第九話 悪路
早朝特有の澄んだ空気は、寒ささえ我慢をすれば心地の良いものだが、今朝は違う。 鼻腔へと流れ込んで来る空気は、点在する血と腸の内容物により、耐え難い物へと変質していた。
撒き散らされた当初に比べれば、湯気も出ていないし、臭気も幾分か薄まったが、それでも悪臭の一言に尽きる。
今が冬場で良かった。夏なら腐敗が進み、何処からともなく虫が集る。
「余計な事を考えているな」
交代で仮眠したとは言え、頭が冴えず瞼も重い。頭を軽く振り、思考を元に戻す。忙しい時は何も考えずに済むが、待っている時間は苦手だった。
「そろそろか?」
馬車の外縁を睨み、振り向きもせずに喋るが、直ぐに返答があった。
「そろそろだ。仕掛けて来るなら直後か、早朝の間際だと思ったが、結局仕掛けてこないとはね。気まぐれな魔物だ」
皮肉と忌ま忌ましさを隠す気も無い様で、ため息混じりにレラウは言う。
「アーシェ、なんか見えるか?」
抜き身のロングソードを携えたハンクがアーシェに呼び掛けた。アーシェは馴染みの馬車の上で立ち上がっている。
「んー、“何か”を引き摺った跡とか血痕はいっぱいあるけど、他には何も見えないよ」
引き摺られた跡が何を指すのか、想像するのは難しく無い。
日が登ってからアーシェは、荷馬車の屋根に飛び乗り、目を細めて隙間無く周囲を警戒している。視覚だけではなく敏感な聴覚で音にも注意を払っており、時折探るように耳がぴくりと動く。
「手筈通り、近くの遺体だけ埋葬しよう。引き摺られた遺体は……残念だけど、探せないな」
仲間の遺体が含まれているとは言え、昨日の戦いを経験した者から、異論は上がらなかった。引き摺られた跡を辿れば、何かの一部くらいは発見できるかもしれないが、待ち構えている剣山獣と遭遇する可能性が高い。
「カイエラン、ラリー、シンドウ、アーシェは俺と警護、リアナ達は怪我人の治療だ。雇い主達に頼むのも申し訳ないが、デニスやリブロフスキーも埋葬を手伝ってくれ」
商人達に遺体の収容を頼むのは酷だが、人手が足りない。
「気にしないでくれ、非常時に商人だ、冒険者だとも言ってられない」
頷きながら言葉を返したのは、デニスだ。リブロフスキーや使用人達も不安げではあるが、異論は無かった。
「おいおい、俺も雇い主だぞ。商人だぞ?」
商人の中で唯一、名前の呼ばれなかったハンクがぼやいていたが、手は止めずに、自分のやるべき作業に入った。
組を作った使用人2人が、横たわる冒険者の遺体の真横に立つ。防具は意味を成さなかったのか、遺体には右肩から左腰まで横断する5本の爪跡が深々と残されている。死因はショック死か出血死だろう。
「俺は手を持つ」
1人の使用人が手を持つと、残された使用人は自然と足を持つこととなった。タイミングを合わせて遺体を持ち上げた2人は、たどたどしい足取りで進む。
数歩移動したところで、胴部に開いた穴から腸が零れ落ちた。
「うっ、む、無理だ」
1人の使用人は口を押さえると、そのまま嘔吐した。胃酸の饐えた臭いが広がるが、今更そのぐらいの臭いが増えたところで、冒険者は気にも止めない。
釣られてもう1人の使用人も吐き出しそうになるが、遺体とは逆側に屈み込み、なんとか耐えたようだ。
「こっちは任せろ。損傷が少ないから、あっちの遺体を運んだほうがいいんじゃねぇか?」
見かねたハンクが使用人の背中を軽く、一度、二度と叩いて言った。
「そ、そうする。申し訳ない」
手と土で嘔吐物を拭った使用人は、もう一つの遺体の方に足を進めた。そちらにはデニスが待機しているので、2人で比較的損傷の少ない遺体を運ぶことになる。
「んで、アンタは大丈夫か?」
ハンクは残った嘔吐していない使用人に呼びかけた。
「か、かろうじて……」
「それなら早く運んじまおう。俺も気にならない訳じゃねぇからな」
遺体を一瞥したハンクが苦々しく口を開くと、零れ落ちた腸を遺体の服で掴み、腹腔に押し返す。片足で地面を穿ると、手に付いた“汚れ”を土で拭い落とした。
(……あれは俺には真似できないな)
意識を作業風景から外縁部に移し、警戒に入る。昨晩踏み潰した土と草により、視界は悪くない。闇夜というアドバンテージがない分、仕掛ける側は不利だ。
