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ミナギル君とファンクラブ

夜の純喫茶メランコリック。スナック営業が始まると、日頃の愚痴をこぼし合い、互いの傷を舐め合うことが生きがいのおっさんたちが集う憩いの場となる。

「そういえば、ゴードンさん。最近、結衣様親衛隊に入りたいという人が多いんです」

メランコリックのマスターが話しかけると、グラスを傾けていたゴードンが目を細めた。

「そうやな、ワイもそんな話を聞いたことがあるわ」

「そういや……この間、久しぶりに源五郎左衛門が店に来たからよ、親衛隊の話をしたら、あいつも入りたいって言ってた」

三人の話に聞き耳を立てていた肉の三段腹の大将が「あれ、やっぱり源さんだったんだな」とつぶやくと、メランコリックのマスターも静かにうなずいた。

「うちの店にも来ましたからね。なんか息切らしてましたけど……」

「このあたりをうろうろしてたみたいだからな……あいつのことだ、またどこかで余計なことをして逃げてきたんじゃねえか?」

「そうかもしれませんね。いつもどおり、すずちゃんにセクハラして帰っていきましたよ」

「あいつ……ずっと変わんねえな」とつぶやいた印刷屋の親父に、肉屋の大将もうなずく。

「でもね……」と言いかけて口をつぐんだメランコリックのマスターに、印刷屋の親父が「話せよ、マスター」と凄むと、マスターは渋い表情で話を続ける。

「気のせいかもしれませんけど、すずちゃんもまんざらではない感じだったんです」

肉屋の大将が「あの子、そんなところあるな……年上好きなのか」とぼやくと、印刷屋の親父が「あの子は男じゃなくて、金が好きなんだよ」と言って笑う。

「たしかに、そんなとこありますな……」とゴードンが苦笑いを浮かべたとき、カランカランと小気味よい音を立てて店の扉が開いた。一斉に扉に向かうおっさんたちの視線の先には、すずが笑顔で立っていた。

「あれー、みなさんお揃いじゃないですか」明るい声をかけながら、すずは印刷屋の親父の隣に腰を下ろし、「印刷屋さん、カルーアミルク飲んでいいですか?」と笑顔を向けた。

印刷屋の親父は苦笑いを浮かべ、「言ったそばからこれだぜ……」とぼやき、「マスター、すずちゃんに飲ませてやってくれ」と声をかけた。「やったー、印刷屋さん、男前ー!」と印刷屋の親父に抱きついて喜ぶすずを、カウンターに並んだおっさん三人は残念な目で見つめた。


マスターがカルーアミルクをすずに差し出し、「すずちゃん、今日はどうしたの?」と尋ねると、彼女は微笑んだ。

「アルバイトの帰りに、偶然すれ違った源屋さんが、お酒飲みたいなーって話してるのが聞こえたんです。それで、ここに来てるんじゃないかと思って寄ったんですよー」

そう言ってグラスに口をつけるすずを見て、印刷屋の親父はため息をついた。

「なんだよ、人に酒を奢らせておいて、源屋狙いとか言うなよ……」

「まんまとたかられたな、印刷屋」

「いや、結論を出すのはまだ早いぜ、肉屋。先代のほうかもしれねえ。それなら俺は許す」

「違いますよー、今の源屋さんです。この間、先代の源屋さん来たでしょ。そのとき私、聞いたんです。二代目の源屋さんに、あの店と土地を売ったって」

「ほー、若造のくせにやるな」と印刷屋の親父がつぶやくと、肉屋の大将も「ああ、立派だ。その上、四人を養ってるんだろ?おかげで、リサちゃんは商店街の上客になってるからな」と言いながらグラスに酒を注ぐ。

