生存価値
「サリヴァン兄さん、起きて」
そう言って俺を呼び起こすのは、紫色の瞳が光を反射させガラス玉の様にきらめいた妹、クラウディア。
「何か用か」
「何か用じゃないわ。またルシファーが呼んでいたのに無視しているでしょう?」
俺はクラウディアに背を向ける形でごろんと寝返りを打った。
ここは薄暗く光も届かない闇の奥地。窓の外では轟々と炎が燃え、辺りを囲んでいる。森の奥でさらに光の届かぬ闇地で、俺達は五年という月日を過ごしていた。
「そんなもの放っておけばいい」
そう、放っておけばいいのだ。本当に必要な時や用事があれば真の名を使って俺達を従えようとするのだから。俺達には抗えない呪いじみた名前がある。
ーーセタとシタ。
それが俺達の真の名。黒い髪は魔力の象徴で、その髪色が多いほど力も比例している。あの日、俺達が生まれた日、生みの親が喜び、同時に恐怖を感じたのはその為だ。
自分達よりも強い力を持った子供が2人。この世界にたった数人しかいないといわれる貴重なものが二人も生まれたのだ。
ーー売れば高値で買い取られ、一生遊んで暮らせる。
あの醜い笑顔は、そう思っての歓喜だったに違いないだろう。
だが力を持っているが故に、俺は生まれた時から意志を持っていた。体は赤子で不自由。だが、俺は力を使う事が出来た。それによりあの醜い男は俺を悪魔だと言ったのだろう。
この世界の理とやらは全てルシファーに叩き込まれた。その力を制御し、掌握出来る真の名。その事についても。
真の名とは力を抑え、その身に定着させる事ができる……が、他人に知られれば力を制御し、掌握する事が出来る“呪縛”でもある。
表向きに使われるものとは違った、力を持った名前。魔導師は生まれた時、生みの親とは別の存在によって名を授けられる。それを付けたルシファーに俺達は逆らう事が出来ず、この年月を過ごしてきた。だから呼ばれて無視をしても、何もしてこない時は大した用では無いと言う事。
俺は再び瞼を閉じた。そんな背中に向かって言葉は矢継ぎ早に放たれる。
「ルシファーが言っていたわ。私達の力を使えばこの国を豊かで緑の多い国に出来るって。私はその世界で兄さんと……できるなら父さんと母さんと一緒に暮らしてみたいの」
何を馬鹿なことを言ってるのだ、コイツは。
「俺達を簡単に金と引き換えにしたような人間だぞ」
「でもそれはきっと貧しかったせいだわ。仕方がなかったのよ」
女の腹の中にいる時から記憶を持った俺とは違い、コイツは生まれたばかりの時を覚えていないらしい。
むくりと起き上がり、ベッドに座り直した。
「ククッ……おめでたい話だ。お前が言うように、例え仕方がなかったのだとしても俺達は捨てられたのだ。その上お前はアイツらの顔も覚えていないのだろう……? そんな奴らとどうして暮らしたいなんて思うのだ?」
「そうよ、兄さんは顔を知ってるのかもしれないけれど私は覚えていない……。だから過去がどうであれ、産んでくれた親を見てみたいと思うのは普通の事じゃないかしら」
クラウディアは陰る事の無い澄み切った瞳で俺を見据えている。手をもじもじとさせながらも真っすぐに。そんな風になれるのは、生まれた時の記憶が無いからか。そんな風に思えないのは、生まれた時の記憶があるせいなのか。
「……ふん、知らない方がいいという事もあるのだな」
ぼそりと呟く言葉はクラウディアには届かなかった。
「えっ、何か言った?」
「いいや、なんでもない」
俺の方がほんの少し先にこの世に顔を出しただけ。いいや、もっと正確に言えば生態として先に俺の方が人としての形づいただけ。その差に大差は無く、たったそれだけの話。
