会えません
悠君からは何件かの留守電と何件かのメールが入っていた。
どれも私を心配し、謝る内容だったけど、『私もごめんね』とは今日は返さない。
『心配かけたことはごめん。今日明日と、来週はちょっと会えません』
詳細を教えないのは意地悪かなと思いつつ、そのメールを送った。
見積額はどちらも予想していた金額程度で、法外に吹っかけられてはいない様で安心した。
私だけじゃナメられるからって、わざわざ両親もそして何故か弟も同席した。――自分だって大学一年の子供のくせに、とは思うけど、頭脳明晰なコイツが見積書の計算間違いもあっという間に指摘してくれた。
母の、家では見られない営業スマイルでさりげなく、かつしっかり値引きをもぎ取ってくれた価格交渉や、父の、見積書に小さく書いてあった見落としがちな追加料金についての質問も本当に助かった。
業者さんは双方とも遜色なく、サービス内容と価格だけでは決めかねていたものの、後から訪れた一社が次の土曜は仏滅の為午前でも空きがあると云ってくれたので、早く引越しを済ませたい私はそちらに依頼することに決めた。
両親にお礼を云うと、「あなた最初から最後までぼけーっとしてたけど大丈夫なの? ほんとに頼りないんだから」とやっぱり母からは小言を頂戴した。最後までどうやら母の中では駄目な娘みたいだ。まぁ、いいか。
いち早くリビングを出て自室にいた弟にもお礼を云った。
「一臣、ありがと。ごめんね、今日は真澄ちゃんと会うんだったんじゃないの?」
弟がメロメロな彼女ちゃんの名前を挙げると、奴は肩を竦めた。
「今日は模試だから会えませんてフラれた」
「あらら」
彼女は高校三年生だから、弟の側は色々控える時期なのだろう。去年の真澄ちゃんがそうして我慢してくれていたように。
「じゃ、これ、真澄ちゃんに模試のご褒美と、あんたに今日のお礼。よかったら、行ってみて」
映画のペアチケットを手渡す。コメディタッチの恋愛映画だし、しばらくデートしてないと云っていたから丁度いいだろう。
「――中野と行くんじゃなかったの、これ」
「ちょっと、人の彼氏を呼び捨てにしないでよ、あんたより年上で社会人なんだからね!」
「姉ちゃん」
「……」
そうだよ。
ほんとは、中野君と行く筈だった。
その映画のチケットは、まだスケジュールに余裕がある。手元に残しておいて、ぎりぎりにでも行くって云う選択肢だってある。でも。
昨日のあの苦いやり取りを思い出すから、出来れば誰かに使ってほしいんだ。
「――引越しで、しばらくバタバタするし、向こうも今忙しいみたいだから」
「ん、じゃあありがたくもらっとく」
聡いくせに理屈で追い詰めない弟に、そっと感謝して部屋を出た。
「よし、これから忙しいぞ」と独り言。
この日は、新居に必要なものを買いに行ったり、買った先から送ってもらう手続きをしたりで一日が終わった。
荷解きはお願いしたけど、まとめるのは予算の都合で諦めたから、荷造りは自分でしなくちゃいけない。
平日はなかなか動けないと分かっていたので、月曜に出社すると有休の申請をして金曜日を休み、この日に一気に片付けた。
取り立てて今の季節に必要のないものから、引越し屋さんに用意してもらったロゴ入りの段ボールに詰めていく。
……。いけない、つい一つ一つ手に取って見入ってしまう。
さっさとやらなくちゃいけないって分かってるのに、また一つ。
ハンドルと蓋に白のレザーが使われた、夏らしい小ぶりの籠バッグ。
小ぶりすぎて、携帯とハンカチ位しか入らなくって、結局いつももう一つバッグを用意する羽目になって、悠君に笑われたっけ。本を読む人には不向きなサイズだねって。
つばの部分が大きい帽子は、二人でやっと一緒の時期に取れた、秋にずれ込んだ夏休みに、海沿いのリゾートホテルへ持って行った。
悠君が『女優さんみたい』って云うから、わざとホテルの売店で大ぶりのサングラスなんか掛けて見せて、ふざけたりしたなぁ。
