綺麗なお姉さん(前)
久しぶりに入った深夜帯のバイト。
二四にもなって遊びじゃないオールとかマジ勘弁なんですけど。時給九〇〇円のバイトとか、泣けてくるね。
俺は、キッチンにいる元凶を睨みつけた。
「中野くーん、目え怖いよ? スマイルスマイルー!」
ふざけたこいつは、この店の夜間店長兼、俺の幼馴染だ。
隣の家に住むこの男に、月曜の朝出勤する時捕まったのが運の尽きだった。
「悠ー、金曜の夜暇? 暇だよねーだって彼女いないもんねー」
「うるせーよバカノリ、邪魔だどけ」
バカノリこと、真山紀之が後ろに覆いかぶさって来るのを無視して駅まで歩きだせば、そのままずるずるとついてこられた。
「重い。どけ」
「やだよーだ」
「……」
「あ、やんダーリン、蹴っちゃ、や」
「お前マジうざいんだけど」
普段はここまでじゃないんだけど今日はそれが酷い。いや、普段からウザいのはまあ、ウザいんだけど。
理由なんかわかってる。
「あのさーあ悠、金曜日なんだけどさあ」
「暇でも彼女がいなくてもピンチヒッターになる気はない」
「ほんとごめん、もうこれっきりにするから」
「お前の『これっきり』はもう何度目だったっけなあ……」
「そうおっしゃらず! お食事半額券あげるし!」
「――もう一声」
あー俺っていい奴。てか流されやすい奴。
全国の店舗で使える半額券とは別にそのシフト内の休憩で、何か食べるもん一品を紀之に奢らすことでそのバイトを引き受けた。
「俺、最後に入ったのって二か月前?」
「うん」
「その時とマニュアルとかシステム、変わってないよな」
「変わってないけど冬の味覚フェアはじまってるよー」
「じゃー俺の飯カキフライ御膳な」
「オッケーでえす。じゃー俺帰って寝るわ。金曜よろしくー」
「おう、お疲れ」
俺の言葉に紀之はひらひらと手を振って応えた。まあ、いいか。云われたとおり彼女もいないことだし、呑み会の予定もないし。
俺が、そのファミレスでバイトしていたのは大学を出るまでだから、高校の時と合わせて七年。間半年ほどは受験勉強で抜けてたけどまあそんなもんだ。
入社式の前日まで働いていた。それできっぱりやめた筈だが、俺の卒業と入れ替わるタイミングで紀之が夜間店長――と云っても雇用形態はアルバイトのまま――になり、休み前の平日にうまくシフトが回せないとなると、すぐに俺のとこにヘルプメールがやってきた。憎らしいことに、彼女がいる時には気を回して云ってこない癖に、切れると遠慮なく。今年に入ってからは彼女がいなくてもヘルプされることも少なくなってきた矢先に、これだ。
給料日前の、暇な週末。
フロアは俺一人、キッチンは紀之ともう一人で深夜帯を回す。ちなみに紀之はキッチンもフロアも両方廻せるので休憩時間もうまいこと回せる。
でもどうせこういう日って客入らないんだよなー。
俺は欠伸を噛み締めて、時が経つのを待った。
午前一時を少し回った頃、見知った顔のワルガキ集団がやってきた。
「おっつー、ユウユウ」
「いらっしゃいませ。お客様、何名様ですか? ――人のことパンダみたいに呼ぶなあほトモ」
「六人っスー。喫煙でよろっスー」
バカ、と奴の坊主頭のど真ん中をかち割るように手刀を落とした。勿論仕事中なので、お客様から見えないポジションで。てか、お客様自体、何人もいないんだけれども。
「未成年が何云ってる。にーちゃんと妹泣くぞ。――禁煙席ですね。こちらへどうぞ」
「ノリ兄は泣くけどヒナは泣かねーよ」
坊主頭の屁理屈っ子は、隣の三人兄妹のど真ん中だ。名前は朋之。
だらだらと歩くこいつらがだらだらと席に着くまで待つ。
「お前ら他のお客さんに迷惑かけんじゃねえぞ?」
念の為に小声でそう云えば、「分かってますって。俺らこれでもイイヒト達なんですよ?」と、ワルガキの一人が云った。
メニューを人数分テーブルに置きながら、俺は釘を刺した。
「何かあったらすぐ追い出すからな」
「ラジャりましたー」
その朋之の調子の良い返事に深いため息が出た。
午前二時半頃、ぴろりーんと、入店センサーが来客を伝えた。
