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村井赤枝の手放して変わる為のほっこり飯  作者: 修羅観音


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村井赤枝の手放して変わる為のほっこり飯

古都・京都の風情を今に伝える老舗、「株式会社八つ橋美人」。

その従業員食堂や休憩所には、いつもきびきびと立ち働く一人の女性、村井赤枝むらい あかえの姿があった。


彼女の仕事は、休憩所の掃除や、お茶を沸かして巨大なジャグに補充して回ることだ。

裏方の仕事ではあるが、赤枝は自らの仕事に強い自負を持っていた。

「うちがしっかりしとかんと、若いもんが喉を枯らして仕事にならへんさかいな」

それが彼女の口癖であり、正義であった。


---


### 順風満帆な「はず」の日常


私生活においても、赤枝の人生は端から見れば成功そのものに見えた。

2人の息子は立派に独立し、それぞれが自分の道を歩んでいる。


長男は結婚秒読みで、赤枝にとっては待望の「孫」の顔が見られる日もそう遠くはない。

次男もまた、勤め先で素敵な恋人ができたと報告を受けていた。


「うちは幸せもんや。子供らも真っ当に育って、何も言うことあらへん」

お茶を啜りながらそう独りごつ赤枝の顔には、満ち足りた笑みが浮かんでいた。


しかし、その幸福な光景の足元には、本人が気づかぬうちに深い溝が刻まれ始めていた。


---


### 遠ざかる足音


長男の婚約者と、次男の恋人。

初対面の頃こそ、彼女たちは赤枝に対して丁寧すぎるほどに挨拶をし、毎週末のように顔を見せていた。

だが、その交流は次第に陰りを見せ始める。


赤枝は良かれと思って、彼女たちに事あるごとに「指導」という名の口出しを重ねていた。

「掃除の仕方はこうや」「料理の味付けはこうした方が喜ばれる」「今の若い人は甘えすぎや」

赤枝にとってそれは親切心であり、新しい家族を迎えるための「教育」であった。


ところが、気づけばここ 2か月、彼女たちの顔を一度も見ていない。

週末に誘いの連絡を入れても、「予定があります」「体調が優れなくて」と、どこか他人行儀な返信が戻ってくるばかり。

赤枝はそれを「最近の若い子は遠慮がちやな」と片付け、自らの言動が原因であるとは露ほども思っていなかった。


---


### 職場の「お節介」と自覚なき孤立


その態度は、職場でも同様だった。

特に男性の若い衆からは、赤枝が休憩所に入ってくるなり、潮が引くように人がいなくなることが増えていた。


彼らにとって、赤枝は「親切な裏方さん」ではなく、「顔を合わせれば説教が始まる厄介な存在」になりつつあった。

それでも赤枝は、自らの振る舞いを顧みることはない。


「全く、最近の若いもんは挨拶もろくにできひんのか。うちがこうやって、社会の常識を教えてやらなあかんねん」


鼻を鳴らし、雑巾をきつく絞る。

彼女の口を突いて出るのは、いつもの決まり文句だった。


「おばさんはうるさいもんや。そやけど、それが愛やいうことがわかってへんねんな」


赤枝は、周囲が自分に合わせるのが当たり前だという態度に、微塵の疑問も抱いていなかった。

自分の「正しさ」という鎧が、どれほど周りを疲れさせ、遠ざけているのか。

そのことに、まだ彼女は気づいていなかった。


---


赤枝には、とりわけ目をかけて、やたらとお節介を焼いている若い男がいた。


アルバイトの澤岡健十郎、24歳。

大学時代の就活で躓き、今は早朝の八つ橋工場でのパートを終えた後、そのまま備品整備の部署で昼まで働き、それが終わると別のバイトに行くという、掛け持ちの生活を送っている苦労人だ。


