癒されたり、
道端で気の済むまで泣いていたら、そのうち胴震いするほど寒けを覚えた。朝の光は頼りなく、薄い。日差しがあっても、震えが止まるほどはあったまらず、むしろ足元から強烈に冷えが来た。
私を好きに泣かせてくれた中野君だけど、寒さで震えているのを見て取るとさすがに立ち上がる様促された。
「なんか、あったかいものでも飲みに行こうよ」
のんびりとそう声を掛けてくれる中野君の方が、薄着なんだからよっぽど寒い筈だ。回らない頭でようやくそう気が付いて歩き出し、駅のコーヒーショップへと向かった。
オーダーを済ませてから、またもやトイレで着替える。ネルシャツと間に合わせの半袖Tシャツを脱いで、保温肌着から元の服を着込めば、ようやく震えが収まり、馴染みのある服を着たことで人心地がついた。着替える際に脱いだトレンチコートは腕に掛けて、借りていたネルシャツを畳んで手にして席へ戻ると、私のココアと中野君のカフェラテが彼の手でテーブルに運ばれていた。
「おまたせ」と小さく声を掛けてネルシャツを手渡した。
「ありがとね。あったかかった、とっても」
「それならよかった。……分かってたけど、やっぱり綺麗だ、夏美」
中野君が下着姿でもミニワンピみたいなネルシャツ姿でもなくなった私を見て、そんな風に云ってくれた。
その賛辞を素直に賛辞と受け取れなくて、嘲笑いながら席に滑り込む。
「……どこが? 夜中、下着にコートでファミレス行くような女なのに」
口を付けたココアは熱くて、舌が焼けそうだった。
「それはあいつのせいじゃん。それに、そんなの知らなくったって席についた時にはもう目が離せなかったよ。――あの短い時間で、好きになってた、俺」
ふざけないで、今そんなからかいはうまくあしらえないんだから。
そう返そうとしたら、思いのほかしんとした佇まいの目が私を射るように見ていた。
逃げるように再びカップを手にするけど、口までうまく運べそうになくてソーサーに戻す。そのまま手をテーブルに投げ出していたら、中野君もソーサーにカフェラテを戻していた。両手を組んで、少しだけ顔を傾げて私を見ている。
「……今俺が云ったこと、信じる?」
笑っているけどどこか寂しそうな表情は、私が信じていないのを知っている。気が付いたら、心を漏らすように声が出ていた。
「信じたい、けど……」
「うん」
今は無理だ。云えずにいたのに、それすら聞こえたように中野君は囁いた。
「いつか、信じて」
その言葉があったかくって、凍った心が解凍するみたいにまた涙が零れた。
「バカみたいでしょ、いい年した女がよくある話でこんな泣いて、取り乱して」
泣きすぎて赤くなった目と鼻をティッシュで押さえてぼそぼそと申告すると、中野君はばっさりとそれを否定した。
「よくある話かもしれないけどさ、夏美には特別な痛みなんだろ? 嘲ることなんかない。ちゃんと悲しんでいいんだ。傷が痛いって泣いてよ、そしたら俺優しく出来るよ。消毒だって、ガーゼ交換だって毎日する」
その口ぶりにくすりと笑えた。
「ほんとの傷みたいに云うのね」
「ほんとの傷がついてるんだよ……見えなくても、この中に」
そう云って、私の胸の方を指差す。昨日確かに私もそう思った。どくどくと、真っ赤な血を流しているんだと。でもそれを中野君に云ってもらえるとは思わなかった。
「夏美、お店ですっごい頑なだった。『ドントタッチミー!』って威嚇しまくりで。だから気が付けたんだけどさ」
「……そっか。これ以上傷つかないように分厚くバリアを張ってたのかな」
「多分。ね、そのバリア役、俺にやらせてよ。さっきみたいにさ」
壁になってくれた。
直接やり取りしないようにしてくれた。
元彼の声さえ、遮断してくれた。――でも。
「そんな、甘えられないよ」
それは、好意を一方的に利用するみたいに思えたし、中野君の優しさに今の時点ですでにどっぷり甘えているのは分かっているから、早くその手を離さなくちゃと思っている。
「いいよ、俺はただ守れればそれでいい。今すぐどうこうって、云わないよ。傷ついてる女の人に付け込む真似したくないし。でも、傷が治った時に、俺のことも見てくれたら嬉しい」
