六章 解決する表層の結果と解決しない深層の心理について
1
猪狩は地下鉄の駅から出た。
市の中心地からわずかに外れた場所だった。車の通りも多く、背の高いビルもあるが、よく見るとひび割れなどを起こしている建物も多く、真新しいものは見られない。交通量が多いのも、単純に市街に向かうための通り道だというだけというのが答えのようだ。
猪狩はあるビルの前に立っていた。三階建てのビルで、二階の窓には「真崎探偵事務所」と書かれていた。階段を上り、扉の前で止まる。一度深呼吸をして扉をノックした。
しばらくの沈黙の後「どうぞ」という声。猪狩は中に入った。
部屋の中は整理整頓が行き届いていた。入って左の窓際にはデスク。その前に接客用のソファーとテーブル。ソファはテーブルを挟んで向かい合うようになっていた。
右側には食器棚と小さなガスコンロ、水道もあり、真崎はそこでお湯を沸かしていた。
「やあ、やっぱり君だったか」真崎は微笑む。「二十パーセントくらいで矢式さんかなと思ったんだけど」
猪狩は黙っている。
「コーヒー飲むかい? インスタントだけど」
猪狩は黙って首を横に振った。
ヤカンが音を立てると真崎は火を止めて、取っ手に布巾をかぶせて、マグカップにお湯を注いだ。
結局、二人分のコーヒーを入れて真崎が猪狩の方に歩いてくる。
「まあ、座ってよ」
猪狩はソファに座った。真崎も反対のソファに座る。猪狩の前にマグカップを差し出した。
「お客さんに何も出さないってのもね」
真崎はカップに息を吹きかけて冷ますと一口コーヒーを飲んだ。
猪狩は手を付けなかった。
「さて、今日は何しに? 何かの依頼ってわけじゃないだろう」
「奈美香が来るかも、って言いましたよね」
「ああ……」真崎は手を額に当てて苦笑した。「迂闊だったね、それは」
「つまり、わかっているんでしょう?」
「犯人がわかったってことだろう?」
「そうです」
「じゃあ、聞かせてもらおうかな」
猪狩は真崎を睨んだ。
「睨まないでくれよ。はあ……」真崎はため息をつく。「その様子だと本当にわかっているみたいだね」
「ええ」
猪狩は次の言葉を躊躇した。しかし、決心して言った。
「どうして、殺した?」
2
真崎は黙ってコーヒーに口をつけた。カップをテーブルに置くと、やがて言った。
「どうして? 君がそれを聞くとは思わなかったな。興味がないと思っていた」
「何かしらの弁解が聞けると思っただけです」
「弁解、ね……。ないよ、そんなもの。僕は秋山美冬を殺した。動機はある。けれどそれを人に話す意味があるとは思わない。人を殺した罪は変わらないし、同情も求めていない。それよりも、君がどうやって気づいたか気になるな」
「時計」簡単に答える。
「ああ、あれはまずかった」
「なんで密室にしたんですか?」
「ああ、何でだろうね。気づいてほしかったのかな? 君みたいな誰かに。確かに密室にする事で、事象の不可能性で身を守る事と、気づかれる事によるリスクを天秤にかけてのことではあったけど。だけど、賢い人間ならすぐ気づくだろうからね」
そう言ってから真崎は煙草を取り出し、火をつける。
「でも実際のところ、一番楽な殺し方は通り魔に見せかけた殺人だよね。そして、一番安全なのが、自殺に見せかけることだ。
けど彼女の場合、ガードが固くてどちらも無理だったんだ。で、思いついたのが密室。通り魔では殺せない。自殺に見せかけるのも無理。ならこういう閉鎖的環境で殺すしかない、ならば普通に殺すよりは密室殺人の方が安全と考えた。それだけ。ただ、誰かは気づくと思った。そして、それならそれでもいいと思った」
猪狩は何も喋らない。どう切り出したらいいか、わからなかった。
「自首はするよ」猪狩の気持ちを察したかのように言った。
「ばれたから君を殺す。なんてことはないよ。君が気づかなくても自首していたかもしれない。ばれないように色々と細工をしたわけだけど、結局罪の意識から逃れられなくてね」
「じゃあ、なんで……」
「人を殺そうとする人間の気持ちがわかる?」真崎が聞いてくる。
論旨がずれていると思ったが、猪狩は答える。
「いや、わからない。わかりたくもない」
「そう。……それが正解だ」
しばらくの間、沈黙があった。
「彼女も来るのかい?」口を開いたのは真崎だった。
猪狩はすぐに、奈美香のことだとわかった。だが、彼の言い方が「She」のこととも「Girlfriend」のこととも取れるニュアンスだった。猪狩は「She」の事だと思う事にした。
「いや、知らない」
「来ると思うよ。たぶん彼女も気づく。彼女の場合、頭の回転が速いけど無駄が多い。可能性を片っ端から挙げていくからね。君の倍くらいアイディアがあると思うよ。
そして君はあの時一つも意見を出さなかった。それは、意見が無いんじゃなくて少しでも非合理的な意見は排除しているんじゃないかな、って思った。勘だけど。
