マジック・アワー(前)
どうやって、今まで好きな人を信じてた?
どうしたらあの人を信じられるの? 「信じます」と唱えたら、私の心は言霊に縛られてくれる?
それは永遠に、絶対絶対消えない? ――こどもみたいな言葉が、ずっと胸の中にある。
頭の中の男性像が、元彼から中野君にシフトしていく。駄目になった恋の痕跡は、どんどん中野君で上塗りされて、埋め尽くされる。――好きに、なる。なればなるほど、中野君を信じられないことが苦しい。まだ信じ切れない自分にがっかりして、ずっと心を寄せてくれている中野君に罪悪感を覚える。気持ちが一つ高まれば、同じ分だけ足が竦んだ。
どうしたらいいのかな。
夕暮れの遊園地でたった一人、途方に暮れる迷子の気持ちだ。キラキラとライトアップされてて、わくわくするような音楽が流れていて、周りは楽しそうなのに自分は風船だけをお伴にしていて、心細くて泣きたくなる。二十六にもなって迷子も何もあったもんじゃないけど。
傷は、何とか癒えた。中野君にあれこれお世話してもらったおかげだ。一人だったら多分、もっと時間がかかってた。
傷跡は大きく残ってる。でもそれが当たり前だ。何もかもまっさらに、なかったようには出来ないから、思い出を消すことも出来ない。
あのファミレスから向かった駅前は中野君の家の最寄駅と云うこともあって、時々待ち合わせに使うようになった。初めのうちは見るものすべてが元彼に繋がっていて苦しかったし、もし会ってしまったらと思うと怖かったけど、ドラマみたいなそんなこともなくって気持ちは徐々に薄らいでいった。今は、一瞬切ない記憶がよぎるだけ。
時が経つにつれて、元彼との事はだいぶ冷静に振り返れるようになった。
恋が駄目になってすぐの頃は、元彼ばっかり悪者みたいに考えていた。騙されたこっちには非がない、とでも云う様に。でも、多分そうじゃない。騙されたことは事実だし、今でも許せないけど、私だって、きっといけなかった。お部屋の間取りとか、違和感を感じていたことはちゃんと聞いていれば都合のいい女に成り下がることもなかった、かもしれない。
私は元彼に踏み込まないことで、元彼は私に嘘を吐くことで、二人で恋を駄目にした。……もっと、きちんと向き合えればよかったな。個人的な希望だけど、ちょっとのちょっとは、元彼が私を好きだったことがあればいいなと思う。嘘だったかも知れないけど、やっぱり私にとってはあれは恋で、幸せだったことまで否定は出来なかったから。
髪が伸びて、新年度になって、少しだけ仕事が増えた。
あの日の朝、弱弱しかった光は季節と共に強さと温かみを取り戻して、今はちりちりと日差しが暑い位。
毎晩、中野君からの連絡を楽しみに待つのは変わらない習慣になった。もうSOSを訴えることはなくなって、かわりに私からもちょっとしたことをメールしたり。そんなことが、嬉しい。
ゆっくりと時間をかけて、大きな船が方向転換するように自分の気持ちは中野君の方に向かってようやく歩きはじめたけど、それを伝える術はまだない。
足りないのは、勇気と、言葉と、委ねる心。助走して、ぐっと膝を曲げて、ジャンプして、そのぱっくりと開いた大きな穴を跳び越えて向こう側に行きたい。そう思うのに、いざその穴の前まで出ると、足が竦んで動けなくなってしまう。
きっかけがあれば。――きっとそれは、誰かに背中を押されるのではなく、自分で見つけなくちゃいけないことなんだ。
季節はぐるりと半周を描いて、初夏を迎えていた。元彼と過ごした長さを、中野君はあっさりと超えた。水たまりを迂回せずに大股の一歩でぴょんと跳び越えたいつかの雨の日の、こどもみたいな中野君のそのやり方に笑ったことを「超えた」と云う言葉で思い出し、一人でまた笑った。
お好み焼きや、居酒屋や、時にはビストロへ、私と中野君は食べ仲間みたいに連れ立つ。でも、揺さぶる言葉や思いを隠さない目や、時には『車来るからこっち歩いて』と引かれる手があったりするから、私達は多分、もうただの友達じゃない。
毎週付き合わせるのは気が引けて、相変わらず一週は空けて誘ったり誘われたりしてた。
『俺は毎週会いたいのに。てか、土曜も日曜も会いたい』
最近は、私が困って俯くことも少なくなったせいか、中野君は前よりもストレートに言葉を投げかけてくるようになった。とは云え、受け止める側の私は、俯く代わりに顔を真っ赤にしてしまうのだけれど、それを見るたびに中野君は何故かとっても嬉しそうにしている。