「源屋さん、結衣様の送り迎えもほとんど一人でやってるみたいですし、体を壊さないといいんですけどね……」

マスターの話にうなずいた肉屋の大将が、「それで、すずちゃんになんの関係があるんだ?」と問いかける。

「だってー、若いのにあの店と土地を買えるんですよ。お金持ちそうだし、将来有望じゃないですか。今のうちにゲットしないと」

それを聞いた肉屋の大将と印刷屋の親父は盛大なため息をつき、マスターは小さく首を左右に振った。

「もうっ、みんな失礼ですよ。それで、みんなで何を話してたんですか?」と小首をかしげるすずに、印刷屋の親父が「いやな、結衣様親衛隊に入りたいっていうやつが増えたって話をしてたんだ」と答えると、「なーんだ、みんな入れちゃえばいいじゃないですかー」とすずが笑う。

「ゴンさん、どうなんだ?」と肉屋の大将が問いかけると、ずっと黙っていたゴードンが顔を上げ、「なんの話や?」と首を傾げた。

「ゴードンさん、大丈夫ですか?何か悩んでいるみたいですけど」

「いや、仕事のことで悩んでるだけや……転職しようかと思ってましてな」

「転職か……そういや、ゴンさんいくつなんだ?」

印刷屋の親父の問いかけに、ゴードンは「ワイでっか、三十八ですわ」と答えてグラスを傾ける。印刷屋の親父が「若いじゃねーか」とぼやくと、肉屋の大将は「若いな……」と言ってグラスを傾け、マスターも「若いですね」とうなずいた。

印刷屋の親父が隣に座るすずに「どうだ、すずちゃん。ゴンさんなんて」と話を振ると、彼女は「えー、そうですね。お金持ちになったら結婚してあげます」と言ってゴードンに色目を使う。

隣ですずを見ていた印刷屋の親父が「おめえは、一生結婚できねえな」とため息まじりに漏らすと、おっさんたちは揃ってうなずいた。


その時、カランカランと再び扉が鳴り、「なんでえ、みんな揃ってんじゃねえか」と魚屋の大将が店に入ってくる。

「魚屋さん、珍しいですね」マスターが声をかけると、「今日はかみさんが出かけてるからよ、ちょっと寄ってみたってもんだ」と話しながら、すずの隣に腰を下ろした。

「すずちゃんがいるなんて、珍しい日に来ちまったもんだ」とからかう魚屋の大将に、すずは「そうでしょー、魚屋さん、カルーアミルク飲んでいいですか?」と微笑んだ。

「やめとけ、魚屋。すずちゃんは源屋の若造狙いでここに来てんだ」

割って入った印刷屋の親父に、すずは「そんなこと言っちゃだめじゃないですかー」と頬をふくらませる。

「そうなのか?そりゃお前、見当違いってもんだ。リサちゃんに、リナちゃんに、リゼちゃん、年頃の若い女が家に三人もいるんだ。こんなおっさんの憩い場に来るほうがおかしいってもんだ」

魚屋の大将の話に、すずが「えー、やっぱりかー」と肩を落とすと、印刷屋の親父は「そりゃそうだろ、なんだかんだで幸せそうだしな」と笑い、肉屋の大将は「ああ、ただリサちゃんは苦手だ……」と言ってグラスを一気にあおった。

マスターからボトルとグラスを受け取った魚屋の大将が、手酌で酒を注ぎながら「それで、みんな揃ってなんの話してたんだ?」と聞いた。

印刷屋の親父が「いやな、結衣様親衛隊に入りたいってやつが増えたから、どうしたもんかなって話してたんだ」と答えると、魚屋の大将は大きくうなずいた。

「あれはいい活動ってもんだ。うちのかみさんもやりたいって言ってたもんな」

「でも、あまり増やすのもめんどうでっせ。当番の回数も減ってしまいますわ」

ゴードンの声に、印刷屋の親父と肉屋の大将は深刻な表情でうなずき、マスターはホッとした表情を浮かべる。

「それなら、親衛隊の下部組織としてファンクラブを作っちゃえばいいじゃないですか」

すずの提案に、ゴードンが「それよろしいな」とつぶやいたのを聞いて、すずは「そーでしょ、ゴンさん。カルーアミルク飲ませてくださいよー」と甘え声をあげる。

「よしっ、そうしよう……次のミニコミ誌にファンクラブ募集を載せてやろう」

「おい、印刷屋。勝手にそれはまずいだろ」

「そうだ、せめて源屋さんの同意は必要だってもんだ」

「そんなもん、今度見かけたときに言っときゃいいだろ」

「それならよ、うちのかみさんにファンクラブの頭をやらせてくれよ」

魚屋の大将の声に、親衛隊のおっさんたちは深くうなずいた。

こうして、当人たちを差し置いて、結衣ちゃんファンクラブの結成が決まった。


——朝、いつもどおり目覚めて台所に向かうと、リサが朝食を作り始めていた。いつもどおり「おはよう」と声をかけたら、僕を一瞥した彼女はそっぽを向いて、「おはようございます」と窓に向かって挨拶をした。

