嘘
コンビニでタイツとTシャツを入手して、トイレを借りて着込んだ。中野君のネルシャツを返そうとしたらまだ着てなきゃダメと云われて、借りっぱなしのまま駅へと連れて行ってもらった。理由は簡単、駅からのルートしか、覚えていないからだ。この街は私のテリトリーじゃないから。
『あそこ』からどうやってあのファミレスにたどり着けたのか、未だにわからない。そんななので、駅から仕切り直し。
昨日はものすごく彷徨った筈だ。『あそこ』を出た後、ファミレスに辿り着くまで優に二時間はあった。なのに、この街をよく知っているらしい中野君に案内してもらって歩いて行けば、コンビニから駅までは二〇分程度で着いた。
七時を半分過ぎた駅は、土曜だと云うのに通勤の人たちで軽く混み始めている。その人の流れを何となく眺めていたら、「あの、さ」と、強引なくせに優しい中野君が、聞いてもいいのかどうか逡巡している様子で私に聞いてきた。
「これから行くのって、彼氏のおうち?」
「彼氏、と云うか、元彼と云うか」
詳細を話さないままそこに向かう気はなかったので、どう切り出そうかなと思っていたところだった。
「二股か、三股か分かんないけど、どうやら私はつまみ食いだった、みたい」
昨日の夜までは大好きだったひと。
真面目で、誠実に見えた。チャラくない外見をそのまま人柄だと信じてた。忙しくてなかなか会えないと云われた言葉も、何もかも。
「お姉ちゃんとね、住んでいるから、おうちに泊められなくてごめんて謝られて、それ信じてたら、一緒に住んでるのは『オネーチャン』だった。そこへ遊びに行くときはいつもその人はお仕事で不在の日で、会ったことなくて分かんなかった」
せっかくだから一度お部屋にいらっしゃる時にでもご挨拶したいって彼に何度か伝えてみた。いない間にこそこそ出入りするなんて、いい大人がすることじゃないから。
『わかった』と彼はそれを受け入れて、『でも』とすぐに続ける。『あの人も、なかなか忙しい人だから』そう云われてしまうと、それでも会って欲しいと云うのは私のわがままみたいに思えて、『じゃあ、そのうちに』って答えるしかなかった。
すっごく綺麗な人だった。
明るい色の巻き髪からネイルから服から、何もかもが私と違っていて。
彼女の何が不満で、私に手を出したんだろうって、そこを飛び出した後、知らない街を彷徨い歩きながらそればかり考えた。
「昨日もね、遊びに行った時『お姉ちゃん』はお仕事でいなかったの。そしたら、その日は帰らない筈のその人が帰ってきて」
リビングのドアが開いたのは、私と元彼がソファでキスを交わしている最中だった。それだけじゃない。
二人の服は、ソファの周りに落ちていた。避妊具さえ、用意してあった。何をしようとしていたかなんて、丸わかりだ。
『……あたしのソファで、何してんの』
綺麗なその人は、綺麗な眉を顰めて低い声でそう云った。
ひんやりとした、とても静かな声だった。
『お、姉さんですか?すみません!』
お姉さんにようやく会えたと云うのに、初顔合わせがこんな下着姿だなんて。恥ずかしくて顔から火を噴きそうだ。
私が慌ててソファから下りると乾いた嗤い。彼を見る目は鋭く細められていた。
『へええ。あたしあんたのお姉さんなんだー。こんな女癖悪い弟なんか持った覚えないけど?』
……それでやっと、その人が『お姉さん』ではないのだと分かった。
『もう少ししたら仕事にひと段落つくから、旅行に行こうか』
『同居やめて引越ししようかな。そしたら、夏美ともっと一緒にいられる』
そんな言葉を、真正面から受け止めて信じていた。いっぱい、夢みたいなことを聞かされたけど、まさかほんとに夢だなんて思わなかった。
デートらしいデートは付き合うまでで、『おいで』と呼ばれたら彼とお姉さんの、もとい、オネーチャンのマンションへ行くと云うのがこの半年のパターンだった。いつでも、行けば嬉しそうにしてくれたし、仕事が忙しいとこぼす彼を外出に連れ出すよりはゆっくり休んで欲しかったから――今となってはそれも本当か嘘かも分からないけど――私は、疑うことなく彼に恋をしていた。