健十郎は、懸命に働きながら就職先を探している、根が優しく穏やかな性格の青年だった。

赤枝が何を言っても決して言い返さず、素直に「はい」と聞くその態度が、赤枝の「教えたがり」の心に火をつけた。

接する時間が長くなるにつれ、赤枝の態度は不遜で横柄なものへと変わっていったが、当の本人はそれを「親愛の情」だと信じ込んで疑っていなかった。


---


ある日のこと。

健十郎は早朝の工場仕事を終え、いつものように販売店から戻ってきた備品の修理や手入れに追われていた。

一仕事終えた休憩時間。赤枝は、備品整備課にいる同世代の友人とお喋りをするついでに、健十郎の持ち場へとふらりと現れた。


健十郎は立ち仕事の最中で、ディスプレイ用のガラスを真剣な表情で磨いていた。

固着した汚れを落とそうと、手にした刃物を当てる。

その角度が、赤枝の目にはどうにも気に入らなかった。


「ちゃうちゃう! そんなんやと汚れ取れへんやろ。見てられへんわ」


赤枝は健十郎の横に割り込むと、勝手に手を出し始めた。

さらに、健十郎が作業の合間に腰掛けるつもりで置いていた椅子に目が留まる。


「それに、椅子もそこにあったら邪魔やろに。仕事中に座る気か?」


ガラガラッ! と、赤枝は大きな音を立てて椅子を引きずり、勝手に遠くの隅へと追いやってしまった。

健十郎は一瞬、困ったような顔をしたが、すぐに頭を下げた。


「あ、どうも、有難う御座います」

「有難うちゃうねん」


赤枝は間髪入れずに言い放った。

健十郎が戸惑いながら「はあ、すみません……」と声を落とすと、赤枝はさらに声を荒らげる。


「すみませんとちゃうねん!」


まるで、健十郎の返答のすべてが間違っていると言わんばかりの剣幕だった。

赤枝は腰に手を当て、「若い衆を正しく導いてやる人生の先輩」としての、尊大で満足げな笑顔を浮かべる。


「やり方わからんかったら聞きいや。聞くは一時の恥言うてなあ。自分勝手にやってたら、いつまで経っても一人前になれへんで」


いつもの、独りよがりな説教が始まった。

健十郎は無表情のまま、黙って赤枝の言葉を聞き入っている。

その瞳に何が映っているのか、赤枝は一顧だにしない。


「おばさんはうるさいもんや。がみがみ言われてると思わんと、ちゃんと言う事聞いときや。おばさんの言う通りにしてたら、ほんならどこ行ってもやっていけるんやさかい」


ひとしきり自分の「正論」を叩きつけ、赤枝は胸のすくような達成感に包まれた。

これだけ言うてやったんやから、この子も感謝してるはずや。

そう自分勝手な解釈をして満足した赤枝は、鼻歌混じりに自分の職場へと戻っていった。


後に残された健十郎が、遠くに追いやられた椅子を、どのような目で見つめていたのか。

赤枝は、やはり気づいていなかった。


---


翌朝、赤枝はいつものように、軽やかな足取りで備品整備課の作業場へと向かった。

手には友人とお喋りするための茶菓子を持ち、心の中では「昨日もきっちり指導してやったし、あの子も少しは成長しとるやろ」と、独りよがりな充足感に浸っていた。


しかし、作業場にいたのは友人の女性一人だけで、健十郎の姿はどこにもなかった。

「なんや、あの子は今日は休みやったっけ?」

不思議そうに首をかしげる赤枝の背後から、備品整備課の四十代の男性主任が、沈んだ面持ちで歩み寄ってきた。


「あ、赤枝さんやん、お早うさん」

「主任、お早うさん。今日はあの子休みなんやね、就活しとる言うとったさかい、今日はその日やろか」

赤枝が屈託なく尋ねると、主任は深く、重いため息をついた。


「……いや、もう来いひんのちゃうやろか、健十郎君は」


「……え?」

赤枝は耳を疑った。昨日まで素直に自分の言うことを聞いていた青年が、急にいなくなるなど考えられなかったからだ。


主任は困惑したように頭をかき、言葉を選びながら切り出した。

「ああ……うん、健十郎君からは、別にほっといてくれてええって言うてたけど……なあ、赤枝さん、健十郎君と仲悪かったん?」

「え? 別に仲は悪ないですよ。うちは親切に色々教えてやってたし」


赤枝が平然と答えると、主任の顔が苦渋に満ちたものへと変わった。


「……昨日な、仕事終わりに、初めて観る顔でな、健十郎君……あんな優しい青年が、ものごっつえげつない鬼みたいな顔で、『俺、おらん方がええみたいやし、クビにしてください、出来ひんなら俺から去ります』って言うたんよ」


「自分からクビにしろって、なんでそんな……」


「ほんで、僕が驚いてたらな、『クビも自主退職もどっちもあかんなら、あのおばはんぶち殺して犯罪者になって、この会社汚して、やめさせなあかんようにしたるわ』って言うてな……。おばはんって誰の事か聞いたら……赤枝さんの名前出したんよ」


「……え?」

赤枝は、雷に打たれたように目を見開いた。

自分の名前が、殺意という言葉と共に語られた。その事実が、脳内でうまく結びつかない。


「彼な、『最初は俺、会社の先輩の言う事はちゃんと聞かなあかん思うてたけど、俺が言い返さへんのを、気が弱い奴で逆らえへんって認定しよったみたいで……相手見て横柄な態度に変わる、ああいうやつが一番嫌いなんですわ』と言っててな。何とか落ち着かせたけど……。退職の話はしてへんかったから、今日来たらちゃんと話し合おう思てたんやけど……やっぱり、来いひんかった……」

主任はガックリと肩を落とし、悔しそうに言葉を継いだ。


「健十郎君、工場長の話やと、きちんと真面目で仕事できるし、優しいし、気遣い出来るし、率先して色々覚えてくれて、めっちゃ評価高くてな。正規従業員にしたいって言う社員も出始めてたのに……」

主任の視線には、明らかな「責め」の響きが混じっていた。


「私は何も……。ただあの子の為を思って……」

赤枝が絞り出した言葉を、主任は冷ややかに受け流した。


「まあ、二人の間に何があったか、どういう関係やったかはわからんけど。よっぽどのことがあったんやと、僕は思うてんねや。あの子があそこまで怒りをあらわにするって、よっぽどやもんな」

主任はそれだけ言い捨てると、突き放すように自分の仕事へと戻っていった。


その日の赤枝は、何が何だか分からぬまま、魂が抜けたような状態で仕事をこなした。

「あのおばはんぶち殺したる」という言葉が耳の奥でリフレインする。


自分はただ、良かれと思って。

自分はただ、親切心で。

自分は……。


「……別に、私は関係あらへんよな。何か知らんけど、あの子が勝手にキレただけやんか」

夕暮れの帰り道。赤枝は、震える声でそう自分に言い聞かせるように呟いた。

しかし、足取りはいつになく重く、夕闇が迫る京都の路地が、まるで自分を包囲するように冷たく感じられていた。


---


数日が過ぎた、ある日の夕方のこと。

赤枝はパチンコ店からの帰り道、そのまま夕食の買い出しに行こうと自転車のペダルを漕いでいた。

西の空は朱色に染まり、路地には長い影が伸びている。


ふと、前方に見覚えのある、清潔感のある短い黒髪の青年が歩いているのが目に入った。

――健十郎だ。


「あ……」

赤枝は無意識に声を漏らし、自転車を止めた。

いつもの癖で「なんや、あんた、こんなとこで何してんの」と声をかけようとした、その時だった。


---


### 初めて見る「拒絶」の形


健十郎が、赤枝の視線に気づいた。

だが、その顔に浮かんだのは、これまで赤枝が見てきた「穏やかで素直な青年」の面影など微塵もないものだった。


健十郎は、ぷいっと顔を背けた。

初めて見る、突き放すような険しい表情。

彼は一言の挨拶も、会釈もなく、ただ氷のような無言を貫いたまま、赤枝の脇をすり抜けて去っていく。


以前の赤枝なら、間髪入れずに呼び止めていただろう。

「目上に向かってなんやその態度は!」

「誰に向かって口きいてんねん。常識がないわあ」

そうやっていつもの「御説教」を始め、自分の正しさを証明していたはずの場面。


しかし、赤枝は声をかけることができなかった。

喉の奥が引き攣れたように固まり、ただ去っていく彼の背中を呆然と見送るしかなかった。

自分でも説明のつかない、冷たい汗が背中を伝う。


---


### 夜の訪れと、道端の視線


健十郎の初めて見る態度。

そして、何も言えなかった、自分でも驚くほどの臆病な自分。

いくつもの感情が胸の中で濁った渦のように交錯し、赤枝は自転車に乗る気力も失せ、重い車体を押して歩き始めた。


気がつけば、空の朱色は深い藍色に飲み込まれ、街は夜の静寂しじまに包まれようとしていた。

街灯がぽつりぽつりと灯り始める頃、赤枝はふと、前方に漂う奇妙な気配を感じて足を止めた。


路地の真ん中に、一人の小柄な女の子が立っている。

黒いベレー帽を被ったその少女は、まん丸な目を見開き、台形の形をした口を開けたまま、じーっとこちらを凝視していた。


「……なんや、御嬢ちゃん」


赤枝が掠れた声で問いかけるが、少女は微動だにしない。

ただ、赤枝の心の奥底を見透かすような、不思議な眼差しだけが夜の闇の中に浮かび上がっていた。


---


##毒を抜くための導き


夜の帳が下り始めた路地裏で、赤枝は目の前の奇妙な少女に、努めて普段通りの「世話焼きなおばちゃん」の顔で話しかけた。


「なんや御嬢ちゃん、これから塾か? それとも帰るとこか? こんな時間に一人でおったら危ないで」


健十郎に拒絶された動揺を隠すように、赤枝の声は少し上ずっていた。

すると、その少女はぱちりと一度瞬きをして、台形の口から一言だけ放った。


「えらいこっちゃ」


「え?」

思わず聞き返すと、少女は感情の読めない無機質な瞳で赤枝を見つめたまま続けた。


「ウチはえらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる。おばちゃんは、えらいこっちゃおばちゃん」

