第二十九話 壊れた檻
床から衝撃が走る。あの本体のウンディーネが床を繰り返し攻撃しているのだろう。ぐらつく通路からはぱらぱらと埃が落下してきた。
「懐かしいな。直ぐに帰れると思っていたが、こんなことになるとは……」
俺の目の前には朝に封鎖されたまま開く事のない隔壁がそびえている。あの警備兵は直ぐに帰れると言っていたが、直ぐに帰れた者は皆無であり、あの班の中では帰れそうな者も俺だけとなってしまった。隔壁の重厚さを確かめるように一蹴り入れ、ホルムスの名前を呼ぶ。
「ホルムス、通信を頼めるか? 冒険者より所員の方が話しが通じやすい」
腰から下げていた通信魔道具をホルムスへと渡す。無茶な戦闘により表面には無数の傷が付き、汚れてしまっているが、無事に動作することは確認済みだ。
「ああ、任せてくれ」
通信魔道具を受け取ったホルムスは懸命に通信を始め、繰り返し、警備兵に状況を説明する。
「だから今居るのは所員2人に、冒険者が6人だけだ。それ以外には生存者は居ないと言っているだろう。私達や君たちを脅かすような脅威はこの階層には無い。早くここを開けてくれ、私は家に帰って、風呂に入り、食べれるだけ食事を詰め込んで、寝れるだけ寝たい。今日だけで何度も惨劇を見た。同僚が目の前で食われ、仲の良かった警備兵は全身を千切られて死んでいった。私達はただ外に出たいだけ――」
既に通信は5分以上続いていた。警備兵は同じ話しを繰り返しているのか、ホルムスは似たような会話を繰り返し魔道具に向けて続けている。
「何やってんだよ。警備兵どもは、さっさと開けろ」
「俺たちがする仕事は十分に達成しただろう。もたもたしやがって、見殺しにする気か」
通信機に入らない距離で、冒険者は愚痴を吐いていた。床を揺らす振動が大きくなり、回数も増えている。誰が焦らないでいられるだろうか。
とは言え、警備兵が隔壁を開けない理由も分かる。これ以上の二次被害が怖いのだ。残存する貴重な50人もの警備兵を失い、投入した冒険者の大半も殉職した。慎重にならない方が異常だ。
「ああ、わかった」
長い話し合いの末に、ようやくホルムスは通信魔道具を切った。その一つ一つの行動ですら全員から注目が注がれる。
「シンドウ、返しておく」
返された通信魔道具を肩に回し、全員を代表してホルムスに尋ねる。
「どうなった?」
真剣なホルムスの顔が崩れた。それは悲しみ、怒りではなく、喜びによるものだ。
「開くぞ」
その一言で俺達からは歓声が上がった。ホルムスの言葉とほぼ同時に隔壁はゆっくりと上がり始めた。
「ゆっくりだ。ゆっくりこちらに上がって来い」
階段の上から響く声は間違いなく人の声だ。指示に従い階段の前まで行くと、見上げた先には数十もの銃口が覗いていた。
「なっ――」
その全てが俺たちに向けられている。警備兵達の視線は不安と恐怖に染め上がり、何かが起きたら連鎖的にこちらに引き金を引くだろう。
「たいそうなお出迎えだね」
クロフトの小言を聞き流し、俺を先頭にして階段を上がっていく。撃たれないとは思うが、それでも黒く縁取られた銃口に迎えられるのは気分がいいものではない。
「撃つなよ? 俺達は人間だ」
俺たち全員が階段を上がりきると、隔壁はゆっくりと閉じていった。警備兵の数は変わらないが、全身に防具を身に付けた重装備の冒険者が30人ほど増えている。火器を装備した軽装の警備兵だけではアルカストラネに多大な被害が出ると判断し、盾代わりの重装備の冒険者を増員したのかもしれない。
殿だったニコレッタが第二層への階段を登り終えると同時に隔壁が動き、閉じた。目に見えて警備兵達に安堵が広がるのが分かる。俺達に向けられていた銃口も自然と下ろされた。
警備兵の中から初老の警備兵が出てきた。基本の服装は他の警備兵と同じだが、肩や胸の装飾の造形が凝っている。間違いなくここの警備兵を指揮する指揮官だろう。
「一体、地下で何が起きている。この揺れは何だ?」
初老の警備兵は有無を言わさず俺たちに質問を投げかけてきた。質問というよりは尋問に近いイントネーションだ。労いが欲しいとは言わないが、いきなりこの態度に俺は小さく息を吐いた。後ろにいる仲間に目を向けるが、皆良い顔をしていない。
「施設の動力を吸い上げて、地下の実験体が巨大化している。最下層と第三層の床は完全に破られていた。第二層も時間の問題だ。俺はここから脱出する。分離体でも死にかけたのに、あんなのと戦えるか」
「待て、まだお前らの仕事は終わっていないぞ」
この状況になっても尚も上から目線で対応する警備兵に、急速に頭に血が登るのが自分でも理解できた。