だが、たったそれだけの事で俺の事を兄だと呼ぶ。同じ黒髪を持ち、同じ様な力も持っているはず。なのに俺とクラウディアは決定的に違っていた。
それは物事の見解。この薄汚く面白味もない世界に対する捉え方。それらが決定的に違っていた。
「ねぇ、サリヴァン兄さん」
「やめろ」
俺は眉間にシワを寄せ、吐き捨てるように言った。
その意味が分からなかったのだろう、俺の方を向いて首を傾げている。
「えっ?」
「その名で呼ぶのはやめろ」
「どうして? 母さんがつけてくれた名前なのに」
「だからだ」
俺はそれだけ言って再び背を向けてベッドに横になった。だが相変わらず視線は背中に突き刺さる。
「……だから私の事も名前で呼んでくれないのね」
「……」
「私は兄さんの名前も私の名前も好きよ」
それはお前が何も覚えていないからだーーそんな言葉が脳裏に浮かんだが、俺はその言葉をもみ消した。アイツらの事を少しでも脳裏に浮かんだだけで、苦湯が込み上げてくる。
「私は兄さんのように生まれた時の事も、両親の顔も覚えていない……だけど、この名前を付けてくれた瞬間だけはなんとなく覚えているわ。その瞬間だけは私達の事を心から思ってつけてくれた……そんな気がするの」
「それは思い込みだ。お前がそう思いたいという願望だろう」
「そうかもしれない……。でもね、とても暖かいものに包まれた瞬間があったのを私はずっと心のどこかで覚えていたから」
俺はもう何も言わず、ただクラウディアに背を向けたまま黙り込んだ。その様子を暫くの間、静かに見つめた後、クラウディアは部屋の扉を開けて出て行った。
♦
この世界に意味などない。それならさっさと死んでしまえばいいーーだがしかし、俺にはその選択肢は選べない。死を選ぶ事はルシファー達が許さないだろう。俺の意志を縛る真の名、その力を使って俺が自害するのを先回りして防ぐのだ。それくらい、真の名には力がある。
事実俺がこの屋敷のそばで巨大な壁のように燃え盛る炎に身を投じようとした時、その寸前のところで俺は思い留まった。
その留まった瞬間を覚えていない。だが、どこからともなくルシファーの声が脳に響いたと思ったら、俺の視界は暗闇の中に投じられた。気がつけば今と同じくベッドの上で眠っていた。そばでは泣きじゃくるクラウディアが俺に覆い被さりながら。
『よかった……兄さんが死ななくてよかった……ううっ、私は一人になってしまうかと思って……怖かった』
そう言って泣くクラウディアの頭に手を乗せ、なぜか無意識的に俺は妹をなだめていた。
『死んだりなどするものか』
なぜか俺はそう言った。自分で放った言葉に驚き、思わず手を止めて。
そんな俺の様子を覗き見ながら、泣き腫らした目でクラウディアは静かに見つめ続ける。居心地の悪い感覚が込み上げる……だが、その感覚すら俺は飲み下した。
ーーそうだ、死んだりなどするものか。どうして俺が死なねばならない。死ぬのはーー
『兄さん』
愛らしいチェリーの様な唇をゆっくりと動かし、クラウディアは俺を真っすぐに見つめて言った。
『兄さんは私が守るわ。だからもう私を置いて遠くへ行ったりしないで……』
紫色の瞳に影は無く、そこは闇さえ逃げ出す。鋭く、芯を持った瞳。優しく暖かみを携え、淀みを一切受け入れない輝きはそのままクラウディアの心を映し出しているようだった。
俺と同じ日に生まれた妹。同じ髪の色を持ち、同じ女の腹の中から生まれた。
ーーそうだ俺は、この暖かい温もりを守らなければならないのだ。
初めてクラウディアの暖かな手に触れた時……いいや、女の腹の中にいた時から感じていた俺と同じ温もり。その存在に気づいた時から決めていた。常に自分の為ではなく人の為にのみ泣く、か弱いもう一人の俺を守るのだとーー