投げ槍を右逆手で掴み、投げ斧をぶら下げるように左手で持ち、周囲を睨む。昨晩の狂乱が嘘のように、森は静まり返っていた。
「で、どうする? 追撃は論外だろう? 後は直ぐに出るか、馬車を修理してから出るかだ」
遺体の収容が終わり、カイエランが今後の方針をどうするのか切り出した。
「村に大工を呼びに行った仲間が、護衛の冒険者を連れて、明日の昼に戻って来るんですよね?」
意外にも最初に反応したのは、ラリーだった。
「ああ……だがなぁ。言葉は悪いが、村の冒険者は使い物にならないぞ。薬草集めやゴブリン程度のDランク相手が関の山だ」
技量もそうだが、道中の護衛という名目で来た冒険者だ。ゴブリンやウルフ類などとの戦闘は覚悟しているだろうが、命を掛けてまで剣山獣との戦闘を選ぶとは考え難い。
「負傷者の傷は、どうにか塞がりましたが、血液が流れ出てしまって体温が低く、熱もあります。本格的な治療を受けさせないと、今後どうなるか保証できません」
別の角度から猶予はないと言葉が飛び出した。場慣れしているリアナの言葉には重みがある。
「シンドウ、アーシェはどう思う」
レラウの問いに、俺は仲間の顔を見回す、ろくに眠らないで戦っているせいで、瞼に隈ができ、疲労が色濃く見えた。特にリアナは一晩中、ロウスレイら重傷者の回復魔法と治療を続け、精神も肉体も消耗し切っている。
「……2、3日籠城するほどの気力はないな」
「アタシも村まで移動した方がいいと思う。アレで全部とは限らないし」
原始的とは言え、戦闘中に増援や釣り出しまでやってのける魔物だ。これ以上、剣山獣が居ないと断言する楽観主義者は、冒険者の中には残っていない。
「異論のある者は?」
レラウが冒険者、商人、使用人に視線を向ける。誰も口を開かない。無言の承諾を得たレラウは、道を塞ぐ形で横たわる馬車の持ち主を見た。
「……馬車は破棄しよう。命には変えられない」
荷馬車の持ち主のデニスが重々しく口を開く。許可を得たレラウの行動は早かった。
再び護衛、作業にメンバーを分けて、荷馬車の撤去を開始する。全員が焦っていた。まだ昼少し前だが、撤去の時間もある。夕暮れまでこの場所に留まるのは願い下げだった。
「行くぞ。せーの!!」
レラウの合図とともに、商人や使用人達が軽く手綱に力を込め、馬を操る。4頭の馬に繋がれたロープは馬車の支柱や車軸に結ばれていた。馬が更に土を蹴る。泥濘は懸命に抵抗を続けた。
「押せぇえええ!!」
両手で荷馬車を押しながらレラウは叫ぶ。俺も負けじと荷馬車を掴む手に、全身の力を込める。悲鳴にも似た木がしなる音を立てながら、根負けをしたように荷馬車は動いた。
「進路に気をつけろ。そのまま草むらに押し込むんだ」
泥濘から脱した後も押し続け、そのまま道の横へと弾き出す。荷馬車の重量で細木や草が押し潰される。呼吸を止めて力み続けた為に、何人かは酸欠気味だ。それぞれが大きく繰り返し息を吐き、呼吸を整える。
全員が落ち着くのを見計らって、レラウは更なる指示を出した。
「まだだ。このままじゃ通れない。土と壊れた荷馬車の板を使って、泥沼を塞ぐぞ」
レラウの指示に従い、土や残骸の木片を敷き詰め、斧で地面を掘り返し、泥濘を埋めて行く。専門のシャベルが欲しくなるが、この世界では斧とシャベルは兼用の場合が多い。木を切り、土を掘り、人を斬る。十得ナイフな代物だ。
こうして馬車の道を固め、再び泥濘にはまらない道を作り上げた。深さの程度はあるものの、泥濘は30mの長さに渡って発生しており、全てを潰すのに、時間にして1時間近くもかかった。
見上げれば、太陽は頂点を超えていた。人間は何もしていなくても腹は減る。ましてや重労働をした後ともなれば尚のことだ。優雅に遅めのランチともいかず、手っ取り早く携帯食で済ます。
手慣れた冒険者は、作業の合間に食事を済ませたが、若手冒険者のラリーやリブロフスキーの馬車の冒険者は、昼飯をまだ食べ終えていない。
ラリーはカイエランの横でビスケットのような堅パンにかじりついているが、アイアンプレートとも蔑称が付くほどの硬度を持つ、堅パン相手に梃子摺っているようだ。
