三章 展開する彼の思考と展開される彼女らの好奇心について
1
数十分後、ホテルに警察の第一陣が到着した。そして、一時間もたったころには警察関係者で埋め尽くされた。被害者の部屋はもちろん、ロビーまで警官だらけとなった。
ホテルの客は、ロビーで待機するように言われている。四人はソファーに腰掛けてじっと待っていた。
おそらく、事情聴取というものがこのあと行われるのだろう。どのようなものだろうかと、奈美香は想像を巡らした。
「殺された女の人、誰?」藤井が誰に向かってでもなく言った。
「さあ、ホテルの中では何回か見たけど」猪狩が答える。
「私も知らない」奈美香は怜奈の方を見た。
彼女は気が動転しているのだろうか、藤井の問いにも反応せず、ずっと俯いている。大丈夫だろうかと心配になった。
二人の視線も彼女に集まる。彼らも不安げに怜奈を見ていた。少し休ませた方が良いかもしれないと奈美香は思い始めた。
「なあ、休ませた方が良くないか?」同じことを思ったらしく、猪狩が藤井に聞いた。
「ああ、聞いてくる」藤井は近くの警官の方へ歩いていった。
こういった行動をさせるのには藤井は適任である。彼はすぐに戻ってきた。
「部屋で休んでいいってさ。あとで話を聞きに来るって」
「そう。怜奈、大丈夫?」奈美香は怜奈の顔を覗き込むように言った。
「うん」怜奈は小さな声で答えた。
決して大丈夫には見えない。奈美香は怜奈に肩を貸そうとした。
「大丈夫。一人で歩けるよ……」
怜奈は立つときこそ少しふらついたものの、危なげなく歩いていった。それを見て奈美香は一息ついた。
さて、どうしたものか。
奈美香は、先ほど起こった不可解な現象について考えていた。しかし、思考がまとまらない。
こういった事態は小説の中だけだと思っていた。だが、実際に起こってしまったのだ。そして、実際に起こってみると異常なほどの緊張感を感じる。人の死という現実が自分の身体を縛り付けている。頭もパニックに陥って、正常な判断を下すのが難しい。この中で平気で推理を展開できる名探偵たちは、やはり小説の中の人物なのだなと改めて思った。
現実に名探偵はいない。警察はいる。これは警察の仕事なのだ。そして、名探偵がいなくとも仕事を十分にこなせる人材がそろっているはずなのである。
しかし、それでも気になるものは気になるのだ。深呼吸をして落ち着こうとする。
四人は怜奈の部屋に着いた。
部屋に入ると怜奈はベッドの端まで歩いていった。彼女はそこに腰かけたが、横にはならなかった。奈美香がコップに水を注いで怜奈に渡してやると、怜奈はそれを少しずつ飲んだ。
「ありがと、奈美香」怜奈は奈美香に微笑む。
若干の無理があるように思えたが、少し良くなったようだ。
奈美香は部屋に備え付けてある椅子に座った。
「無理するなよ」藤井が心配そうに声をかける。
彼は座る場所を求めて窓際まで行ってソファに座った。
「寝てた方がいい」座る場所がなく、入り口付近の壁にもたれていた猪狩が言った。
そういわれて彼女は少し迷ったようだが、横になった。
その時ドアがノックされた。猪狩が一番近かったので彼がドアを開けた。真崎だった。
「やあ。新川さん、大丈夫かい?」
「ええ、ありがとうございます」怜奈は上半身だけを起こした。
「無理しないでよ。えっとね、今、下の一〇五号室で事情聴取をやっているんだ。あとは君たちだけだよ。そのうち警察が呼びに来ると思うけど。……まあ、新川さんは無理しなくてもいいんじゃないかな。じゃあ、お大事にね」そう言って微笑むと真崎は部屋から出て行った。
「真崎さんって良い人ね。こういう気遣いができる人っていいわぁ」奈美香はわざとらしく猪狩の方を見て言った。
真崎の対応は嬉しかった。自分に向けられたものではないが、好意的な対応だ。猪狩の方を見て言ったのは彼の無愛想に対する嫌味だった。だが、猪狩は何の反応も示さなかった。少し腹立たしかった。
彼は少し無愛想すぎる。「少し」と「すぎる」が同時に存在する文章はいささか適切でないように思えるが、彼を表すのにはあながち間違いではない。彼は決して、不親切だったり、性格が悪いわけではないのだ。ただ、「おとなしい」を通り越して「寡黙」だし、その分、勘違いされがちだ。
(それさえ直ってくれさえすればいいのに……)
