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「……っ」
痛みに目が覚めた。足がずきずきと痛む。
見れば、右の足首がひどく腫れていた。
「落ちた時に挫いたか……」
上を見ると、天井が見えなかった。薄暗く穴の縁までは私の身長の倍はあるように思えた。つまり、この穴は結構深い。
「何をやってるんだ、私は。帰りに作動する罠だってよくある手じゃないか。そんなのに引っかかるなんて――」
そう誰にともなく呟いて、さっき見た昔の『私』を思い出した。
「あの頃の私みたいだな」
あの頃の私は、本当にいろいろと未熟だった。体力だけじゃない。修道会の祈祷術も、剣術も、知識も、全部。勇者との旅でそれを思い知らされた。
「ま、今の私はあの頃の私とは違うしな」
そう、勇者との旅や、それ以降の様々なことを経て、私だって成長している。
「ここは……全然だけど」
ふと胸に手をやる。そこは、私の十年ほど前とほとんど変わってない。ぶっちゃけ成長してない。
「い、いやいいんだっ。魔王のようにぶよぶよと無駄に膨らんでもそれがいいってわけじゃないじゃないかっ。あれが悪いとは思わないが、あんなにあったら動きにくいに違いない!」
言ってて切なくなる言葉だった。自分に対する言い訳もここまで来れば悲しくしかならない。
「はぁ……自虐してもどうにもなるわけじゃないしな、戻るか」
さて、と気分を入れ替え、改めて右足首に視線を移した。
「このくらいなら回復祈祷で簡単に治るしね」
そう、折れたわけではないこの程度の捻挫なら治癒祈祷で簡単に治せる。それが私がこうも余裕を持っている理由だった。
「さっさと直して帰るぞっ、っと。”治癒祈祷”!」
私は腫れた右足首に手を当て、そう唱えた――
が、何も起こらなかった。
「え……”治癒祈祷”!」
もう一度唱える。だが、何も起こらない。
「”治癒祈祷”! ”治癒祈祷”! ”治癒祈祷”!」
何度唱えても変わらない。何も起こらない。足の腫れは治らない。
「な、なんで……」
私の心に焦りが生まれる。
痛い。動かせない。出られない。帰れない。朝露草を持って行けない。魔王に渡せれない。魔王を治せれない。勇者から引き受けたのに。魔王が待っているのに。勇者が待っているのに。勇者が、待っていてくれてるのに。
「――――っ!」
立ち上がろうとしたが、力が入らず崩れた。ずきずきと、足の痛みはどんどん増しているような気すらしてくる。背筋に嫌な汗が流れる。
上を見上げる。
穴の縁は見えない。
「……光球」
そうだ、光球が消えてる。発動させてしまえば私が消そうと思うまで消えないのはずなのに。
おかげで穴の中は真っ暗だった。
ただ、完全に真っ暗というわけではなかった。さっきの部屋からそう離れていないからだろう、少しだけ明るかった。それに、目が慣れてきたのか、自分の周囲ぐらいは見える様になっていた。
「ははっ……」
笑いが零れた。
「何をやってるんだろうな、私は」
自嘲、というのはきっとこんな感じだろうな、と自分で分かる。そんな笑いだった。
「魔王と居ずらいからと勇者に任せればいいところを無理やり飛び出して、柄にもなく色々考えて、その結果が穴に落ちて、祈祷も使えなくなって……」
穴があったら入りたい、って思うよ。
「面白くも、何ともないな」
ははは、と笑う。乾いた笑いが穴の中に響く。
静かだ。何の音もしない。少しだけ聞こえていた滝の音も聞こえない。
「――――」
聞こえるのは、私の吐息と、私の鼓動だけ。
「はぁ――――」
吐いた息が、知らずのうちに溜息に変わっていた。
「なんだか――」
本当に、あの頃みたいだ。
知識も技術も、常識も何もかもが未熟だった、あの頃みたいだ。
「あの頃は……」
その先の言葉は言えない。
