呪いの効果と買い物デート
目が覚めると布団の中がやけに暑くて、僕は汗だくになっていた。「そろそろ掛け布団はいらないかな」とつぶやきながら、枕元の眼鏡を取ろうと手を伸ばしたとき、何かが手に触れたような気がした。違和感を覚えて眼鏡をかけてみると、布団にもぐり込んだリナがすぐ横で寝息を立てている。
「おい、リナ……」と声をかけ肩に手をかけたところで、その感触に思わず手を引いてしまった。こいつ、服を着ていない……
そういえば、リサが僕の部屋に侵入するのを防ぐために、透明になっているって言ってたし、そのためには服を全部脱ぐ必要があるとも言っていた。でも今は普通に見えている。これは布団をめくるとまずいことになるんじゃないのか?
このままリナをそっとしておいて布団から抜け出そう、ゆっくり這いずり出ていたら、リナに「親方!」と呼ばれた。まずい、起きたのか?……彼女を見ると、突然僕に抱きついてきて布団へと引きずり戻された。
密着しているところがいろいろ柔らかいし、リナが服を着ていないことは間違いなさそうだ。全裸の女性に抱きつかれるなんて、初めての経験だが、リナの場合そんなことを喜んでいる場合じゃない。彼女を起こさないように、何とか抜け出そうと体を動かすと、僕を抱きしめるリナの腕にじわじわと力が入り、僕の体は締め上げられていく……なぜ、こいつは僕に抱きつくと鯖折りをかましてくるんだ?
ミシミシッと腰がきしむような痛みに思わず悲鳴を上げそうになるが、この状況でリナが目を覚ますと、きっと鯖折りでは済まないだろう。それに、リサにこの状況を見られたら、便乗してくるか、銃で撃たれる。リゼに見られたら一生変態呼ばわりされるのは確定だ。
僕は歯を食いしばり、リナから解放されるまで耐えるしかないのか?そのとき、彼女の笑いのツボをとらえた言葉「振り袖怪人・ザマス」と呟いてみたら、「にひひひ……」と笑って解放された。怪人ザマス……恐るべし……
何とかリナから逃れた僕は、彼女を起こさないように忍び足で部屋を出て、洗面所に向かう。とりあえずリナが全裸で抱きついてきたことは黙っておこう。それがお互いのためでもあるし、何より、女性の失態を墓場まで胸にしまっておくのは大人の男の嗜みだろう。
「まったく、朝からひどい目に遭った……」とこぼしながら洗面所の扉を開けると、パジャマのままのリゼが、鏡の前で髪の毛を整えていた。リゼは寝癖がひどいんだな、なんて思いながら、「リゼ、おはよう」と声をかけると、振り向いた彼女は僕を見て固まった。
「どうしたんだ、リゼ」僕が声をかけると彼女は、「変態エロ眼鏡……ついに我の部屋にノックもなく侵入とは……」と言って、怪訝な表情で僕を睨みつけてきた。
「いや、ここは洗面所だろ?」
「我が使っている部屋は、我の部屋も同然……」
「悪かったよ。でも僕も準備したいんだ」
そう言って、リゼの後ろからのぞき込んだ鏡に、何か違和感を覚えて、まじまじと見つめる。あっ、リゼの眼帯がない。眼帯を外したリゼを見るのは初めてで、いつもと違う雰囲気のかわいさ全開で、とてもいいと思う。
「眼帯を外したリゼもかわいいな。僕はそっちのほうが好きだよ」
女性は褒められるとさらに美しさを増すと聞いたことがあるから、リゼの場合はかわいさが増すのかな。
大人な僕の対応に、鏡の中のリゼはみるみる顔を紅潮させていく。嬉しかったのかなって思ったところで、振り向いたリゼにゴンッといきなりグーで殴られた。
驚いてリゼを見る僕を、彼女は「主様のバカ!」と怒鳴って、頬を膨らませて、洗面所を出ていってしまった。大きな音を立てて閉じられた扉を見つめたまま、僕は殴られた頬をさすりながら、「いったい……なんだったんだ?」と首を傾げた。
身支度を整えた僕は、洗面所を後にする。今日は朝からいろいろあったから、もしかすると、リサがもう朝食の準備を終わらせているかもしれないと考えながら、台所へと向かう。
