呪縛の名前
支配する者 される者
俺達は老人達と共に馬車に乗り、暗い闇の空を飛んだ。その闇の中をひたすら進み、いくらか時が過ぎた頃空高く飛んでいた馬車は途中で下降を始め、林の中に入ったと思えばすぐに更なる闇が窓の外を包み込んだ。
闇を抜けると突然の明かり。そこで馬車の扉は開き、俺達を再び抱きかかえて老人達は降り立つ。明かりと思ったものは、眩しく赤々と燃え盛る炎だった。
その炎もやり過ごし、男達が向かう先には闇の中でそびえ立つ洋館。いや、屋敷と言ってもいいだろう。
「しかしルシファー、その子供をどうやって手なずける気だ?」
屋敷の入り口で小太りの男は葉巻の先を俺達に向けた。相変わらず何かが俺達の周りを圧迫する感覚は変わらないが、元より俺達はまだ動けるはずも無い。つい先程この世に生まれ、まだ皮膚もシワシワと湿っているくらいだ。
ただ、俺はじっと観察していた。今がどういう状況でこれからどうなろうとしているのかを、俺は見極めようとしていた。
「マンモン、手なずけるとは言葉が悪い。この子達は私の右腕になる有望な子供達だぞ」
「そうだがさっきあの父親が言っていたではないか。この赤子が命を奪おうとしたと……」
マンモンはその太った顔を寄せて俺達の顔を覗き込み、だがすぐに後ずさった。俺が睨んでいたらからだろう。屋敷内の数ある部屋の一室に足を踏み入れ、綺麗にニスが塗られた重厚な扉を閉めたところで、ルシファーは話を続けた。
「なぁに、心配はいらん。黒髪とはいえまだ産まれたばかりの赤子だ。これから私が真の名をこの子達に授ける。そうすれば二人は私達に逆らう事など出来ぬだろう」
真の名……?
俺は興味深く2人の会話に耳を傾ける。だが、そんな俺に向かってルシファーと呼ばれるこの老人は、ニヤリと不気味な笑みを向けた。
「お前達ほどの黒髪は持ち合わせていないが、それでも私には力がある」
ルシファーの地面まで到達している長い髪がフワリと空気で舞い上がる。風もない室内で足元から突如現れた風が、ルシファーの髪を大きく揺らし、頭部の両サイドに一房ずつある白と他を黒が覆う髪が揺れている。
「そうであったな! では早速名前をつけてやれ」
マンモンの表情は一気に明るく輝き、両手を叩いた。喉に引っかかっていた小骨でも取れたような表情で、安堵から肩をなで下ろす。それはきっとコイツ自身は大した力を持ち合わせていないからだろう。今までの会話の流れから察するに、やはり力とは黒髪の量で決まるようだ。
だとすれば、このマンモンにはそれが無い。いや、実際ちゃんと頭部を調べ上げればあるのかもしれない。だが、そうしなければ見当たらないほどだ。
だとすれば俺達を見て恐れるのも無理はないだろう。相手はこんな産まれたばかりの赤子だというのに。
「ではその儀式に取りかかる。悪いがマンモン、お前はここから出て行ってくれるか」
ルシファーの提案にまん丸と肥えた顔が赤く膨れ上がってゆく。
「なぜだ? 私もここでその儀式を見てはならないというのか」
「その通りだ」
マンモンの顔にはさらなる朱が注がれる。
「それはなぜなのか説明してくれるのだろうな、ルシファー。まさかとは思うが、その子達の真の名を一人で掌握し、従えるという気ではないだろうな……? その子達を買った金は誰が出したのか、忘れたわけではあるまい」
「ああ、もちろん。忘れてなどいない」
ルシファーは言いながら俺達をそばにあるソファーに寝かせ、奥にある長テーブルへと足を向けた。
「儀式とは必ず名付け親とそれを授かる子だけで行わなければならない。そうしなければ上手く授ける事が出来ないからな」
「しかし……」
それでも食い下がるマンモン。どもりながらも不満げだ。
「心配するな。ちゃんと儀式が終了すればお前にもこの子達に授けた真の名を明かそう。本来真の名とは別の人間に教えてはならないもの……しかしマンモンは別だ。私の同志であるお前にだけは教えると決めているのだからな」
その言葉を聞いて、マンモンは張っていた肩を解いた。再び破裂しそうなほど大きな顔に笑みを携え、では終われば必ず教えに来いとだけ言い、部屋を出て行った。
ふぅ、やれやれ。そんな声が聞こえてきそうなほど、ルシファーは肩をすくめて首を振っている。