今でも目を閉じれば思い出せる。勇者と、弓兵の爺さんと、女魔法使いちゃんと一緒に世界中を旅したあの時のことは忘れることなんてできない。
色んなエピソードがある。
例えば、難攻不落と言われた魔族のダンジョンを攻略したときのこと。
「あれは辛かったな……。私も勇者も精神力が尽きて、回復が出来なくなった。それでも敵はひたすら私たちを追ってくるし……。でも、弓兵の爺さんが少し困った風だったのが面白かったな」
例えば、鳴雷平原での戦い。
「そうだ、あの時も大変だったなぁ。魔族千人に私たち四人だけだなんて、思い返しても嘘みたいだ。……でも、あの時の、勇者に背中を任せた時の気持ちは今でもはっきりと覚えている。ふふ、みんな、ギリギリの状況だったけれども、どこか安心していたな」
例えば、星降る丘での会話。
「星が綺麗だった。ほとんど無理やりだったけれど、勇者と夜の見張り番に付けたのは本当に嬉しかった。はは、まぁ、夜の間は緊張してちゃんと喋れなかったんだけど」
それから――勇者が一人で行ってしまった時のこと。
「……弓兵の爺さんはあっさりと国に帰るなんて言うし。……今思い返せば、爺さんは知ってたのかもな。女魔法使いちゃんは勇者を追って魔界に行くし……。私だって……本当は勇者を追いかけたかった。でも……勇者が私たちを置いて行ったってことが、ずっと胸に引っかかって……。本当は私たちは勇者の手助けなんて出来ないんじゃないか、とか、むしろ足手まといになっていたんじゃないか、とか、ずっと考えて……考えて……悔しくて、悲しくて、切なくて……今まで以上に勇者と一緒にいたいと思って、なのに勇者はもう遠くに行ってしまって……」
ぽたり、と雫が落ちた。私の涙だった。
「……ううん。でも、勇者は帰ってきてくれた。……魔王も一緒だったけど。嬉しかった、かな。一人で魔王城に突っ込むなんて、勇者は昔から大雑把だっだけどさすがに心配してた……から。でもまさか女を連れてくるなんて、予想もしてなかったけどね……。初めは何考えてるのか分からなかった。私たちを置いて行って、女連れでこそこそ帰ってくるだなんて。さらに、それが魔王だとか」
でも――魔王は私が思ってた『魔王』じゃなかった。
魔王は誰よりも戦争を終わらせたいと考えていて、誰よりも人を信じていた。
本当に、魔王らしくない。
だから、親友になれた。
同じ人を好きになって、その上で親友になれた。
……魔王だけじゃない。
メイド姉、メイド妹、メイド長、冬寂王、軍人子弟、商人子弟、貴族子弟。多くの友人が手に入った。勇者がいて、魔王がいなければ、手に入らなかったものだ。
思い出は……いっぱいある。でも、それらが遠くに感じる。
「…………」
感情が込み上げてくる。
あの頃は――、でも今は――
ダメ。
言ったらダメ。
言ってしまえば、止まらない。
認識してしまえば、もう止まらなくなる。
でも――既に、もう止めれない。
「……寂しいよう」
言葉は驚くほどすんなりと出た。まるで、言葉にされるのを待っていたかのように、言葉にしたくてたまらなかったかのように。
「……うぅ……うぅぅ……」
嗚咽が出る。零れる。流れ出る。涙も止まらない。頬を伝う涙が、自分で分かるほどに流れている。
「うううううぅぅぅぅぅ」
みんなが遠い。
まるで、あの時の山道のように。私を置いて進んでいく。
あの時助けてくれた勇者は、ここにはいない。魔王の元にいる。
――私が、そうさせた。
「うぅ……寂しいよう……」
暗闇に、虚空に、嗚咽を混ぜて吐き出した。
腕をだらりと下ろす。壁に体重を預け、呆然と宙を仰ぐ。冷たい土の感触が伝わってくる。
眼は閉じている。開けていても、閉じていても、真っ暗には変わりない。
それが、まるで世界に一人取り残されたかのような気分にさせる。
あの頃は――楽しかった。みんながいて、ずっと一緒にいて、それがずっと続くと思っていた。続けばいいのに、と思っていた。