だが、直ったところで、「誰が」「どう」良いのだろうか。なぜそう考えたのだろうか。
結局、奈美香は考えるのを止めた。
しばらくすると警官がやってきた。どなたからでも、ということで猪狩が最初に行く事になった。
2
猪狩が一〇五号室に入ると、警官が二人いた。一人は三十代くらいで背が高い。がっちりとした体格で、もう一人は五十代くらいだろうか。若干白髪混じりで小柄だ。
二人とも椅子に座っている。部屋に椅子はひとつしかないので、どこからか持って来たのだろう。さすがにソファで事情聴取をするのもおかしいし、納得できた。
「すいませんね、お手数をおかけします。道警の大竹と申します」若い方の男が愛想よく言った。
「どうも」猪狩はそれだけ言った。こういった「仕事の顔」が猪狩は苦手だった。
「どうぞおかけになってください」猪狩は言われた通りに椅子に座った。
「ええと、まず、殺された被害者と面識はありましたか?」大竹が言う。
どうやら若い大竹の方が話を進めるらしい。
「いえ、ないと思います」
「思います、と言うと?」
「顔を見てないんで。名前も顔も知りません」
「ああ、失礼しました。」そう言うと大竹はテーブルの上のファイルから写真を取り出す。「こちらです。秋山美冬さんというのですが」
猪狩は写真を見た。若い女性の顔が写っている。ホテルに来てから何度か見た顔だ。海に行くときにロビーで見かけたし、夕食のときにもいた。
「いえ、ここでは何度か見ましたけど話もしていません」
「そうですか。では、事件が発覚したときの事を教えていただけますか? 他の方の話だとあなたもいたそうですが」
「えっと、風呂から上がって部屋に戻ろうとしたら、目覚まし時計みたいな音が聞こえたんです。で、たしか尾崎さんでしたっけ? 記者の人が扉をノックしたんですけど反応がなくて。うるさいから鍵を開けて中の様子を見ようって事になって、オーナーが鍵を持ってきたんです。あの音って何だったんですか?」
「あなたの言うとおり、目覚まし時計ですね。隠されていました。いろいろと細工がされているようで、今調べています……」大竹は言葉を切った。
喋りすぎたということなのか、もう一人の刑事に睨まれている。細工がされていたということは、その時計が密室に必要だったという事だろうか。
「鍵を開けたのはオーナーでしたか?」大竹は咳払いをして質問を再開した。
「え? たしかそうでしたけど」
「その前に鍵がかかっているのを確認しましたか?」
「いえ……」
なるほど、警察は本当はあの部屋が密室ではなかったと考えているのだろう。しかし、たしか部屋を空けようとしたのは尾崎だったはずだ。二人が共犯でないかぎりそれはない。そもそも、本当に密室だったのだろうか。猪狩は自分がいつもより積極的な思考になっていることに気づいた。
「窓の鍵ってかかっていましたか?」猪狩は聞いてみた。
「……かかっていましたよ」大竹は少し渋い顔をした。
あまりいろいろ質問するなということだろうか。年配の刑事の顔色を窺っている。
だが、猪狩にはまだ一つ気になることがあった。
「あの、部屋に入った時には音が止んでいたんです」
「ああ、それですね。普通の目覚まし時計と同じみたいですよ。時間が経つと止まります。ただ、しばらくするとまた鳴るようになっています」この質問にはためらいなく答えてくれた。
「ああ、なるほど」
細工がされているというので気になったが、どうやら音が止んだこと自体には関係がないようだ。肩すかしをくらってしまった。
「では最後に今日の行動について教えて下さい。夕方以降でいいですよ。」
「えっと、たしか海から帰ってきて七時まで友達と四人でトランプをしていました。それから夕食を食べて……七時半過ぎくらいから八時半くらいまでは自分の部屋にいました。それから風呂に入って、出てきたところで終わりです」聞かれている事を答えているだけだが、いつもより饒舌だと自己分析する。
大竹はメモを取っている。年配の刑事はずっと考え込んだ表情だ。
「もういいですよ。ありがとうございます」
3
怜奈の顔色はだいぶん良くなったようだ。自分もさっきより落ち着いてきた。奈美香はそう思い、ずっと思っていた事を口にしてみた。
「誰がやったのかしら?」
「え?」二人は驚いたようだ。