半年と云う、決して刹那的でも短すぎる訳でもない付き合いの間、それでも私がその部屋で料理を作ったり、身の回りの世話を焼くことはなかった。『夏美の料理、すごく楽しみだけど、作ってもらうのはもっとゆっくり時間が取れる時でいいよ』って、やんわりと拒絶された。何か役に立とうと申し出ても、同様に。
今までの彼の態度が、すべて黒のオセロになって私の心を埋め尽くしてゆく。
もう、何が本当で何が嘘かなんて、私には分からない。
インテリアには『お姉さん』の趣味の良さがうかがえる一方、『弟』の彼の趣味はあんまり反映されていないように思えた。
小さい窓にちょこんと飾られていたマトリョーシカ。それを、手に取って眺めようとしたら、『あの人雑貨にウルサいからさ、勝手にいじると怒られちゃうんだ、ごめんね』と、伸ばした手はそのまま絡め取られた。その困った顔と、お姉さんに頭が上がらない様子がかわいいなぁなんて思ってた。
同居の割に部屋数が足りないんじゃないかとどこかで思いながら、それでも彼に会えれば嬉しくてそれだけで胸がいっぱいになる。小さな疑問はどこかに飛んでいった。聞いていたら、こんな風にはならなかったかもしれないのに。――今思ってみても仕方がない。分かってるけど。
どうしよう。どうして。どうしたら。突然の事態に、頭が働かない。
すうっと冷えた指先と、止められない震え。
元彼はオロオロする私とは対照的に、慌てる様子も見せず少しだけ眉を顰めて淡々と云い放った。ああ、不機嫌な時の顔だ。それだけは分かった。それしか理解出来なかった。
『前から俺に付きまとってたこの女がここへ押しかけてきたんだ。俺は迷惑だからやめて欲しいって何度も伝えてた。でも、小百合には心配かけたくなくて黙ってた。一回抱いてくれたらもう付きまとわないって云われて、それで……ごめん』
そんなことを、云われた覚えはない。云った覚えも。そして、嘘云わないで、と抗議するより、傷付くより、その時はするすると生み出される嘘にただ驚いた。
この人は、誰だろう。私の知ってる人は、こんなこと云わない。もしかして別人なんじゃないかとさえ、一瞬考えた。
「……元彼に、いーっぱい嘘吐かれちゃった。彼女さんは冷静で、『どうでもいい。二人とも早く出てってくれる?』って、それだけ。何かね、惨めになっちゃって、早くここから出なくちゃってそれだけ考えてたら、洋服着るの忘れて、でもそれ気が付いたのめちゃくちゃに歩き出してからで。気が動転するにしても、程があるよね」
彼女が帰って来る直前、一枚ずつ服を落としながら『好きだよ』って云ったその甘い口調はどこにもなくて、びっくりするほど冷たい言葉と目だった。自分に向けられていたもの全部が嘘だって、……恋愛感情まで嘘だって云われた様で、悲しかった。
言葉を続けられずに口を噤んでしまった私を、中野君がそっと包み込むようにやんわりと声を掛けてくれた。
「ごめん、辛いこと話させちゃったな」
「そんな。ここまで付き合わせておいて云わないとかないでしょ?それより」
私は何とかいたずらっぽい顔を作り出した。
「ごめんねは禁止だったよね?はい、ペナルティ」
高いその鼻の先を、ぴんと弾いてやった。
「痛ってえ!夏美さんひどいよ、なんでおんなじペナルティじゃないのさ」
「だってあれ、中野君喜びそうなんだもん。それじゃペナルティにならないじゃない」
「ちぇ、ばれてたか。残念」
多分、空元気だってばればれだったけど、中野君はそれに気づかないふりして付き合ってくれた。
……だんだん足を運ぶスピードが鈍ったのにも、何も云わないでくれた。
歩きながら、見える景色一つ一つが痛い。
まだ多くのお店のシャッターが閉まっている商店街。
小さなお肉屋さんで、いつかコロッケを買って行った。
角の呑み屋さんで、付き合いたての頃一緒に楽しく呑んだ。
……一度だけ、お花を買ってくれた。
とても見ていられなくて俯いていたら、「そのまま下向いてな。俺が手、引くから」と、中野君が手を握ってくれた。ありがとう、と云う言葉は掠れてしまった。
傍から見たら、朝帰りのカップルかな。全然そんなじゃないのに。