「リサ、機嫌が悪いのか?」と聞いてみたら、顔を背けたまま「別に……」とつぶやいた。「いや、露骨に機嫌が悪いだろ」と言いながら後ろからリサのほっぺたをつついたら、リサは「マスターが悪いんです」と頬を膨らませる。

「僕が悪い?」と首を傾げると、リサは振り向いて僕の胸に寄り添ってきた。

「昨晩、マスターがお酒を飲みたいと言ったので、私はビールとおつまみを用意しました」

「ああ、そうだったね。ありがとう」

「マスターが一人で飲んでいるのがかわいそうだったので、晩酌の相手もしたのです」

「そうだったね。いろいろ話を聞いてくれて楽しかったよ」

「それなのにです。私は床上手になれませんでした。どうしてくれるのですか……」

「なんでそうなるんだ……?」と口にした瞬間、リサが僕の胸を思いっきりつねった。思わず「いてー」と叫んだら、リナが「どうしたんだ、親方!」と慌てて台所に駆け込んできた。

僕とリサの様子を見て「なんだ、いつもどおりいちゃついてるだけか」と呆れた表情を浮かべ、台所を後にしようとするリナを、「リナ、ちょっと待ってくれ!」と引き止めると、彼女は「どうしたんだ?」と振り返った。

「リサを引き離してくれ」と頼むと、リナは「にひひひ」と笑ってリサに視線を向けた。

「だめです。マスターは私を床上手にしなかった罪で罰を受けているのです」

「昨日の夜のことか?あれは親方が悪いぜ」

「僕が悪い?何かしたか?」

「そうだぜ、あれだけリサに甘えておきながら、寝落ちしたんだぜ。あたいでも怒るぞ」

「甘えてた?僕が……」と唖然とする僕を見て、リナは含んだ笑みを浮かべた。

「そうだぜ、あたいも親方の話を聞いてたし、寝落ちした親方を運んだのはあたいだぜ」

「我も見ていた……エロ眼鏡の分際で我をもてなさず放置した……」

ふいに聞こえた声の主に顔を向けると、結衣ちゃんの手を引いたリゼが、僕を睨みつけている。さらに、うさぎのぬいぐるみを抱っこした結衣ちゃんが、「ゆいもー!」と言って、にこっと笑う。

「結衣ちゃんまで……冗談だろ……」

リサは「いいえ、本当です」と僕をつねる指に力を込め、リナは「親方は瓶ビール一本で泥酔してたからな」と呆れたように笑い、リゼは「うむ、あんな酔い方をするとは情けない奴……」とため息をついた。

とどめに結衣ちゃんがうさぎのぬいぐるみを抱き締め、「なあ、りさーぼくはかっこいいー。ねー」と言って、ケタケタ笑い始めた。

最悪だ……僕は酒が弱いのを自覚していたが、瓶ビール一本で記憶をなくすほど泥酔したことはなかった……そんなことより、結衣ちゃんに失態を見られたうえに真似までされては、保護者失格じゃないか……

リゼが「このくそエロ眼鏡……結衣姫に余計なことを教えて……許さない……」と僕の背中にパンチを食らわせてきたが、その程度でなかったことにできるような恥ずかしさではない。僕が「なあ、リサ……いっそ、銃で撃ってくれないか……」とリサを抱き締めると、彼女は「もう……」と漏らしてため息をつく。

「マスター……仕方がありません。昨晩はリゼと共同開発した滋養強壮剤『ミナギル君』の実験に付き合ってもらいましたので、許してあげます。なので、もっと抱き締めてください」