「いらっしゃいませ。お客様は……」
「一人。禁煙席で」
「……かしこまりました」
何だこの女怖え。
無表情で、綺麗な黒髪は俯き加減の顔を半分隠している。顔色は、多分よくない。
整った顔立ちだと思うけど、入ってきた時間が時間だし、TVからきっと来るあのカリスマホラーヒロインを連想させた。儚い感じが、またそれに拍車をかけている。
……ただし、汗をだらだらかいているので、オバケではないことが分かった。
「ご案内します。こちらへどうぞ」
内心で思っていたことは、ここでの長年のバイトと、まだ短くとも会社で鍛えた笑顔で覆い隠す。
お冷やを出した後、オーダーが入るまでフロアのカウンターで意味もなく皿を出したり仕舞ったりしながら、ずっとその人を見ていた。
お冷やを一口飲んで、俯いて、メニューをめくってはいるけれど明らかに気乗りはしていない。と思っていたら、途中のページをぱらぱらと飛ばして、デザートが載っているメニューをじっくりと見始めた。
なんだ、幽霊みたいなくせに、かわいいとこあんじゃん。
勝手に幽霊認定して、勝手にそんなこと思った。
彼女はしきりに額の汗を押さえていた。そんなに汗が止まらないって、初冬の真夜中に一体何した?
気になるけど勿論そんなこと、バイト店員の分際で聞けるわけない。
デザートに照準を合わせてからも、まだメニューとにらめっこは続いていた。一〇分か一五分と云ったところだろうか。それでもなんとかオーダーが決まったらしい。俺は手を上げた彼女の元へ歩き出す。
注文されたのは、パンケーキ。夜中だぞ。太るぞ。そう思っても、勿論復唱するだけ。……そして。
いつもなら絶対にしないおせっかいを、した。
彼女がコートを脱がないのは、もしかして何かに動揺して脱ぐのを忘れているのかも、と思ったりもして、脱ぐように勧めた。彼女はにこっと笑って――やっぱりかわいいじゃんか――、それを流した。
多分ありゃ脱がないな。そう確信した。
ハンディターミナルでオーダーを転送して、キッチン横の通路から「オーダー入りましたー」と声を掛ければ、「知ってるよー」とキッチンの中から紀之の声がする。
「店長、ちょっと」
「なになに―」
手を洗って布巾で拭きながらキッチン横の通路際へやってきた紀之に、例の客を目で教えた。
「あの客、怪しい。エアコンあの席は直撃な筈なんだけど、コート脱がないでだらだら汗かいてる」
俺のその言葉を目視で確認するように、ひょこんと顔を出して紀之が呟く。
「あ、ほんとだ。足元の籠、勧めてみた?」
「一応。でも多分駄目だと思う」
かわいい顔してえらい頑なだったことを思い出して、つい眉が寄ってしまう。
「んーまあ、食い逃げとか強盗とかっていう感じじゃないね?」
この店で食い逃げと強盗とをそれぞれ一度ずつ捕まえた経験のある紀之がそう見抜く。
「犯罪性は薄いかもだけど、このままだとあの人確実に風邪ひく」
「あー、そうだね。どうしよっか」
紀之が途方に暮れた。
こいつは全国にチェーン展開をしているここのファミレスの夜間店長で、マニュアルから逸脱した動きは取れない。でも俺は、イレギュラーなバイトで紀之よりは多少は動ける。万が一スタンドプレーをしてお叱りを受けたとしても、非常識なバイトが勝手にしたことにして、俺に全部おっ被せればいい。
「任せてもらっていいか?」
「いいよ」
あっさりと返事が来た。そんなあっさり返事寄越さないでちょっとくらい何するんだとか疑ったらどうなんだ。
「そうだ、もう俺たち食事終ってるから悠もそろそろいいタイミングで休憩入って?」
「了解」
「よろしくー」
月曜の朝と同じように、ひらひらと手を振ってキッチンの中へと戻って行った。
カトラリーのセットと蜂蜜のボトルを手に、再度彼女の席に向かう。
ゆっくりと置きながらさりげなく観察した。思った通り、コートはきっちり着込んだまま。やっぱりなあ。
ダメモトで、もう一度だけ促してみたらとうとう拒絶の言葉が出た。これは、撤退するしかなさそうだ。
どうしたもんかと考えていたら、そこから程近い窓際の朋之達の席に呼ばれた。