「仕事だって? 冗談じゃない。直にこの階層にもアレが来るぞ。そんな火器じゃ皆殺しだ。数百をたやすく食らった奴を、たかだか数十人程度で止められると思うなら勝手にやってくれ。俺たちは下の階層の人間を救出する仕事は達成した。それも化け物の情報を満足に教えられずにな。お前らも気を付けろ、そいつらの言う仕事は血反吐を吐きながら化け物に食われて、警備兵の時間を稼ぐことと同じだ。こいつらは俺達を幾らでも湧いてくる使い捨ての盾くらいにしか思っていない」
俺の一言に控えていた冒険者達がざわつき、動揺が走る。自分と同じ冒険者が血まみれになって言うのだ。うろたえている警備兵よりもよっぽど説得力があるだろう。
「騒ぐな。上から指示があるまでここは……」
警備兵は俺に詰め寄り進路を塞ごうとした。その手が俺に伸びようとした時、激しい揺れが階層を直撃した。今までにない強い揺れに、警備兵は前のめりになりながら転倒しそうになった。とうとう精霊もどきの本体がこの第二層にも攻撃を始めたのだ。それは監獄である地下施設からの脱走と新鮮な餌を求めての行動だろう。
「下の階層が抜かれてしまったようだね。だんだんと階層を破るのが早くなっているよ。ここを抜かれるのは時間の問題だ。生きたまま四肢を捥がれるか、時間を掛けて体を溶かされるか分からないけど、僕はどちらも遠慮したいね」
クロフトの言葉に、下っ端の警備兵までも顔を見合わせる。俺を引き止めようとした警備兵も口を閉じて長考したままだ。
「どうする。俺だってアレに食われるのは……」
「待てよ。まだ本当って決まった訳じゃ」
「なら、この揺れは何だ? くそっ、とんでもない力だぞ。階層の間にある天井の厚さを知ってるだろう。異世界からの漂流物を使ったってそう抜けるもんじゃない」
既に俺達を止めるどころではない、初老の男はうろたえる部下達を纏めるので、精一杯だ。
「そういう訳で失礼させて貰う。十分に責務は果たした」
口論を始めた警備兵を横目に、恋しい地上を目指す。細い通路を幾つも抜け、第二層の階段を駆け上がり、目指す先は地上への入り口。
最後の階段を駆け上がり、見えたのは眩い光に包まれた外だ。久しぶりの日の明かりは眩しく瞼が細くなってしまう。
「ようやく、外に出られた。はは、とんでもなく明るいな」
不意に足の力が抜け、地面へと座り込みそうになる。この半日で極限にまで追い詰められ、幾度も死を覚悟した。他の者も俺と同様だ。
「生きて帰れるなんて、私は二度と地下には潜らないぞ」
冒険者は肩を叩き喜び合い、研究者は腰が抜けそうになっている。
「僕は行ってもいいかい? 本体が出てきたらここも血の海に変わる」
俺たちの感動もクロフトの言動により、現実へ引き戻された。これからのことを考えた冒険者やホルムスの顔は強張る。
「研究チームに知らせないと、まだ所内で荷物を纏めているんだ」
「そうだ。仲間の奴らも運び出しに駆り出される」
「じゃあな、またギルドハウスで会おう」
ドタバタと冒険者達は四方に散らばった。残されたのは、右往左往するテルマ。そしてニコレッタとクロフトだ。
「あ、あの逃げないの?」
逃げ遅れてしまった、と短槍をブンブンと振り、テルマは俺たちに問いかけて来る。
「取り敢えずは、所内から逃げ出そう」
施設内ではまだ作業員達が品物の運び出しを行っていた。まるで夜逃げを決め込む人間のように研究員も警備兵も冒険者も両手いっぱいに物を持ち、追われるように廊下を移動している。
床には拾うのを諦められた紙やら配線が落ちている。行きでは無事だったガラスも地下からの揺れによりその殆どが割れて散乱していた。足元では散乱した硝子のじゃりじゃりとした感触が伝わってくる。
派手に足音を立てて逃げる俺達に、荷物を運び出す作業に当たっていた冒険者が反応する。血や埃ですっかり汚れた俺たちを見て、ギョッとした顔で手を止めるか、その場で立ち尽くしている。その中の冒険者の一人が追走して来ると俺の肩を叩いた。
「確か、投入組の奴らか。どうしたんだ。血まみれで。他の奴らは?」
鳴り止まないサイレン、止まらない揺れ、重大な何かがあったと冒険者は気づいているようだ。だからわざわざ作業を中断してまで俺達を追いかけてきたのだろう。
「他の奴らか……全員死んだよ。それも大半が惨殺された。あんな死に方じゃリュブリス攻防の方がまだマシだ。地下は地獄だが、ここもそうなる」
「は……?」
肩を叩いた冒険者は、言葉の意味を理解しているのか理解していないのか分からないが、予想を上回る回答に絶句したまま固まってしまう。ただならぬ気配を察知した他の作業員が俺たちを囲むように集まって来た。
「……全滅。どういう事だ。毒物でも漏れているのか」
「まさか、さっきからの揺れは爆発が原因か?」