「おはよう」台所に立つリサに声をかけると、彼女は振り向いて「おはようございます。マスター」とにこりと微笑んでくれる。リサの笑顔に朝から災難続きの僕は癒やされる。彼女の難のある行動さえなければなと、小さくため息をつき、「手伝うよ」と声をかけた僕を、リサが小首を傾げて見つめてきた。
「マスター、左のほっぺたが赤くなっていますが、何かあったのですか?」
僕は「いや……」とこぼしながら、リサに言われた頬を触ってみる。ちょっと温かいのは腫れているからだろうか。
「洗面所でリゼに会ったんだけどさ、眼帯をしていないリゼを見たのが初めてで、かわいかったから褒めたら、殴られた」
「なるほど、それで、眼鏡が傾いて変態さに磨きがかかったわけですね」
「変態さってなんだよ……」
「そんな変態マスターは、眼帯を外していたリゼを見て、なにか気づきませんでしたか?」
人を変態を極めたやつみたいに呼んだリサは、含んだような笑顔で僕を見ているが、かわいい以外に気づいたことはなかった。「いや……特には」と答えると、彼女は「ぷっ」と吹き出して口を押さえて肩を揺らしはじめた。
「さ、さすがは童貞マスタークオリティです。リゼはオッドアイなのですが、気づきませんでしたか……ぷぷぷっ」
人のことを童貞を極めたやつみたいに呼んだあとの笑い方に、なんか腹が立った。
「まったく、今日は目覚めにリナの鯖折りは食らうし、リゼには殴られるし、リサの笑顔だけが癒やしだと思っていたのに、間違いだったな」
褒めたわけじゃないのに、嬉しそうに微笑んだリサはいつもどおり、「そうでしょう、そうでしょう。ではさっそく……」と言いかけて、急に表情を曇らせた。
「マスター、リナに鯖折りを食らったとはどういうことですか?リナは私の侵入を防ぐという建前で、毎晩マスターの部屋を占拠する不届き者ですが、彼女は姿を消しているはずです。なぜリナが鯖折りをしたと分かるのですか?」
しまった。余計なことを言ってしまった……こうなったリサは一日中勘ぐってくる。
「い、いや、そうそう……僕が悪夢にうなされてたみたいで……そう、悪魔払いとか言って鯖折りをかましてきたような気がするな……」
口からでまかせとはいえ、子どもでも騙せないような理由を口にしてしまった。さすがに嘘だって分かるよな。引きつった笑顔でリサを見ると、顎に手を置いて難しい顔で僕を見ていた。
「そうですか……マスターが悪夢にうなされるのは、私が呪っているからなので心配しないでください。なるほど、あの本に書いてあった呪いは効果があるようですね……」
いったいリサは僕をどうするつもりなんだ?そんなことを僕にばらしていいのだろうか?
「そういえば、マスター。今日はお休みでしたね。お弁当はいらないのでしょうか?」
「弁当はいらないけど、休みじゃないよ。ここのところ忙しかったから、放置している道具を整理したり掃除したりする予定なんだ」
「そうですか、それはよかったです。一緒に買い物に行きましょう」
こいつ、人の話を聞いていたのか?でも買い物なんて最近まったく行かなくなったな。
「商店街の皆さんもマスターのことを気にかけています。ぜひ、変わらず変態であることを見せてあげてください」
「なあ、リサ……もう少し、言い方はないのか?」
「エロ眼鏡……見つけた……」ふいに聞こえた声に振り返ると、いつもどおり眼帯をして腕には包帯を巻き、ゴスロリに着替えたリゼが恨めしそうな目で僕を見ていた。
「我の秘密を知ってしまったな……責任取ってもらう……」
「責任ってなんだよ。でも、僕は眼帯を外したリゼのほうが好きだけどな」
「好きというのは……結婚したいという意味だな……」
リゼ……なんでそうなるんだ?だいたい洗面所に行ったとき、リゼは髪を整えていただけだろ?
「リゼはかわいいけどさ、結婚するのは違うだろ?」
「我の唇を奪っておいて言い逃れするとは……」
それを言うなら、リゼが不意打ちでキスしてきただけじゃないか……これは反論しても、言い返されるのが目に見えている。リサを見ると、ニコニコしているが、その瞳には怒りが見て取れる。いったい何でこうなったんだ?