「ご注文ですか」
「うんにゃー? なんかユウユウお困り?」
コーラを飲み干し、ストローを齧りながら朋之が聞いてきた。
「あー、……うん。」
俺も素直に返した。
「俺、なんか手伝える?」
三人兄妹の真ん中だけあって人の機微を読むのがうまいが、さすがに朋之に手伝ってもらう何かはない。
「ん、大丈夫。サンキューな」
そう云って立ち去った。そして、フロアカウンターから全体を見渡す。
どうしても、そのお客様に目が行ってしまう。どうした、俺。
自分の目線が固定されてしまう事を訝しんでいると、あのワルガキ達が予想通り騒ぎ始めた。
仲間からお冷やの中にストローの袋を入れられて飲めなくされた朋之が、「ちょちょちょやめてまじでー」とそれを持って立ち上がる。
それでもやめない仲間が、さらに胡椒か何かを投入しようとして、よせばいいのに朋之はコップを持ったまま一歩足を外側にずらして逃げようとする。
どっちみちもう飲めないんだから置いときゃいいのにと呆れて見つめ、あともう少し騒いだら追い出す、と決意したその時。
立ち上がった朋之の脚と、向かい側に座ってた仲間の脚が絡んで、朋之が何歩かよろめき出て、そのままバランスを取り戻せずに芸人ばりに派手にすっ転んだ――例の水は、よりにもよって例のあのお客様に掛かる。
追い出し決定、とジャッジを下した後、少し考えて口頭による警告にとどめることにした。何故って。頭からすっかり濡れた彼女を、休憩室に連れ出すことが出来るからだ。
キッチンに向かって「さっきのお客様、窓際の団体客のせいで水被ったから、とりあえず休憩室にご案内したいのですが」と、それが朋之たちのせいだと含んで告げると「あちゃー……。分かりました、お通しして下さい」と、兄モードから店長モードに瞬時に切り替わった紀之が返事を寄越した。
休憩室へ通して、タオルも渡して、誰も来ないと云えば武装解除するだろうと踏んで彼女を一人残し、一旦俺はそこを離れた。キッチンに立ち寄り、「例のお客様、休憩室に通しました。今もしかしたら着替えしてるかもしれないんでとりあえず立ち入り禁止で、入る時はノックをお願いします」と告げてからフロアに戻る。
モップとダスターを使って席と床の水を拭き取っていると、店長である紀之が窓際の席にやってきた。朋之と仲間に笑顔で「次やったら君たち出入り禁止にするよ? それから朋之は一週間ゲーム禁止ね」と優しく通告し、全員を涙目にしているのを横目で見ながら俺は掃除用具を片付けた。いつもニコニコしているけれど、怒らせると仲間内で一番厄介なのが紀之だ。あいつが笑顔でキレているのを久しぶりに見て、腕の鳥肌が収まらない。まあ、故意にではないにせよ、他のお客様に迷惑をかけたことは確かだから叱られて当然だ。
大体、やらかしてしゅんとなってしまった朋之にヘッドロックを決めたり、それを写メに撮ったりと、慰め方が自由すぎるんだよお前らはまったく。まあそれで他のお客様に絡みに行ったり店内で強引なナンパをしたりはせず、あくまで仲間内で騒いでるあたりはかわいい奴らなんだけど。黙って追い出されるよりきついなあれは、と涙目になったまま席で小さくなってしまった奴らに少しだけ同情しながらキッチンへ向かう。
キッチンに戻ってきた紀之からほかほかのパンケーキを受け取りながら、「休憩入ります。俺も休憩室に入るつもりですが、もし拒否られたらキッチンにお邪魔します」と云えば、「了解でーす。じゃー俺、悠の代わりにフロアに出ます」「了解です。中野さん、休憩行ってらっしゃい」と紀之ともう一人のキッチンの二人は快く俺を送り出してくれた。カキフライはあと数分で揚がると云うので、休憩に入ってから受け取りに来ることにして、再度休憩室に向かった。
彼女がまだ頑なに濡れたコートを纏っていたのには参った。こうなると、意地でも暴きたくなる。
SMプレイで服の上から縄を巻いてお愉しみなのか? それとも、まさかの自爆テロリストで、コートの内側と自分自身にダイナマイトを仕掛けてあるとか?