少女は、赤枝が自転車のカゴに入れていたパチンコの景品袋を、小さな指でツンと指差した。


「ああ、これ? あはは、えらいこっちゃか。まあ、今日はたまたま、えらいこっちゃなくらい勝ったのは確かやね。おばちゃん、パチンコで勝ってなあ。なんや、お菓子欲しいんか? 今日は大漁でいっぱいあるから、好きなん持っていくか?」


赤枝は少し自慢げに笑い、袋の口を広げて中を見せた。

これまでそうしてきたように、物を与えることで相手を懐柔し、自分のペースに持ち込もうとする。


えらいこっちゃ嬢は、ジーっと袋の中身を覗き込んだ。

「好きなんを、好きなだけ持って行き」

赤枝が笑いかけるが、少女の反応は予想外のものだった。


「お菓子は晩御飯にはならん。栄養足りひん。晩御飯の前にお菓子食べ過ぎで毒になってまう……えらいこっちゃ」


「あはは、賢い子やね。そやな、これから晩御飯の時間やからな。ほな、明日にとっといたらええで。とりあえず、飴ちゃん持って行くか?」

赤枝がサービス精神から飴を1つ取り出すと、えらいこっちゃ嬢の声が一段と低くなった。


「おばちゃんは毒でかたまってしもてる。えらいこっちゃ」


赤枝は「え?」と絶句し、心臓がドクリと跳ねるのを感じた。

少女の言葉は、まるで今の赤枝の心の内を言い当てたかのような鋭さを持っていた。


「名医でも治せへん毒にやられてしもてる。えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」

えらいこっちゃ嬢は、横に広げた小さな腕を、鳥の羽ばたきのようにぶんぶんと上下に振った。


「毒って……そりゃ、お腹に脂肪ついてきてるけど、そこまで太ってへんよ。おばちゃん、まだ元気やさかい」

困惑し、誤魔化すように自分の腹をさする赤枝だったが、少女の眼差しは揺るがない。


「取り返しつかんようになる前に、ウチが働かせてもろてる店で栄養のあるもん食べていきよし。栄養あるもん食べんと、えらいこっちゃになってまう。えらいこっちゃ」


言うなり、えらいこっちゃ嬢は赤枝のゴツゴツとした手を、その小さな手でギュッと掴んだ。

そして、一切の躊躇なく歩き始める。


「ちょ、ちょっと、御嬢ちゃん!? 自転車があるんやから!」

訳が分からないまま、赤枝は重い自転車を押し、少女に引かれるままについていくしかなかった。


「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ……」


リズミカルに繰り返される少女の呟きが、夜の静寂に響く。

赤枝は、自分の「正しさ」という毒に侵され、固まりきった心が、この少女の小さな手によってどこか得体の知れない場所へ引きずり出されていくような、奇妙な感覚に陥っていた。


---


えらいこっちゃ嬢に小さな手を引かれ、夜の路地を幾度か曲がると、ふと温かな灯りに照らされた店が姿を現した。


「摩訶不思議食堂」


和風で清潔感のある綺麗な佇まいの店構えに、赤枝は思わず足を止める。


「えらいこっちゃなおばちゃん御一名!」

えらいこっちゃ嬢は、店内に響き渡るような声でそう告げると、ガラガラと引き戸を開けて中へと入っていった。

訳もわからぬまま、赤枝は案内されるがままカウンター席に腰を下ろした。


すると、カウンターの向こう側から、ひょっこりと一体の「お地蔵さん」が顔を出した。

あまりの神々しさと穏やかさに、赤枝は思わず目を丸くする。

(……なんや、本物のお地蔵さんみたいやわ。拝み倒したくなるようなお顔してはる)


「私はこの店の店長をさせて頂いております。皆さんは、地蔵店長と呼んでくださいますから、そのまんま、お地蔵さんだと思って頂いて宜しゅう御座います」

店長は、観る者の心を溶かすような穏やかな笑顔で挨拶をした。


「あ、どうも、私は村井赤枝です」

毒舌自慢の赤枝も、この空気に飲まれたのか、反射的に本名を名乗って自己紹介をしていた。


「村井さん……赤枝さんですね。ようこそお越し下さいました」

地蔵店長はニコニコと、すべてを見通しているかのような慈愛に満ちた笑みを浮かべた。


ふと気づくと、先程までセーラー服姿だったえらいこっちゃ嬢が、いつの間にか黒の着物と袴に割烹着を重ねた姿に着替え、赤枝の前に立っていた。

「えらいこっちゃ」と呟きながら、彼女は温かい御絞りを手渡してくれる。


「有難うさん」

赤枝はそれを受け取り、分厚い手で顔や手を拭きながら、店長に語りかけた。


「この子に、毒がまわってる言われて連れて来られたんですねん。そりゃ、お腹に脂肪はついてるって服着ててもわかるくらいにはなってしもたけど、そこまでやあらしませんよね?」

