第十八話 ローマルクの神速
「いやぁ、今日も寒いですね」
空からはすっかりと太陽が消え、辺りを闇が支配していた。冷たい夜風が兵士の肌に吹く。兵士がここに配属されて2年になるが、この季節にはまだ慣れなかった。
地方都市での真面目な仕事ぶりを評価されリュブリス線に配属されたが、二年経っても元来の性格もあり、それが変わる事はない。
「あまり無理をするな。体を壊すぞ」
兵士は後ろから声が掛けられる。振り返った兵士が確認すると、それは兵士の直属の上官である班長であった。
「若いからこそ無理が利くんじゃないですか、班長こそ年なんですから気を付けた方がいいですよ」
「ああ、俺は真面目で良い部下を持ったな。俺には勿体無いよ。本当に」
何時も笑い、冗談を言っている班長が真顔で兵士に言う。
「どうしたんですか、気持ちの悪い事を言って、ここの人も物も好きですから、真面目に警備するのは当然ですよ」
大規模な戦争は勿論、最近は小競り合いさえ起きていない。1週間に一度は城塞都市に非番で遊びに行け、数ヶ月に一度は長期の休みもある。兵士は今の暮らしが気に入っていた。
兵士は壁の上から辺りを見渡す。本来であれば索敵に優れる冒険者達が巡回をしていたが、調査隊に手練れの冒険者を引き抜かれ、今はその姿はかなり減っていた。
その穴を埋めるために本来であれば非番だった同期が、数十人の兵士と共に冒険者の代わりとして巡回に出ている。同期の非番が潰された時のあの間抜け顔を思い出すと兵士は笑えて仕方が無かった。
壁上から眼下に見渡せる森に視線を向け、木々から木々へと目線を走らせる。
今日は雲量が多いので何時もよりも月明かりが遮られ、兵士の視界は悪い。それでも兵士はどうにか監視が出来た。そして兵士は人影を見つける。
「巡回の奴らか?」
自問自答した兵士は、目を凝らし、影を見つめた。数人だった人影が数十、数百にも膨れ上がって行く。
「まさか、これは……」
それは間違いなく敵だった。
どうしてこんな所に、巡回の連中は何を、そんな事を逡巡するが、兵士はその答えが出切る前に大声で叫ぼうとした。
「敵襲!? リュブリスの騎士団に知らせッ……?」
兵士は気付いた。自分の腹部が濡れていること、そして自分の腹部から何かが生えている事に――
「えっ、あ?」
腹部から生えたそれは勢い良く引き抜かれ、唯一の支えを失った兵士は、壁上の壁に持たれ掛かりながら座り込む。
「が、げフぅ、ッう――」
思い掛けず振り返る事になった兵士が見たのは、倒れ込む同僚達と血に濡れた剣を持つ班長達。
「な、何故。なんで……」
倒れ込む兵士を無表情で眺めながら班長は呟く。
「残念だよ。本当に――」
手にしたロングソードを振りかぶり、班長は兵士の首を跳ねた。そして自身の血に濡れたロングソードの先を見詰め、呟く。
「ここでの日々はひたすらに長かったな」
班長は誰に語りかけるのでもなく呟く。
思い返せば休眠諜報員に就いて10年。何度任務が早く終わるように願い、何度任務が永遠に続くように願ったか――。
「それも今日で終わってしまったが」
工作員による冒険者狩りによって、リュブリス線での索敵能力は大幅に落ちていた。
それに加え、王都での武術祭に参加する上流階級の護衛でリュブリスから王都への冒険者の流失。班長は城壁から砦内を見渡した。
「死体だ、死体があるぞ!!」
「敵か!?」
「全員起こすんだ。早くしろッ」
異変に気付いたアルカニア兵が騒ぎ始めたが、何もかもが遅いと休眠諜報員はそれを眺める。既にこちら側の者により、城門と通信施設は落ちていた。
砦内に敵襲を知らせる鐘が響く中、解き放たれた城門からは軍勢が雪崩れ込む。その全員が砦内での取り回しが考え尽くされた武器を持つ、ローマルク帝国の精鋭達だ。
