第四話 戦艦瑞竜
エルムが目をさました時、窓から見える外の景色はすっかり明るくなっていた。
「……寝ちゃったのか」
あの日、艦橋から走り去ったエルムは、目的もなく艦内を走り回った末、休憩のつもりである兵員室に入り、そこで気が付かないうちに眠ってしまった。海を漂流した身で艦内を何時間も歩き回り、疲労していたことを考えれば当然の結果だった。
そうして意識を回復したエルムは、自分の体に覚えのない毛布がかけられていること、近くの机においしそうな食事が用意されていることに気が付く。
「……陸奥さん」
名前を呟くと同時、思い出される昨日の出来事。
「どうしてあんなこと言っちゃったんだろう?」
陸奥さんががどう思い、どうしようと彼女の勝手ではないか。それに自分は彼女の過去を知らない。そんな自分にあんなことを言う資格はない。今冷静に考えればそう思う。
だが彼女の言葉を聞いた瞬間脳裏をよぎった、火だるまになって沈むミーネの姿に、気が付いた時には言葉を吐き出してしまっていた。
「……謝ろ。でもそのまえに食べよ」
昨日から何も食べておらず、空腹に耐えかねたエルムは、陸奥の好意に甘えるのだった。
「ついたよ……エルム」
艦橋についたエルムに陸奥が告げる。艦橋の窓からはエルムも見覚えのある陸地が望まれた。
「レベイル島」
それはエルム自身が望んだ行先、旅の終着点だった。
「内火艇を下すから、ここからはそれに乗って陸地まで行って。
短い間だったけど、初めて人間と話す事が出来てたのしかった。武運長久を願ってる」
陸奥はそうとだけ告げるとエルムに背を向ける。その言動は一見すると冷たいもののようだが、その実どこかさみしそうにも感じられた。
「陸奥さんはどうするの? 燃料も食料もいつか尽きるのに」
対するエルムは悲しげに問いかける。
「……先の事は分からない。気の向くままに海を走って、いつか燃料も食料も尽きたら、後は流れるまま、流されるまま。その内水底に、いるべき場所に帰る。それだけ」
陸奥はそう淡々と告げる。きっとそうすることを意識しているのだろうが、言葉からにじみ出るさみしさがなくなることは無かった。
そんな陸奥の背中を、エルムは動くことなく黙って見つめる。そのまましばらくの沈黙が流れる。
「行かないの?」
早くいきなさいと言わないばかりのその言葉に、エルムは動じない。
「まだ言ってない事があるから」
「じゃあ早く言って」
何を言われようと結果は変わらない。そんな頑なな彼女に、エルムはそれでも口を開いた。
だがその瞬間、艦の外から届く何者かの声に、エルムは言葉を遮られる。
「そこの美しい御嬢さん」
それは若い男の声だった。その言葉に、陸奥は声のした方、水平線の彼方に視線を向ける。
「あなたは私の同類? だったらここに来る事だって出来るでしょ? 姿を見せないなら、話すことはない」
陸奥は声の主に対しそう言葉を投げる。その声はエルムに対してのものと違い、どこか冷たいもののように思われた。
すると次の一瞬、陸奥の前に突然、一人の若い男が現れる。
男の年齢はエルムと同程度。黄色い肌に黒い髪、緑の目と、森羅人らしい特色を持つ。背は高く、陸奥より少し高い。全身に海軍の白い軍服を身に着けた姿は極めて凛々しく、顔立ちも彫が深く整い、エルムよりは間違いなく優れた容姿をしていた。
「先ほどは姿を見せず失礼した。私は森羅海軍が誇る戦艦、瑞竜。以後お見知りおきを」
言葉の柔らかさといい、一つ一つの動作と言い、いかにも貴公子といった感じだとエルムは思う。
そんなエルムに陸奥は違和感なく数歩近づくと耳元で小声で、
「この世界の人間は船を擬人化して表現するとき、男性に例えるの?」
そう問いかける。エルムはその一瞬では質問の意図が分からなかったが、