赤枝はガハハと笑い飛ばそうとしたが、地蔵店長はニコニコとしたまま、鋭い一言を添えた。


「体の毒は、ウォーキングなどで解消は出来ましょう。そして、恐らく、えらいこっちゃんは、内に滞る毒……内面の毒を言い当てられたのでありましょうなあ」


「え……?」

赤枝を拭く手がピタリと止まった。内面の毒。その言葉が、数日前の健十郎の「ぶち殺してやりたい」という言葉と重なり、胸の奥をチクリと刺した。


「今日は冷えますね。何か、温かいものをお出ししましょうか」

店長が優しく問いかけると、隣にいたえらいこっちゃ嬢がスッとメニューを差し出した。

そこには『えらいこっちゃ鍋・優しい鍋のセット』と記されている。


「それじゃあ、この鍋のセットをお願いできますやろか?」

赤枝が注文すると、地蔵店長は「かしこまりました」と一礼し、厨房へと向かった。


カウンター越しに厨房の様子を覗き込んだ赤枝は、そこで再び言葉を失うことになる。

厨房では、猫耳を生やした優しい顔立ちの女性が、手際よく一人用の鍋を仕込み始めていた。

さらにその横では、犬耳を垂らした、白犬そのもののような優しい風貌の男性が、別の鍋を用意している。


「猫に……犬? どないなってんの、この店……」


赤枝は呆気に取られ、現実離れした光景をただ見つめることしかできなかった。


---


カウンターに、二つで一人前という小ぶりな土鍋が並べられた。

立ち上る湯気と共に、食欲をそそる香りが赤枝の鼻をくすぐる。

具材はどちらも同じ、鮮やかな人参に瑞々しい葱、真っ白な豆腐、そして弾力のある鶏肉だ。


「頂きます」


赤枝はそう言って、まずは「えらいこっちゃ鍋」のレンゲを取り、出汁を一口啜った。

その瞬間、彼女の目が驚きで見開かれた。


「これ……出汁だけでも十分に美味しいですね! 私、こんな美味しい出汁、長いこと生きてるけど生まれて初めてですわ」

あまりの旨みの深さに、思わずスープをもう一口。五臓六腑に染み渡るような、強烈で完璧な旨みだった。


「わんぞう大将の出汁はえらいこっちゃな逸品!」

えらいこっちゃ嬢が自慢げに胸を張ると、犬の姿をした料理人・わんぞうが、柔らかな声で笑った。

「具材も食べてみて下さいや」


赤枝は頷き、期待に胸を膨らませて鶏肉を口に運んだ。

「……ん?」

咀嚼する赤枝の眉が、わずかに寄る。


「確かに、出汁も美味しいし、鶏肉も悪くはないけど……」

不思議に思い、人参、葱、豆腐と、その他の具材も一つずつ丁寧に食べてみる。


「何やろうか……その、出汁は最高に美味しいのに、具材に出汁がしゅんでません。折角の美味しい出汁が具材に浸透してへんっていうか……別々に食べてるみたいやわ」


赤枝の率直な感想に、わんぞうはグッと親指を立ててみせた。

「御名答。この『えらいこっちゃ鍋』は、そういう風に作ってますさかい」


「あ、素材の味をそのまま楽しみたい人用、とかですか?」

赤枝が尋ねると、地蔵店長がニコニコと頷いた。

「そういった理由も、確かにあります」


赤枝は一度水を飲んで舌をリセットし、今度は猫子が作った「優しい鍋」へと向かった。

まずは出汁を一口。


「こっちの出汁も美味しいけど……出汁そのものの強さは、えらいこっちゃ鍋の方が上ですね」

猫子は「ふふふ」とにこやかに微笑んでいる。


次に、赤枝はその鍋の鶏肉を口に含んだ。

その瞬間、赤枝の表情がふわりと和らいだ。


「……優しい味。ちゃんと出汁がしゅんでて、それでいて鶏肉の味もしっかり出てる。……あ、野菜も美味しいわ。豆腐も、芯まで味が馴染んでる」


次から次へと箸が進む。

赤枝は夢中で食べ進めながら、不思議そうに首を傾げた。


「なんでやろか? 明らかに出汁そのものは、「えらいこっちゃ鍋」の方が強くて美味しいはずやのに。出汁は「えらいこっちゃ鍋」の方が強いのに、この『優しい鍋』の方が、凄く美味しいって感じます。あ、「えらいこっちゃ鍋」がまずいんやないんですよ? でも『優しい鍋』は、何ていうか……ほんまに優しいっていうか、絶妙っていうか……」


出汁が具材を包み込み、具材が出汁を豊かにする。

その完璧な調和に魅了され、赤枝は気づけば「優しい鍋」をあっという間に平らげていた。

体の中からじんわりと温まり、どこか懐かしいような幸福感が、赤枝の心を包んでいった。


---


##調和の教え


赤枝は、残されていた「えらいこっちゃ鍋」の具材も、その強烈な旨みの出汁と共にすべて完食した。

お腹はすっかり満たされたはずなのに、どこか不思議な違和感が胸の奥にくすぶっている。


「……地蔵店長。この『えらいこっちゃ鍋』の出汁、最高に美味しいんやから、この出汁を使って『優しい鍋』を作れば、もっとええんやありませんか?」


赤枝の素朴な疑問に、地蔵店長はやはりお地蔵さんのような笑顔を崩さずに答えた。


「恐らく、『えらいこっちゃ鍋』の出汁では、具材の良さは引き立ちません。人参も葱も、豆腐も鶏肉も、出汁の味しかしなくなってしまって、本来の素材が持っている味はすべて消えてしまいます」


「素材の味が、消える……?」

赤枝が首を傾げると、地蔵店長はさらに優しく諭すように言葉を継いだ。


「えらいこっちゃ鍋の出汁は、確かに逸品です。しかし、出汁の主張が強すぎるあまり、鍋料理としての調和は崩れてしまっておりました。一方、優しい鍋の方は、具材の味を引き立てる存在として、見事に調和を保っています。出しゃばらず、あくまで具材の最高の味を引き立てる立役者に徹しているのです」


出汁が主役になるのではなく、具材を輝かせるための黒子になる。その調和こそが、赤枝が感じた「美味しさ」の正体だった。


すると、横で腕を組んでいたえらいこっちゃ嬢が、これ以上ないほど厳しい口調で言い放った。


「えらいこっちゃ鍋は、無理やりお節介な大きなお世話で、具材の味を潰しよってからに! 優しい鍋は、具材を優しく包み込んで最高の味を出してくれて、人参と鶏肉も仲良しこよし。えらいこっちゃな巧さと美味さ、えらいこっちゃ!」