「親方!」突然聞こえたリナの大声に振り向くと、バスタオルを巻いたリナが顔を真っ赤にして僕を睨んでいた。
「ど、どうしたんだ……リナ……」言いよどむ僕の後ろから、「リナ、なぜ裸なのですか?」とリサが冷静に問いかける。
「親方、寝てたあたいのことを裸に剥いて、布団に引きずり込んだだろ!」
「はーっ!何言ってんだよ。勝手に布団にもぐり込んできたのはリナだろ?」
「あたいはそんなことしてないぞ!親方が裸にして、あたいを辱めたんだろ!」
「バ、バカを言うな!勝手に布団に入ってたから、そっと抜け出そうとしたのに、僕を捕まえて鯖折りしてきたのはリナだぞ!」
「エロ眼鏡……最低……」リゼは冷めた目で僕を睨みつけている。
「親方……責任を取れよ……あたいを女にしたんだ……」リナは頬を染めて流し目で僕を見つめている。
「僕は何もしてないぞ!だいたいなんだよ、みんなで責任責任って……」
言いかけた僕の言葉を、リサの「マスター……」という呼びかけが遮り、カチャっと冷たい金属音が響いた。
「私がマスターに夜這いをするのは許されないのに、リゼを裸にして同衾していたのですか?」
リサの問いかけに弁明しようと振り返ると、彼女が拳銃を僕の眉間に突きつけ、冷めた目で僕に微笑んでいる。
「ちょっとリサ……誤解だからさ……早まるな」
声をかけた僕に何も言わずに、リサはリゼに視線を向けた。
「リゼ、撃っても生き返らせますか?」
「案ずるなリサ……半分の確率で蘇生できる……安心してエロ眼鏡を撃て……」
おい、リゼ……その低さの安心で胸を張って僕を撃てとかどうかしてるだろ。
「リ、リサ……買い物に行くんだろ?撃ったら行けなくなるぞ……」
「たったそれだけで私が喜ぶとでも思っているのですか?」
これはリゼの半分の確率に望みを託すしかないのか……と覚悟を決めたとき、ペタペタとかわいい足音が聞こえてきた。
「あー!リサママーずるいー!それちょうだい!」かわいい声に全員が振り向くと、パジャマのままの結衣ちゃんがうさぎのぬいぐるみを抱いて、リサの拳銃をじっと見つめている。
「結衣姫……あれはエロ眼鏡を始末する道具……結衣姫は触っちゃダメ……」
リゼ、始末するとか、エロ眼鏡とか、結衣ちゃんに言ったらダメだろ……
「そうだぞ、結衣。あれは大人の女にしか使えないんだぜ」
リナ、何がそうだぞ、だか知らないが、大人になっても、男も女も使ったらダメなはずだぞ……
「結衣さん、朝ごはんはオムレツがあるんですよ。着替えてきてください」
リサ、あんなにキラキラした目で拳銃を見つめている結衣ちゃんに対して、代わりがオムレツって……
「あー!オムレツたべるー!」と、嬉しそうにうさぎのぬいぐるみを抱きしめる結衣ちゃん。意外とあっさり引き下がったな……でも、それはそうだよな、冷静に考えれば銃よりオムレツのほうが好きなのは当然だ。結衣ちゃんが普通の保育園児でよかった。
「さあ、結衣姫、我が着替えを手伝うから行こう……」
リゼに手を引かれて台所を後にした結衣ちゃんを見送ると、リサは黙って拳銃をスカートの中にしまった。
「リナ、服を着てください……だいたい、ヘタレのマスターがリナを裸に剥くなんてありえませんでした」
「そうか……たしかにそうだな。んー、言われてみれば、あたいが親方の布団にもぐり込んだような気もするな……親方の布団で裸だったから焦って早とちりしたぜ」
「そうだろ。僕は何もしてないし、無実だってずっと言ってるじゃないか」
ほっと胸を撫で下ろした僕の手をリサが取り、小首をかしげて微笑んだ。
「マスター、今日は私と買い物に行くんですね?」
さっき拳銃を突きつけたやつと楽しく買い物に行けるわけがないだろうと思い、「いや、仕事が……」と言いかけた僕に、リナが「親方、あたいがやっておくぜ。リサには迷惑をかけたからな」と胸を張った。
リナ、バスタオルが落ちそうになるから、仕事の話より着替えるのが先だろ。それに、リナが迷惑をかけたのは僕じゃないのか?