「えっと、うん。大体は男かな。名前も大抵は。でも絶対じゃないし、ミーネは女性名だった」
そう小声で答えて、それと同時に気づく。この瑞竜が陸奥と似たような存在だと仮定するなら、そして陸奥の口ぶりから察するなら、船は人が女性と表現するか、男性と表現するかで性別が決まるのではと。船は元々人間が作るものなのだから、その人間が船をどう思っているかが影響するのだとしても不思議ではない。
そう思っている内にも、恐らく人間でない二人は話を進める。
「私は陸奥。それでいったい私に何の用なの?」
「いえ、霧の中に不思議な気配を感じたので確かめに来てみましたところ、中に今まで見たことの無いような美しい艦影を見かけましたので。しかも男ばかりの船の世界では珍しい女性となれば、これは声をおかけしないわけにはいかないと思いまして。
しかしあなたは一体どこの国の方なのです? 見たところメームの方ではないようですし、我々森羅の艦でもないよう。それにその魅力的な黒い瞳の色を持つ艦も人も、私はみた事がありません。見たところ随伴艦の一隻もないようですし、失礼でなければ、どのような身の上かお聞かせ願えませんか?」
瑞竜の物腰は柔らかだ。そのためか陸奥も先ほどよりは言葉を柔らかくする。が、言葉の端々から見え隠れするそっけなさが消えることはない。
「……あなたの知らない国の船よ。でも今はどこの国の船でもない。ただあてもなくさまよい、燃料と食糧が尽きれば消える。それだけの存在。瑞竜さん。あなたは人間の言う幽霊というものを信じる? 私がそれに近い存在だといったら、あなたはどうする?」
陸奥の言葉は、彼女と似たような存在なのだろう瑞竜からしても理解を越えたものだったらしい。瑞竜はしばらく困惑した顔で考える。が、やがて笑顔を取り繕うと、
「えっと、幽霊だとか何とかはよく分かりかねますが、もし行く当てがないというのでしたら、ぜひ我が森羅海軍にいらしてください。我々艦艇は歓迎しますし、人間がどう反応するかは分かりませんが、きっと悪いようにはしないはずです。
今我々は世界を相手に戦争をし、各地で勝利を続けています。見たところ、あなたは相当の実力の戦艦のようです。もしここであなたが我々の仲間になってくれるなら、戦争の終結はさらに早まるでしょう。そうして出来るだけ早く戦争を終わらせることで、犠牲も少なくすることができます。結局我々軍艦にとっても、人間にとっても、犠牲は少ないのが一番です」
瑞竜はそういかにも優等生らしく告げる。それを聞いた陸奥は、表情を変えないまま、
「犠牲は少なく……ね」
そう含みを持たせて言う。だがそこに含まれた意味を瑞竜は察することが出来なかったのか、先ほどまでと変わらぬ口調と表情のまま話を続ける。
「はい。我々は兵器ですし、戦うことに喜びを見出すものもいます。実際私の同僚にはそういうものも多い。ですが私はやはり平和が一番だと思うのです。しかし残念ながらそう思っているものは人間にも、我々軍艦にも少ない。皆、正義だとか悪だとか、肌色だとか、そういったもので動いています。中にはただ戦うことや、相手を殺すのが楽しいからという戦闘狂や、それが兵器の役目だからなどと思考停止する者さえいます。敵も、味方も。
先日、このレベイル沖で夜戦をした際、私は一隻の重巡を沈めました。彼女は、あなたと同じ女性だったのですが、最後まで戦い、我々を傷つけて沈んでいきました。きっと彼女は、彼女なりの理由があって最後まで戦い、沈んでいったのだと思います。ですがそもそも戦争の勝敗は国の総合力で決まります。国力が森羅の十分の一以下のメームが戦いを挑んでも勝敗は明らか。同盟を結んでいる他国もすでに我が森羅に蹴散らされ敗色濃厚。それが分かっていてなおわずかな希望にすがり、彼女のように抵抗することは、いたずらに戦争を長引かせ、犠牲を拡大させる結果しか生みません」