甘えた声で僕に抱きつくリサだが、聞き捨てならない言葉に、僕が彼女の肩を取って引き離し、「おい、リサ、滋養強壮剤『ミナギル君』ってなんだよ……」と問いかけると、リナも「リサ、親方のビールになにか入れたのか?」と少し声を荒らげた。

しばしの沈黙の後、リサはすっと僕から離れて、「さあ、早く朝ご飯を作らないといけません」と台所を振り返り、リゼは「結衣姫、着替えに行こう」と結衣ちゃんの手を引いて台所を出ていってしまった。絶対、こいつら何か混ぜたな……

「今度から晩酌するときは、僕の部屋でリナに付き合ってもらうよ」とため息まじりで漏らした僕に、リナは「おう、そのほうがよさそうだぜ」とうなずいた。


——朝からリサとリゼの様子に何か企んでいるのではないかと不信感を抱いたが、それよりも問題なのは結衣ちゃんだ……昨晩の僕の真似を保育園でしたりなんてされたら最悪だ。でも監視するわけにはいかないし、結衣ちゃんの行動を制限するのは、僕の本意じゃない。

しかたがない……そうなったときは、そうなったときで諦めようと自分に言い聞かせながら、結衣ちゃんを保育園に送る途中、ピンクの腕章をつけて自転車で走るゴードンを見かけた。特に用事はないが、少しスピードを上げて追いかける。

「ゴードン、おはよう。今日は親衛隊の当番か?」僕が声をかけると、彼は振り向いて「大智はんでっか……おはようさんです」と浮かない顔をする。

「なんか元気がないな、どうしたんだ?」と僕が気遣う言葉をかけても、「いや……何でもおまへんねん」と少し目を伏せたが、すぐに笑顔を作ってチャイルドシートに座る結衣ちゃんに「結衣様、おはようございます」と丁寧に挨拶した。僕に対する挨拶より格段丁寧なのはなぜなんだ?

「ゴンちゃん、おはよー!」結衣ちゃんの声が響くと、ゴードンはにこっと笑みを浮かべ、「結衣様には癒やしと活力をもらえますわ」と目を細めて空を仰ぐ。

なんなんだ、このおっさんは……などと思っていたら、ふいにゴードンが「そういや、大智はん。ファンクラブの話は聞いてまっか?」と訳のわからないことを尋ねてきた。「ファンクラブ?」と僕が首を傾げて聞き返すと、彼は深くうなずいた。

「結衣様のファンクラブを作ろうって話になりましてん」

「何だよそれ、親衛隊でいいじゃないか」

「それがでんな、親衛隊に入りたいって人が増えましてな……下部組織としてファンクラブを作ろうって決まりましてん」

「勝手に決めておいて今さら報告か?」

「それででんな、印刷屋の親父がミニコミ誌にファンクラブ会員募集の広告を載せるって言っとりまんねん」

「いや、ダメだろ。結衣ちゃんはただの保育園児だぞ。だいたい誰が取りまとめるんだ?」

「それは心配おまへんで、魚屋のおかみさんがまとめてくれますんや」

「何考えてんだお前ら……だいたい結衣ちゃんがいいって言うとは限らないし、溺愛しているリゼも反対すると思うぞ」

「大智はんはどうでっか?」と確認するように聞いてきたゴードンに、「反対するに決まってるだろ」と応じると、彼は「そうでっか、まあそらそうですわな」とため息をついて、チャイルドシートに視線を向けた。

「結衣様、ミニコミ誌で結衣様のファンをいっぱい集めてもよろしいか?」

「うん。いーよー、ゴンちゃん」と聞こえたかわいい返事に、ゴードンは「結衣様、ありがとうございます」と嬉しそうに笑う。

「大智はん、これでひとつクリアでんな……ファンクラブの活動内容は大したことおまへんで……あとは魚屋のおかみさんに任せますわ」

「いや、お前アホだろ……僕は反対だからな。印刷屋の親父にもそう言っておいてくれ」

「まあ、一応言うときますわ。ほな、大智はん、ワイはこれで失礼しますわ」

「そうか、気をつけてな。印刷屋の親父にも言っておけよ」

走り去るゴードンに念を押しておいたが、帰ったらリゼにも協力してもらおう。


保育室に入ると、結衣ちゃんはかばんと帽子を棚に放り込んで窓際に走っていった。そして、先に来て遊んでいた絵美花ちゃんとスミレちゃんに加わって遊び始めたのを見て、僕が着替えを整理していたら、背中をつつかれた。