襟の部分にピンタックとフリルが施されたVネックのベージュのノースリーブワンピースは、友達の結婚式に着て行った。二次会まで出た後に悠君と会ったら、「すっげー綺麗。すっげーかわいい!」って連発されて、照れまくったんだった。
……去年の一一月に着た、あのオフタートルのニットワンピースだけは、まだあれから袖を通せていなくて、辛い思い出のままだ。
でも、他の服や靴にはこんな楽しい思い出ばっかり。
悠君、すごいよ。
悠君がいなかったら、私今どこで何してただろう。まだ、泣いてたかな。やけになって、良くない恋愛をしていたかも。それか、殻に閉じこもってたとか。
私はまた荷造りに取り掛かった。今度は、うっすら笑みを浮かべて、さっきよりも弾んだ気持ちで。
早く、用意しよう。
それで、早く、彼をお招きしよう。私の新しいお部屋に。
一臣に言い訳したのが現実になってしまったのか、夜一〇時から一一時よりも大分ずれ込んで訪れるようになっていたメール定期便が、ふっつりと来なくなった。
だから、こっちから『思い切って、色々持ち物を処分してみたよ。すっきり!』とか、『お仕事、忙しい? 無理しないでね』とか、ちょっとずつ送ってみた。
返信は、いつもよりワンテンポ遅いかな? 位のタイミングで、『心境の変化?』『ちょっとだけ。ありがと』と、やっぱりいつもよりそっけないようなものが舞い込んできた。
会って、話をしたい。悠君が足りない。ぎゅーってしたい。
でも、もうちょっとだから。待っててね、と一方的にテレパシーを送ってみた。
何とか荷物をダンボールに詰め込んで、土曜日の引越しの日を迎えた。
当日、一臣は引越し先のマンションへ先に行き、引越し屋さんとガス屋さんを待ち構えてくれることになった。私は積み込み作業を見届けてから、電車で新居へと移動することにした。
新しいお部屋は先週ふらりと降りた、あの駅から歩いて一〇分のところに借りた。各駅の電車しか止まらないけど、私の会社と悠君の会社、どちらも乗換えなしの一本で行ける。
そこにうちから向かうには悠君の家の最寄駅で乗換えが必要な為、一旦改札を出た。丁度出たところで、携帯に電話が掛かってきたので壁際に寄って立ち止まり、ディスプレイを見れば、弟からだった。
「もしもし? 一臣どうしたの?」
『姉ちゃん、引越し屋さんもう着いた』
「え、ほんと? 早いねー」
『早いねーじゃないよ、早く来てよ』
「そんなこと云われたってこれから電車乗換えして駅からタクシーに乗ってっても、三〇分はかかるんだけど?」
『だよなあ、……どこに何運ぶって段ボールに書いてあんだろ?』
「うん、そう」
『あーじゃー適当にやっとく。分かんなかったらまた電話する』
「ごめんね一臣」
『いーよ。後で飯奢って』
「はいはい」
通話を終えて、よし急ごうと思ったら。
突然手首を後ろから引かれた。
「きゃ……!」
足元はローファーだからヒールみたいに不安定ではないし、強い力で引かれた訳じゃないけど、驚いた拍子にバランスを崩してぐらりとよろけそうになった。傾いた方の二の腕を支えられて、何とか堪えた。
支えてくれたその手は、私の大好きな人の。
「――悠君」
振り向いて、その人に笑いかけた。支えてくれてた側と反対の手は、転びそうになった原因、つまり私の手首を掴んでいた。
「丸一週間ぶり? なんか、すっごく会ってなかったみたいな気がしちゃうね」
「――」
「急に黙って、手、後ろから引っぱらないで? びっくりして転びそうになったよ」
「――」
「お出かけ? これから、どこかに行くの? ――悠君?」
何だか様子がおかしいと、その時初めて気が付いた。表情は険しく、手首は掴まれたままだ。
「……なんで」
「え?」
「なんで、俺は呼んでもらえないのに、男の名前呼び捨てしてんの」
「! それは、」
弟だよとは云わせてもらえなかった。
「もう、俺より好きな男、出来たの? 『心境の変化』?」
「違、」
「『持ち物を処分』したって、俺との思い出の物?」
……もしかして彼は。
「俺が、……頼りなくて情けないから、愛想尽きた……?」
すっごいカンチガイしてて、しかも、嫉妬、してる?
