五章 移動する彼らの諦念と移行する彼の論究について
1
「結局分からなかったわね」帰りの電車の中で奈美香が言った。
真崎もS市に住んでいるらしいが、車で来ていた。なので帰りも猪狩、藤井、奈美香、怜奈と来たときの四人となった。
ボックス席に座り、男性二人が進行方向とは逆の席に着いた。猪狩が窓側だった。こういったことはたいてい男性が譲歩しなくてはならない。男女平等とはまた違った概念だ。男尊女卑のリバウンドかもしれない。だが、別に猪狩に不満はなかった。
猪狩は窓の桟に肘をついてずっと窓から海を眺めていた。だが、風景は脳内に響いてこなかった。
「ま、俺ら素人だし。警察に任せるしかなかったんだよ」藤井が言う。
「けど、悔しいね。あっ、ごめん不謹慎だね、これ」怜奈は眉を顰めた。人が死んでいるのを思い出したのだろう。
「けど、まだ詰めれそうじゃない? とりあえず、尾崎さんは犯人じゃないと思うの」奈美香が言い出した。
怜奈と藤井は奈美香に注目した。猪狩は窓を向いたまま聞くことにした。
「二階にいたからか?」
「厳密に言うとちょっと違うけど。あの時間みんな自分の部屋にいた。だから、犯人は堂々とドアから入った。どういう口実を使ったかはわからないけど。とりあえず疑いを持たれずに部屋に入った。そういう点では尾崎さんにもできる。
けど彼の場合、密室にする方法が思い浮かばないのよ。真崎さんが言ったように機械を使ったとしても回収しなきゃいけないし。やっぱり一階にいた人の方がリスクは低いと思うの」
「じゃあ、夏美ちゃんか武井さんたち? そういえばあの夫婦のこと全然わからないよね」
「そう。彼らが一番怪しい。けど一番怪しまれるのに殺したりするかしら?」
「それはミステリーの読みすぎなんじゃねえの? やっぱ一番怪しいやつが犯人でいいとおもうけどなあ」
「そもそも、怪しいって言っても、私たちと接点がなかったってだけだよね。もしかしたら、他の人たちとは交流があったかも」
「うーん……」
「オーナー夫妻のアリバイには高石が絡んでいる」猪狩は口を開いた。
三人は飛び上がりそうになった。
「うわっ! びっくりしたお前聞いてたのかよ」藤井が胸に手を当てている。よほど驚いたようだ。
驚きすぎだろうと猪狩は内心で呆れた。
「何? じゃあ、康平はオーナー夫妻が高石君と共犯だって言いたいの? どっちが?」奈美香は顔を顰めながら聞いた。
「そうは言ってない。それに共犯じゃなくても方法があるかもしれない」
「アリバイトリック? 何かあるかしら?」
「さあ? それは知らない」
実際、何も考えていなかった。考える必要もないと思ったのだ。そう言って、また窓の方に視線を戻した。
奈美香の舌打ちが聞こえた。
最近、奈美香の舌打ちが多くなったように思える。さらに言うならばその対象は自分だけのようだ。女性の舌打ちは印象が悪くなるし、自分に対してのみ行われるというのも気に入らない。自重してほしいと思った。
三人で議論が再開されたようだが、猪狩は今度は聞いていなかった。自分の思考を脳内で循環させることに努めた。
結局、議論はまとまらなかったようだ。
やがてS駅に着いた。駅の時計は四時ちょうどを指していた。
帰路に着くと、まず怜奈と別れた。彼女だけ方向が違うのだ。そして地下鉄に乗り換えて、二つ目の駅で藤井が降りた。その次の駅で猪狩と奈美香は降りた。歩いて二十分ほどで二人の住む住宅街である。自転車だともっと早いのだが、今回は荷物が多く自転車に乗せられなかったので、歩いて来ていた。
猪狩は黙っていた。珍しく奈美香も黙っていた。彼女は事件について考えているようだった。
実は、猪狩も事件について考えていた。好奇心とも違う何かが自身を動かしているのだ。
おそらく、とんちのきいた街頭のポスターと同じだ。たいてい、意味がわかっても面白くない。さらに悪いことに、解いたところで何の利点もない。けれど、目の前に提示されると、少し考え込んでしまう。好奇心などという大それたものではない。未解決のままで放置されているのが気に入らない、その程度のものだ。
何か忘れている。そう真崎に言った。だが、そうではないような気がしていた。
何かを間違えているのか。そちらの方が少ししっくりくる。
どちらでも同じだろうか。
なぜ、密室なのか。まず、その命題を解かなくてはいけない。
この場合、密室は単に不可能を示しているだけだ。誰にもできない、だから自分にもできない。アリバイを確保できないから、そうせざるを得なかっただけだ。
非常に幼稚な考えだ。コストパフォーマンスが低い。
他にも疑問点はある。
あのホテルでなくてはいけなかったのか。
通り魔で殺してはいけなかったのか。
自殺に見せかけることはできなかったのか。
この命題を後回しにしたところで、肝心の問題が残っている。
どうやって密室にしたのだろうか。これがわからない限り、犯人の思う壺ということになる。
何かを見落としているのだろうか。
うつ伏せの死体、刺さったナイフ。滲み出る血。テーブルの上。そして、そこにあった鍵。
被害者を最後に見たのはいつだったか。
夕食のとき?