「雪崩れ込んで来る」
「門を奪い返せ。崩れるなァ!! 陣形を保て」
攻め入るローマルク兵に対し、アルカニア兵が抵抗を始めたが、もう手遅れだった。雪崩れ込んでくるローマルクの兵士により次々と討ち取られていく。
「目印を絶対に外すな。味方に殺されるぞ」
振り返った休眠諜報員は残った部下達に指示を出す。
そんな時に、休眠諜報員の耳は微かな音を拾った。その音は壁上に繋がる階段から聞え、段々と大きくなる。恐らく、壁上を押さえに来た敵兵だ。
「迎え撃つ。……リュブリスは返して貰うぞ。アルカニア」
血で幕を開けたこの夜、後世に語り継がれるローマルクのアルカニア王国に対する一大侵攻作戦、ローマルクの神速が始まった。
辺りに響く怒声と悲鳴。馬に乗り逃げる兵士達の背後からは土煙を上げながら20騎以上が追ってくる。
「くそ、どうあっても逃がさないつもりか」
砦の裏側を馬に乗り、巡回をしていた兵士達がガルド砦から撤退して大よそ20分。敵兵は減るどころか増え続け、両者の距離は縮まりつつあった。騎射を行うその技量は明らかに自分達よりも遥かに上。
7人いた班員の内、既に2人が矢の犠牲になっていた。今も放たれた矢が兵士達の脇をすり抜ける。
「くそ、このままじゃ全滅だ。何としてもこの事を他の砦に知らせなくては……」
「新兵、お前は戦闘はからっきしだが馬術が上手く体重も軽い」
班長の言葉を新兵は理解したくなかった。
「班長殿、何を……」
「初任務だ。後方の砦まで行き、伝令を確実に届けろ」
「ですが!」
「これは命令だ。お前はもう兵士だろう。その職務を果たせ。武運を祈る」
「ご、ご武運を」
「全騎反転、ローマルクのクソどもを馬上から叩き落としてやれ!」
逃げていたアルカニアの騎兵が一転して反撃して来た事により、ローマルクの陣形は大きく崩れる。
「この死兵どもが」
「1騎逃げたぞ。追え」
混乱を抜け、追おうとしたローマルク兵は馬から投げ出される。アルカニアの兵士が馬の足を斬り付け、転ばしたのだ。
「余所見してんじゃねぇよォ」
「構うな追え!!」
「くっ……」
戦う仲間を背に、新兵の孤独な戦いは始まった。
「おい、あれなんだ」
同僚に声を掛けられた警備兵は、その指が指す方向を見る。そこには6騎の騎兵がいた。そのうち1騎は友軍だが、残る5騎が友軍を追い立てている。
「騎兵が突っ込んで来るぞ!?」
壁上から監視をしていた警備兵は、大声で叫ぶと、それにより砦内の兵士達は慌しくなる。
「敵襲ーッ。配置に付けェ!!!!」
寝ていた兵士は起き上がり、兵舎からは武装した兵士達が次々と現れる。
「各自撃て、先頭は味方だ。当てるなよ」
「ああ、分かってる」
数人の射手が固い弦を引き、弓を射る。それでもしつこく追いかけていたが、追っていた騎兵が砦内に滑り込んだ事と、次々と襲い来る矢に怯んだのか、追っ手は反転して逃げていった。
砦内へと強引に走りこんできた騎兵は、入り口近くに置いてあった馬車に激突し、虚空へと投げ出された。そのまま地面を勢い良く滑り、数メートル転がったところで止まる。
壁上で指揮を執っていた百人長が駆け寄るが、馬は衝突により足が折れ、呼吸も荒く、もう使いものにはならない。馬から投げ出された騎兵は全身に擦り傷が出来ているが、命に別状はなさそうだった。
「おい、大丈夫か? その紋章はガルド砦の部隊か、何があった?」
購入にも管理にもGが掛かる馬を死ぬまで走らせるなんて、異常な事だ。集まってきた兵士達の気持ちを代弁する形で、百人長は尋ねる。
「ガルド砦が陥落しました」
短い言葉だが、その場を騒然とさせるには十分過ぎる一言だった。
「馬鹿な。あそこは第一線の要だぞ!?」
「数倍の敵が来ても数日は確実に持つはずだ」