離そうと思っていた手を逆に捕まれたような返事がきて困った顔になった私に、中野君は「ま、気軽に考えて」と何でもない風に云ってくれた。
「さて、じゃあメールアドレスと携帯の番号教えてくれる?」と中野君は付け込まないって云ったその舌がまさに乾かぬうちに、あっさりと聞いてきた。
え、今云ってたのは何だったのとびっくりして顔をまじまじと見れば、「だって、トモダチでもアドレス交換位するじゃん……」と拗ねられてしまった。中野君がそっぽを向いて頬杖をついている姿に苦笑しながら、「わかった」と携帯を出して赤外線通信をした。
そして、何気ないメールのやりとりが始まった。
はじめは、大体夜の一〇時から一一時の間にやってくるメールに、約束をちゃんと守る人だなあとただそれだけを感心した。こんなに心が動かないつまらない女を相手にするより、合コンにでも行けば結構な確率でカワイイ子を釣れそうなのに物好きな人だ、と他人事のように感心しながら、短い返事を送った。
そのうち、定期的に訪れるメールに和むようになった。
『近所のピレネー犬に顔を舐められまくりました』とか『たまたま入ったタイ料理屋さんが大当たり! 甘すっぱ辛ウマ!』なんて内容に笑っている自分に気が付いた。
今は、夜になるとメールの着信音を心待ちにしている。
メールで、あの日の事を一切語られないと分かったのは、いつ頃だろうか。随分経ってからなのは確かだ。しばらくは、心が尖っていながら鈍っていた。とげとげしい気持ちが鳴りを潜める頃になって、ようやくその気遣いに気付けた。
少しずつ警戒心が剥がれ落ちていくのが分かる。と同時に、臆病な自分がまだ駄目だ、浮かれるなと云う。
親切にしてもらってそれを自分が受け入れられたのは、ただ心配されているだけだと思ったからだ。そしてその延長で差し出された手に、懐いた。
――恋愛対象になっていたことを知り、戸惑い、勝手に疑心暗鬼になっている。
まだ自分の気持ちがどこを向いているのかも分からず、何も伝えていない。中野君の手の中のカードだけは知っている。そのくせ、付き合ってもいない人の気持ちを『いつ離れるのか』『また騙されるんじゃないか』と疑ってしまう。そんな風に思うのは中野君に失礼だって分かってるけど、でも。――ああもう!
こんな自分が、嫌になる。
良くしてくれる人を頭から疑ってかかって、差し出された気持ちを素直に受け取れないだなんて。
元彼が私に残した傷は、意外と深いんだなぁ。そう自覚した途端、元彼が元彼になった日の事が、覚えのある痛みを伴って写真をまき散らしたように鮮やかに蘇った。
まだ、こんなに痛いか。そのことに打ちのめされる。もう、吹っ切れたつもりだったんだけどな。そう思いながら、のろのろと携帯を手に取った。
『思い出しちゃった。痛い。』
中野君に、SOSを発信した。
いつでもいいから。辛くなったら電話でもメールでもして。ひとりで泣かないで。
事ある毎に、ついでのようにさらりと落とされていた一言。今までも辛いことも泣くこともたびたびあったけど、そのことでメールなんて出来ずに、一人でやり過ごしていた。今日初めて、SOSを素直にメールする。
ほどなく、携帯の着信音が静かに鳴った。メール画面には一言、『痛いのは、傷が治ろうとしている証拠だよ。』とあった。
今はもう、傷ついたことで痛いんじゃないと云ってくれた。それを前提とするなら、私の心は、ちゃんと前を歩き始めているのか。なら、気持ちも。――今すぐは無理でも、いつか、誰かを。
季節が移ろってゆくうちに、ゆっくりとそう思えるようになった。
あの日、深夜のファミレス発・元彼のオネーチャン宅経由・駅前行きの朝、私はコーヒーショップを出たところで中野君におずおずと申し出た。
「ネルシャツお返ししたんだけど、やっぱり洗ってから返してもいい?」
その言葉には、朝の光より眩しい笑顔が返ってきた。
「や、そんなのは全然気にしなくっていいんだけど……よかったー!」
「何が?」