「おじさま、おはようございます」絵美花ちゃんのかわいらしい挨拶に、僕が手を止めて「おはよう、絵美花ちゃん」と微笑むと、彼女はにこっと笑って、僕の腕にしがみついてきた。

「おじさまはかっこいいですわ、えみかはだいすきですよ」

この子はいったい何を言ってるんだ?片腕を掴まれ、片付けができなくて困っていると、三浦先生の声が聞こえた。

「おはようございます。朝から絵美花ちゃんと楽しそうですね」

「まことせんせい、おじさまは、りさおねえさまにあまえんぼうになっていたそうですわ」

まさか……僕が結衣ちゃんに視線を向けると、スミレちゃんと一緒に僕を見て、ケタケタ笑っている。そうなったときはそうなったときだと覚悟は決めていたが、早すぎないか?まだ保育園に着いて十分も経っていないぞ……

「いったい何をしたんですか、おじさん?結衣ちゃんの教育に悪いです」

声色の変わった三浦先生にたじろぐ僕の腕に、絵美花ちゃんがぎゅっと抱きついた。

「そうですわ、おじさま、えみかにもあまえてみてください」

いや、あれは酒とミナギル君の相乗効果でそうなっただけだし、保育園児にも受けるほどの失態だったのか?

「まさか、おじさん……リサさんに童貞を奪われたんじゃ……」

三浦先生、結衣ちゃんの教育に悪いとか言うなら、保育室で童貞なんて言わないほうがいいと思います……と言ってやりたいが、ここは我慢だ。

「昨日家でビールを飲んだら泥酔して……ちょっと失態を晒してしまっただけなんです」

「じゃあ、童貞は?」と僕を睨む三浦先生だが、保育室で童貞とか大声で言っちゃだめですよ……

「酔って寝落ちしただけですから……」とあえて言葉を濁した僕を見て、三浦先生はホッとした表情を浮かべた。

「安心しました……リサさんに負けたくないですから。絵美花ちゃん、おじさんの邪魔になりますから、向こうにいきますよ」

絵美花ちゃんを連れて行ってくれて助かったけど、今日の夕方には、ほとんどの園児が僕の昨夜の失態を知ってしまっているのではないかと不安になった。せめて園長先生にだけはバレないことを祈りつつ、僕は保育園を後にした。


——保育園から戻った大智と店で仕事の準備をしていたリナが一緒に出かけた後、リゼはリサに電話番を頼んで、結衣のおもちゃの材料を買うために商店街を歩いている。

「小遣いが少ない……我こそが主様の二度も口づけを交わした相手だというのに……主様はもっと我を慈しむべき……」

ぶつぶつ言いながら歩くリゼに「おっ、リゼちゃんじゃないか!今日も買い物か?」と威勢のいい声が届く。

にこにことリゼを見ているウオノメ鮮魚店の大将を一瞥したリゼが「うむ……しかし、魚屋に用はない……」と言って立ち去ろうとすると、「まあ、そう言うなよ、たまにはちょっと寄っていくのもいいってもんだ」と大将が引き止める。

「買い物はリサが来る……我は用がない……」と吐き捨てて歩き始めたリゼに、店の奥から「リゼちゃん、ちょっとちょっと」と声がかかった。

急いで店から駆け出してきたウオノメ鮮魚店の女将さんが、立ち止まったリゼの手を取り、「リゼちゃん、結衣ちゃんの話を聞かせてほしいんだけど、だめかい?」と尋ねると、リゼは少し表情をほころばせた。