「お節介……。大きな、お世話……」


赤枝の口から、無意識にその言葉がこぼれ落ちた。

具材の味を尊重せず、自分の強すぎる味を無理やり押し付けて、結局は馴染むことすらできなかった「えらいこっちゃ鍋」。

それは、自分が良かれと思って若い衆や子供たちの婚約者に浴びせ続けてきた、あの「親切という名の説教」そのものではないか。


赤枝は、空になった二つの土鍋をじっと見つめ、自分の立ち振る舞いに潜んでいた、強すぎる「味」の正体に気づき始めていた。


---


赤枝は、釈然としない表情で地蔵店長を見つめた。

腹の底に溜まった「自分は正しい」という思いが、言葉となって溢れ出す。


「……それでも、人生の先輩が、若いもんを教えたり、時には説教するのは、例えお節介でも、余計なお世話かも知れんけど、やらなあかんことちゃいますの?」


地蔵店長は、拝みたくなるような優しいお地蔵さん笑顔を崩さずに頷いた。

「勿論、時には厳しくも伝え導かねばならぬ事もありましょう」


「ほな、私は間違った事はしてません」

意を強くした赤枝は、堰を切ったように身の上話を始めた。


「……私、職場のある男の子――男の子言うても24歳なんやけど――その子からごっつ嫌われてしもてて。そら、時には厳しく教えたり説教した事もあるかもわからんけど、でも、それはその子に必要な事であって、あんなふうに嫌われる筋合いはありません。それに……」


地蔵店長は、反論も肯定もせず、ただ静かに赤枝の言葉を聴いている。

その静寂に耐えかねるように、赤枝は自分を正当化する「逃げ道」を口にした。


「それに、おばさんはうるさいもんやし……」


---


「えらいこっちゃ!」


突然、えらいこっちゃ嬢が割れんばかりの声で叫んだ。

驚いて赤枝が顔を向けるよりも速く、えらいこっちゃ嬢がパチンッと指を鳴らす。


ドカン!


「ひぇ!? な、なんや!?」

赤枝の頭上、数10センチのところで小さな爆発が起こった。

爆発の衝撃に、赤枝は目を丸くして椅子から転げ落ちそうになる。


「ちょ、ちょっと、御嬢ちゃん!? 今の何……」

言いかける赤枝の目の前で、えらいこっちゃ嬢が再び指を鳴らした。


ドカン!


今度は赤枝とえらいこっちゃ嬢の間の空間が、眩い光と共に弾けた。

「ちょ、どうなってんの!? 手品!? 爆竹か何かなん!?」


「完全に老害オバタリアンになっとる! えらいこっちゃ!」

えらいこっちゃ嬢は止まらない。

パチン、パチン、パチン! とリズミカルに指を鳴らし続ける。


ドカン! ドカン! ドカン!


「あだだっ! ちょ、ちょっと! やめて! やめてーな!」

赤枝の耳元、鼻先、頭頂部。

絶妙な位置で次々と発生する小爆発に、赤枝は悲鳴を上げながら、なりふり構わず両手で頭を抱え込んだ。


「おばさんはうるさいからしゃあない? それで全部済ませるんは、えらいこっちゃな甘えや! 周りの迷惑考えん傲慢の極み! えらいこっちゃ!」


爆煙の向こう側で、少女の冷徹な断罪が赤枝の耳に突き刺さる。

赤枝は、恐怖と混乱の中で、自分の「盾」にしていた言葉が粉々に砕け散っていくのを感じていた。


---


「ウチは、えらいこっちゃするもんや!」

えらいこっちゃ嬢は、さらに指を鳴らす構えを見せる。


赤枝は、慌てて両手を振り回して制止しようとした。

「ちょ、だからって、ほんまにえらいこっちゃな事したらあかんがな! 洒落にならへん!」


「『おばさんはうるさいもんやから』、うるさく言うてもかまへんのやったら……えらいこっちゃなウチは、えらいこっちゃするもんやから、えらいこっちゃしてもかまへん。どこも違わん、そやから、えらいこっちゃしたる!」

えらいこっちゃ嬢は、無慈悲にパチンと指を鳴らした。


ドカン!


再び赤枝の頭上で火花が散り、衝撃が走る。

「……そんな、身勝手な……」

赤枝は呻くように言った。


だが、その言葉を口にした瞬間、自分の喉の奥に苦いものが込み上げてきた。

「身勝手……あ……」


自分は、今まさにこの少女がやったことと同じ論理を、他人に、そしてあの健十郎に押し付けていたのではないか。


地蔵店長は、煙の漂う店内で、穏やかなお地蔵さん笑顔を浮かべて静かに語り出した。

「御自身に対する自己イメージであったり、自分はこうである、という御自身の見方はあるでしょう」

その声は、耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうなほど優しい。


「そして、『私はこうだから、こういう私にあなたは合わせなさい』というあり方で、目の前の人を支配しようとしたり、相手より自分は上であるという前提で接していると、相手はその時点で身構えてしまわれることも御座いましょう」

地蔵店長は一度言葉を切り、カウンターの上に置かれた二つの鍋を指した。


「それこそ、どれだけ強い出汁をしみこませようとしても、全くしみ込まないが如く」


赤枝は、空になった「えらいこっちゃ鍋」の底を見つめた。

強すぎる出汁は、具材の良さを引き出すどころか、具材の表面を硬く拒絶させていただけだった。


「『おばさんはうるさいもんやから、うるさく言ってもかまへんし、うるさくしても周りがあわせるべき』なんて、えらいこっちゃな傲慢さ!」

えらいこっちゃ嬢が、赤枝の胸元を突き刺すように言い放つ。


「『自分はこうだから』といって自己正当化する行いは、自身に対する執着、仏教では『執着しゅうじゃく』と読みますが……まさに自身は変化せず、相手を自分の都合の良いように『自分は変わらないからお前が変われ』と言う、傲慢な煩悩の表れです」

地蔵店長は、諭すような笑みを絶やさない。


「そして、傲慢と言う字にもある『まん』も、我執により他者を軽視する煩悩です」


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地蔵店長は、赤枝の目を真っ直ぐに見据えた。


「その青年に御説教をされる際、『おばさんはうるさいものだから』と前置きしたり、御説教の後に言い放ち続けて来られたとしたら……それはどのような意味で、どのように言われてきたのでありましょうかねえ」


その言葉は、優しく、慈愛に満ちた声色だった。

しかし、赤枝にとっては、えらいこっちゃ嬢の爆発よりも遥かに重く、鋭く、自分の心の核を射抜く一撃だった。


「おばさんは、うるさいもんやさかい……」

今まで自分を正当化するために、盾のように使ってきたその言葉。

それは、相手を思いやる「教育」などではなく、自分は絶対に変わらないという宣言であり、相手に無条件の服従を強いる「呪縛」だったのではないか。


赤枝は、椅子に座ったまま動けなくなった。


健十郎が最後に向けた、あの鬼のような形相。

「ぶち殺してやりたい」という叫び。

それは、赤枝が「私はこうだから」と無意識に振り回し続けた、傲慢な「慢」の重さに耐えかねた悲鳴だったのだ。


---


赤枝は、未だに信じられないといった様子で首を振った。

「……そやかて、何もあんな、物騒な事言うくらい怒らんでも。あの子、見た目はほんまに優しそうな顔立ちやし、社員の人らもみんな、優しくて怒ったりせえへん、ええ子やって……」


「まだわかっとらん老害オバタリアン! えらいこっちゃ!」

えらいこっちゃ嬢が、どこからか卓上固形燃料コンロを抱えてやって来た。

彼女は「えらいこっちゃ鍋」に残った出汁を注ぎ足すと、コンロの上に置く。


パチンッ!