堅パンには逸話が幾つかあり、その中でも有名な話は、兵士が食べ残した(水無しでは堅すぎて食べれなかった)堅パンを懐にしまっていたところ、敵兵が繰り出した槍の一撃を防ぎ、無事に故郷に帰れたというものだ。
一部地域では冒険者や兵士の初陣に堅パンを渡す習慣まであるらしい。
味や食べられる硬度まで戻す手間こそあるものの、携帯性・経済性が良く、色々な意味で懐に優しい堅パンは、味はともかく、長期の携帯食の代表と言っても過言ではない。
「ぐ、が!! 無理、歯が折れますよ!?」
「アホか、普段はスープやらの汁で戻しているが、長期保存の携帯食なんてみんなこんなもんだぞ。水につけて食べろ。味には文句を言うな」
ベテランのカイエランは戦闘だけではなく、堅パンの食べ方も指導しているようで、先日俺が搾り出した水を差し出し、慌てず水に付けてふやかせと伝授していた。
ラリーには良い先輩がついているので問題はないだろう。残るリブロフスキーの冒険者に視線を向ける。食べ終えるどころか、食事の用意すらしていなかった。
「食べないのか?」
まだ余っている携帯食を差し出すと、2人は顔を見合わせ、苦笑いをした。堅パンが嫌いという訳では無さそうだ。
「恥ずかしい話なんだが、食欲が無いんだ」
2人の言葉を代弁したのは、長身だが細身の男だ。食欲が何故無いかは、聞かなくても何となく理解できる。
「……初めてか?」
俺が駆け出しの頃も、惨状に遭遇した時には食事が喉を通らない事があった。それが魔物であれ人であれだ。昔を思い出し、勝手に親近感が湧いたのだが、男は首を振った。
「戦闘は初めてではないが、ウルフやゴブリン数匹程度だよ。あんなに人が死ぬのも、Bランクの魔物とも戦ったことはない」
「無理矢理でも食べといた方がいい。一食抜く抜かないで、いざって時に響く」
これはリュブリス防衛戦で嫌というほど学んだ。睡眠と食事は大事だ。普段より少ない食事・睡眠だけでも驚くほど人のパフォーマンスは落ちる。それが一晩寝ない・食べないともなれば、尚更だ。
携帯食を纏めて荷馬車に置くと、しばしの間顔を見合わせ、少しずつだが口へと運び始めた。
手の平を振って、その場を後にして、ハンクの馬車へと戻る。
「……もう一仕事か」
泥濘を塞いだ後は、広場から道へと荷馬車の列を戻す。活気のあった馬車隊の人数は、一晩で半数になってしまった。残りの半数は恐らく“腹”の中か、土の下だ。
広場の隅に、遺体を埋めた場所がある。草が茂った広場で、そこだけ掘り返された土がむき出しになっている。ギルドカードは回収したので、墓標代わりに短刀など、所持していた遺品も一緒に生めた。
死骸をよく漁るウルフやゴブリン避けに、石や馬車の廃材で多少の塞ぎはしたが、掘り返されずに無事で済むかは微妙なところだ。
頼みの綱にするにはなんとも皮肉だが、剣山獣の痕跡に気付けば、並みの魔物は近寄りもしないだろう。
全てが解決とはいかないが、やれるだけの事はした。自分に言い聞かせて、目の前の仕事に目を向けた。六角形を形成していた内の一台の馬車が、馬に牽引されながら、ゆっくりと広場から車輪を進ませる。
隊列は、先頭にデニスの荷馬車4台、中間にリブロフスキーの荷馬車、最後尾にハンクの荷馬車という順序になった。殿というのはなんともハズレだが、戦力を考えれば妥当なところか。
合図を送られながら広場を後にした馬車は、泥濘をゆっくりと越えていく。
水をかき出し、木と土で補強した道路ではあるが、重量のある馬車が一台、また一台と通る度に、荷重で地面が沈み、水が溢れてくる。速度は徒歩並みだ。
足を取られて横転しないかと冷や冷やしたが、それでも俺たちの馬車以外は無事に渡りきった。泥濘を抜けた先で、隊列は最後の馬車を待って待機している。
「出すぞ」
ハンクが短く宣言をすると、馬車は緩慢に、けれど確実に動き始めた。少しでも荷馬車の重量を減らすためにハンク一人で手綱を操り、残りは降車して、徒歩で馬車に付き添う。
足元に目を向ける。簡易の舗装はしたが、多数の馬車と馬が通過したため、また悪路に戻りつつあった。徒歩でも若干足が沈み、水分が溢れ出てくる。
「行けそうか?」