『そんなこと、云って。お友達と遊ぶ時間を削って無理して会ってもらうのは、困るよ?』
『ちぇ。つれないね、夏美』
そう云って肩を竦める明るくて優しい中野君には、案の定友人がたくさんいた。
私の友人もそうだけど、まだまだ結婚なんてしていない人が多いんだろう。私と会う約束のない週末は、大体いつも楽しそうに仲間と吞む姿がメールに添付されてくる。その呑み会の写真の中に、女の子の姿も割と高確率でいつもあって、――呑み会じゃなくても、お隣に住んでいると云う、仲のいい三兄妹とのバーベキューの時に撮った写真でもその妹さんに密着されていることもあったりと、内心穏やかではない。
『自撮りしてたらスキンシップ過剰な妹分に腕組まれちゃったけど、俺は夏美のものだからどうか誤解しないでください』
そんなあっけらかんとしたメールと、添付された画像に写る中野君が困った顔をしていなければ、とっくに逃げ出してる。
別に、気にしないよ。
そう返そうかとメールを打ち始めたけど、どうしても嘘は吐けなかった。全文、消去。
気になってるよ。すごくすごく、気になってる。
何で、隠しておいてくれないの、とか。でも、隠されたら隠されたで、露見した時のショックは大きいし、とか。隠さないってことは、隠すようなことがなかったってことなんじゃないの、とか。
心の中で、いくつも違う色のボールが飛び跳ねているみたいにざわざわと忙しい。――正直に云えば、これは『やきもち』、だ。
でも、お返事お待たせしてる分際で、やきもち妬く資格なんてないじゃない。
結局、『いいなぁ、バーベキューおいしそう。』と、そのことには触れずに返した。中野君も、それ以上踏み込んでくることはなかった。
その画像の中で中野君の腕に絡んでいたとびきりかわいい女の子のことは、たびたび中野君の話に出てきていた。
お隣に住んでいる、ヒナさん。
中野君が『ずっと一緒に育ったから妹同然だよ』と笑うその背景に、嘘はないかとまた疑ってかかる私。だって。
ヒナさんは、赤の他人の私が分かるくらいに、中野君への気持ちが明け透けだから。
――うらやましい。
今の私は、あんな風には動けない。
『参ったよ、ゲームで勝負して負けたら、ヒナに名前、呼び捨てされるようになっちゃった。負けてなおかつ敬われてないって何よ』
対等に、恋の相手として見てもらいたいんだよ。
『バレンタインにチョコケーキ焼いたのもらったんだけど、途中で作るの放棄してたからほぼ上の兄貴製だって。うまかったけど男から男って、……ねえ?』
手作りって云うところでもう気持ちが分かる。途中までだとしても、その心意気だけでその行事に不参加の私は完全に負けてる。……二月の時点ではまだ、気持ちがそこまで育っていなかった、と云い訳。
すごく一生懸命で、まっすぐで、眩しい。
同じ人を好きになっているのでなければ、応援したい位だ。――応援出来ない癖にちゃんと告白も出来ていない、駄目な大人。
『好き』とただ一言、時間にしたら一秒程度の事。云ってしまえばいい。
それでも、目を見つめてその言葉を云おうと息を吸っても、いつも途中で空気が抜けるみたいにヘタレた。
あんまりあっさりと中野君がヒナさんの事を口に出すから、もしかして気が付いてないのかなと思ったけど、でも他人の恋愛事情に物申すなんて出来ないしと、話のたびにリアクションに困っていたら、「……実は、ヒナからたびたびアプローチはされてる。その都度断ってるけど」とため息交じりの申告があった。
「こんなこと、ほんとは夏美の耳に入れない方がいいかもしれない。でもヒナは云わないでおけるほど俺と接触の少ない相手じゃないし、そもそもあいつのことは妹としか思ってない。俺が好きなのは夏美だから」
ああ、今云いたい。「私も」「好き」って。
何度も、何かを云いかけたりやめたりしている私を見て、中野君もいい加減私が口にしたいことが何か、分かっているんだろう。焦れた様子も見せないまま、じっと見つめられているのが分かる。でも。
――今日も、云えなかった。
諦めて、謝りの言葉が口から出そうになった瞬間、「云わないで」と止められた。
「このタイミングでごめんて聞くのは、さすがにキツい。……ペナルティも、もうおしまいにしよ?」
そこでタイミングがいいやら悪いやら、中野君の携帯の着信音が鳴った。サブディスプレイを見て、ちょっと電話してくる、と中野君は足早に店の外へと出て行く。大股歩きの後ろ姿が不意にぼやけた。慌てて目元をハンカチで押さえる。
