一章 開始する学生の余暇と持続する彼らの猶予について
1
八月八日、奈美香はJR・S駅の改札前にいた。
三日前の飲み会の翌日、怜奈からメールがあり、伯父の伝手で部屋を取る事ができたという。海に行くのも泊まりに行くのも数年ぶりなので、この二日間で必要なものを買い今に至る。
奈美香が駅に着いたとき、既に猪狩がいた。彼は必ず一番早くに来る。ただ、時間に厳しいというわけでもない。常識の範囲内でさえあれば、他人が遅れても特に何も言わない。そして、基本的に時間を守るのは猪狩のみである。実は奈美香も三分の遅刻である。
ただ、この程度の遅刻をとやかくいう人間の方が珍しいだろう。それに、細かいことを気にする人間は嫌われる。そういった概念があるために、時間を守らない人種というのが生まれるのだろうと奈美香は思った。
「いやあ、ごめんごめん」奈美香はとりあえず謝った。
「いや、べつに」猪狩の返事は素っ気ない。
彼は朝に弱い。朝に弱いというのに時間は必ず守るのだから脱帽ものである。
といっても今は十時で、猪狩以外からすれば朝というわけではない。十時が朝だと言えば、全国に数千万人いるサラリーマンに申し訳が立たない。
彼の朝の状態はいつもこうである。奈美香と猪狩は小学校から同じなので、彼女はこれに慣れていた。
実は、昼になっても機嫌の悪さが直るだけで、無口なのは変わらない。そして、歳を重ねるごとに無口になっていっているようである。
この現象はいったい何なのだろうか。彼の無愛想な顔を見ても答えは浮かばず、彼女は周りを見渡した。怜奈が近づいてくるのが見えた。
「ごめん、遅れた!」彼女は笑っている。
これは彼女なりの謝罪の仕方であった。無垢なイメージの強い彼女だから許されるのだろう。おそらく自分が猪狩に向けて笑いながら謝罪したら、怒られてしまうだろうと奈美香は思った。
「いや、いいよ、おまえは。あいつのタチが悪い」猪狩が不機嫌そうに言って腕を組んだ。
あいつとは藤井の事である。彼が一番時間にルーズである。
「ははは……」怜奈がフォローできずに苦笑いする。
藤井の時間のルーズ加減にはみなが不満を持っていた。
結局、そのあと藤井がやってきたのは十時半を過ぎていて、さらに悪いことに、彼は何も気に止めているようではなかった。
「何のために待ち合わせの時間があるのかわかったもんじゃない」猪狩が藤井に聞こえない程度に呟いたのを奈美香は聞いた。
2
S駅から電車で数時間、ようやく目的地である観光地にたどり着いた。駅からバスに乗り換えて、さらに十五分ほどで海に着いた。バスを降りると潮の香りが鼻をついた。
「すごい……」奈美香が呟く。
奈美香は海の景色に圧倒されていた。澄んだ青色の水が太陽の光を受け乱反射している。非常に清々しいまぶしさだった。
だが、それ以上に圧倒されたのが観光客の多さだった。
「人多すぎ。場所ねえじゃん」藤井が言う。
台詞とは裏腹に表情は明るい。たしかに、人が多すぎるのは嫌だが、寂れている場所よりははるかに良いだろう。
「今日は土曜日だ。どうせ休みなんだから平日に来ればよかったのに」猪狩がぶっきらぼうに言う。猪狩のことだから、日程が決まった時点でずっとそう思っていたのだろう。
「あ……そうだね」その言葉を聞いて怜奈が申し訳なさそうに言った。
宿泊先まで用意してくれた怜奈が謝ることではないだろう。奈美香は猪狩の無神経さが癪に障った。
「あんた、そういうこと平気で言うんじゃないわよ! せっかく怜奈が部屋とってくれたのに」彼女は猪狩の頭をコツンと叩いた。
「いてっ……悪かった」猪狩は素直に反省したようだ。
「いいじゃん、活気がある場所の方が」と藤井。
「それにしてもよく部屋とれたわね」奈美香は怜奈に尋ねた。
なにせ今は繁忙期の真っただ中である。いくら姪の頼みとはいえ、一日や二日前に予約が取れるとは思えなかったのだ。
「えっとね、あれのせい」怜奈が進行方向とは逆の方を指して言う。
三人が振り返って見ると巨大なホテルが建っていた。そういえばバスから見えていたなと奈美香は思った。
「あれのせいで客が引いちゃったらしいんだよね。もともと小さいところなんだけど」
「なるほどな。ああいうのリゾートホテルって言うんだろ? ああ、嫌だ嫌だ。何でも大手がでしゃばってさ。商店街と一緒だよな。小さいところは潰されちゃうんだよ」藤井がやれやれと肩をすくめて言った。
