する」
「一任……ですか」
リースは少し意外そうに口を開いたが、しかしすぐに表情を引き締めた。
「ご命令とあらば、命を懸けて完遂いたします」
「あぁ、しっかりな」
リースにはこれからしばらくは大きな仕事を任せて、もっと経験を積んでもらうつもりだ。最終的には俺の代わりに動いてくれると助かるんだがな。
「ナスタはリースのことをしっかり手伝ってやってくれ」
「はい。頑張ります」
ナスタはこくりと頷いた。赤茶色の猫耳が小さく震えている。いきなり奴隷のやる範囲を超えた仕事に緊張しているのだろう。こいつには将来的に実際の取引を任せていきたいので、今回は新人研修みたいなものだな。
「それじゃあ明日にでもネフェルに会いに行こう。ナスタ、後で使いに行っておいてくれ」
「わかりました」
「それとリース、その席では奴隷の首輪は外しておけよ」
この国で首輪をつけて歩いているような奴はいない。西方諸国ならば外すと問題だろうが、この国の商人と対面する際には不要だろう。それと今着させている奴隷用の粗末なワンピースでは格好がつかないので、交渉用のドレスや装飾品も買う必要があるな。
「……」
そんなことを考えていたら、目の前でリースが石のように固まっていることに気が付いた。あれっと思ったら、みるみると瞳に涙を溜めていく。
「お、おい。どうした?」
「ご主人様……私になにか、気にいらないことがございましたでしょうか」
「いや、そんなことはないぞ。リースはよくやってくれている」
「それならば、どうして首輪を外すようにご命令なさるのでしょう」
どうやら首輪を外せと言われたことが気に入らないようだ。
「商談の際にそんなぼろぼろの首輪をつけていたら恰好がつかないだろうが」
「そんなことはございません! この首輪は私がご主人様から初めていただいた……私がご主人様の所有物であることを証明する命よりも大切な品であります。どうか、どうかご容赦ください」
驚くほど強い口調に思わず声が詰まってしまう。いつもはほとんど声を荒らげることの無いリースの取り乱した姿に、隣のナスタも軽く引いている。
「……わかった。それじゃあこうしよう。これからロルも連れて、前に約束したタトゥーを彫りに行こう」
「タトゥーでございますか?」
「あぁ。それならこの国での奴隷の証明になるから、首輪をはずしても俺の奴隷であることは証明できるだろう? 砂国で交渉に臨むときはタトゥーだけで、それ以外の時は首輪をつけておけばいい」
提案を聞いたリースは嬉しそうに尻尾を振った。
「はい。それならば」
「それじゃあすぐに出るからロルを呼んで来い。ナスタはネフェルのところに使いに行っておいてくれ」
「わ、わかりました」
ナスタがそそくさと退出する。別にリースほどの忠誠心は求めていないので安心しろ。
「ありがとうございます。ご主人様」
リースの笑顔は純粋すぎてとても眩しかった。
◆
翌日。昼過ぎにネフェル商店を訪れ、綿織物の買い付けの話をすることにした。御付きにはリースとナスタ、それに護衛としてロルの三人を連れてきている。
「ネフェルさん。お久しぶりです」
「これはリョウ殿。ようこそお越しくださいました。砂漠での生活には慣れましたか」
「勿論です。ネフェルさんが素晴らしい屋敷を紹介してくれたおかげです。最近の悩みは屋敷が快適すぎて外に出たくないことですな」
「ははは! 気に入っていただけてうれしいです」
応接間に案内されるとすぐに、ネフェルは用件を聞いてきた。
「して、今日はどのような御用ですか?」
「はい。以前卸していただいた綿織物について、あれから検討したのですが、もっと大量に北へ持って帰ることにしました。つきましては商人仲間が来る予定の来月までに100箱ほど仕入れたいのですが、いかがでしょうか」
適当に嘘をまぜつつ綿織物を100箱ほど仕入れたいことを告げると、ネフェルはあっさりと即答してきた。
「かしこまりました。100箱ですね。用意いたしましょう」
「結構な量かと思いますが、大丈夫なのでしょうか」
「勿論です。我がヒエル商会では周辺の村々から多くの綿織物を仕入れております。来月までならば確実にご用意いたしましょう」
なるほど。そうなると前に綿織物を進めてきたのは、自分の所の得意商品を紹介しただけだったのか。なかなかやり手だな。
「それでは仕入れたものから買い入れていきたいので、頻繁に連絡をいただければと思います」
「承知しました。今日にでもいくつかは算段できますので、早速納品いたしましょう」
やはり砂国では相当な量の綿織物が流通しているようだ。人々の多くが普段着る衣服として綿製品を選んでいるようだし、実際に身近な物なのだろう。
今日のところはすぐに用意できるという木箱5箱分だけ取引することになった。ちなみに値段はホル・アハ宝貨3枚だった。取引に続いて、今後の取引を任せるリースを紹介する。
「今後の取引については、私の代理としてこちらのリースにやってもらおうと思います。取引価格についても一任します」
「よろしくお願いいたします」
リースが頭を下げる。艶やかな赤色で染色されたワンピースを着、首には首輪ではなく貝殻でつくられたネックレスが掛けられている。両方とも昨日タトゥーを彫りに行ったついでに買い与えたものだ。丁寧に礼をするリースの姿はなかなか堂々として頼もしかった。
「今回の綿織物の取引についてなにかありましたら、彼女と協議していただければと思います」
「わかりました。よろしくお願いいたします」
ネフェルが立ち上がりリースに握手を求めた。とりあえずしばらくの間、この取引はリースとナスタに任せることにしよう。