信じられない、と後ろにいた兵士達は言い放つ
。
「ガルド砦が落ちたのは一瞬でした。外で巡回していた私達にすら20騎以上の追っ手が……」
腕を組み考え込んでいた百人長は、指示を出した。
「大隊長……いや、砦の全員起こせ。敵が来るぞ。リュブリスに連絡だ。急げ。疲れている所悪いが敵の規模は分かるか?」
「いえ、あっという間の事でしたので……」
数分して通信室に行った兵士が転がるような勢いで、百人長の元へと駆け込んで来た。
「ダメです。ガルド砦との連絡が付きません!!」
「やはり、本当に陥落していたのか……リュブリス城塞の方面司令部は何と?」
「『事実確認を急ぎ、迎撃態勢に入れ』だそうです。それからガルド砦の生き残りを司令部まで連れてくるようにと」
百人長はぼろぼろになったガルド砦の兵士に目をやる。
「聞いていたな。疲れているとは思うが、これからリュブリス城塞都市の司令部に行って貰うぞ」
「は、はい」
砦内の倉庫から矢の入った木箱を射手が壁上へと運び、槍の束を肩に担いだ兵士が広場に槍を並べていく。
「大鍋と油だ。早く火を焚け」
「薪を持って来た」
設置された大鍋に兵士が油を注ぎ、薪に火を付ける。
訓練や小競り合いはあったものの、ローマルク帝国との戦争は10年以上行われていない。百人長自身も実戦は久しぶりだった。
戦争が始まった。砦内の騒乱によりその実感が兵士達の間で強まっていった。
「門が抜かれるぞ。油を掛けろ!!」
門を守っていた兵士が油を取り分けられた中型の鍋を傾かせ、油を真下にぶちまける。
門の下にいた敵兵は降り注ぐ煮えたぎった油にのた打ち回った。
「ぎゃぁああああ!!」
続けざまに油を掛けようとしたアルカニア兵に火球が迫ると油に引火し、壁上は火に飲まれた。
「アァアアアアアぁッ!!」
火達磨になった兵士達は暴れ、あまりの熱さに壁上から転がり落ちる。
「このっ――」
ローマルク軍のマジックユーザーを射ろうとした射手が、逆にその身に数本の矢が刺さり真後ろにへと倒れこんだ。
「人を寄越してくれ、人手が足りない!!!!」
梯子から飛び乗ろうとした敵の喉に百人長はロングソードを叩き入れ、数人掛りで梯子を倒す。それでもそれ以上の梯子が掛けられていく。
人数不足に陥ったこの場所を目掛け敵が押し寄せてきていた。
「不味いぞ。突破される」
梯子から敵が飛び出ようとした瞬間、魔力の刃が梯子と敵兵を一度に切り裂いた。梯子の残骸と敵兵の破片が壁上からばら撒かれる様に地面へと落ちる。
百人長は何が起きたか確認する為に後ろを振り向くと、そこにはアルカニア王国の紋章が描かれたマントを靡かせた2人の騎士が立っていた。
その姿を見た兵士達はその名前を呼ぶ。
「勇者の末裔のオルド・バルクス様とソルデン・アルバーナ様だ!!」
リュブリスに駐屯する第三騎士団所属の騎士が増援に来た事に、兵士達の士気が一気に上がった。
「どうなっている?」
壁上で指揮を執っていた百人長は、その問いに答える。
「砦を中心に何とか食い止めていますが、数も練度も敵の方が上……この一帯の放棄も避けられない状況で」
「そうか、分かった。行くぞオルド」
砦から出た二人は、砦の外で戦っていた部隊に合流し、敵の隊列に突撃していく。魔法剣により前列の兵士を崩し、そのまま正面からぶつかり数人を叩き切った。
「殺しても殺しても湧いてくる。嫌になるな」
「日頃優遇されているんだ。勝つまで戦え、俺たちに求められているのはそういう事だろ」
すれ違い様に敵兵の首を跳ねたソルデンはオルドに言う。それを聞いたオルドは自嘲気味に笑った。
「とんだハズレを引いたもんだな!!」
槍兵による突きをロングソードで逸らしたオルドは、そのまま踏み込みラウンドシールドで敵兵を殴り倒す。崩れ落ちるローマルク兵の後ろからは新たな集団が迫りつつあった。