俺はただじっと見つめていた。身動きが取れない体で唯一動かす事の出来る瞳をただひたすらに向けて。そんな鋭い視線を感じてか、ルシファーは俺達に向き直り、笑った。その笑顔の奥には何やら影が潜んでいるような表情で……。
「優秀な子供よ。お前達には私の声が聞こえているのだろう? いいや、理解している、と言う方が正しいか」
ニヤリと笑い、俺達を見下ろす。すると再び俺の周りを取り巻く圧が更に強くなったように感じた。目には見えない壁、もしくは目には見えない鎖でがんじがらめにされているような、圧。
「特にお前、サリヴァンとか言ったか。お前は少なくとも全て理解しているハズだ。自分には強大な力を持っている事を。それによって両親に売られた事も」
ルシファーの藍色にくすんだ瞳が歪んだかと思うと、すぐに顔を背けた。踵を返し、離れたところにある木製の台に何やら文字を書いている。
そんな後ろ姿を俺はじっと見ていた。その時フと暖かいものが俺の手に触れ、それはあの俺を産んだ女の中にいた時のようで思わず視線を泳がせた。
するとそれは俺の隣で寝ている双子の小さな手。暖かく、それでいて心を震わせるもの。
紫色した瞳はじっと俺を見つめ、やがて微笑んで。その表情を見ているとなぜだか心が落ち着いて、生まれて初めて安心という安らぎを知った。
しかしその安らぎは長くは続かず、ルシファーは再び俺達の元へとやって来たかと思えば、軽々と俺達は抱き上げられた。
「さぁ、準備は整った。お前達には今から真の名を授けよう」
ニヤリと笑う表情に反吐が出そうになる。妹を見て感じる安らぎとはほど遠く、むしろ対局に位置する感情だった。
瞳は鋭くルシファーを捉える。しかしそんな表情を見せる俺に対して、とても楽しそうにほくそ笑むルシファー。
ーー反吐が出る。俺は再びそう思った。
寝かされたテーブル上には無数の文字と絵が俺達を囲むように丸く描かれていた。するとルシファーは何やらブツブツと言葉を呟きながら人差し指をナイフで小さく傷をつけ、そこから滴る熟れきったトマト色をした血を俺達の額に擦りつける。
その間も口先でブツブツと言葉を紡ぎ続けながら、傷の無い方の手でそばに立てかけていた杖を持ち、その先にも赤い血痕をつけた。
その杖先で何らかの印を空に描き、その後すぐにーー
何かが……来る!
背中に当たるテーブルから、額につけられた血痕から、何かがやってくるのを感じた。それはゾワリと体の中を這うように……。
熱いーーだが身動きは取れない。瞬きひとつする事が困難だ。元々自由の利かない重い体だが、より一層に。
自分の体ではないように拘束されてゆく。きっと今、隣で同じように横たわる妹も似た感覚を感じているのだろう。思わず声を上げて叫びたいのに、それすもら叶わない。
ルシファーは長い髪を足元から吹き上げる風に踊らせながら、杖先が俺を捉えた。淀んだ藍色の瞳の奥がキラリと光る。
「ーーセタ」
その言葉だけははっきりと耳に届いた。届いた言葉は思わず開いた俺の口からスルスルと入り、まだ未熟な細い喉を通って俺の中へと入ってくる。
「……っあ」
声を上げ、吐き出したい衝動に駆られるが、それは許されない。なにかは分からない……だが、吐き出す事も鳴き叫ぶ事も出来なかった。ただ入ってきた言葉が腹の中で広がり、俺の体を内側から焼き尽くそうと燃え上がる。
ーー熱いっ。息ができない……。
身動きの取れない体は小刻みに震え、同時に俺の瞳から涙が滲む。その様子を見下ろしているルシファーは再びニヤリとほくそ笑み、杖を妹へと向けた。
やめろ!
呼吸もままならず意識が遠のきそうになる中、それでも俺はルシファーを見つめ、強く念じた。
「無駄だ。いい子にしてるんだ、セタ」
ルシファーの言葉に俺の中で燃え盛る炎は更に炎上を始めた。
「……ぎゃっ」
熱い……燃える……っ!
再びルシファーは妹に向き直り、杖を向けて言った。
「ーーシタ」
隣でも同じ事が起こった。いや、実際は見ていない。振り向く事も視線を泳がす事も出来ず、ただそう感じるだけーー意識がだんだんと闇に浸食され始め、そんな苦のみの世界の中で俺の脳裏にフとある言葉が過った。
ーーああ……なぜ俺は生まれてきたのだろうか。
それはまだ俺がこの世に産まれ落ちて数時間しか経っていない。きっと隣で同じ苦しみに絶えている妹も、そう思っている事だろう。
生まれなければよかった……。そんな事を思いながら、俺は意識を手放したーー