「これきりにされないみたいで」
「だって、連絡先も交換したじゃない」
拗ねちゃった顔を思い出して少し笑った。
「あんなの、着信拒否してアドレス変えられたらもうどうしようもないじゃん。でも夏美は、俺とまた会ってくれる気、あるんでしょ」
「うん、まあ、お世話になったから一度ちゃんとお礼もしたいし……って、ちょっと、中野君?」
「何、夏美」
「……それっ! なんで、呼び捨てなのっ!」
「え? それ今聞くタイミング?」
何回も俺呼んでたよねと笑われた。
「今、気が付いたの! ……色々あって、動揺してたから……」
常ならあり得ないことだらけだ。
いつも穏やかな恋愛をしていた自分に、降って湧いたようなまさかの恋愛トラブルとか。
真夜中のファミレスで水を掛けられるとか。
挙句の果てには、……初対面の男性に下着姿を晒すとか。嘲るように『下着にコートでファミレス行くような女』と云ったのはほかでもない自分自身なのに、そうしたことで誰かに傷つけられたみたいにひりひりと痛んだ。
とても顔を上げられなくて俯いていたら、優しい手が頭を撫でた。
「そうだね。夏美、よく頑張った」
嘲けたそのことさえまるごと包み込むようなその手に、困惑する。
「……それ、やめて?」
「なんで?」
「だって、兄妹設定で呼び捨てしてた筈なのに」
「だって、そう呼びたかったんだもん」
そんな甘えたような云い方をされても、今の私じゃ困るだけなのに。
「夏美も俺のこと下の名前呼び捨てしてくれていいよ?」
「下の名前知らないから」
やんわりと断った。ファミレスのネームプレートには名字だけだったから知らないのは本当。
「悠司」
「……知ったら呼ぶとは云ってない」
「ちぇ。駄目か」
結局、呼び捨てしないでと重ねて云うタイミングを逃したまま、その日はそのまま駅で別れた。――それからも呼び方は変わらなかったけど、はじめのうちの閉じた心では訂正するのもおっくうで、投げやりな気持ちのままスルーしていた。慣れた頃にはもう『やめて』と云う気をなくしてしまった。戸惑いつつ、だんだん嬉しくなっていたから。
ネルシャツ等々のお礼をするという名目でご飯を食べに行った。初めての待ち合わせは夜で、バイトはいいのかなと首を傾げた私の前に現れた中野君は黒のハーフコートにスーツ姿だった。それも、リクルートな感じじゃなく、そこそこ着慣れた態の。
「中野、君?」
お兄さんとかじゃないよね。
ちょっと混乱しながら問いかけると、彼は大股で私の方に歩いてきた。着ている物は違ってもその歩き方は見覚えのあるものだったので、ほっとする。
「お疲れ。今日の、OLさんーって感じの格好もイイね」
「何云ってんのっ。それより、その格好は? 今日は、バイト入ってないの?」
慌てる私と対照的に、中野君は落ち着いている。あーあれ、と口の中で呟き、私の横に並んで歩き出した。
「まあ、まずはお店に行って落ち着こうよ」
ね?とにっこりされて、頷くしかなかった。
連れて行ってもらったお店でまずはと二人ともビールを頼み、いくつか食べるものもオーダーし、乾杯で喉を湿してからもう一度さっきの疑問をぶつけると、答えはあっさり返ってきた。
「俺、普段は普通に働いてるから。あそこはピンチヒッター」
「ピンチヒッター?」
「そ。大学卒業するまでバイトしてたから二年前まであそこにいて、就職する時にバイト辞めたのね。んで、今、幼馴染で仲いい奴が夜間店長やってんだけど、どうしても夜間シフトが埋まらない時がたまーにあってさ。スタッフが確保できないとどう困るのか嫌ってほど知ってるから、そいつにヘルプで呼ばれると断りきれなくて、引き受けてたの。休み前の予定ない時だけね」
休み前――まさに金曜の今日は大丈夫なのかな。てか、やっぱり年下なんだ。私の、二コ下か。
「でも最近はスタッフをうまく廻せてるみたいでほとんどお声が掛からないんだ。こないだもふた月ぶりだったし、多分もう入らないし」
「なんで?」
「……さぁね」
その日は、何度聞いてもはぐらかされてしまった。
14/01/10 誤字修正しました。