「あんた、適当なこと言ってんじゃないわよ。あんたこの間、家の近くに大型スーパーができて凄い便利とか言ってたじゃない」
「え? いや、その……」藤井は口をパクパクさせながらも、言葉が出せないようであった。
「ただ、怜奈に自分の株上げさせようたって無駄よ」
「な? いや、ちょ、おい、助けてくれよ」藤井は猪狩にしがみついた。
「別に、どっちにも、メリットデメリットはあるよ。ただ、規模が小さいと、そのメリットを生かすのが難しくはなるけど」
「はあ……。って、俺の弁護になってなくね?」
「弁護してない」
怜奈はクスクスと笑っていた。奈美香もつられて笑った。
そのまま、海辺を左手にしばらく歩く。浜辺は端から端まで観光客で溢れているようだった。
「あ、ここよここ」しばらくすると怜奈がそう言って立ち止まった。
そこは、ホテルと言うよりはペンションに近いといえる小規模なものだった。ただ、二階建てのその建物は年季こそ入っているが、いまだ健在という印象を受けた。おそらく、しっかりと手入れがなされているのだろう。
扉を開けるとジャラジャラと音が鳴った。気になって扉を見ると鈴が付いていた。電子音ではないところが好印象だった。
ロビーはわりと広く、目の前にはカウンター、右手には大きなソファーがあり、くつろげるようになっている。左手には扉があり、少し開いていた。中を見るかぎり食堂のように見える。
カウンターの横に通路があり、「ゆ」と書いた暖簾がかかっている。どちらかといえば洋風のこのホテルには似つかわしくなく滑稽に見えた。カウンターの奥に扉があり、事務室になっているようだ。鈴に反応したらしく、ちょうどそこから男が出てきた。こちらの姿をみとめると笑顔になって歩み寄ってくきた。
「久しぶり、怜奈ちゃん」
「こんにちは伯父さん。今日はありがとうございます」怜奈が礼儀正しくお辞儀をする。
どうやらオーナーのようである。白髪が少し混じった少し小太りの男だった。
「いやいや、こっちの方こそ。向こうにホテルができてから結構厳しくてね……。」オーナーは苦笑いする。そして猪狩たち三人の方を見て自己紹介した。
「オーナーの林です。どうぞよろしく」
三人もそれぞれ挨拶をした。
「あの、伯母さんは?」
「元気だよ。ただ、今は手が離せなさそうだけどね」
「そうですか。じゃあ、あとでまた挨拶に来ますね」
「ありがとう。まず、荷物を置いてくるといいよ。君たちの部屋は二階だから。はい、鍵」四人はそれぞれ鍵を受け取った。
彼らは部屋へと向かう。ロビーの右に通路があり、通路の手前左側に階段、その奥には左右に三部屋ずつ、計六部屋あった。その階段を上って二階へと向かった。
二階には左に四部屋、右に四部屋。階段を挟んで対称だった。階段の目の前にはトイレがあった。
四人の部屋は左側の四部屋で猪狩が左角、階段側の奥の二〇五号室、藤井はその手前の二〇三号室。その向かいが怜奈の部屋で二〇八号室、右角が奈美香の二一〇号室である。四と九は無いようだった。
「さて、もう十二時だけどどうする?」藤井が聞いた。
「お昼食べて、海!」奈美香は元気良く答えた。
なにせ、今回のメインイベントなのだ。これなくして、何をしにここまで来たのかという具合である。
「OK。じゃあどっかで飯食って、そのまま海行くって事で。準備して行こうぜ」藤井がそう言って自分の部屋に入っていった。
3
猪狩は部屋に入って荷物を降ろした。部屋の中にはベッドと椅子、テーブルがありテレビがついている。窓際にはソファもあった。一般的という言葉が似合う部屋だった。高校の修学旅行で行ったホテルと構造はほとんど同じだった。ただ、こちらの方がグレードは低いようであった。ホテルは様々な人間のニーズに答えるために汎用性が求められるので、どこも似たり寄ったりになるのだろう。違いがあるとすれば和式か洋式かの差くらいであろう。
一泊なのでクロゼットに着替えを入れる必要はないだろうと考えて、バッグから出さずにそのままにしておいた。
海に入るのは面倒だから海パンは置いていこうかと思ったが、さすがに文句を言われるのは明らかなので一応持っていくことにした。