つまり、彼女はとりあえず、数字を埋めてみるんだ。そして、君はしっかりと方程式を組んでから解く、そして答える」
猪狩は驚いた。彼の言うことは、自分の自覚とまったく同じだったからだ。
「だから、彼女じゃなくて君が来ると思った。君の思考には無駄がない」
再び沈黙。真崎は煙草の火を消した。
「じゃあ、そろそろ行くかな」
彼は立ち上がり、扉へと向かった。
3
奈美香は走っていた。気づいてしまった。急いでどうなるわけでもない。会ってどうなるわけでもない。どうするわけでもない。
だが走っていた。人通りは少なかった。たまにすれ違う人々は、走っている奈美香を怪訝そうに見つめるが彼女は気にも留めなかった。
「たぶん、この辺……」
奈美香は真崎探偵事務所の場所を知らなかった。住所だけ調べて、だいたいの位置だけ覚えて、ゆっくり探そうと思ってきた。しかし、途中で気づいてしまった。それからはもう、じっとしていられなかった。
信号機に表示してある住所を頼りにひたすら走ってきた。
信号が赤になり交差点で止まった。膝に手をつき、息も切れはじめていた。
「あ……」
顔を上げると交差点の反対側に真崎が立っていた。彼もこちらに気付いたようだ。微笑んでいるように見える。
信号が青になった。
奈美香は動かなかった。真崎はこちらに歩いてくる。
「やあ、こんにちは」真崎はやはり微笑んでいた。「やっぱり、気づいたね」
「ええ」奈美香も微笑み返す。「残念です」
「さようなら」
真崎はそれだけ言って通り過ぎる。
「さようなら」
奈美香もそれだけ返す。奈美香は振り返って、真崎の背中を見えなくなるまで見つめていた。
意外とドライなものだと思った。知り合って数日しか経っていないのは確かだが、自分が彼に好意を持っていたのも確かである。
こうも冷静でいられる理由はわからなかった。案外、自分の感情を自分で理解できるほど人間はよくできているわけではないのかもしれないと思った。
「よお」後ろから声がした。
「あ、康平」
「おう」
何を話せば良いかわからなかった。もっとも、猪狩は話す気すらないかもしれない。居心地の悪い時間だった。
「帰ろうか」猪狩はそれだけ言った。
「うん」奈美香は頷く。
なんだか、安心した気がした。
4
「いや、全然わからないんだけど」
四人は藤井の部屋にいた。彼はアパートに一人暮らしである。
海で飲めなかった酒は藤井がすべて預かっていた。早いうちに飲んでしまおうということで、彼の家でいわゆる「宅飲み」が開催されたのである。
先ほどの台詞を発したのは藤井だった。
「私もわからない」怜奈が頷く。「どうやって真崎さんが? まさか本当に機械でも使ったの?」
「違う。もっと簡単だよ」猪狩が答える。「テーブルの上にあった鍵はあの部屋の鍵じゃなかった」
「え?」二人は驚きを隠さずに目を見開いた。
「あの鍵は別の鍵で、つまり、真崎さんの部屋の鍵だ。あの部屋の鍵は彼が持っていた。それで鍵をかけて、第一発見者になって鍵を元に戻す。探偵という職業なら、場を仕切れると踏んだんだろう。誰も部屋に入れずに隙を見て鍵をすり替えた。たぶんハンカチで鍵を取ったときだろうね。その中に本当の鍵が入っていた」
「だから、夕食のときに探偵だって言ったのよ。私が聞かなくても、自分から話していたでしょうね」
「でも、どうやって部屋に入ったの?」怜奈が首を傾げる。
「推測だけど」と前置きして猪狩は言う。「被害者は真崎さんが探偵だと言ったときに、反応してこっちを見た。探偵に相談したい事があったんだろう。そして、そう仕向けたのはたぶん真崎さん本人」
「なるほど、でもどうして? 動機は?」
「それは知らない。真崎さんは通り魔に見せかけて殺すにはガードが固すぎた、と言っていたから、彼女は殺される事を自覚していたんだろう。それ程のことをしていた。そして、その対象が真崎さんだった。それと、例えば、そのことで脅迫状かなにかを送れば探偵に相談したがるんじゃないかな」
「なるほど、警察には言えないしな」藤井は感心している。怜奈も頷いている。奈美香はわかっている、といった顔をしている。
「全部推測だよ」
「そもそも、どうしてわかったんだ?」
「時計が鳴った」
「時計? ああ、やっぱりあれって時計だったの?」
「ということは死体に気がついてほしかったということだと思った。そうしないと鍵をすり替えられないから」
「でも、ちょっと杜撰よね。時計を鳴らすなんて不自然すぎるもの」奈美香はふと思いついた。「気づいてほしかった」
「え?」
「そう言っていた」
「よくわからない。密室にまでしておいて、気づいてほしかったって……」
「わからないのが普通だ。俺たちは人を殺した事がないからな」
「まあ、そうだけど……」
「はいはい、もうやめ。犯人は捕まったし、トリックもわかったし、もうこの件は終わりにしよう。せっかく飲んでるんだから、くらーい話はやめようぜ」藤井が提案する。
三人もそれに賛成した。結局、物騒な話なんてしたくはないのだ。