それなのに、それなのに――
今、私はひとりぼっち。
「寂しいよう……勇者ぁ……」
「呼んだか?」
「……ふぇ」
閉じていた眼を開ける。暗闇に慣れていたのか、視界は思ったよりはっきりとしていた。
視界の先。穴の縁。そこから顔を出している勇者がいた。
「お、こんなところにいたのか。何泣いてんだよ」
「ふぇ……ゆ、勇者……?」
「他の何に見えるんだよ」
「ゆ、勇者……!?」
「だからそうだって」
「――――っ!?」
顔が熱くなる。合わせていた眼を想わず逸らす。地面に垂らしていた腕で顔を覆う。
「み、見るなっ!?」
「見るなって言われてもなぁ」
もう見ちゃったし、とそう言って勇者は飛び降りてきた。そして、ぽりぽりと頭をかきながら、私の顔を覗き込む。
「何泣いてたんだよ」
「な、泣いてなんかっ!」
私はキッと勇者を睨んだ。
「……目が赤いけど」
「こ、これは埃が目に入ったんだっ! 洞窟の中だから埃がいっぱいなんだっ!」
そう言ってごしごしと目をこする。
「……まぁいいけどさ」
「よくないっ! 一体いつからいたんだっ!」
「いや、ついさっきだよ。何か呼ばれた気がしたから、穴の中を見たら女騎士がいたんだよ」
「本当っ!?」
「な、なんでそこまでこだわるんだ?」
「い、いや、なんでもない」
私は目を逸らした。
「まぁ、ほら。帰るぞ。何だよ、足怪我してんのか」
勇者はそう言って、私の前に背を向けてしゃがみ込んだ。
「ん、背中」
「……」
勇者の行動に、私は何も言えず、体を起こしてその背中に倒れる様にしてしがみ付いた。
勇者の背中は思った以上に広くて、思った以上に暖かかった。
「……ねぇ、勇者。なんで来たの?」
勇者の肩越しに手を回しつつ、私は尋ねる。
「そりゃあ、すぐ帰ってくると思ってたのがなかなか帰ってこなければな」
勇者は私が完全に体重を預けたのを確認すると立ち上がる。そして、ひとっ跳びで穴を抜け出た。
「魔王もさ、っていうか魔王が言い出したんだよ」
「え?」
「「私はいつも女騎士に支えてもらってる」ってさ。で、「これだけ帰ってこないというのは、女騎士の身に何かあったに違いない。私は大丈夫だから、女騎士の所に行ってやってくれ」って」
「魔王……」
勇者は洞窟の中を迷うことなく進んでいく。
「ま、それに。いつもさ、お前は無理してるみたいだからな。どうせ、こんなことだろうと思ってたし」
「え……」
「あの時だってさー、って覚えてるか? 魔界で山越えをした時のこと」
「あ……うん」
「あの時もさ、女騎士、足を怪我してんのに頑張ってただろ。結局、倒れるまで言わないもんだからさ。別にそんなの気にしないってのに」
「私は……気にする」
「何言ってんだよ。っていうかさ、困ってる人を助けるのが勇者なんだから、別にいいんだよ、そんなの」
「あ……」
ふと、何かがすっきりした。
憑き物が落ちた気分、というのかもしれない。
「別に、俺の仲間だからって気を張る必要はなかったんだぞ。というか、仲間も助けれないのが勇者なわけないだろ」
勇者は何でもないことのようにそう言った。
でも、その言葉は私の心にざくりと突き刺さる。
「そうか――」
あの時、勇者に肩を貸してもらったときに、思っていたけど、気付いていなかった気持ち、それがやっと分かった。
私は、助けてもらいたかったんだ。
他の人と同じように、普通の女の子のように、助けてもらいたかったんだ。
だから、「足が痛い」と助けを出せなかった。だって、勇者は何も言わなくても、困っている人がいれば助ける。それが、勇者で――『勇者』だから。
勇者の隣に立っていたかった。一緒に戦いたいと思っていた。
でも、その裏で、私は勇者に助けて欲しいと思っていたのだ。勇者に助けられている人たちを羨ましいと思っていたのだ。
