マジック・アワー(後)
突然、音が消えた。
さっきまで、電気屋さんの呼び込みの声やゲームセンターやパチンコ屋さんのドアが開くと聞こえる店内の音、横断歩道の音声案内……色んな音がしていたのに。
信じたくない光景に呆然と立ち尽くしていると、向こうが私に気がついた。
その口が、「夏美」と呟いていた。
突然歩みを止めた中野君を女の子が訝しげに見上げ、その視線を辿って私を捉えた途端、ますますその体を中野君に密着させた。私に、見せつけるように。
――胸は早鐘の様に打っているのに、心が冷えていく。すうっと血が引いて震える指先。あの日みたいに。
また騙された? 私はまた、遊ばれた? ……、違う。違う! 中野君は、そんな人じゃない。
思い出せ。最初の夜に助けてくれてから、ずっとずっと、寂しくないけど怖くない距離で傍にいて、守ってくれたじゃない。
いっぱい優しくしてもらった。傷を、手当てしてくれた。もう一度、ひとを好きにならせてくれた。
この人は私の事を騙してなんか、いない。私の好きになった人は、絶対にそんな人じゃない。
大体、信じてなかったら二人を見て「やっぱりね!」って思う筈だ。そう思わなくってショックを受けたってことは、中野君をもうとっくに信じてたんじゃないの、私。
そう気付いた瞬間、すとんと「信じる気持ち」が手の中に落ちてきた。……なんだ。こんな簡単なことだったんだ。嬉しくて、知らずに微笑んでいた。
その途端に、悪い魔法が解けたみたいに音が戻ってきた。
私は一息ついてから、狭い通りを行く人の間を縫うように渡り、二人に近付いて行く。さっきまでは逃げようかとも思っていたのに。
「中野君」
そのいつも通りの呼びかけに、泣きそうな顔をするのは何故?
「今日、会えないと思ってたから、嬉しい」
素直に伝えてみたら、中野君の強張っていた口元が、ふっと緩んだのが見えた。
「俺も」
「ちょっと、悠」
戸惑っている声がする。私はその声の持ち主であるヒナさんを見て、それから中野君を見た。相変わらず体をぴったりと中野君に寄せているその子の姿を見ても、もう揺らがなかった。
だって、中野君は、静かに私を見ている。疑われることは何もしてないと、その態度が示している。だからと云ってまるっきり平気ではなくって、ちょっとドキドキしながら話しかけてみた。
「初めまして、ヒナさん、だよね?」
話しかけても返事がない……呼びかけ方が馴れ馴れしかったか。ヒナさんの代わりに、中野君が答えてくれた。
「そう、隣の家のジョシコーセーの真山陽菜。バーベキューやった時、こいつと写メったの送ったんだけど」
「うん、覚えてる」
覚えてないで腕を組まれたその姿を見てたら、さすがに信じられる自信がない。私の返事にそっか、と一言云うと、強張っていた中野君の肩のラインから緊張が抜けたのが見て取れた。
私を見つめていた中野君が、今度はすぐ隣のその子を見た。
「ヒナ、高梨夏美さん」
「会社の人?」
きっとちっともそんな風に思ってもない癖にそう問いながら、彼女は私を警戒し続けていた。
「いや」
そこで一旦言葉を切って、中野君はヒナさんに組まれていた腕をするりと解いて、私を見つめる。
「俺の、好きな人」
「……うそ!」
「嘘じゃ、ない。云ったろ、俺はお前を妹としか見られないって。俺には、この人だけだから」
「そんなの、聞きたくない」
「ヒナ」
ふいと横を向いたヒナさんを窘めるように、中野君が名前を呼ぶ。
「あたしだって、……あたしだって、悠のことがずっと好きなのに……」
彼女の足元に、ぱたぱたと涙が落ちる。
「たかなしさん、」
急に、呼ばれてびくっとしてしまった。
「悠を、取らないで。お願い。お願い、します……!」
怖いものなんかない無敵な年頃の彼女は、きっと頭を下げることなんか慣れていないんだろう。
簡単な仕掛けのからくり人形のようにぎこちない動きで、それでも彼女は私に向かって頭を下げる。その、懸命な態度に胸が痛い。でも。
――信じる。中野君のことだけじゃなく、私のことも。
ヒナさんみたいにまっすぐじゃないし、動揺してバカな真似もしたし、大人だからって余裕なんかないし、正直今だって怖い。それでも、好きな人からの気持ちをきちんと受け取って、きちんと自分の気持ちも渡せる人になりたい。だから。
「……ごめんなさい。それだけは、聞けない。だって、」
今が、跳ぶ瞬間だって、分かった。
さあ。
「私にも、中野君だけだから」
中野君が、息を呑むのが分かった。
――やっと、云えた。