「うむ……結衣姫の守護者たる我に話を聞こうとは、よい心がけ……少しだけなら話してやろう」

機嫌をよくしたリゼの手を引いて店に歩き出したおかみさんは、にこにこしながら話しかける。

「ありがとうね、リゼちゃん、源屋さんと結衣ちゃんは仲良くやってるのかい?」

「うむ……しかし、結衣姫の中ではリサが一番、その次が主様……」

話を聞いていた大将が、「へえ、毎日送り迎えしてる源屋さんが一番かと思ってたけど違うんだな」と会話に割り込むと、おかみさんは「そりゃそうだよ、結衣ちゃんは女の子なんだから、同じ女性のリサちゃんの方になつくだろうさ」とどこかホッとした様子を見せた。

「否……主様が二番になったのは、昨晩、酒に酔ってリサに甘えているのを結衣姫が見たから……」

なぜか自信満々に胸を張って話したリゼを見て、大将が「なんだそりゃ」と呆れると、おかみさんは少し頬を染めて含み笑いを浮かべた。

「源屋さんも男だね……奥手だと思ってたけど、そんなところもあるんだねー」

「うむ、主様は奥手で間違いない。主様の唇は我が不意打ちで奪った……」

そう言って恥ずかしがるように顔を伏せたリゼを見て、大将は「リゼちゃん、やるじゃねえか……」とたじろぎ、おかみさんは「リゼちゃん、見直したよ……」とリゼの肩をポンと叩いた。

「ところでさ、リゼちゃん。結衣ちゃんのファンクラブの話は聞いたかい?」

「聞いていない……我に断りもなくファンクラブを結成し、結衣姫を愛でようとは……万死に値する……」

「いや、そうじゃないんだよ、親衛隊は知ってるだろ?」

「うむ……あれは結衣姫の存在そのものを原動力とした、キモい親父のはむはむ保育園ママチャリ治安維持部隊……」

「あれと同じようなことをしたいんだよ。はむはむ保育園だけじゃなくて、町内の子どもたちの見守り活動がメインだよ」

「おかみさんまで……キモい親父になるのか……」と怪訝な表情を浮かべるリゼを見て、おかみさんは大声で笑う。

「そうじゃないよ。それにさ、結衣ちゃんは両親を亡くしたのに、いつも笑顔でいてくれるじゃないか。そんなキラキラした子をさ、みんなで応援したいって気持ちもあるんだよ」

「結衣姫の尊さを理解して、陰ながら応援したいのなら、勝手にすればいい……」

「それでさ……相談なんだけど、ファンクラブ募集の広告をミニコミ誌に載せたいんだけど、いいかい?」

おかみさんの話を聞き、少し考え込んだリゼが、「うむ……それなら、我が広告の原稿を作る……それでいいか?」と問いかけると、おかみさんは「もちろんだよ。そうだ、ファンクラブの受付はうちにしてくれよ。あたしが隊長なんだからさ!」と胸を叩いた。

「うむ、任せよ。そうと決まればさっそく帰って準備しよう……」

「よかったじゃねえか、お前。ずっとやりたがってたもんな」

「そりゃそうさ、子どもたちは町の宝物だよ。それに父兄なんかと顔見知りになったら、お客さん増えるかもしれないだろ」

大将は「そんなもんか……」と少し首をひねるが、リゼが「おかみさんの打算的考え……我も賛同する……」とうなずくのを見て、ポンと手を打った。

「そうか……そうだな!リゼちゃん、俺からもよろしく頼むってもんだ!」

「我は忙しくなった……帰る……」そう言い残して店を後にするリゼを、二人は手を振って見送った。


——数週間後の夜、居間で一人テレビを見ていたら、リナが隣に座って話しかけてきた。

「親方、明日の仕事はどうするんだ?」

「えー、もう夜だし、仕事のことは考えたくないんだけどな……」

「そうか……にひひひ、じゃあ、あたいと一緒に寝るか?」そう言いながら寄り添ってくるリナからは、お風呂上がりのいい匂いがして、なんだか心が揺れてしまう。

「いや、もう少ししたら寝るけど、一人で寝るよ」

「毎日あたいが同じ部屋に入るのを忘れてるだろ?」

「そりゃ、そうだけどさ、一緒に寝るのはまた別の話だろ」

また余計な勘違いで揉めるのは嫌だしな……と思っていたら、横からそっとコップが差し出された。流れるように受け取ってみたが、コップの底には顆粒状の何かが入っている。

「マスター。その泥棒猫を追い出して、マスターの部屋を自由開放してください」

訳のわからないことを言いながら、リサがグラスにビールを注いでくれたが、顆粒状の何かがビールに溶けると、ピンク色の煙が立ち上る。これ、絶対やばいやつだ……思わずリナを見ると、彼女も目を丸くしてコップを凝視していた。