コートに隠れる部分は、実はタトゥーがびっしりだとか? ……小説の読み過ぎだ。
それでも、彼女のことが心配なんだと伝えてみたら、ようやく通じたらしい。コートを思いのほかあっさり、するすると脱いだ。すると。
白い体。黒とピンクとレースとリボンの、くらくらするほど魅力的な下着の上下。比較的大きな胸と、締まったウエストと、綺麗なおへそと、すらりとした手脚。
彼女は、それを隠していた。
どんな事情があってその格好かだなんて、動転してしまってとても聞くどころじゃなかった。
「……ごめん、まさか、……ちょっと待って、」
それはさすがに想像の範疇の外だった。
赤くなる顔と動悸が止められない。
彼女を辱める意図はなかった。けど、俺がしたのはそう云うことじゃないのか。
後悔で、心が真っ黒になった。
慌ててロッカーから取ってきた私物のモッズコートとネルシャツを、彼女に押し付けた。
見ないようにしていたけど、ちらちらと映る白い太腿が、とても綺麗で目の毒だった。
俺のこと『優しい』なんて云っちゃ駄目だよ。俺は、あなたが必死に身を守っていたコートを、『脱いだ方が風邪引かない』なんて勝手に考えて、休憩室へ連れてきて脱がした奴だよ。
しかも、食べたら帰ると云いだした彼女を無理に引き止めて。
……だって。あんなに傷ついた顔をした彼女を、ただ帰したくはなかったんだ。何も考えずに、ただゆっくりと眠らせたかったんだ。
そうして、いつのまにやら警戒を解いた彼女に懐かれた。
美味しそうにパンケーキを食べる姿や、子供みたいに不安げに見つめてくる顔を見ているうちに、ああ俺この人に惚れた。と、自覚した。
出会ったばかりで名前も何も知らないけれど、叶うのならば、この人の安心毛布になりたい。
こんな風に傷ついた顔して、こんな格好をして、真夜中のファミレスに逃げ込むことなんかもう二度とないように。そう思いながら、ポンポンと背中を叩いた。
眠りにつくまでそうして親鳥のように傍にいて、寝てからもカキフライ御膳を食いながら傍にいた。キッチンの二人にも告げたように、俺がいない方がよさそうなら休憩室にその人を一人残してキッチンで食おうかと思っていたけど、彼女の縋るような目と、『傍にいる』と伝えて拒否がなかったから、そのまま休憩室で休んだ。
休憩時間が終わっても、休憩室の奥にある従業員用トイレに行きがてら彼女の様子を覗いた。ちなみに、普段従業員はみんな表ではなくこっちを使用することになっているので、紀之ともう一人のキッチンには「休憩室に通したお客さん、俺が少し休むように勧めて寝てもらったからトイレ行く時はそっと出入りお願いします」と二人に云えば、やっぱりあっさりと「了解です」と返事が返ってきたことがありがたい。
何度目か、休憩室経由でトイレに行った時、彼女は眉を悲しげに寄せ、その頬には涙が一筋流れていた。それを見れば抱き締めたくなる。
勿論そんなことを出来る権利は今の俺にはこればかりもなく、出来ることと云ったら、落ちかかっていたモッズコートを膝に掛け直すことと、流れていた涙をそっと拭くことくらい。
そして、頭を撫でた。
そうすると、ふ、っと寄せていた眉が緩んだのが分かった。
14/01/10 誤字修正しました。