その大きな穴を、跳び越えられた。とてつもなく勇気がいることだったように思えたけど、済んでしまえばあっけないようにも感じた。我ながら現金だなあ。
余韻でドキドキする胸を押さえてため息を吐いていたら、中野君が固まっているのが見えた。
「そんなに、びっくりすること?」
赤い顔をごまかすように、笑って見せた。
「あ、や、だって、夏美さんは」
珍しく、動揺している中野君。それを見て逆に落ち着く私。いつもの逆だ。
「呼び方、戻ってるよ」
「……あ、ごめん」
「謝った」
くすりと笑うと、中野君も笑ってくれた。私のだいすきな、お日様みたいな笑顔。それをヒナさんに向けて、俯いた彼女と視線を合わせるように、スーツのズボンの膝に手を付いて屈んだ。
「ヒナ、俺のこと好きになってくれてありがとう。でもな、何度も云う通り、俺はお前の気持ちには応えてやれない。もうこうして二人でお前の兄貴の誕生日プレゼント買いに出かけるのも、恋人じゃないのにくっつかれて歩くのも、これからはなし。この人を傷つけたくないし、この人としかしたくないんだ」
優しいけれどきっぱりと中野君はヒナさんに告げた。
「これ以上、何云われても何されても、心は動かない」
ヒナさんは、それをどう受け止めたのだろうか。
長い沈黙が三人に降りる。
繁華街の道端で、色んな音が洪水のように流れているそこで、私達はただ立ち尽くす。一人は穏やかな顔をして、一人は泣きじゃくって、一人は困惑した顔で。
やり取りが気になるらしい通行人が、『修羅場なのかなあ』と云う表情で少し立ち止まってから、つまらなそうにまた歩いていった。
腕を絡めて、体を寄せて、懸命に告白をして、それでも届かなかったまっすぐな思いに、私は何も云えない。目を伏せていたら、中野君の指が私の顎を撫でた。
「なんて顔してるの」
「だって」
ヒナさんの前で、こんなことしないで。そう思って、慌てて見回せば、もうそこに彼女の姿はなかった。
「……わかってくれた、と思う。」
「……うん」
ごめんなさいと謝るのはおかしいけど、姿の見えなくなったヒナさんに向かって、そう思う。大人なのに不器用だから、このタイミングでしか云えなかった。
両思いになるってことは、こんな風に直接じゃなくてもいつかあなたを傷つけるって分かってた。それでも差し出したままずっと待ってくれてたその手を取りたいって思った。
いっぱいいっぱい、あなたに妬いた。大人げなくてほんと情けないけど。
ヒナさんが羨ましかった。でも、これからはあなたに負けないくらい、まっすぐこの人のことを好きでいる。
中野君に背中をポンと押されたのがきっかけで、人の流れに乗って、二人して歩き出す。指が中野君の手に触れたと思ったら、きゅっとその先だけを掴まれた。
「ごめん、またこんなに冷たくさせた」
「……大丈夫。信じてるから」
「でも、ごめん」
「それより、さっきの分と合わせて三ごめんゲットなんだけど。スペシャルなペナルティ、くらって?」
「ええー? 例のペナルティ、このタイミングで復活?」
折角イイ雰囲気になれたのにとぶうたれる中野君を、小さな公園に引っ張り込んだ。
ベンチに座らせると、「いつでもどーぞぉ」と目を瞑った中野君が観念した声で云った。
「では遠慮なく」
眉間に皺を寄せて、来たる鼻への衝撃に備えようとしている中野君。――残念でした。
私は、中野君の肩に手を添えて屈んで、初めてその唇に、キスをした。
ぴくりと、中野君が身じろぎしたのを感じた。でも、引いてなんかやらない。
合わせるだけの軽いキス。今まで中野君にもらった優しい言葉や私を守る言葉、好きだって滲ませた言葉に隠さない言葉、誘惑する言葉、すべてに返事をするように長く。
好き。大好きだよ。多分、傷が治り切る前に、もう、好きになっちゃってた。
中野君が私にしてくれたことを思えば、遡って最初から好きになるかも。
もう、怖がったりしない。疑いもしない。
だから、そばにいさせて。
――さすがに理性が『外ですよ』と警告したので、名残惜しい気持ちのまま唇を離した。中野君の薄い唇が、今は赤い。
私はそれに手を伸ばして、きゅっと指で拭きとった。
「……あ、口紅」
落ちちゃった。当たり前だ。キスしたんだから。
お化粧直したいなあと考えていたら、口紅を拭いた方の手首を取られた。
「……どうして」
「え」
「なんで、キスしたの」
「したいと思ったから……中野君に」
「どうして」
「え」
「キスしたいと思ったのは、どうして」
「それは、」
決まってる。中野君が好きだから。……ああ、そうか。
くすりと笑った。まだ、言葉できちんと伝えてなかったね。