「裸のリナを拝んだことに違いありません。何もなしで許されるとでも思っているのですか?」
なんで僕がリサに許しを請わないといけないんだよ。「いや、拝んでもない……」と言いかけた僕の目の前で、「マスター、死にたいのですか?」とスカートを少したくし上げた。
「喜んでリサ様と買い物に行かせていただきます!」リサの前に直立不動で立つ僕は、なんてヘタレな男なんだ……
——半ば強制的にリサと買い物に行くことになったが、一緒に買い物に行くのは、何気に初めてかもしれない。リサたちが来てからというもの、毎日が濃すぎて覚えてないんだよな。
「まったく、マスターはリゼに甘いだけかと思っていたら、リナにも甘いのですから、困ったものです」
リサはずっとこの話を繰り返している。いったい僕から何を引き出すつもりなのだろうか?彼女のしたたかさを知っているだけにうかつなことは言えない。
「まったく、私はマスターの部屋に侵入大作戦が失敗続きで心を病んでいますのに、裸のリナに抱きつかれるなんて、私に対するあてつけですか?」
またこの話に戻った……そんな話をされても、励ましていいのか、諦めさせればいいのかわからないし、どちらであっても間違いなく言い返される。
「まったく、マスターは……」何度も同じ話を聞かされて飽きてきたから、「あのさ、リサ……」と話を遮ったら、リサは振り向いて「なんですか?私が話をしていますのに」と頬をふくらませた。
「どこに買い物に行くの?」僕のどうでもいい質問を聞くと、リサは再び歩きはじめた。
「まずは八百屋さんで、次が魚屋さんです。リゼが、野菜と魚は結衣さんのために欠かすなと言いますので」
へー、そうなんだ。リゼは結衣ちゃんのために、栄養管理もしっかりしているんだな。
「お肉屋さんは……結衣さんがお肉好きなので行きますけど……」
なぜか表情を曇らせたリサだけど、前から肉の三段腹の大将の扱いが雑だよな。
「いや、あの大将はいい人だろ?僕は小さい頃から知ってるけど、母さんもよくしてもらってたよ」
「マスター、行けば分かります。あの変態肉屋め」
なんだか僕以上にひどい言われようだな……
「リサちゃん、いらっしゃい。おや、今日は旦那さんと一緒じゃない」
そう言った八百五郎のおかみさんは、僕を見てニヤニヤしてる。リサもなぜか恥ずかしそうに微笑んでいる。もしかして、商店街でよからぬ噂が飛び交っているのではないだろうか?
「お久しぶりです……その、旦那さんとは……」と僕が言い終わる前に、リサの声が割り込んでくる。
「おかみさん、こんにちは。私はいつでも嫁げるのですが、ヘタレ……いえ、クソヘタレなマスターが怖気づいているのです」
いや……今のは言い直す必要があったのか?とリサを見ていたら、「ふふーん、そうかい」と含み笑いを浮かべたおかみさんが、僕の肩を両手でがっちり押さえて、顔を覗き込んできた。
「源屋さん、リサちゃんはいい嫁になるよ。結婚歴二十年の私が言うんだから間違いないよ」
「いや……僕はまだ結婚する気がないだけで……」
「なに言ってんのさ、そんなことを言ってると婚期を逃すよ。見てご覧よリサちゃんを、いい女だし気が利くし、毎日源屋さんの健康のことを思って、時間をかけていい野菜を選んで帰るんだ。こんな女、滅多にいないもんだよ」
怒涛のごとくまくしたてられると、何だかそれが正しいように思えるのが不思議だ。でも、僕が独身を貫くのには魔女っ子になるという明確な目的があるんだ。
「おかみさん、マスターにいくら言っても、のれんに腕押しです。リナやリゼは甘やかすのに、私にだけ厳しいのですから」
「源屋さん、ひどい男なんだね……」おかみさんは冷ややかな目で僕を睨んでいるけど、なんで僕がひどい男になるんだ?というか、話がよからぬ方向に進んでいるような気がしてきた。まずいと思い、「と、ところで……大将は?」と話を振ると、おかみさんは表情を曇らせて、深くため息をついた。
「あー、奥でテレビ観てるよ。若い頃は働き者だったのに、歳を取るたびに、足が痛いだの、腰が痛いだの文句ばっかり言って、朝の仕入れしかしないんだよ。源屋さん、あんな男になってリサちゃんを泣かすんじゃないよ」
そうか……大将の愚痴も理解できたが、おかみさんの中では、もう僕とリサの結婚が確定していることも理解できた。
「はい、気をつけます……」と肩を落とす僕の背中をパーンと叩いたおかみさんが、リサに微笑みかけた。
「リサちゃん、言質は取ったよ。後はリサちゃんの頑張り次第。さあ、いいお野菜をたくさん買っていってよ」
な、なんて商魂たくましいんだ……リサも嬉しそうに「はい」と言っておかみさんと野菜を選びはじめた。この商売上手さは、僕も見習わないといけないな。
大量に購入した野菜のかごを持ってリサの後ろを歩いていたら、「リサちゃん!」と声が聞こえてきた。
「おっ、今日は若夫婦じゃねえか。魚も食わなきゃ子どもできないってもんだ」
無視したい気持ちを振り切って視線を向けると、ウオノメ鮮魚店の大将が僕たちの方を見て、ニヤニヤしていた。やはりこの商店街では、僕とリサが結婚したことになっているんじゃないのか?