「リサ、今何か入っていただろ」

「何を言っているのですか?マスターを実験体に使うなんて……私が一度でもそんなことをしたことありますか?」

「いや、この前は、ミナギル君を混ぜたビールを飲ませただろ?」

「そうでした……常人なら死んでもおかしくなかったのですが、マスターは平気でした。そんな無駄に丈夫なマスターに……私……惚れ直しました……」

リサが頬を染めて僕に抱きついてきたが、無駄とか言いながら惚れ直したって、突っ込みようがない会話をぶち込んでくるのはやめてほしい。そして今の僕はそんな突っ込みを考えている場合じゃない……リサはうっとりとした表情で僕を見つめながら、僕の肘をグイグイ押し上げてビールを飲ませようとしてくる。

「リナ……助けてくれ……」僕の必死な声に答えるように、リナが「おい、リサ、やめろよ」と僕の肘を押し下げてくれた。おかげでビールは少し遠ざかったが、今度は二人に挟まれた肘が猛烈に痛い……リナ、コップを取ってくれるだけでいいんだ……

「ちょっと……二人とも一旦離れてくれ……この、ヤバそうな液体をこぼしそうだ……」

悲鳴を上げそうな痛みに耐えながら、絞り出した声は二人に届かなかったようで、二人は「ぐぬぬぬ」なんて言いながら、左右から僕に抱きついて肘を押し合ったまま離れない。

その時、不意にリサが引き剥がされるように僕から離れると、僕の膝に向かい合わせに座ってきたリゼに、リナも突き放された。リゼは僕の手からグラスを取ると、「主様、これを読め……」と言って一冊の冊子を手渡した。

見ると、『密着!ぴより野二十四時』のタイトルと『ぴより野今昔物語』と『特集!ぴより野商店街散策!』の目立つ文字。「へー、まともな特集もやるんだな……」とつぶやいて、特集記事を開いてみる。

『ぴより野今昔物語』は写真がメインだが、浦島の爺さんの若い頃と今の写真が並んでいるだけ。コメントも爺さんの自慢話ばかりで、いったい誰得の記事なのかわからない。唯一、若い頃の爺さんがイケメンだったんだと知ることはできたが、知ったところでなんにも面白くない。

「なんだ、これ……」思わずこぼした僕に、リゼがくすくす笑いながら、「これは全部観光地の写真で、ぴより野すら関係ない」と教えてくれた。

言われてみると、写真の下に小さく『安芸の宮島』とか『沖縄のビーチ』とか書いてある……でも、何が面白いんだ?ただの爺さんの記念写真じゃないか……まあ、リゼは笑ってるし、ウケる人もいるのだろう。

とりあえず、期待せずに次の特集を見ると、こっちは意外とまともだった。いろんなお店の紹介だけでなく、商品紹介や店主のコメントなんかもあって、読み入ってしまった。まあ、幼い頃から通い慣れた商店街だし、今さら感はあるけど、こうやって読んでみると面白かったりする。

「こんな記事が書けるなら、さっきの爺さんの記念写真はいらないだろ……」とぶつぶつ言いながらページをめくる僕の手が、ウオノメ鮮魚店の写真で止まった。眼鏡を押し上げてよく見てみると、冷蔵ショーケースの端に『結衣ちゃんファンクラブ入会受付本部』と手書きの紙が張ってある。

まさかと思い、広告のページを開いたら、『結衣ちゃんファンクラブ会員募集!』の文字を見つけた。ゴードンには念を押したはずだったのにとため息をついて、広告を見ると非常に見覚えのある三人の写真が目線入りで載っている。