「ああ、そういう話になるの?」藤井は苦笑いする。
「私もちょっと気になる……」
怜奈も驚きはしたようだが、興味をそそられたようである。やはり、女子の方が強い世の中になったのだろうかと考える。ちょうど猪狩が入ってきた。
「次、誰が行く?」猪狩が聞いてきた。
「じゃ、俺が」藤井が立ち上がり、部屋から出て行った。
「誰がやったと思う?」奈美香は同じことを猪狩に尋ねた。
「さあ、それよりどうやってやったか気になる」そう言いながら猪狩は窓際まで歩いてソファに腰かけた。
「あ、たしかに」
「どういうこと?」ベッドの上で怜奈が首を傾げた。
彼女は鍵を見ていないことを奈美香は思い出した。
「ああ、テーブルの上に鍵が置いてあったのよ」奈美香が説明する。
「……密室?」
彼女はしばらく考えてから言った。彼女にとっては馴染みのない言葉で、すぐには言葉が出てこなかったのだろう。彼女は奈美香と違ってミステリー小説を読まない。
「そういうこと」
「窓も?」
「あ」それはすっかり忘れていた。全く見ていなかった。
「かけてあったよ」猪狩が答える。
「本当に?」奈美香は猪狩に尋ねる。
「知らない。警察が言っていただけだから」猪狩が窓を見ながら言った。
「本当に密室ね」奈美香がつぶやく。
奈美香も窓際まで歩いて、窓のカギを見た。一般的な三日月状の円盤を回転させるタイプだった。おそらくどの部屋でも同じだろう。
「そうでもないだろ。鍵が二つあればいいんだから」
「あ、そうか」
少し思考が偏っていると奈美香は感じ、落ち着くために深呼吸した。
「でも普通は部屋の鍵って一つじゃない? あとで伯父さんに聞いてみるけど」
たしかにホテルの鍵が二つ以上あるとは聞いた事がない。あとはマスターキーだけだろう。
「じゃあ、可能性は二つね。みんなの目を盗んでカウンターからマスターキーを盗んだか、外から何らかの方法で窓かドアの鍵を閉めたか」
「もう一つ、あの時、まだ犯人が中にいた」
「ありえる?」怜奈が首を傾げる。
「さあ、ベッドの下とか、クロゼットの中とか。でも可能性は低いよ」
「なんで?」
「警察が来るまで俺がずっと見てた。ロビーからだけど」
「うーん。じゃあ、やっぱりキーを盗んだか、外から鍵をかけたかね。でも、カウンターからキーを盗むのってかなりハイリスクじゃない? 戻さなきゃいけないし」奈美香は腕を組んで言った。
「こんなところで殺すこと自体がハイリスクだ」猪狩はそう言うと立ち上がった。
彼はそのまま部屋の出口へと向かっていく。
「ちょっと、どこ行くのよ?」
「部屋。なんか馬鹿馬鹿しくなってきた。だって警察の仕事だろ、これ」そのまま部屋を出て行った。
「つまんない男……」奈美香は猪狩の後ろ姿を睨みながら呟いた。
「あれ、康平は?」入れ替わりで藤井が戻ってきた。
「部屋に戻っちゃった」怜奈が説明する。「さっきまで、密室の話で盛り上がってたんだけど」
「なんだ、俺だけ仲間はずれ?」
4
奈美香は警察の事情聴取を終えると一度部屋に戻った。わかったことは少ない。殺されたのは秋山美冬という女性でOLということだけだった。
一人で考えに耽っていたが、どうにも落ち着いていられずに、部屋を出た。
階段を下りてすぐ左の部屋、一〇一号室の扉をノックした。しばらくの間があり、中井夏美が顔を出す。
「やっほ」奈美香は笑顔で小さく手を振った。
「ああ、奈美香ちゃん。入って入って」中井も笑顔で返す。
奈美香と中井は今日知り合ったばかりである。中井はH大の二年生である。O大とH大は決して近くはないが、同じ地域にある。電車なら一時間もかからない。離れた土地で不思議な縁を感じた。
先に話しかけてきたのは中井の方で、話していくうちに互いにミステリー好きという事がわかって、意気投合したという経緯である。
「大変な事になったね」中井にあてがわれた椅子に座ると奈美香は話を切り出した。中井自身はベッドの端に腰かけている。
「うーん、でも私見てないからなあ。奈美香ちゃん、見たんでしょ?」
「うん、ちょっときついわね」奈美香は苦笑いする。思い出すと寒気がしてきた。
「私駄目だわぁ、きっと。こういうのは本の中だけにしてよ、って感じ」
彼女は勢いよくベッドに倒れこんだ。バフッとベッドが音を立てた。