時計は? 隠してあったと言っていた。
起きた事象をすべて思い出す。穴だらけの方程式にそれらをつぎ込んで、計算する。
条件式も設定して、無駄をそぎ落としていく。
ああ、
そうか。
猪狩は笑ってしまった。これは嘲笑だ。
「うわっ! びっくりした……どうしたの、急に?」奈美香が睨んでいる。
だが、全く気にならなかった。それどころではなかった。自分自身に呆れて、笑わずにはいられなかった。
「いや、別に」猪狩はそう答えた。
だが、猪狩は笑いを堪えることができなかった。
「何よ、気持ち悪い」
「いや、別に」猪狩は繰り返した。
すでに、猪狩たちの家に近いところまで来ていた。スーパーや書店、ホームセンターなどが建つ大きな通りから、内側に入り、こじんまりとした住宅地へと到着する。
やがて、奈美香の家に着いた。
「じゃあ、また」奈美香が手を挙げる。
「ああ」
それだけ言って立ち去ろうとした。
「あんた、なんか思いついたの?」
奈美香が言ったので、足を止めた。
「いや、別に」何度目かの同じ返答を猪狩はした。
「ああ、そう。じゃ」
奈美香は納得していないようで、訝しげに猪狩を見て首を傾げたが、結局家の中へと入っていった。
猪狩の家はそこから五分ほどだった。
砂利が敷き詰められた家の前には今は何もない。車がないということは、父は休日出勤しているらしい。最近は厚生労働省がうるさいらしいが、それでも中小企業に勤める父は休日出勤をやめる気はないらしい。
家の横には小さな家庭菜園があり、その手前には軽自動車が止まっている。母はいるようだ。
「ただいま」
「お帰り」
リビングに入ると母の涼子が台所から顔を出した。
猪狩はとりあえず荷物をリビングの端に下ろし、ソファに座りこんだ。
「どうだった?」
涼子は夕食の支度の途中だったらしく、エプロン姿で包丁を持ったままリビングに入ってきた。自然と刃先が猪狩の方を向く。
「包丁持ったまま来るな」
「いいじゃない、刺すわけじゃないんだから」
そう言いながら涼子は包丁を突き出して刺す真似をした。猪狩が睨むと彼女は肩を竦めた。
「で、どうだったの?」
「散々だった」
猪狩が言うと、涼子はため息をついた。
「あんたねえ、そもそも楽しもうとしなかったでしょう?」
「いや。楽しかったよ。たぶん。そっちは」
涼子は首を傾げる。
「いや、あんた散々だったって……」
「ねえ、タウンページある?」
「は? あるけど、電話の下に」
「あ、そう」
猪狩は電話台の戸を開けて、電話帳を取り出した。
「何でこんな子に育ったのかねえ……」
涼子は再びため息をついた。
2
海から帰って来た翌日の月曜日、奈美香は猪狩の家に向かっていた。彼が何か思いついたように思えてならなかったからだ。
奈美香にはまだわからない。いくつも可能性を挙げては消去。それの繰り返しである。答えにはたどり着きそうにもない。
条件が足りないのか、もしくは間違っているのか。
動機について調べる力がないのが痛い。おそらく、警察の捜査とはそこが出発点のはずだ。それができないのは、ハンディキャップとして大きい。
そのうちに、警察が動機から犯人を割り出すかもしれない。
しかし、まだ先のはずだ。動機がわかっても手法はまだわからないだろう。
だが、何か動かぬ証拠を見つけるかもしれない。犯人の毛髪が見つかるかもしれない。被害者の爪に犯人の皮膚が付着しているかもしれない。そうなれば密室のトリックなど意味を成さないだろう。そう考えると自分達は情報が圧倒的に少ないし、やっている事も無意味に思えてきた。
いや、無意味は百も承知だった。観測された不合理が気に入らないだけの事だった。
そう考えているうちに猪狩の家に着いた。インターフォンを鳴らす。
「はい」女の声だ。おそらく母の涼子だろう。
「あ、おはようございます。矢式です」いつもよりも高い声で言う。涼子と話すときは常にそうだった。
「あら、ちょっとと待ってね」
しばらくの間があった。そして扉が開く。
「おはよう。奈美香ちゃん」涼子が微笑んで出迎えてくれた。
「おはようございます、おばさん」奈美香は頭を下げた。「康平君いますか?」
「それがねえ、朝からどこか出かけていったのよ。ごめんね」彼女は申し訳なさそうに言う。
「どこに行ったかわかりますか?」
「それが、わからないのよ。出かけてくるって、それだけ」
「そうですか……」
「ああ、でも昨日、帰ってくるなりタウンページ見てたわね」
「タウンページ……。わかりました。ありがとうございます」
「ごめんねえ」
再び涼子が謝罪して、扉が閉められた。
猪狩は何を調べていたのだろうか。
帰ってくるなり、ということは、事件がらみなのだろう。真崎の事務所だろうかと奈美香は考える。
彼はやはり何かに気付いたのだろう。奈美香は行ってみる事にした。
だが、一歩踏み出して、足を止めた。猪狩の家のインターフォンを再び押した。
「はい?」
「あの、タウンページ貸してもらえませんか?」