「なんとかな」
冗談も無く、手綱を握るハンクは何時にも無く真剣だ。
馬車に繋がれた馬も、悪路に鼻息を荒くしていた。時間にすれば5分程度だが、非常に長く感じる。泥濘に捕まれば補強をやり直すか、最悪放棄していかなければならない。
まだ、日は沈んでいないとは言え、この場からさっさと離れたいのが全員の総意だ。地中に埋め込まれた最後の板材を乗り越え、馬車は道にできていた泥濘を渡りきった。車輪についた泥を引き抜いた草で落とす。
「渡り切ったな!」
レラウが待機していた荷馬車から安堵した表情で近寄ってきた。
「綺麗な馬車が泥で台無しだがな」
ぼろとまでは言わないが、年季の入った荷馬車をハンクは愉快そうに撫でた。渡りきったことで幾らか余裕ができたようだ。
「そうか? 綺麗な馬車だからか、泥も似合うぜ」
「ありがとう」
褒めて頂いたお礼と、ハンクは靴先で俺の足元に泥を蹴り出した。
「渡り切ったばかりだが、直ぐに出発しよう。隊列の後尾、それも夜通し進むことになるが、どうか頼む」
「ああ、分かった」
俺の肩を叩いたレラウは踵を返し、先頭の馬車へと戻っていく。帰り際に、一台一台に問題はないかチェックをしているようだ。
「シンドウ、リアナ、荷馬車の点検だ。ロープやら吊り下げてるものに緩みがないか注意しろ。俺は足回りをみる。アーシェは見張りを頼むぞ」
ハンクが言い終わるなり屈み込み、荷馬車の車輪、車軸などの足回りの点検を始めた。
俺も広場でも点検はしたが、あの悪路で日用品や装備品の止め具が緩んでいないか、再確認する。アーシェはハンクが言い終わる前に、荷馬車の屋根へと飛び乗った。
「俺は外を見る。リアナは中を」
「わかりました」
車体の外部に固定されたロープや幌などの固定を調べ、続き馬具の点検に入る。1頭1頭の頭絡やハミが正しい位置に収まっているか、手で掴み調べていく。
その流れで複数の馬と荷馬車を繋ぐ輓具も不具合が無いか確認しようとしたところ、既にハンクが輓具の点検に入っていた。
次の作業が無くなり、ふと見上げれば、荷馬車の上でアーシェがゆっくりと首を左右に振り、目線だけは細かく動かし、警戒をしっかりこなしていた。
一時的にやることが無くなり、俺も出発まで警戒に移る。道と森の境目を睨んでいると土を蹴る音が聞こえる。
「蹄が削れるぞ。止めとけ」
ストレスを感じた馬の1頭が前掻きを始めたのだ。繰り返しうなじから肩を撫でると、地面を削るのを止めた。言葉は通じないが、他の3頭も同様に撫でながら、語りかける。
「夜通しだが、頑張ってくれよ」
その内の一頭が小さく嗎、返事をした。俺がヘッジホルグで使っていた馬だ。嬉しくなり、微笑んでいると、後ろから返事がした。
「おう、任せろ」
当然、馬が返事をするはずも無く、ハンクは満面の笑みだ。
「ハンクじゃねぇよ」
「ふはははは!!」
ハンクの横腹を軽く小突くが、鼻で俺をわらうとそのまま御者台に上がった。点検が完了したらしい。
それから幾ばくもしないで全ての馬車の点検が終わった。
「出発だ。馬車が動き出したからと言って油断するな。剣山獣に比べれば、馬車なんて亀みたいな速さだ。隊列が間延びしている分だけ、円陣を組んでいたよりも、戦力がバラバラで危険だ。全員肝に銘じてくれ!」
集中の糸が切れかけないように、レラウが発破を掛ける。多数の冒険者を統率してきたレラウだけあって、この辺の気持ちの引き締めと士気の上げ方は心得ていた。
先頭の馬車が馬に牽引され、車輪が回り出し、続いて2台目、3台目と馬車が動いて行く。何かあっても急停止できるが、かと言って離れている訳でもない車間距離だ。
「何とか動いたか」
直ぐにハンクの馬車もそこに加わった。一晩血染めの攻防を繰り広げた広場から離れて行く。
揺れる荷台の上で短く息を吐き、荷台の縁に腰掛ける。馬車の警戒は荷台の俺と屋根のリアナだ。
索敵感覚の優れるアーシェは、日が暮れるまでは休息を取り、夜の警戒に加わって貰う予定だ。
連続で突き上げてくる様な振動を体幹筋で受け止める。こんな揺れにも関わらず、アーシェは小さく寝息を立てている。
疲労もあるのだろうが、この寝付きの良さは実に羨ましかった。