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走る

作者: 彼方此方

玄関を開けた先、アスファルトを縁取るように残る濃淡が、昨夜遅くまで雨が降り続いた事を伝えた。吸い込んだ空気の清々しさに、睡眠でちぢこまった身体を思い切り伸ばす。

「行くぞ、コタロウ!」

目覚まし並みの正確さで十分前から嬉しそうにベッド周りを駆け回っていたコタロウに声をかけると、散歩紐とエチケットバッグを片手に隼人は玄関を飛び出した。



時間的には早朝と言って申し分ない時間なのに、空は既に青く、雲がクリーム色に輝いていた。

通勤通学時間帯まではまだ間があり、大通りを走る車も少なく、静かな町の中、今日はゴミの日だよと烏が高らかに歌う声がこだまする。

自宅から八分。ジョギングや散歩を各々のペースで楽しむ人々が集う近所の公園は、都市部とは思えぬほどたくさんの樹木に恵まれ、この時期、緑が濃い。大きな耳の端に落ちてきた水滴にブルブルっと頭を震わせ歩くコタロウの短い足取りは軽いが、地上五センチに位置する腹は背の低い植物に残る水滴と散歩道のぬかるみで既にドロドロだ。

最近は狐の様にふさふさに伸びるという噂の尻尾を残す様になったというコーギーという犬種だが、年寄りの部類に属するコタロウは、生まれた時代を反映し短い気持ち程度の尻尾しか持たない。その短い尻尾をピンと上に向け、丸出しの尻を振りながら歩くその姿は、今日もご機嫌絶好調そのものだ。


小ぶりなボート池やスポーツ施設、子供用の大型遊具のエリアを通り抜け、いつもの木製ベンチに到着し、隼人が立ったままズボンから出したスマホで、これまたいつものように時刻を確認する。

「現在、五時四十七分」

隼人がエチケットバックから取りだした簡易水入れに、ペットボトルに汲んでおいた水を注ぎ込むと、ニンマリと笑いコタロウは朝の一杯に口をつけた。

見上げた先、緑の隙間から徐々に小さなきらめきを見せる太陽は、今日も暑くなることを伝えてくる。しかし、まだ雨の時期はこれからだ。ひょっとしたら夕方には、コタロウの苦手な空からの御小言が地を這うように響きわたるかもしれない。


ベンチの前でくつろぐ一人と一匹の脇を数人の人々が通り過ぎる中、ふと、コタロウが耳がひょこりと動かせ、水入れから顔を上げた。その動きに隼人の身体は硬直し、全感覚をその耳が向く方向に向ける。

意識する先、軽快なリズムと共に現れたのは、いつもの新緑に同化しそうな濃い色のスポーツウエアに身を包んだ隣家の妙齢の女性だ。

隼人に挨拶をしつつ、隣家の女性はこれまたいつもと同様、コタロウの長い胴を捏ね繰り回し、満足すると再び軽快なリズムで去っていった。その間、およそ三分。

束ねた髪を跳ねさせ駆け去る後ろ姿を営業スマイルで見送ったコタロウはブルブルっと太く長い胴体を振るわせたものの、女性の影が見えなくなったとたん木製のベンチ倒れこむように座った隼人の隣、ちゃっかり頂いた、いつものおやつを開封してもらい、舌包みを打つ。

深々と漏れた溜息と共にあからさまに肩を落とした隼人は、だらしなく足をのばし朝露を光らせる頭上の木の葉に目を細め、もう一度溜息を洩らした。


タイミングとは難しいものだ。


日の出の時刻は日々変わり、天気予報は嘘つきで、一週間は目まぐるしい日常に関係なく廻りゆく。

立ち直れないでいる隼人のそばで、しばらくの間コタロウは寝転びおやつを咀嚼していたが、突然動きが止まったかと思うと、急に耳を忙しなくひょこひょこと動かせた後、慌てて残ったおやつを一気に口にした。


そのコタロウの忙しない動きに相反し、隼人の身体は先程の何倍も硬直する。しかも今回は手に汗と共に握る散歩紐が若干震えているが見て取れる。


あぁ、どうしたものか……。


とりあえず、ベンチの向かい、目の前のドッグランスペースのゲートへ向かえば、コタロウが耳を向けたままの方向から彼女たちは現れた。


早朝からこれほど多数の人々がそれぞれの時間を楽しむ為集う公園だ。もちろん犬たちだってその飼い主と共に多数集まる事になる。更にはこの公園にはフリーのドッグランがある。散歩だけでなく、それだけを目的に集まる愛犬家も多い。

常連達の間での暗黙の了解で、朝六時半までは大型犬から中型犬、七時前から中型犬から小型犬が遊ぶドッグラン。

同じコーギーでありながらコタロウより少し若く、少し小柄で、少し太いハナはお転婆だ。飼い主である優子といつも跳ねるボールのようにハナは転がり走りながらこの公園のドッグランへと遊びにやってくる。

レースが揺れるカーディガンに膝丈のワンピースという、いかにも出勤前を匂わす清爽な優子は数年前まで学生服姿を惜しげもなく、既に社会人であった隼人に見せていた。

隼人が学生時代からの付き合いは、子犬だったハナが立派な成犬になった今も続く。


犬同士、人同士、互いのパートナー同士、いつもの挨拶と、いつもの偶然性をアピールし、ともにドッグランスペースに入る。

ぎこちなく、しかもキリがない世間話の中、いつものラブラドールもピレネーも柴もまだ現れないドックランは広く静かで、徐々に強くなる日差しが今日もまた、そろそろタイムアウトが近づくのを刻々と伝えてくる。


仕方ない。


既にあきらめ感が漂い始める隼人の背に、コタロウが待ちきれないと言わんばかりに、エチケットバッグから今朝方忍ばせておいたボールを引っ張りだせば、その下の、先月かその前か、とにかく随分前から鞄の中に仕舞い込まれていた、薄い色のリボンが蝶の様に羽を揺らす皺だらけの紙袋が、薄緑の芝生の上に零れおちた。

転がり落ちたボールがぷぎゅっと小さな音を立て跳ねるのに合わせてハナが跳ねれば、優子のポケットからも何かが滑り落ちたが、もうそれは気にしない。


水滴が朝日を輝かせる薄緑の芝生の上をコタロウは、動揺のあまりリードを外し忘れた隼人を引きずりハナと走った。




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