「あらっ、仲良し夫婦にしか見えないね」奥から出てきたおかみさんの声に、大将も「いや、まったくだ。もう夫婦でいいだろ。よし、そうしよう」と腕を組んでうなずいているが、何が『よし』で、何が『そうしよう』なんだよ。
「おかみさん、こんにちは」あいさつしながら魚屋に向かうリサに仕方なくついていくと、「源屋さん、久しぶりだな」と大将に声をかけられた。
「ご無沙汰してます。最近、リサに任せっきりで買い物に来ることがなくなって」
「おう、それでいいってもんだ。最近、源屋さんも忙しいみてえだし、夫婦は持ちつ持たれつ助け合わねえとな」
もう、夫婦って決めつけちゃってる大将に、「いや、夫婦ってわけじゃ……」と口ごもると、大将は怖い目で僕を睨んだ。
「なんだよ。こんなにいい女のリサちゃんに何か不満でもあんのか?そりゃお前、源屋さんの贅沢ってもんだ」
なぜ僕は魚屋で責められているのだろうか……と頭を抱える僕におかみさんも声をかけてきた。
「そうだよ源屋さん、リサちゃんに決めなよ、こんないい子のどこが不満なのさ?」
いや、機嫌を損ねると拳銃で命を奪いにくるからなんて言えるわけもないし、黙り込むしかなくなった。そんな僕を横目で見ながら、おかみさんはリサに何か耳打ちしている。それを聞いて何度もうなずくリサを見ていると、不安でしかない。
「源屋さん、女同士のああいう話は気にしちゃいけねえし、首を突っ込むのは野暮ってもんだ」
大将の忠告に、「そんなもんですか……」と呟くと、大将は腕組みしたまま「ああ、そんなもんだ」と僕を見て深くうなずいた。
「さあ、リサちゃん。今日は何を買ってくれるんだい」急に元気な声を上げたおかみさんに、リサは嬉しそうに笑った。
「いつもの干物と、マスターのおつまみにアジをお刺し身に捌いてください」
リサの注文に「よし、任せな」と大将は腕まくりをして、アジを一匹生け簀から掬うと、慣れた手つきで捌き始めた。まな板に集中しながらも「ほれ見ろ源屋さん、できた女じゃないか」と僕に話しかけてくる大将に、「ま、まあ、そうですね」と答えると、大将は僕を一瞥して「よし!」とつぶやいた。
向こうでは、おかみさんが新聞紙に包んだ干物を「はい、リサちゃん。頑張りなよ」とリサに手渡している。どうやらこの商店街では、僕の包囲網が形成されつつあるような気がしてきた。
肉の三段腹に入ると、「らっしゃい!」と威勢のいい声が聞こえ、大将が店の奥から出てきて、驚いたような表情で僕を見た。
「源屋さん。リサちゃんと買い物なんて珍しいじゃねえか」
「大将、元気そうでよかったです。リサに縛られてから変な世界に目覚めたんじゃないかと心配していました」
僕が大将を気遣う言葉をかけると、リサは頬を膨らませた。
「マスター、そのような言い方は心外です。あれは、ストーカー行為をしていた大将を捕まえる上で必要だったのですから」
「たしかに必要だったかもしれないけどさ、亀甲縛りにする必要はなかったと思うし、それに誤解だったんだろ」
僕の言葉を聞いて、大将は「源屋さん……」と目を潤ませた。
「あんた、本当にいいやつだな……先代なら悪乗りして、俺を散々バカにしているところだ」
わざとらしく泣き真似をする大将に、「私のマスターの優しさに感謝してください」と胸を張るリサを見た大将は、「ふんっ」と顔をそむけた。
「うるせえよ。源屋さんみたいな男前にリサちゃんはもったいねえ。そうだ、あの保育園の先生……三浦先生だよ。源屋さんにお似合いだと思うんだ」
