第一話 むつ
「……僕は……ここは?」
青年は目を覚ますと、うめくようにそう漏らしながら起き上がり、辺りの様子を見回す。
「軍艦の……艦橋?」
青年は自分が乗っていた軍艦の艦橋内部とよく似たそのつくりから、自分が軍艦の艦橋にいるのだと察する。一方で、
「でもミーネのとは違う……広すぎる」
そう疲れと驚きをはらんだ声で呟く。そして同時に、自分が乗っていた重巡洋艦ミーネの事を思い出し、意識を失うまでの記憶をたどり始める。
「沈んだんだ」
あの日、青年は水兵として重巡洋艦ミーネに乗り込み、決戦に臨んだ。そしてミーネは撃沈された。青年は間一髪で脱出に成功したが、その直後嵐に襲われた。脱出した他の仲間が波にのまれる中、青年は脱出の際手につかんでいた浮き輪に必死にしがみついていた。そうしていつのまにか気を失っていた。そして気が付いた時、自分はこの軍艦の艦橋に横になっていた。
「……どういうこと……なんだ?」
青年はこの時になって、艦橋に自分以外の誰もいない事に違和感を覚える。軍艦の艦橋に乗員が全くいなくなることはほとんどなく、そんなところに青年一人を放置しておくなどさらに考えられない。意識を失う前の状況からして、誰かに救助されたのちここに運ばれたのだろうが、わざわざそんなことをする意味が分からない。
だが一方で青年がいるそこは、海を走る船独特の揺れ方をしていたし、外からは波の音も響いている。少なくとも自分が船に乗っているのは間違いないように思われた。そこで青年は立ち上り、外の様子を見ようと艦橋の窓の近くまで歩を進める。そうして外を眺めた青年は、眼下に映る景色に、
「……すごい」
思わずそう呟いた。
そこにあるのは、青年が乗っていた重巡洋艦のものとは比べ物にならないほど巨大な船体と、二基の連装砲。荒波を割り、霧に包まれたうねる海原を驀進する、スマートだが強靭な船首。
「……戦艦!? でもどこの?」
青年は自国の戦艦にも乗艦したことがあるが、この戦艦はそれよりも明らかに大きい。だが軍縮条約で戦艦の重量や搭載できる主砲の最大口径が制限されていたため、少なくとも公式には、これほどの巨艦は存在できないはずだ。
「密かに建造していた? でも戦艦を新たに建造している余裕なんてなかったはず。じゃあこれは森羅の?」
青年の背中に冷たいものが走る。
確かに青年の住む国、メームには戦艦を建造している余裕はなかったし、世界一の性能の戦艦を保有する敵国、森羅の戦艦だと考えるのが合理的だ。だがそれだと、ますます艦橋に一人にされていることが説明できない。
「どうなってるんだ?」
そう一人呟くが、沈黙が返ってくるばかり。立ち尽くしていても、時間が流れるばかり。
「……誰かいませんか?」
ためしに声を出してみる。
だが返答はない。
そもそも人の気配が全く感じられない。
それでも青年は全く理解できない現状で動くのは良くないと考え、その場にとどまってみる。
だがそれからどれだけの時間がすぎても、状況が変化する様子は見られなかった。
そうしているうちにも募っていく不安、焦燥。
「……状況は全く分からないけど、あと10分数えて何もなかったら、とりあえず歩いてみよう……かな」
ついに耐えきれなくなった青年はそう自分にルールをかし、数を数え始めた。
しっかり10分数を数えた青年は我慢強い方だったのだろう。だが待っても結局何も起こらなかった。
「――あるこ……じゃないと話が始まらないみたい? だし」
青年はそう力なく呟くと、不安にさいなまれる中、辺りを警戒しつつ歩き始めた。
だが集中して警戒しながら歩いていたのは最初だけだった。なぜなら艦内は複雑で広すぎる上、どれだけ歩いても、いっこうに人が現れる気配がなかったのだ。ただ歩いているだけでも疲れてしまう上、途中何度も自分がどこを歩いているのか分からなくなり、同じ場所をぐるぐる回ったりした。そんな中でずっと警戒しながら歩いていられるほどの集中力は、青年にはなかった。
そうして青年が艦内を数時間も歩き回った末、分かった事は二つ。一つは操舵室を含め、絶対に人員の配備が必要とされる場所にすら、この戦艦には人がいないこと。二つはこの戦艦の舵輪は固定されており、少なくとも青年の知識と技術では勝手に操艦することは出来ないという事。
青年は艦の構造が分からないため、艦内の隅々まで見て回ることは出来なかった。そのため青年の見なかった場所に人がいる可能性はあったが、その可能性は限りなく低いように思われた。それはつまり、メームなら動かすのに乗員1000人は必要だろう程の巨艦が完全に無人化され、整然と動いていることを意味していた。
そうして人を探して歩き回っているうち、青年は甲板に出る。
「……すごい」