彼女が指を鳴らした瞬間、固形燃料にパッと青い炎が灯った。

「優しくても、えらいこっちゃな事されまくったら、えらいこっちゃなくらい怒りよる。当たり前や!」


地蔵店長は、その様子を穏やかに見守りながら言った。

「有難う御座います、えらいこっちゃん。それでは、しめの雑炊に致しましょうか」


奥から猫子がニコニコと、手際よくご飯と薬味を運んでくる。

鍋の中で、強い出汁がグツグツと音を立てて沸騰し始めた。


---


### 「優しい」という名の甘えと傲慢


地蔵店長は、赤枝の目を真っ直ぐに見つめ、静かに問いかけた。

「優しいから怒らない。……それは、一体どなたが決めた事でしょうかねえ」


「それは……あの子って、はたから見たらそう見えるし、みんなもそういうてたし、工場では優しくて怒った事もない子やって……」

赤枝の声が小さくなる。


「確かに、その青年は社会的評価も高く、滅多なことでは怒らない人物だったのでしょう。ですが……」

地蔵店長は、お地蔵さん笑顔のまま、さらに深く踏み込んだ。


「それゆえに、『この人は何をしても怒らない』というイメージ……いわば『幻想』を勝手に作り上げ、そこに甘え、やりたい放題に振る舞う人もいらっしゃったかもしれません。『彼になら何を言っても許される』『反論なんてするわけがない』『自分の方が強いから、例え反撃されてもなんとでも出来る』……。そんな、無意識の傲慢さが、お相手を追い詰めていたという事も、あったかもしれませんねえ。」


その言葉は、赤枝の胸のど真ん中に突き刺さった。

自分が健十郎に投げかけてきた不遜な態度、強引で横柄な御説教。

それは「彼への教育」などではなく、自分より弱いと見なした相手をねじ伏せ、屈服させて楽しんでいた、醜い支配欲の表れだったのではないか。


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### 摩擦の果ての「噴火」


「『自分はこうだから』『相手はこうだから』という思い込みが固まり、その固まったもの同士がすれ違い続けると、やがて摩擦が起こり、炎が上がってしまう。そのような事は、人の世では多々あり得る事で御座います」


地蔵店長は、激しく泡立つ鍋を指差した。

「丁度、煮えて来ましたね」


ボコボコッ! グツグツ!


沸騰した出汁が、今にも鍋から溢れ出さんばかりに踊っている。

そこへ、猫子が黄金色の溶き卵を、糸を引くように丁寧に回し入れた。

激しい沸騰の中に卵が溶け込み、一瞬でふわふわとした塊へと変わっていく。


「はい、お待たせいたしました」

猫子が笑顔で出来上がったことを宣言すると、それに応じて、えらいこっちゃ嬢が、サッと固形燃料の火を消した。


静まり返った店内に、余熱でグツグツ……と微かな音を立てる雑炊の香りが広がる。

それは、あれほど尖っていた「えらいこっちゃ鍋」の出汁が、卵とご飯によって包み込まれ、どこか平穏を取り戻したかのような、芳醇で優しい香りだった。


赤枝は、自分の内側で噴火した感情をなだめるように、立ち上る湯気をじっと見つめていた。


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##三毒の雑炊


赤枝は、目の前の雑炊から立ち上る湯気をぼんやりと見つめながら、消え入りそうな声で呟いた。


「……私は、どないすればええんやろう。おばさんはうるさいもんやて、自分を正当化せんようにせなあかんのやろうけど……。今までずっとそうやって生きてきてしもたから……」


その言葉に、地蔵店長はやはり穏やかなお地蔵さん笑顔を浮かべて答えた。

「私から『赤枝さんが変わりなさい』とは申せません」


「……え?」


「外野が『あなたが変わりなさい』と言っても、恐らく真に届くことはないでしょう。『変われと言いながら、そういうあなたは変わろうとしていないではないか』と言われて逆効果になり、相手はさらに反発するか、身と心を閉ざしてしまうもので御座います」


地蔵店長は、ニコニコと微笑みながら、けれど本質を突く言葉を続けた。


「御自身で今の在り方に気づくことが、自分を良い方向に変えるための一歩で御座います。そして今、赤枝さんは御自身を顧みられて、気付かれました。気づかれた時点で、気付く前と後という変化を体験していらっしゃいます。私には、既に変化の兆しが観えますよ」


「兆し……」


「『私はこうだからあなたが私にあわせなさい』『あなたはこうだから私の都合の良いように変わりなさい』というのは、まさに『慢』の煩悩。それは、三毒さんどくという人間を苦しめる根本的な煩悩によるものなのです」


「三毒? 三つの毒ですか? ……あ、毒って、えらいこっちゃんが言ってたやつやね」

赤枝が隣を見ると、えらいこっちゃ嬢は「えっへん」と誇らしげに胸を張っていた。


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### 貪瞋痴とんじんちの三毒


地蔵店長は、慈愛に満ちた声で「三毒」について諭し始めた。


「一つ目は貪欲とんよく。自分を思い通りにしたい、もっと都合よく手に入れたいという執着心です。

二つ目は瞋恚しんに。思い通りにならないことに対する怒りや嫌悪。

そして三つ目が愚痴ぐち。自分は正しいと思い込んだり、自分中心に物事を判断して、そのことに全く気付いていない愚かさのことです。

仏教ではこれを『貪瞋痴とんじんちの三毒』として教えて下さいます」


「愚痴って……。誰かの悪口をぐちぐち言うとか、不満をこぼすっていう意味やのうて、愚かなことそのものを言うんですね」

赤枝がハッとしたように言うと、えらいこっちゃ嬢がひょいっと椅子に飛び乗った。


「気付いて変わろうとしたんなら、今のおばちゃんは愚痴やのうて、えらいやっちゃ!」

えらいこっちゃ嬢は小さな手で、赤枝の白髪の多い頭を優しく撫でた。


「……有難うなあ。でも、やっぱり私は、愚痴そのものやったんやなあ」

赤枝は鼻をすすり、震える手で匙を持った。そして、黄金色の卵が絡まった雑炊を一口、口に運ぶ。


「……っ。御出汁がよう効いてて、ほんまに、美味しいわあ……」

熱い雑炊が喉を通るたびに、胸の奥に固まっていた頑固な塊が、涙となって溢れ出してきた。

強すぎて誰にも受け入れられなかった自分の「出汁」が、今はこんなにも優しく、自分自身を温めてくれている。


「強すぎる出汁の味も、きちんと調えて、適切な調理をすれば、最高の食となってくれます。今召し上がっている雑炊の如し、で御座います」


地蔵店長はニコニコとお地蔵さん笑顔を浮かべ、泣きながら雑炊を頬張る赤枝に向かって、静かに合掌した。


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赤枝は最後の一口まで、名残惜しむように雑炊を綺麗に食べ終えた。

