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1. 鏡の中の、可愛い方

 私はミュゲット。この庭の図面は三年、全部私が引いた。褒められるのは全部、婚約者だ。


 薔薇のアーチの向こうで、春の園遊会の客たちがさざめいていた。甘い花の香りに、グラスの触れ合う澄んだ音が重なる。聞こえてくるのは「アルセーヌ様の庭は見事ですな」ばかりで、枝をどちらへ這わせたかを訊く人はいない。……うん、知ってる。私の名前は出てこない。


 生け垣の奥の四阿(あずまや)へ、婚約者のアルセーヌ様が私を連れてきた。淡い金の髪は油で撫でつけられ、白手袋の指が卓をこつこつと叩く。葉越しの光が揺れても、その指だけは少しも休まない。


「客の前で庭の話をするなと、何度言わせる」


「申し訳ありません。公爵夫人に、薔薇の名を訊かれましたので」


「訊かれたら、俺を呼べ。お前の口から出るだけで、庭まで安っぽく聞こえる」


「ですが、公爵夫人は私に――」


「口答えか? お前は黙って、図面だけ引いていればいい」


 鼻の奥がつんとして、膝へ涙が落ちた。布にできた小さな染みを見つめる。叱られると、いつもこうなる。答えは喉まで来ているのに、口は勝手に謝る形になってしまう。


「……申し訳、ありません」


 アルセーヌ様が茶壺を持ち上げた。私の前のカップへ、琥珀色の紅茶が細く注がれる。……え、ご自分で? 三年お側にいて、初めて見る手つきだ。湯気から、かすかに蜂蜜の匂いがする。うつむいた頬に、その温かさが触れる。


「飲め。飲んだら、俺の目を見ろ」


「恐れ入ります。私に、注いでくださったのですか?」


「お前のために、俺が手ずから淹れた。早く飲め」


「……はい。少しだけ、落ち着いてからお話しします」


「話す必要はない。俺の言うとおりにしろ」


 私はカップを両手で包み、紅茶を飲み干した。甘い。喉の奥まで、ほんのり温かい。


 でも、泣き顔のまま人の目を見るのは、淑女の作法に反する。せめて、顔だけでも整えなくちゃ。手鏡の留め金に指をかけた。ぱちん、と小さな音で蓋が開く。


 手鏡の中で、下がり眉の娘が泣いていた。


 菫色の目が、まっすぐこちらを見る。胸が、どくんと鳴った。え。待って。誰、この方。小さな鏡なのに、目を逸らす場所がない。


「あら。こんなに可愛い方を、誰が泣かせたの?」


 濡れたまつげが、頼りなく震えていた。赤くなった鼻の頭まで、可愛い。困ったような下がり眉なんて、もう反則だ。そんな顔をされたら、抱きしめるしかないじゃない。こんな子が俯いて謝るところなんて、二度と見たくない。


 そっと指を寄せると、鏡の娘も同じように指を寄せてきた。ひやりと触れたのはガラスなのに、指先を離せない。守ってあげなきゃ。この方は、私が――。


 ……私だった。


「おい、鏡を見るな! 俺を見ろ!」


 怒鳴り声に、鏡の娘がびくりと肩を縮める。私は顔を上げ、向かいの薄い唇を見た。さっきまで謝る言葉を探していた私の口が、きゅっと閉じる。この方を泣かせた人の顔が、そこにある。