「事件のとき、何してたの?」奈美香は思い切って聞いてみることにした。実はこれを確認しに来たのだ。中井ならば嫌悪感を抱かずに答えてくれるだろう。
「なに、アリバイ確認? うわぁ、事件解決する気なんだぁ?」中井はすぐさま反応して起き上がると、目を丸くした。「いいよいいよ。どうせ私やってないから。えっとね……いつ?」
「夕食のときはいた気がするのよね、殺された女の人。だから、その後」
「えっとね」中井の目線は天井を向いている。思い出そうとしているようだ。「しばらくは、食堂にいたかな? 貴裕としばらく話して、仕事があるからって、彼、厨房に引っ込んで行っちゃったから、部屋に戻って。何時頃だったかなあ? 覚えてないや。そのあとすぐお風呂に行ったよ」
貴裕とはここで働いている中井の彼氏の事だろうと奈美香は推測した。
「ふーん、じゃあ、彼には一部アリバイがあるのね。オーナーも一緒かしら? その辺は怜奈が聞いているかしら」
「がんばってね」
「何の得にもならないけどね。好奇心って嫌だわ。わかってるのに止まらないもの」
奈美香は微笑んだ。
5
怜奈はカウンターの奥の部屋にいた。事務室のようなところである。オーナーの林は、机に向かってはいるが、ただ、頭を抱えるばかりで、特に作業は行っていなかった。
伯母の凜子も椅子に座ってそわそわしている。
その奥では若い男が部屋の隅の長ソファに座ってペットボトルのお茶を飲んでいた。
「参ったよ。ただでさえ経営が厳しいのに、殺人事件があったなんて広まったらどうしようもないよ」林はため息をつく。苦笑いすらできないようだ。
「伯父さん、大変ですね……」
「警察にもいろいろ聞かれるし、冗談じゃないなあ。アリバイとか聞かれるしね」
怜奈はしめた、と思った。一番聞きづらかったことを自ら話してくれた。もっとも、怜奈は自分の伯父が人を殺したとは全く思っていない。
「ずっとここで仕事してたからさ。誰も見てないんだよね。あ、高石君が何度か来たっけ?」
林は椅子に座ったまま首だけ後ろを向いて高石に同意を求めた。怜奈は彼が中井の彼氏だろうと思った。
「はい」とだけ高石は答えた。
「母さんは、どうだっけ?」
「それこそ高石君と夕食の後片付けでしたよ。ねえ?」
「はい」高石は再びそれだけ答えた。おとなしい性格なのかもしれない。
「もう、早く犯人を捕まえて欲しいよ。でないと商売あがったりだよ」
「でも、どうやって鍵をかけたんですかね? それがわからないと警察も動けませんよね」
「さあ? でも、小説とかでよくあるじゃないか」
「マスターキーとか、盗られた形跡ありません?」
「ないよ。ほら、それ」
林が壁を指差した。金庫のようなものが壁に取り付けられており、番号式の鍵がつけられていた。あの中に鍵が入っているようだ。
「あの番号、俺しか知らないから」
6
猪狩は自分の部屋に戻るところだった。階段を上っている途中で、話し声が聞こえてきて足を止めた。
「で、探偵としてはどう考えているわけだい?」真崎の部屋の前で尾崎が真崎に話しかけている。
尾崎は腕を組んで、ニヤニヤと、何やら楽しそうに話しているが、真崎の方は、頭をかきながら苦笑している。
盗み聞きするのもどうかと思ったが、そのまま聞くことにした。何か事件について聞けるのではないかという期待があった。事件があってから確実に思考が変化している。だが、理由はわからなかった。
「なにも。僕の仕事じゃないですよ。」真崎は素っ気ないが、微笑んでいるようにも見えた。
「そんなこと言わずにさあ」
「何を聞きたいんですか?」真崎はため息をついて苦笑した。
「もちろん、犯人は誰か?」尾崎は指を立てて言った。「でも情報が少ないわな。とりあえず、密室のトリックかな?」
「さあ? でも方法はいくらでもありますよ。誰にでもできます。僕にもアリバイはないですしね。あなたにもないでしょう?」
「まあな、自分の部屋で仕事をしていたからな」
「とにかく情報が少なすぎます。そして情報が増えることもないでしょう。僕は警察関係者じゃない。むしろ容疑者だ」
「まあ、そうだな」尾崎は舌打ちした。「悪かったな、時間食わせて」
そして彼は自分の部屋に戻ろうとする。
「そういえば」真崎がそう言い、尾崎が足を止めた。
「中年の夫婦、見ませんね」真崎が呟いた。