温かな湯気が落ち着くと共に、彼女の表情からは、あの尖った「慢」の棘が消え、どこか清々しい面持ちに変わっていた。


「御馳走様でした……。ほんまに、最高の御出汁の聞いたお料理でした。あの『えらいこっちゃ鍋』も、今の私にとっては、自分を見つめ直すために絶対に必要な味やったんやと思います」


赤枝は深く、丁寧に頭を下げた。

自分の非を認め、他人の腕に感謝する。そんな当たり前のことが、今の彼女には心から心地よく感じられた。


「……お勘定、お願いします」


赤枝が財布を取り出すと、地蔵店長は胸の前で静かに手を合わせ、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。


「当店では、御布施おふせ形式にしております。お客様がこの食事に感じられた価値を、そのままお納め頂ければ宜しゅう御座います」


「御布施……。それじゃあ、これ、少ないかもしれへんけど……」


赤枝は迷わず5千円札を一枚取り出し、傍らにいたえらいこっちゃ嬢の小さな手にそっと手渡した。

そして、足元に置いていた袋から、パチンコで勝ち取ったばかりの大きな菓子の詰め合わせを取り出した。


「それと、これな。お菓子、二袋あるさかい、一袋貰ってくれる? 皆さんで、休憩時間にでも楽しんでください」


えらいこっちゃ嬢は、袋の重みをしっかりと感じながら、パッと顔を輝かせた。


「毎度あり! お菓子一杯、ありがとちゃん!えらいこっちゃ!」


彼女は元気よく5千円札をレジに収めると、重たいお菓子の袋を抱えて厨房の奥へと向かった。

そこでは猫子がニコニコと出迎え、二人は楽しげに笑い合いながら、戸棚の中に整然とお菓子をしまっていく。その光景は、まるでおとぎ話のワンシーンのように睦まじかった。


赤枝はその様子を、細めた目で見守っていた。


「素敵なお菓子を、誠に有難う御座います。」

そう言って笑顔で丁寧に合掌とお礼をする地蔵店長。


「えらいこっちゃんに、私の毒を見抜いてもろて、ここまで連れて来てくれへんかったら……。私、一生、自分の愚かさに気が付かれへんかったわ。ほんまに、命の恩人や」


赤枝は立ち上がり、カウンターの向こう側にいる地蔵店長、そして戻ってきたえらいこっちゃ嬢、厨房の猫子とわんぞうに向かって、もう一度深く腰を折った。


「地蔵店長、えらいこっちゃん、皆さん……。ほんに、有難う御座いました」


「御来店、誠に有難う御座います。もしもまた、毒に取り込まれていると感じられましたら、またいつでも、心の毒を抜きにいらしてくださいね」


地蔵店長は慈愛に満ちた笑顔で合掌し、丁寧にお辞儀を返した。


ガラガラ……と引き戸を開け、夜の京都の街へと歩き出す赤枝。

その背中は、店に来る前よりもずっと軽やかで、夜風が火照った頬を優しく撫でていく。


明日は、まず職場の皆に、そして息子たちの婚約者に、自分の「味」を押し付けない、本当の「優しい言葉」を届けよう。

そんな決意を胸に歩む赤枝の姿を、摩訶不思議食堂の温かな灯りが、いつまでも静かに見送っていた。


---


摩訶不思議食堂を後にした赤枝は、夜風に吹かれながら一人、自宅へと戻った。いつもならテレビの音を大きくして孤独を紛らわせていたが、今夜は不思議と静寂が心地よかった。


赤枝は、使い慣れない手つきでスマートフォンを取り出す。画面の明かりが、少しだけ赤らんだ彼女の顔を照らした。迷い、何度も書き直した末に、二人の息子へメッセージを送る。


「今まで、あんたたちの選んだ大切な人に、姑はうるさいもんや、嫁は黙って言う通りにするもんやって、自分の勝手な理屈を押し付けてしもてた。ほんまに、ごめんなあ。もし許してくれるんなら、今度ちゃんと会って謝らせてほしい」


ピコーン、という通知音。

まず返ってきたのは、次男からのメッセージだった。

「母さん、急にどないしたん。でも、俺の彼女も本当は母さんと仲良くしたいと思ってくれてるから、ちゃんと話し合いたいって言うてくれてる。今度の休みにそっちに行くから、ゆっくり話そうや」


その文字を見た瞬間、赤枝の胸の奥が熱くなった。

さらにしばらくすると、今度は長男から電話がかかってきた。


プルルル……プルルル……。


「……もしもし、お母さん?」

「……ああ、ごめんなあ。こんな時間に」

赤枝の声は、自分でも驚くほど震えていた。


「メッセージ、読んでくれたん?」

「ああ、読んだよ。びっくりしたわ」


「ほんまに、ごめんなあ。大事な婚約者やのに、私が『姑はうるさいもんや、嫁は黙って姑の言う通りにするもんや』って押し付けてしもて。あんたの大事な人を、私の毒で傷つけてしもたんやね……」


電話の向こうで、長男は少し沈黙した後、優しく、けれどどこかホッとしたように笑った。

「……わかってくれたんやったら、ええんよ。一度、家族でちゃんと話そうな。お母さんも、やっぱりお母さんやな。安心したわ」

「……おおきに。ほんまにおおきに……」


通話を終えた赤枝は、夜空を見上げ、深く、長く息を吐き出した。

「私は、ほんまに人に恵まれてたんやなあ。それやのに、三毒で眼が曇って……ちゃうな、傲慢な私が見ようともせんかったんやな」


---


そして次の日。

株式会社八つ橋美人での仕事を終えた赤枝は、夕食の買い出しのためにスーパーへと向かっていた。


キコキコ……キコキコ……。

自転車のペダルを漕ぐ音だけが響く夕暮れ時。

ふと前方に、つい先日まで見慣れていた、けれどどこか違う後ろ姿を見つけた。


以前のような作業着ではない。

パリッとしたリクルートスーツに身を包み、背筋を伸ばして歩いている青年。

健十郎だ。


赤枝の心臓がドクンと大きく跳ねた。

自転車のブレーキが、キィ……と短く鳴る。

彼女は意を決して、喉を震わせた。


「あの……!」


声を出して呼び止めるが、健十郎は一瞬立ち止まりそうになったものの、すぐに視線を前に戻して歩き出してしまう。拒絶。その冷たい感触にひるみそうになるが、今の赤枝は逃げなかった。