「……あなたですね」


「何がだ。何の話をしている?」


「私の好きな方に、そんなことなさらないで?」


「好きな、方……。誰のことだ。はっきり言え」


「もっと、ずっと近くにいる方です」


 白手袋が、手鏡へ伸びてきた。だめ。この方は、まだ泣いている。取らせない。


「大丈夫。もう、泣かせないからね」


 私は鏡を胸に抱え、ぱちんと蓋を閉じた。


「私が泣いているのをご覧になって、まだ叱るおつもりですか?」


「お前が泣くから面倒になる。黙って座っていろ」


「……黙っていれば、また同じことになります。それでは、この方がお気の毒です」


「お前の顔の話などしていない!」


 いつもなら、ここで謝る。私は、立ち上がった。


「私の好きな人をいじめる方とは、結婚できません」


「ミュゲット、座れ。客が聞いているぞ」


「聞いていただいて、構いません。本当のことですから」


 生け垣の向こうの笑い声が、ぴたりとやむ。私はその静けさへ足を踏み出した。膝が少し震えている。あれ、まだ震えるんだ。それでも、靴はちゃんと前へ進む。


 薔薇の影が、足元で細かく揺れる。アーチの下で、公爵夫人が黒檀の杖を止めている。赤い上着の取り巻きの令息は、口をぽかんと開けていた。


 アルセーヌ様が四阿から追ってきて、白手袋を差し出す。私は、その手に自分の手を重ねなかった。その隣へ戻るために、立ったんじゃない。


「正気か。お前を愛す男など、俺ぐらいだ!」


「ご心配なく。私、とても愛されています。私に」


 客の誰かが、ぷっと吹き出す。取り巻きの令息まで、口元を押さえている。そんなに驚くことかな。


「笑うな! ミュゲット、今すぐ戻れ!」


「戻りません。私の好きな人は、やっと泣き止んだところですもの」


 私の最愛の人は、私。泣かせたら許しません。


 芝生の向こう、花壇の前で、苗屋のソワンさんが顔を上げた。この庭を、私の図面どおりに植えてくれた人だ。


 砂色の髪を襟足で括り、耳の上の花が風に揺れている。名も知らない黄色い小花が、ちょうど私の好きな色をしていた。日差しが花びらを透かし、薄い縁まで明るい。


「一曲、踊っていただけますか?」


「……俺は庭師ですよ。ほら、手が土だらけです」


「この庭の土です。汚れではありません。私の庭の、いちばん大事なものです」


「はは。では、喜んで」


 ソワンさんは手を前掛けで拭いて、立ち上がる。見上げるほど背が高かった。手のひらを確かめてから、私へ差し出してくれる。


「足元、柔らかいですよ。ここの芝は、まだ若いですから」


「では、しっかり掴まります。転ぶのは、この方に似合いませんから」


 大きな手を取る。日なたの土みたいに、温かかった。さっきまで鏡の留め金を握りしめていた指が、すんなりほどける。あ、こんなふうに預けてもいいんだ。


 楽師が曲を変えた。深い緑の目が、私を見下ろす。さっきより、音楽が近い。


「どうして、俺と踊ろうと思ったんです?」


「私の好きな人が、踊りたがっていたので」


「……その人は、どこにいるんです?」


「ここに」


 私は空いた手を、自分の胸に当てた。ソワンさんの口が、一瞬まっすぐになる。


「はは! それは、敵いませんね」


「その方の足を踏まないよう、私も気をつけます」


「俺の方こそです。お嬢さんの大切な方ですからね」


 深い緑の目の端に、小さな皺が寄った。


「お嬢さん、今日はよく笑いますね」


「はい。笑っている私が、好きなので」


 回るたびに、黄色い小花が目の前を横切る。ソワンさんは私の小さな歩幅に合わせて、急がずに足を運んでくれた。ついていける。ちゃんと、私も。急がなくても、置いていかれない。


「踊っていいと思うのは、こんなに簡単だったんですね!」


「ええ。花壇の仕事は、逃げませんから」


「では、もう一曲、お願いしてもよろしいですか?」


「何曲でもどうぞ。お嬢さんの好きな方が、飽きるまで」


「では、当分は終わりそうにありませんね!」


 公爵夫人が、ぱちりと扇で手を打つ。


「まあ。いい踊りですこと」


 つられて、取り巻きの令息まで拍手した。アルセーヌ様の方へ顔を向ける客は、もういない。


 差し出したままの白手袋だけが、芝生の端に取り残された。


 令息が、おずおずと声をかける。


「アルセーヌ様……あの、手は、そろそろ下ろしたほうがいいですよ」


「うるさい! 黙っていろ!」


 白手袋が、ようやく下りる。指先まで、ぴんと伸ばしたままだ。


「ミュゲット! 明日の打ち合わせには、いつもの鼠色で来い!」


 私はソワンさんの手を取り直し、くるりと回った。芝の柔らかさが、靴底から返ってくる。鼠色? とんでもない。鏡の中のあの方に似合う服なら、ちゃんとある。ひるがえる裾に合わせて、声を返す。


「明日は、私の好きな人に、いちばん似合う色を着せます」

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