取られたままの手首を自分の方に寄せて、手首についてきた大きな骨ばったその手の甲に、そっとキスをした。そのまま、「好き」と告げる。取られた手首をくるりと返して、掌を下に滑り込ませれば、恋人繋ぎの出来上がり。私の手首を掴んでいた中野君の手の上から、掴まれていなかった方の手を重ねる。そうして両手で中野君の手を包み込んだ。
中野君を見つめたら、今まで見た中で一番嬉しそうな顔がそこにあった。
「いっぱい、待たせちゃった」
「いいよ、ちゃんと手に入ったみたいだから待っただけの甲斐はあった」
「でも、ごめんね」
それはただの謝罪だったつもりなのだけど、中野君の笑みを見て、あ、やっちゃったと気付いた。
「謝ったね?」
「……謝ったよ? どうぞ?」
立ったまま赤い頬を差し出せば、中野君はベンチから立ち上がって、差し出したそこではなく耳に唇を寄せた。吐息と一緒に、「ありがとう。夏美のこと、大事にする」と囁かれて、離れ際に耳たぶにキスを落とされた。
「……これペナルティ?」
私、もうキスされるのを戸惑ったりしないと思うし、されれば嬉しいだけなんだけど、それってペナルティとしては効果はないんじゃ。
「何でもいいよ。云いだした時は、夏美にあれ以上ごめんて連発させたくなかっただけ」
「そうだったの?」
「そうだったよ、でも」
にやりと笑われた。
「下心もアリ。男ですから」
そんな実情を暴露された。
「行こう。夏美、ご飯はもう食べた?」
「ううん、まだ」
「じゃあ、ご飯のおいしいとこに行こうよ。何が食べたい?」
「んーそうだなあ……」
いつも狙い澄ましたように、いい雰囲気のおいしいお店へと連れて行ってくれる中野君に今の気分でリクエストを囁けば、「了解。こっち」と恋人繋ぎのままだった手を引かれて通りに戻った。
見上げた空が、赤と紫と金色に染め上げられている。マジックアワーだ。
その名の通り、魔法みたいに美しい空の色。うっとりと眺めていたら、「綺麗だ」と中野君が云った。
「ほんと、綺麗」
こんな風に、二人してずっと同じ景色を眺めたいな。そう思っていたら、「違う」とすぐに否定されてしまう。
何が? と目で問えば、「――俺が綺麗だって云ったのは、空じゃなくって、夏美」とクサい台詞を頂戴した。
それが冗談じゃないのは目を見て分かったのだけど、そんなことを云われ慣れていないので、嬉しいやら恥ずかしいやら困るやら。
でもそれはあっちも同じだったらしく、真面目顔はすぐに照れた笑顔になった。
「いや、結構本気でそう思ったんだけど、口に出すとクサいねー」
「……せっかく嬉しかったのに台無しだ」
「え、ほんとに? 引かなかった?」
「ちょっと引いたけど嬉しいのも本当。……でも、連れて行ってもらうお店で『君の瞳に乾杯』とか云わないでね」
「駄目かなあ? 『今夜は帰さないよ』も云おうと思ってたんだけど」
手を繫いだまま、二人してお腹がよじれるほど大笑いした。
ひとしきり笑って、腹筋と顔筋が通常モードになる頃、中野君はよそを向いたままぽつりと云った。
「『今夜は帰さないよ』は、結構本気でそう思ってるよ」
「うん」
繋いだ手を離したくない気持ちなら、負けない。
「俺、独占欲強いよ」
「うん」
これだけじっくり攻められて、手に入れた後はアッサリだったら逆に泣く。
「どうぞ、お手柔らかに」
色々含んで投げかけると、困った顔した中野君がいる。
「手加減できるといいんだけど」
「全力で手加減して」
「夏美、それ変だよ」
「変でもそうして」
「うーん、自信ない。だって、」
あの下着姿を、また拝めると思っただけでもうヤバい。
その一言で、抹殺したいあれが、中野君に軽蔑されてないって分かって、泣きたい位にホッとした。――でもだからってそんなことを、人通りの多いところでさらっと云わないでほしい。
私は無言でほっぺを抓った。非難の声が聞こえたけど自業自得だ。
「痛かった? ごめんね?」
わざと聞いてやれば、「……これで、チャラ」と、信号待ちのスクランブル交差点の最前列で、キスをされた。ほっぺじゃなく、唇に。
しまった謝るのはむしろお誘いだったと、軽率な自分を反省しつつ、衆目を集める中でそのキスを堪能した。
歩き出す直前までそれは続いた。周りの皆さんすいません。思いがようやく通じ合ったんで、見逃してください。
信号が変わって歩き出せば、キスしたこともキスした私達もあっという間に雑踏に紛れた。
下着の上にトレンチコートを纏って深夜のファミレスに駆け込んだ私と、そんな私にとびきり優しくしてくれる中野君のお話は、これでおしまい。
17/06/28 誤字訂正しました。