部屋を出ると三人はすでに準備を済ましていた。鍵を閉めて四人で歩き出す。奈美香はかなりハイテンションである。早く海に行きたいのだろう、駆け足である。
「ガキくさ……」猪狩は聞こえないようにつぶやいた。
怜奈には聞こえたらしく、こちらを見て微笑んだ。藤井には聞こえなかったようだ。なぜなら彼も異様にハイテンションである。この四人組は奈美香と藤井がアウトドア派、猪狩と怜奈がインドア派とはっきり別れている。
「わっ」
先頭を小走りに進んでいた奈美香が階段のところで男とぶつかった。奈美香が尻もちをつく。藤井にもぶつかりそうになって、彼がよろけた。
「いたた……」
「おっと、ごめんよ。大丈夫かい?」男は奈美香に手を差し伸べる。
男は二十代後半くらいだろうか、すらっとした体型で整った顔立ちだった。おそらく女性受けする顔というのはこういった顔なのだろう。
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」奈美香が男の手に引かれて立ち上がる。
手を取らなくとも立てるのに、男の手を取ったのはわざとだな、と猪狩は思った。
「そう。ごめんね。海にでも行くのかい? 気をつけて」そう言うと男は右に曲がり、右手前、つまり二〇二号室に入って行った。
「ねえ、あの人カッコ良くない?」奈美香が聞いてきた。
「知らないよ。そんなの」猪狩は奈美香の問いに答えずに、先に進んだ。
4
階段で三十代くらいの男とすれ違った。ロビーには二十代くらいの女性がいたし、玄関では中年の夫婦とすれ違った。巨大ホテルの影響で客が少ないと言っていたが、それでもそれなりにはやっているようだ。
どこで昼食を食べるかという話になり、相談の結果、適当に海の家を見つけて、という事になった。どこも混んでいたが、歩いて三分ほどでちょうど四人分の席が空いた店を見つけた。四人はそろって焼きそばを注文した。
昼食を終えると今日のメインイベント、海である。着替えると奈美香と藤井が一目散に海へ飛び込んでいった。
さながら小学生だと猪狩は思ったが、怜奈も嬉しそうに飛び込んでいったので、こういうものなのだと思う事にした。否、彼らを見る前から、こういうものなのだろうということはわかっていた。
ただ、こういったことに関して自分が他人と違う感性を持っているだけだ。その事を猪狩は自覚していた。
ちなみに猪狩は海が嫌いではない。海にさえ入らなければ、であるが。泳げないわけではない。むしろ、小学校のころは水泳教室に通っていたくらいで、泳ぐのは得意だ。
ただ、泳ぐという行為に楽しみを見いだせないだけである。正確にいえば泳ぐだけではないし、泳ぐことが海水浴のメインではないように思える。
とりあえず、適当に砂場に腰を下ろして、三人を眺めていた。
「海、入らないの?」しばらくして、怜奈が海から上がって話しかけてきた。
「ああ、疲れるから。あいつらが入れって言うまでは」
「猪狩君らしいね」怜奈は微笑む。
「康平!! あんたもこっち来なさい!!」奈美香が海から叫んでいる。
「さっそく呼ばれたね」怜奈がもう一度微笑む。「行こっか」
「うん」猪狩が立ち上がる。「やれやれ」
それから、バナナボートを借りたり、さらにはビーチバレーのコートまで借りたりして、三人は海を満喫したようだ。猪狩もほぼ無理やり付き合わされた構図にはなったが、それでもそれなりには楽しめた。
四時近くなると、さすがに遊びつかれて、さらには海の水も冷たくなってきたのでホテルに帰ることになった。
途中のコンビニで酒を買おうという話がでた。といってもホテルは浜辺からすぐであるのに対してコンビニは一度大きい道路に出なくてはいけないので遠回りではあった。
ホテルに着いたのは五時少し前。夕食は七時からなのでまだ時間がある。四人はとりあえず自分の部屋に戻った。
猪狩はベッドにうつ伏せになった。しばらくそうして黙っていた。
何もする事がないので本でも読もうかと考える。どうやら、こういった行事に本を持ってくることも本来は邪道らしい。ただ、人が勝手に決めた邪道など、どうでもよかったので持ってきていた。
ドアをノックする音がする。
「康平、入るわよ」奈美香の声だ。
「どうした?」
「暇だから藤井の部屋でゲームしないかだって」
「別にいいよ。行こう」
猪狩は立ち上がった。