自分の云ったことで打ちのめされて、とてもつらそうに俯いて。
痛々しいのに、それを愛しいと思う気持ちが止められない。
「ねえ、悠君、お願いがあるの」
「……何」
お別れ云われるとか思ってんのかなこの人。もう、そんな訳ないのに。
でもここでほんとのこと云わない私も、意地悪だなあ。そう思いながら、繋がれた手首をするんと滑らせて、恋人繋ぎにした。
「車で、送ってほしいところがあるの。いい?」
車なら、悠君の家まで歩いても、電車を乗り換えてタクシーでそこへ向かうより確か早い筈だ。
「……わかった。いいよ」
そう云って、すたすた歩く悠君に、ついていくのが大変。
「ねえ、もう少しスピード落として」
「――」
無言。
でも、手は離さないって、ほんと、かわいい。スピードだってちゃんと落としてくれた。だから、仏頂面して黙っていても、ちっとも怖くなんかない。
駅からはあっという間に悠君の家についた。
お隣のヒナさんや悠君のおうちの人に会ったら御挨拶しなくちゃと、ちょっとドキドキしたけど、誰にも会わないまま「乗って」と促された。……なんでか少しだけ、残念。
いつも遠出の時に迎えに来てもらうその車に、ちょっとだけ久しぶりに乗った。
「どこに行けばいいの」と、悠君はぶっきらぼうに云うけど、エアコンの風が苦手な私の為に助手席側の送風口の向きを変えたり、CDチェンジャーを操作した後に流れてきたのは私も好きなアーティストの曲だったり、やっぱりこんな時でも優しい。
「ココなの」とプリントアウトした地図を見せれば、ちらりと見ただけで「了解」と地図を私に返し、前に何度か見たことのある運転の時だけ使う眼鏡を出してすっと掛けた。
思わず見惚れていたら、「――何」と、不機嫌を隠さない声が聞こえてきた。
「ぼーっとしちゃった。眼鏡、かっこいいから」
「――何で、今そんなこと云うの」
ああ、やっぱり勘違いしてる。
「さあ。なんでだろうね?」
勘違いさせたまま、黙ってる私はやっぱり意地悪。
それからほとんど無言のまま、一五分程で目的地に着いた。ただし、私は車を持っていないから駐車場も契約していない。悠君には近くのコインパーキングに車を停めてもらった。
「ありがと悠君」
「――なんでここ? 俺もう帰るけど」
「うん、あのさあ、ちょっと一緒に来て?」
「え」
返事は聞かないで、がしっと腕を組んで、ぐいぐいと引っ張る。あのまますぐに帰られないように、こっちも必死だ。
オートロックを解除して、エレベーターで三階まで上がる。
鍵があるのに使わずわざわざインターホンを鳴らした。ドアホンにはカメラが付いているからすぐに私だと分かったらしい。中から「はーい? ああ、ちょっと待って」と弟の声がすると、悠君は硬い表情を一層固くした。がちゃりとドアが開く。
「早いじゃん」
「うん、悠君が車出してくれたから」
「よかったね、じゃあ俺もしかしてもう帰っていい感じ?」
「いいけど、その前にちゃんとご挨拶してよ」
「あ、そっか。――初めまして、夏美の弟の一臣です」
「……お、とうと?」
「『中野君』さんですよね?」
「、――中野悠司です。お姉さんとお付き合いさせてもらってます」
「知ってます」
一臣はくすりと笑った。
「じゃー後宜しく」
「うん、ありがと、ご飯は今度ね。真澄ちゃんによろしく」
「うん」
身内ながらキラキラしいなと思える笑みをこちらにふりまいて、あっさりと弟は帰って行く。
中では、まだ荷解き中の人たちが立ち働いていた。
「悠君、入って」
「……お邪魔します」
わさわさしている部屋に通せば、彼は物珍しそうに部屋の中や窓の外を眺めた。
引越し屋さんに荷物の入れる場所を問われてそれに答えて、を繰り返しているうちに、収まるべきところへ荷物はすべて収まった。
「では、これで。ご利用ありがとうございました」
「はい、ご苦労様でした」
間にお昼の休憩を挟んで――悠君と私も近くのお蕎麦屋さんに食べに行った――三時頃にはすべて片付き、段ボールも回収され、部屋の壁に傷がないことを一緒に確認したあと書類にサインをして、引越し屋さんは帰って行った。
残ったのは私と悠君だけ。