「おい、これ……どういうことだ……」と順番に三人を見ると、全員が目をそらしたが、今さら三人を責めてもどうしようもない……せめて結衣ちゃんの日常を脅かすようなことが書いてないか確認しようと、広告をくまなく読んでみることにした。

『結衣ちゃんファンクラブのおかげで肩こりが改善しました。おかげで今ではマスターに胸を揉まれても平気です・Rさん(Gカップ)』

どう見てもリサの写真に添えられたコメント……僕が日常的に胸を揉んでるみたいじゃないか、たしかに一回鷲掴みにしたことはあるけど、あれは事故みたいなもんだ。

リサに視線を向けると、恥ずかしそうに両腕で胸を隠した。いや、何もしないからさ。それよりもだ、ファンクラブのおかげで肩こり改善とか言っちゃうと、いろんな所から怒られるんじゃないか?

『結衣ちゃんファンクラブに入ってから、なぜか運が向いてきて、ケチンボ親方からもらう小遣いで億万長者になれそうな気がするぜ・Rさん(Dカップ)』

リナ……億万長者になれそうな気がするだけで、これじゃ、なんにもいいことは起こってないだろ……とりあえずケチンボなんて言われるのは癪だから、リナの小遣いを増やそう……もしかして、小遣いアップが目当てだったのか?もしそうならあざとすぎるだろ……

『大好きな主様のファーストキスを奪えたおかげで、我の念願だった闇の盟約の儀式が成立した……しかし、主様の口は臭かった・Rさん(Aカップ)』

リゼのコメントなんてファンクラブ全然関係ないし……僕の悪口じゃないか。僕の口は臭いのか……二十五歳にもなると口臭がきつくなるのだろうか……でも、こんなふうに発表することじゃないだろ……不意打ちとはいえ、リゼにキスされてちょっと浮かれていた自分が恥ずかしい。

あまりのショックに悲しくなって肩を落とした僕に、リゼがそっとコップを手渡してくれた。「ありがとう」と礼を伝え、乾いた喉に一気に流し込むと、ビールのシュワシュワ感が、僕を慰めてくれるようだ。でも、この悲しさの原因はリゼなんだよな……

突然、「おい!親方!」と響いたリナの声に振り向くと、彼女は僕が手に持っているコップを指差している。コップを見ると何か歪んでるし、膝に座るリゼが妙に色っぽい……


「離れろ……エロ眼鏡……」

急に抱きついてきた大智から必死に逃れようとするリゼの声が居間に響く。

「おい、リサ。親方に何を飲ませたんだ?」と呆れるリナに、大智をリゼから引き離そうとしているリサが、「ミナギル君のミナギルエキスを濃縮した、ミナギル君Zです」と答えたのを聞いて、リナはため息をついた。

「お前らが悪いんだろ、あたいはもう知らないぜ」

「そんなこと言わずに、リナも手伝ってください」

「リゼー、僕の口、臭いのか?んー、違うだろ。悪いリゼには臭い口でチューしてベロベロなめちゃうぞー」

舌を伸ばす大智に「離せ、変態眼鏡……」と必死にもがいていたリゼがピタリと止まった。

「最悪……違うところがみなぎっている……」

青ざめたリゼを見て、リナは「にひひひ」と笑い、リサは「マスター、リゼではなく私にみなぎってください!」と大智の背中から抱きつく。

その時、「リサママー、どうしたの」と目をこすりながら、うさぎのぬいぐるみを抱いて居間に入ってきた結衣を見て、三人は青ざめる。リゼに抱きついて「リゼー、チュー」と迫る大智を見て、結衣も青ざめる。

慌てたリナが「結衣、見ちゃダメだ。あたいが一緒に寝るから行こうな」と結衣の手を引いて居間を後にし、リサとリゼは人体実験の結果、とんでもない変態と化した大智が眠るまで騒ぎ続けて、夜は更けていった。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。

隔週土曜日投稿予定。よければブックマーク・評価のひと手間を。誤字は各話末の『誤字報告』からお願いします。

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