「レベイル沖で夜戦」
瑞竜の言葉に呟くエルム。陸奥はそんな彼に一度鋭く視線を送ると、視線を瑞竜に戻したうえで、
「その重巡の名は?」
確証を掴むため、わざわざ尋ねる。
「ミーネという重巡です」
対する瑞竜は答えた後で、なぜわざわざ艦名を尋ねるのだろうかと不思議そうな表情を浮かべた。
目の前にいる男が、ミーネの敵。
その事実にエルムはその場から動かないまま、なんとも形容しがたい複雑な、決して愉快そうにはみえない険しい表情を浮かべる。
陸奥も状況を理解し、頬に汗を一筋流しながら、心配そうにエルムを見つめる。
エルムは動かない。心のなかで様々な感情が交錯しているのだろうが、彼はそれを押し込めて表には出さない。
一方の瑞竜はそんな様子に気づかなかったのか、人間のエルムに興味がないのか、彼の存在を無視するかのように話を続ける。
「軍艦の彼女が必死に戦ったのは当然のことかもしれません。しかし戦って敵を討ち滅ぼす事でしか守れないなどという野蛮な考えに凝り固まり、僅かな希望にすがってあがき、いたずらな流血を招いた上で沈んでいく。そんな意味のない事をこれ以上させてはいけません。
そしてそれを止めるためには、敵を完膚なきまでに打ち破るだけでなく、圧倒的戦力差を見せつけ、僅かな希望を確実に摘み取り、戦意を完全に喪失させる必要があります。私はそれを実現させるために森羅が建造した世界最大、最強の戦艦。その実力を知れば、メームは戦意を大きく損じるのは間違いありません。もしそこにあなたが加わってくださるなら、きっとメームも目をさまし、矛を収めることが最善の道であることを悟ることができるでしょう」
そう瑞竜は余裕たっぷりの優雅な笑みと共に告げると、ゆっくり陸奥に歩み寄り、その目の前でひざを折って手を差し伸べる。まるで舞踏会のダンスに女性を誘うように。
「共に来ていただけますね?」
その挙動に無駄はなく、いかにも紳士的で気品にあふれている。これに彼の甘いマスクが加わるのだから、並みの女性なら断ることはしないだろうし、とても出来ないだろう。
それに陸奥はわずかに笑みを浮かべる。
「即答はしかねます。しばらくお時間をいただけますか? その間、あなたもするべきことがあるでしょう」
そう答える陸奥の態度もまた堂々としたもので、いかにも瑞竜と同等かそれ以上の貴族の姫君、といった様相だ。
その答えに瑞竜もまた恭しい笑みを浮かべると、
「分かりました。一度船に戻りあなたの返事を待つとしましょう。よい返事を待っております」
そう告げ、余裕の表情と共にあっさり引き下がって消えていった。
瑞竜が消えると同時、沈黙が辺りを包む。
「……殴らないのね。彼も、私も」
陸奥はエルムを見つめ、静かに問いかける。
エルムは全身を震わせ、拳を握りしめ、それでも最後まで動くことは無かった。ただ黙って睨んでいた。だが握った拳から流れ落ちる赤い雫は、間違いなく本物だった。
「陸奥……お願いがあるんだ」
震える声でエルムは言う。
「何?」
対する陸奥はただ静かに、落ち着いた表情で彼の瞳を見つめる。
そんな彼女にエルムが向けた瞳は涙で潤んでいたが、中では感情が炎のように激しく燃え盛っているようだった。あの日ミーネを包んだ地獄の業火のように。
「僕に力を貸して。 あいつを、瑞竜を倒して」
力がないから他人を頼る。それも命にかかわることを、大の男が女性に対し、涙を流して。
そんなエルムの姿を見、陸奥はゆっくり瞳を閉じる。
考えたのはわずかに一呼吸ほどの間だった。
そして陸奥は瞳を開き、エルムを見つめて告げる。