十字路のたびに立ち止まりほんの少しだけ顔を上げて右、とか、左、とか云って、また下を向いて歩いているうちに、そのマンションに着いてしまった。どうしよう。彼と対峙する勇気が出ない。会いたくない。顔なんか見たくもない。――もう、これ以上傷付きたくない。
立ち尽くしていると、ぽんと優しい手が頭を撫でた。
「大丈夫、夏美さんは俺の後ろにいるだけでいい。俺がそいつと話すから」
「……そんな訳にはいかないよ」
「いいの。さ、行こう、何号室?」
渋ったけれどいつまでもマンションの入り口でそうしてもいられなくて、結局はその部屋番号を告げて、エレベーターに乗る。
中野君は実に躊躇がなかった。
他人の修羅場、になるかもしれない場に自ら飛び込んできて、何でもないようにさくさくと処理してくれる。その事務的にも思える対応が、ありがたかった。これで同情丸出しの目を向けられたりしたら、自分が情けなくてほんとに消えてしまいたくなる。
ピンポーン、とインターホンを鳴らしたのも中野君だ。
私は、そんな彼の半歩後ろに隠れるようにして立たされた。自分の事だからちゃんと自分が話すと云っても、いいからと押しとどめられた。
足音が近づいてくる。聞き覚えのあるそれは、多分『オネーチャン』じゃなく元彼だ。
怯えて、震える私の手は、一瞬ギュッと強く握られた。
凄い勢いで開けられたドア。見たことない位切羽詰まった顔をした元彼が、中野君の肩越しに見えた。
「小百合、帰ってきてくれた……アンタ、誰」
そうか、元彼が居残って、彼女さんが出て行ったのか。納得している私を尻目に、中野君がすらすらと嘘をついた。
「初めまして、夏美の兄です。君が妹に二股かけてくれた相手だよね?」
にこやかに話しているのに怒りが静かに滲み出しているのが分かる。
兄だなんて、服装からして見るからに年下なのに無理設定だと思ったけれど、それを云わせない何かが、この時の中野君にはあった。
思わぬ先制攻撃に、おしゃべりは上手な筈の元彼が二の句を告げずにいる。その間に、中野君がさらに攻撃を重ねた。
「君を訴えることだって出来るし、勤め先に直接殴り込みにだって行けるよ。でも、夏美はもう君の顔も見たくないって。だから、さっさと妹の服持ってきて」
そう云って、元彼の胸をぐいと押した。元彼は押された勢いで何歩か後ろによろめいたけど、『訴える』『職場に殴りこむ』というワードが耳に沁みたらしく、慌てて踵を返した。そしてカップラーメンが出来上がるよりずいぶん早く、玄関に戻ってきた。
「これで、多分全部だと思いますけど」
おずおずとお洋服を差し出す元彼へにこやかに「ありがとう」と云って、中野君がそれを受け取った。そしてそのまま斜め後ろの私に見せてくれた。
「夏美、これであってる?」
……ふんわりとした、オフタートルのベージュのニットワンピース。
その下に着ていた保温肌着。
タップパンツ。
黒のタイツ。
全部、確認した。
「うん、大丈夫、全部ある」
それらを、カバンの中にぎゅうと押し込んだ。
「行こ」
こんなとこ、一秒だって長く居たくない。
「まって、ちょっとで済むから」
私にそう早口で告げると、中野君は元彼に「携帯出して、アドレス帳呼び出して」と云う。
元彼がジーンズのポケットから出して操作したソレを奪うように手にして、私のデータを素早く消去した。
「これで、もう無関係」
元彼の胸に携帯を押し付けて、くるりと振り返って、私の肩を抱いた。
「おまたせ。いこうか」
踵を返した私の背中に、私を呼ぶ元彼の声が聞こえたけど、中野君が後ろから耳を塞いでくれた。そのままエレベーターで降りて、マンションから少し離れたところで、かくんと足が折れた。なけなしの意地は使い果たしたから、これ以上はもう一歩も歩けなくて崩れる形でそのまましゃがみこむ。
嘘吐き対決は、中野君の圧勝。可笑しすぎて笑えた。
「……お疲れ様。頑張ったね。えらかった」
しゃがみこんだまま膝に顔を伏せて笑ってたらよしよし、と頭を撫でられた。そんなことされたら余計に涙が止まらないじゃない。
そんな憎まれ口も叩けずに、優しい手でバルブを開かれたかのように泣き続けた。