甲板に出た青年は、自分の乗る戦艦の全容を初めて外から捉え、思わず呟く。その戦艦はメームの主力戦艦より明らかに一回りは大きかった。
大口径の連装砲を艦橋の前に二基、艦尾に二基、計四基搭載。艦の側面には多数の副砲。まるで城郭のような、巨大で背の高い艦橋。その後ろで一本にまとめられた煙突。カタパルトには見たこともない複葉の水上機が載せられ、マストには白地に赤の見たこともない意匠の旗がなびく。船体は細く、特徴的な波型をしており、艦首の流線型は青年が見たことのあるどの船のものより滑らかで美しかった。
その姿はメームの艦とは似ても似つかず、波型の船体など、どちらかと言えば森羅の艦に近い特徴を持っている。一方でその艦橋や積んでいる水上機は、森羅はおろかどの国のものとも異なる特徴を持っていた。
「――一体どこの?」
青年は呟きながら、視線を波をかぶる艦首の甲板に向ける。そして、
「……え?」
そこに信じられないものを見、言葉を失う。
なぜならそこにいたのは、白い衣服を身にまとった一人の女性だった。
その人は肩まで届くくらいの長さの黒髪を風になびかせ、激しく動揺し、波をかぶる艦首に整然とたたずみ、水平線の彼方を静かに見つめていた。
「――あぶない」
青年は一度目は呟くように、
「――あぶない!」
二度目は艦首に向かって叫び、走り始める。
青年は焦りのあまり気づかなかった。激しく動揺し波をかぶる艦首に整然とたたずむことなど、人間では不可能なことに。そうして青年は艦首へと走り、一番砲塔の前まで来て、激しく揺れる船体にバランスを崩し、膝と手を甲板につく。そうしてかじかむように冷たい海水が体を濡らす中、もう一度その人に向かって叫ぶ。
「あぶない!」
その瞬間、女性はその声に気づいたのか、激しく甲板を洗う波に動じることなくゆっくりと振り返り、青年に体を向ける。そして激しく船首が揺れる中、何事もないかのようにゆっくりと歩み、青年の目の前まで来て足を止めた。
その女性は、これまで青年が出会った事のあるどんな女性よりも、美しい容貌をもっていた。
女性の年齢は外見から20代前半といったところ。
黒い髪に黄色い肌。
体つきは細いが、凹凸は大きく、その魅力を引き立たせる。
背は青年より高く、180センチ近くはある。
全身を包む衣服は森羅のキモノと呼ばれる伝統衣装によく似ているが、その色は純白。
完全な白は不吉とされる森羅ではありえない色だ。
そして何より特徴的なのは、
「目が……黒い」
その瞳の色。この世界において黒い髪に黄色い肌はありふれた組み合わせだが、瞳の色は深い蒼か緑がほとんど。黒い瞳を持つ者は稀で、それも少し他の色が混じっている。だが彼女のそれは少しも違う色の混じっていない、ほとんど完全な黒だった。
そうして青年は気づかないうち、女性に見とれてしまっていた。
それから数秒、女性は甲板に膝と手をつく青年を見下ろすと、
「……はじめまし……て」
生まれてから一度も笑顔を作ったことがない人が、初めて笑顔をつくるかのようにぎこちない笑みを浮かべ、ゆっくり手を差し伸べる。その言葉は森羅のものだが、イントネーションは聞いたことの無い独特なものだ。
そうして差しのべられた手を、青年は握り返す。そしてひかれた手に立ち上がると、
「ありがとう。それから……はじめまして」
明るい笑顔と共に、森羅の言葉でそう挨拶を返す。
「僕の名前はエルム。エルム カメヤマ 二等水兵。メーム海軍重巡洋艦ミーネ所属。君の名前は?」
その問いに、数秒の間、女性は何かを考えるように答えない。
だがやがて女性は口を開くと、その名をこたえる。
「私の名前は……陸奥」
「……むつ? むつさんであってる?」
エルムはわざわざ尋ねる。メームでも森羅でも、むつ という名前は珍しかった。
それにむつは頷く。それを見たエルムはまた笑顔を見せると、
「そっか。むつさんか。珍しい名前だね。ところでむつさんはどうしてこの船に? というかこの艦について何か知ってる?
僕は乗っていた艦を撃沈されて気を失って……気が付いたらこの船に乗っていて……状況が全く分からないし、さっき艦内を見てきたんだけど、乗員も一人もいないみたいだし」
そう言葉を連ねる。すると、むつはそれを遮るように、
「いいえ」
そう首を横に振る。
「乗員はここにいる。あの日私と共に沈んだ1121人の乗員が。多分私は……その全員の思いの集まりなんだと思う」
「……え?」
エルムはむつの言葉の意味が分からず、思わずそんな声を出していた。
だがむつは青年にかまわず話し続ける。
「私の……そしてこの戦艦の名前は陸奥。大日本帝国海軍が誇る超弩級戦艦。そして世界最大の無用の長物。いえ、それ以下の味方殺しの爆弾。それが私」
そう自虐的に語る陸奥の言葉の意味を、この時のエルムは理解することが出来なかった。