云いたかったごめんは、気持ちに応えられなくてごめんじゃなくて、勇気が出なくてごめんだった。だけど多分誤解させた。
最初のペナルティは、びっくりした。
二度目のペナルティが、嫌じゃなかった。何が来るか分かっていて、逃げる選択肢まで丁寧に与えられてもそうせずに、頬にキスが落とされればドキドキした。
「……好きです」
ぽっかりと空いた向かいの席になら云えるのに、ね。
ふり絞った勇気を簡単に駄目にするのは、過去の自分。
初対面の男の人に下着姿を平気で晒す、軽い女だと、どうか思わないで。自分でしておいてそう願ってしまう。
はじめの迂闊な行動が、今ごろになって苦しい。自業自得、だ。
本当は軽蔑されていたら、どうしよう。そんな人じゃないって分かってるけどそうされたって仕方がないことだ。
席に戻ってきた中野君は、席を立った時の苦しげな顔などこれっぽっちも見せずに接してくれる。
赤い目を気付かれたくなくて、「呑み過ぎちゃった」と眠いふりをしてしばらく目を瞑っていた。
それからも、友達と恋人の間のラインをゆるゆると行き来しながら、隔週の約束を重ねた。気持ちを自覚してからは、会えば会うだけ、どんどん好きになった。
この頃になると、ぽつぽつと会社の男性社員から食事に誘われたり、時にはお付き合いを申し込まれたりすることもあった。けど、誰にも心は動かず、お断りさせてもらっていた。
中野君が、最初に声を掛けてくれたから、だから好きになっちゃったのかな、自分は好きって云われれば誰でもいいのかなと、自分の心の在り様も疑ってた。でも、他の人からも気持ちを伝えてもらったことで、誰でもいい訳じゃないって分かった。――私はちゃんとこの人のことが好き。
そんなことがとても嬉しくて、とても、苦しい。
表裏一体のその気持ちが、木の葉のように積もっていく。
云いたいひとことは依然口に出せないままだった。
大体、お誘いのメールは会う前の週の前半までには戴くのだけど、珍しく今回はなかった。
なので木曜日、定期便のようにきちんと届けられる夜のメールの返信がてら、来週の金曜日に会えるかこっちから聞いてみた。お返事はすぐにやってきた。
『ごめんね、ちょっと用事があって。来週、土日のどっちかは?』
『こっちもごめん、土日に用があるの』
土曜日の昼過ぎから友人宅に泊りがけで遊びに行く予定を入れてしまった。
『残念。それじゃ、さ来週かな?』
『だね。来週入ってからまた決めよう?』
『了解。おやすみ。』
通信を終えて静かになった携帯をぽいとテーブルに投げた。思いのほか大きな音が出て、動揺する。――会えないことが思いのほか残念だ。
隔週の週末に会えないのは、初めてだった。
週末に会うって云うのは別に厳守の決まりじゃないし、来週の月曜にでも火曜にでも、中野君の都合を聞いて、なんなら今週末にだって会えばいい。そう思って、会えませんか? ってメールを作成して保存したけど、送れないうちに誘えそうな日が過ぎてしまった。
金曜日に早く仕事を上がれるとなんだか得をした気分になる。久しぶりに誰とも約束のない金曜。――中野君に誘われるようになってから、隔週に当たる金曜日はなるべく空けて、友人とはそれ以外の平日に会うようにしていた。
約束のある週は週末を迎えるのが楽しみだったけど、ないと分かっている週は味気ない。だからって、ぽっかりと空いた週末に誰かと会う気にもならないまま、いつも隔週で会っていたその人に会えなかった金曜日を迎えた。――大丈夫、来週は会えることになってるから。萎んでしまいがちな心を、そうして宥める。
早く帰るのはもったいないような気がして、用もなく街をぶらぶらする。本屋さんをゆっくり回ってみたり、気になっている呑み屋さんを外からチェックしたり、デパートで服を見たり。結局、この日は購入するほどお気に入りな何かは見つからず、さて帰ろうと駅に向かう為、通りに出た。
雑踏の中、中野君にそっくりな人を狭い歩道の反対側の人の流れに見かけた。
「ヒナ、腕離せ、ほんとに迷惑だってば」
「やー! 離さないもん」
やりとりしている声まで彼そっくり。
今にも振りほどきそうなその人のスーツの腕に、とびきりかわいい女の子が笑いながら自分の腕を絡めていた。――ああこれは、見覚えがある。
いつか送られてきたメールに添えてあった写真と、そっくり。というか、ほんとにそのまま。女の子も構図もスーツの人も。
中野君にそっくりな人は、中野君で、くっついてた女の子はヒナさんだった。
14/01/10 一部修正しました。