「待って! 健十郎君……! 澤岡健十郎君!」


その叫びに、彼はぴたりと足を止めた。

赤枝は必死に自転車を漕いで、彼に追いつく。


健十郎が、ゆっくりと振り返った。

かつての「何を言っても逆らわない青年」でもなければ、あの日、主任が語った「鬼のような形相」でもない。

そこにあるのは、完全に心を閉ざし、温度を失った無表情な顔だった。


「……驚きました」

健十郎は、乾いた声でポツリと言った。

「初めてですね、俺の事、名前でよばはったん」


その一言が、赤枝の胸に重く、深く突き刺さった。


---


赤枝はゆっくりと自転車を降り、重いスタンドを「ガチャン」と力強く上げて固定した。

夕暮れの街角、二人の間に流れる空気は以前のような主従関係ではなく、一人の人間と一人の人間が向き合う、ヒリつくような緊張感に包まれていた。


「……驚きました。初めてですね、俺の事、名前でよばはったん」

健十郎は、無表情のまま、けれどその瞳の奥には深い傷跡を覗かせて言った。

「俺、ずっと『あんた』としか言われてへんかったから」


「……それは、ほんまに失礼な事してしもてたね。健十郎君、今までごめんなあ。本当に、申し訳ありませんでした」

赤枝は、深々と頭を下げた。誰かに、しかも自分よりずっと若い青年に、これほど腰を低くして詫びる。

かつての赤枝なら「おばさんはうるさいもんや」の一言で片付けていたはずの場面だった。


「……それに、二言目には『おばさんはうるさいもんや』って言うて、健十郎君の話を一回も聞いた事無かったもんな。そりゃ、嫌やったやろ。私の独りよがりな言葉ばっかり、無理やり食べさせてしもて……」

赤枝が自嘲気味に言うと、健十郎は少しだけ目を伏せ、静かに首を振った。


「……『ちゃうねん』」

「え?」

赤枝が顔を上げると、健十郎はどこか遠くを見つめるような目をして言葉を継いだ。


「赤枝さんの口癖や思うてました。何でもかんでも、まずは『ちゃうねん』って言うの。俺が何言うても、例えお礼を言うても『ありがとうとちゃうねん』。俺が謝っても『すみませんとちゃうねん』って。俺が口を開くたびに、全部、反射的に否定されてきた」


健十郎の言葉が、赤枝の脳裏に「えらいこっちゃ鍋」の情景を鮮烈に呼び起こした。強すぎる出汁が、具材の味を完全に消し去っていたあの光景。


「就活でも、面接官にずっと否定される事ばっかり言われ続けてきて……。やっと見つけたここでも、何言うても否定されるんかって。ああ、この人には何を言うても無駄なんや、俺の存在自体が否定されてるんやって。心がポッキリ折れて、絶望したんですわ。この人は一生変わらへん、そやから俺の方から去るしかないって。……それであんな物騒な言葉を吐いてしもた」


赤枝は絶句した。

自分が良かれと思って放っていた「ちゃうねん」という言葉。それは「指導」などではなく、相手の心を削り取り、存在を塗り潰す凶器そのものだったのだ。


「……ほんまに、酷い事してしもてたね。ほんまにごめん、ごめんなあ……。申し訳ありませんでした」

赤枝は再び、地面を見つめて深く頭を下げた。今度は声が震えていた。


「……もう、一生変わらへんと思うてました。赤枝さんの事」

健十郎の言葉に、赤枝は顔を上げ、小さく微笑んだ。


「……お地蔵さんと、可愛らしいお嬢さんに教えてもろてな。私のいかんところ、三つの毒にまみれてたこと。……私、これからはちゃんと変わるって約束する。今さら勝手な事言うのはわかってるけど、もし良かったら、また八つ橋工場に戻って来いひんか? ちゃんと、健十郎君の話を聞くから」


赤枝の必死の訴えに、健十郎は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに柔らかな光を瞳に宿した。

「……俺、やっと就職、決まりそうなんです。そやから、嫌やから戻らへんのやなくて、戻らんでもよくなったから、八つ橋工場には戻りません。」

「えっ?」


「最終面接も突破して、やっと内々定貰えました。まだ内々定やから油断はできひんけど……。もう一歩、なんです」

健十郎の顔に、久しぶりに穏やかな、24歳の青年らしい笑顔が浮かんだ。


「そっか……! そっか、おめでとう! 良かった、ほんまに良かったなあ……!」

赤枝は自分の事のように顔をほころばせ、何度も頷いた。その笑顔には、もう「自分の方が上だ」という傲慢さは微塵もなかった。


「……俺も、主任に物騒な捨て台詞吐いて、そのままフェードアウトしてしもたこと、すみませんでした。主任と赤枝さんに、謝らなあかんかったのに」

健十郎が申し訳なさそうに頭を下げる。


「ううん、私の蒔いた種や。主任には私からちゃんと説明しとくから。……完全に就職決まったら、また教えてな。健十郎君の新しい門出、心から応援してるわ」


「……はい。ありがとうございます」

健十郎は晴れやかな笑顔で丁寧にお辞儀をすると、背筋をピンと伸ばして、夕闇が迫る京都の街へと歩き去っていった。その足取りは、自由を手に入れた鳥のように軽やかだった。


赤枝はしばらくその背中を見送っていたが、やがて静かに自転車を押して歩き始めた。

「……人生、何歳からでも、変わる事が出来るんや。……三つの毒を抜いて、私ももっとちゃんと、変わっていかんとな」


自分の正義で人を火傷させるのではなく、出汁を整え、具材の味を引き立てるあの雑炊のような、本当の「優しさ」をこれからの人生で調理していくために。


赤枝の一歩は、昨日の彼女とは明らかに違う、確かな響きを地面に残していた。



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― 新着の感想 ―
 ちちぷいからこっちに飛んできて読ませて頂きました。 最初はどういう展開になるのか分からなかったんですが、えらいこっちゃ嬢が出てきて更にどうなるのか?と思い引き込まれて一気に読みました。  仏教の『…
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