私は――
「はは、なかなか乙女な所もあるじゃないか……」
「ん?」
「……ううん、何でもない」
魔王への祈祷が発動しなかったことは、私が魔王を羨んでいたからだろう。魔王は、知識はあるが、戦う力はない。言い換えれば、『勇者に守られる存在』だ。だから、私はそれを羨んで、妬んだ。その結果、弱っている魔王を目の前にして、私も『力を失った弱い存在』になりたいと思ってしまった。
落とし穴に落ちたのも同じだ。思い返せば、穴の中で泣きこそはすれ、焦りはしなかった。むしろ、祈祷が使えなくて動揺したのは一瞬で、落ち着いていたとも言える。それは、こうしてうずくまっていれば、勇者が助けに来てくれると思っていたから――魔王を放って私の元に来てくれると思ったから。
私は――助けて欲しかった。
「……あははは」
「どうしたんだよ、いきなり笑って」
「いや、自分の気持ちは、中々わからないものなんだなってね」
「なんだそれ?」
「いいの、気にしないで」
思わず笑みがこぼれる。嬉しかった。こうして勇者におんぶしてもらっていることも、自分の気持ちに気付けたことも、どちらも嬉しかった。
「ねぇ、勇者」
「何だよ」
「返事だけじゃなくて、こっち見て」
「んー?」
勇者が足を止め、肩ごしに私を見ようと振り向いた。
そこに、私はキスをする。
「っ!? な、な、な、な、な……っ」
「ふふん」
「何やってんだよっ!? い、いきなりっ!」
勇者はすぐに視線を前に戻した。耳まで真っ赤だった。可愛い。
「お礼よ」
私はその頭――魔王風に言えばもふもふの頭に言う。うん、魔王じゃないけど、こうして間近に見ると触りたくなる。
「色々な、お礼」
「わけわかんねぇ!」
私はギュッと勇者により体を密着させる。勇者は動揺しているのか、それに気付く様子はない。あ、いや、少し耳の赤さが増した。何も気にせず背負っていたと思っていたけど、こういった反応があると少し嬉しいかもしれない。私だって胸を当てているわけだし。
今だけは、こうさせてもらおう。それぐらいは魔王も許してくれるだろう。
そう、今だけ。
今は、自分の気持ちに気付いたことだけで十分。
やっぱり今すぐに勇者との関係をどうこうしたいとは思えない。
甘いかもしれないけど、魔王が私のことも気にかけてくれていると分かっただけで今回のことは満足だ。
それに、今の関係も嫌いじゃない。ううん、それは強がりだ。今の関係が好きなんだ。私は。
あの頃は楽しかった。でも、今が楽しくないわけじゃない。弓兵の爺さんも、女魔法使いちゃんもいない。メイド長も、メイド姉も、メイド妹も、子弟達も今はいない。みんな、それぞれの場所にいる。それぞれがやるべきことをしている。やりたいことをしている。あの頃が良かったからといって、それらを――皆が今ここにいないことをなかったことに出来ない。あの頃が楽しかったから、今がある。楽しかった思い出の果てに今がある。そんな今を、否定できない。
いつかきっと、答えを出さないといけない日が来る。答えが出る日が来る。
それまで待とう。考えることがあればそこで考えよう。今はそう思える。
そろそろ洞窟を抜けて外に出る。どれくらい時間が経ったか分からないけど、すごく久し振りな気がする。
ああ、そう言えば朝露草を取りに来たんだった。帰ったら魔王にすぐ飲ませないと。無理やりにでも飲ませてやる。そして、勇者におんぶしてもらったことを自慢しよう。魔王、羨ましがるだろうな。でもそれは今までの分だし、文句は言わせない。それで、ついでに家事の手伝いをするように言おう。まずは掃除ぐらいはさせるか。
「ねぇ」
「なんだ?」
「私のものになれ勇者」
「断る」
「じゃあ、いいや」
暗い洞窟を出ると、外は青々とした空が広がっていた。
冒険の始まりを告げるような、気持ちのいい空だった。