自身の不安を解消するために、群衆は一斉に質問を浴びせて来る。その声に負けないように俺は声を張り上げた。
「地下で馬鹿でかい化け物が天井を突き破って逃げ出そうとしている。残念な事に好物は人間だ」
あれだけ騒がしかった奴らは一斉に黙り込んでしまった。辛うじて一人だけが俺達に質問を続ける。
「な、何の冗談だ?」
「私は冗談で返り血はつけないし、冗談で大人しく数百人も食べられると思うのかしら?」
うんざりしたようなニコレッタの言動に合わせるかのように、揺れが連続して起きる。精霊もどきの本体が天井を殴打しているのだ。
「こ、ここから早く逃げないと」
弾かれたように一人の研究員が群衆から離れた。それが引き金となり群衆は各々の方向へと一斉に散った。その場で話を聞いていなかった者も連れられるように逃げ出し始め、警備兵がそれらを制止しようと揉み合いになる。
「待て、持ち場を離れるな」
そんな人々を静止させようと頑張っていた警備兵も、激しさを増す揺れと地下を死守していたはずの警備兵達が、血相を変えて地下から這い上がって来るのを見て、ようやく逃げ出した。幸い、研究所が揺れでパニックになる前に脱出できたので、出口に殺到する人の波をかわす事ができた。他の者に比べれば十分な時間を持って、逃げ出すことができた。
研究所を中心として平地が広がり、南に行けば街、西、北には俺達が通ってきたウィットルドへ通じる森、そして東には傾斜が緩やかな丘が幾つも並んでいる。南側には待機していた荷馬車や人が多数密集していた。
荷馬車や運び出された資材の隙間を縫うように、走り続ける。ニコレッタが大声で叫んだ。それを遮るように建物が悲鳴を上げる音が聞こえる。
「研究所が崩れるわ!!」
今までで最大の揺れの後に、研究所は崩壊を始めた。瓦礫は空から落下し、人々の怒号と叫びが飛び交う。崩落を続ける研究所を背に一心不乱に人々は走る。崩落に巻き込まれないように必死だ。
そびえ立っていた研究所は全て瓦礫へと変わった。崩落によって砂埃が天高くへ上昇して漂い始める。砂埃が口の中に入り、唾と一緒に吐き出した。あまりの砂埃にむせそうになる。砂埃をもろに食らってしまった人は、全身が土色に染まり、呪詛の言葉と共に身体をはたき始めた。
「無事か?」
「な、なんとか」
「私も大丈夫だわ」
「すっかり埃まみれだよ」
声を掛けると、全員から無事であるという報告が帰ってきた。
研究所があった方からは呻き声やすすり泣くような声がかすかに聞こえるが、視界が悪いせいでその姿を視認することはできなかった。
風によりゆっくりと視界が利く様になってきた。ついさっきまで威風堂々とあったはずの研究所は全て瓦礫と化した。巻き込まれ負傷したのか、何人もの人間の叫び声がこだまする。それでも大半の人間は崩壊する研究所から逃げ出すことができ、自分の幸運と何が起きたかを再確認しようと必死だ。
落ち着きを取り戻した警備兵が、負傷や機材の損傷を確認するために、あちらこちらを駆け回りだした。協力したいところだが、今はそれどころではない。
「俺は荷物を取りに街へ――」
「それ、ちょっと無理みたい」
俺の言葉はテルマによって遮られた。込められた言葉と意味とその視線の先で、何が起きているか予想が付く。瓦礫の山が身震いするように揺れだした。
「ひぃい、あれ、なんだよ」
額から血を流した研究員が短く悲鳴を上げて指を指した。その指先を周囲にいた全員が見詰める。
「あの特徴的なジェル状の物体はアレしかないだろうね。まいったね」
「早く逃げましょう。手遅れになる前に」
一目散に逃げ出した俺達に続くように、研究所の全方位に人々が散り始めた。その中心の研究所跡地では、砂煙と轟音を立て、巨大な何かが構築されていく。
「冗談キツイな。今日は、本当に厄日だ」
研究所を食い破り出てきたのは、巨大なウンディーネ。その両手を広げ、天へと大口を開けて笑い出した。
「あは、あッははハハぁはハは!!」
それだけで大気が振るえ、鼓膜が揺さぶられる。強大な捕食者はその腕を伸ばすと、逃げ去ろうとしていた人間の一団を纏めてすくい上げ、体内へと押し込んだ、数秒の間は溺れた人のように手足をばたつかせていたが、直ぐに動かなくなり、骨だけになった。
それを見ていた群集が悲鳴を上げる。警備兵が戦おうとしている相手と比べて、実に矮小な火器での反撃を試みるが、巨大な捕食者をイラつかせる程度の効果しかない。文字通り、直ぐに抵抗は叩き潰された
「これまた特大、予想を超えてくれたね」
あのクロフトでさえも驚いた様子で、苦笑していた。地上へと解き放たれた捕食者は止まらない。この場に居る全員を食い殺さんとばかりに笑い続ける。地獄の蓋は完全に開かれてしまった。
元凶の登場。