魔法石による明かりの中、統一された制服に身を包み、数十人の人間が大部屋の中を慌しく動いていた。
「第一線の砦が全て陥落」
「第二線で敵の侵攻を阻止、けれど迎撃準備が整わない状態で迎え撃った為、被害甚大」
「新たに敵の増援を確認。ローマルク地方軍集団の重歩兵部隊」
「ローマルク中央軍集団所属の緊急展開群と思わしき一団が砦を迂回し、侵攻中……一部は飛竜を伴っている可能性大」
「リュブリスの冒険者ギルドが防衛依頼を承諾」
「勇者の末裔オルド・バルクス、ソルデン・アルバーナが戦死」
「リュブリスの方面司令部より増援要請」
100人の人間が集まり、会議が出来るであろう部屋は混沌と化していた。通信手は伝えられる情報を紙に書き、その情報を更に他の職員が紙に纏めていく。
その部屋の更に奥の一室で、紙に纏められた情報を読み、二十人程度の男達が話し合っていた。
「リュブリス周辺の部隊はどうなっている?」
「リュブリス城塞と第二線の戦力を合わせてもこちら側は3万。第一線の9千人の戦力が失われたのが痛すぎる」
問題の深刻さに、白髪の男が頭を押さえる。
「対する敵は少なく見積もっても9万近い」
「増援までの日数をどう稼ぐ。予定では第一線と第二線で時間を稼げるはずだった。なのにこの有様だ。ローマルクの進軍速度は有り得ない。神速の域に達している」
「敵を賞賛してどうする。奴らは既に後方から攻城戦用の部隊を進ませているぞ。その部隊を叩こうにも第一線の部隊どころか、第二線の部隊も持ちこたえるので精一杯だ」
「更に悪い事に、リュブリスに通じる主な通路で敵の少数部隊が襲撃と逃走を繰り返している。主道の一つが工作による地滑りで封鎖された」
「治安維持部隊は何をしていたんだ!」
髭面の男がそう叫ぶと、細身で眼鏡を掛けた男が声を荒げた。
「長期休眠諜報員だよ。普段は市民に混じり、暮らしているが、作戦になると一斉に動き出す。常時工作活動を行っている工作員と比べ、捕まえようがない。そのぐらい分かるだろう」
常に工作を行う敵に対しては対抗策があるが、長期休眠諜報員に対してはどうすることも出来ない。それこそ怪しい者を片っ端から拷問に掛けて吐かせるしかない。
流石にこの国でそんな事は出来ない、したくもない、と眼鏡の男は吐き捨てる。
「問題はそれだけじゃない。この騒動に合わせてヘッジホルグ共和国も黒鉄の国も国境線に部隊を集結させている。両者を合わせると10万人近い。リュブリスが陥落してみろ。状況次第ではリュブリスだけでは済まない。ハイエナのように大国が群がって来る」
三面で戦線を開くなど、この場にいる男達にとって絶望でしかない。例え守りきったとしても、国土の大半は失われてしまうだろう。
「貴族共も口うるさく喚いているぞ。自分の領地を最優先で守るようにと」
うんざりした様子で白髪の男はため息を付く。
「あんな馬鹿ども放っておけ!」
そんな騒然とする作戦室で、今までのやり取りを聞いていたアルカニア王は静かに言い放った。
「……さぁ、諸君。これからの一分一秒にアルカニア王国の興亡が掛かっている。勇者の末裔2人の損失は大きいが、貴重な時間を稼いで貰った。今、この場に置いては地位も階級も関係ない。これらの時間を使い我々に何が出来るか、真摯に考えようじゃないか」
王の一言で顔を見合わせた男達は、静かに最善と思える案を出し合い始めた。
森の高台からオサはリュブリスの空を眺めていた。その手には骨だけの鳥が止まる。
「そう。本当に始まったのォ」
辺りは夜と朝、青と赤が混じり合ったような色が支配する。様々な思惑が交差する中、レネディア大陸の朝が開けた。
遂に大国同士の衝突。