エピローグ
翌日、猪狩は昼近くまで寝ていた。
「うえ……頭痛ぇ。二日酔いだ……」時計を見ると十一時五十二分。
「水……」呻きながらベッドから起き上がり、一階へ向かう。
「おはよう」猪狩は台所にいた母の涼子に挨拶をした。
「こんにちは」涼子は微笑んだ。
猪狩にはその表情が皮肉っぽく見えた。言葉も然り、こんな時間まで寝ているなということだろう。何も言い返せなかったので黙っていた。
食器棚からコップを取り出し、冷蔵庫の水を注ぐ。そこでインターフォンが鳴った。
「はいはーい」涼子は今のほうへと向かう。
猪狩は、日本人は不思議だと思った。返事をしても聞こえないのに返事をする。それに相手には見えないのに電話の相手にお辞儀をしたりするのも一緒だ。あれはどういう心理なのだろうと考えたが、二日酔いで頭が痛いので中断。
「はい、ええ……はい」涼子は受話器で話をしている。
受話器を置くと玄関のほうへ歩いていった。
今日は何をしようか、というよりも何もしたくない。気持ちが悪い、奈美香が無理矢理飲ませてきたせいだ。今日はずっと寝ていようか。などと考えていると涼子が猪狩の方にやってきた。
「あんた、何したの?」涼子が神妙な顔で聞いてくる。
「は?」猪狩には何の事だかわからない。
「警察」
「へ? 何もしてないよ、俺」
「知らないわよ。あんたに用があるって」
訳もわからないまま、立ち上がり玄関へ向かう。
「ちょっと、着替えてからにしなさい!」涼子が叫んだ。
「どうも、道警の伊勢と言います」
伊勢と名乗った男はは今に通されソファに座っている。猪狩はクッションに座って向かい合っている。
涼子が麦茶を運んでくる。
「あ、お構いなく」伊勢は片手を挙げた。
「で、何の用ですか?」猪狩は棘々しく言った。
今日は気分が悪いのだ。そこに警察なんかが来ては、たまったものではない。
「ごめんね、すぐ終わるよ」
「ただの二日酔いですから、お構いなく」涼子が言う。
猪狩は涼子を睨んだが、彼女は気にせず部屋を出て行った。
「まあ、和哉の事なんだけど」伊勢が話を切り出した。
「和哉?」
「ああ、真崎って言った方がいいかな?」
「あ、はい。知り合いだったんですか?」
「知り合いって言うか、親友だね。そして過去形でもない」伊勢は微笑んだ。「あいつはいいやつだったよ。いや、いいやつだよ。あいつは人殺しだけど、いいやつで、俺の親友であることに変わりはない。もちろん彼のやったことは許されることではないけど、いいやつであるということとは無関係だ。わかるかな?」
猪狩はわかった、ような気がした。もし、奈美香や藤井、怜奈が人を殺したら同じ事を言うだろうか。
「たぶん」とだけ答えた。
「そう、それは良かった」伊勢はにっこりと笑った。
「で、どうして来たんですか? 彼は自首でしょう? 俺には関係ないと思うんですけど」
「うん、今日は非公式だから。和哉が自首する前に電話があってね。びっくりしたよ、人を殺したから自首するって。で、その時、君のことを聞いたわけ。なんとなく嬉しそうだったよ」
三十分ほど話して、伊勢は帰っていった。現場からは特に重要な証拠は残っていなかったという。指紋も毛髪も皮膚も検出されなかった。時計とナイフからウラを取れるかもしれないが、時間がかかりそうだ、自白だけじゃ立件できないから大変だと言っていた。
証拠が無かったにも関わらず彼は罪を認めた。やはり彼は自分の罪の重さに耐えられなかったのだろう。
動機も言っていたが猪狩は忘れてしまった。人が殺人を犯す事になった経緯など興味はなかった。
ただし、それは殺人という行為を軽視しているという意味ではない。殺人は世界に容認されてはおらず、動機は関係がないという事でだ。
だいたいは猪狩の想像した通り、個人的な恨みから(と言っても彼と秋山美冬とは面識がなかった。親族を巻き込んだ事件に彼女が関わっていたようである)殺す機会をうかがっていたといった内容だったと思う。そのために探偵になったとも言っていた気がする。警察は彼女が関わっていた事件も捜査し直すとのことだ。
人を殺そうとする人間の気持ちがわかる? 真崎はそう聞いてきた。
わかりたくない。 そう猪狩は答えた。
それが正解。 彼はそう言った。
彼は正解を知っていた。しかし、彼は正解することはなかった。そして実行してしまった。
殺人という不正解を。
それは、とても悲しいことに思えた。