「ストーカー大将が、いったいなんの寝言を言っているのですか?」
「リサちゃんは黙ってな。今は男同士で大事な話をしてんだよ」
そう言って、ショーケース越しに身を乗り出した大将が、口元を手で覆いながら僕にこそこそと話しかけてきた。
「なあ、源屋さん……うちのかみさんもな、若い頃はリサちゃんみたいに、みんなが羨むわがままボディのいい女だったんだ。それがな、結婚してから見てる間に肥えやがって、今じゃみんなが逃げ出す、わがままボディになっちまったよ。おまけに性格もわがままだ……源屋さん、惑わされちゃだめだ」
「この、変態肉屋……解体してショーケースに陳列します」
「ふんっ、リサちゃんより三浦先生のほうがよほど礼儀正しくて、おとなしい……ああ、そうだ。おとなしいし、きっと安全なはずだ」
大将、そこはビシッと言い切らないとまずいんじゃないのか?それに三浦先生が暴走したときの恐ろしさは身をもって体験済みだから、隠す必要なんてない。
「まあまあ、二人とも落ち着いて」僕が口を挟むと、リサはため息をついた。
「仕方がありません。マスターに免じて今日は大将を許してあげます」
それを聞いた大将は「別に許してくれなくてもいいよ」と言い放って、顔をそむけた。それに対して、「なんですって!」大将に迫るリサを僕は後ろから引き止める。
「だから、二人とも落ち着いて。リサ、肉を買って帰ろう」とリサをなだめると、彼女は「マスター、胸を揉んでます」と恥ずかしそうに上目遣いで僕を見た。
やってしまった……そんなつもりはなかった、ただの事故なのに、リサに火をつけてしまったかもしれない……
——帰り道、荷物をぜんぶスカートの中にしまったリサは、歩きながらご機嫌な様子で、僕の顔を見つめてきた。
「マスター、皆さんのアドバイスを受け入れて、私と結婚しましょう」
なんだか商店街で包囲網ができてるのかと思ったが、一人だけは違ったよな。
「いや、肉の三段腹の大将は反対みたいだったぞ」
「あの大将は、頭がおかしくなってしまったのです」
「そういうことを言うなよ」とリサに言ったところで、彼女は店に続く道から外れて歩いていく。僕が「リサ、どこに行くんだ?」と声をかけると、彼女は振り向いて「お花屋さんです」と微笑んだ。
そうか、リサは毎日、僕の両親と兄夫婦のために花を供えてくれているんだったな。いや……まずいぞ。花芯堂に行くと水無瀬さんがいるかもしれない。あの人、苦手なんだよな……思わず立ち止まった僕のもとまでリサが歩み寄って、「マスター、行きますよ」と手を引いて歩き始めた。
今日は水無瀬さんがお休みであることを願いつつ、リサに手を引かれて強制的に花芯堂の前まで来たところで、「大智くん」と背後から声をかけられた。なんでいつも後ろから登場するのかわからないが、あきらかに沈んだ声だったから嫌な予感しかしない。
「お久しぶりです、水無瀬さん」振り向いた僕が声をかけるが、水無瀬さんの視線は、リサにしっかりと握られた僕の手をとらえている。
「うふっ、大智くん。その女、毎日お花を買いに来るんだけど、どういう関係かな?」
まずい、リサが余計なことを言う前に、なんとかしなくてはと焦る僕を差し置いて、「こんにちは、お花屋さんのお姉さま」とリサが前に出てしまった。
「私はまごころ堂源屋に住み込みで働く、よくできた従業員のGカップのRさんです。ご存じありませんでしたか?」
「す、住み込み……大智くん、この女と一緒に住んでるの?」水無瀬さんの冷たい声にたじろぐ僕を差し置いて、リサは笑顔で水無瀬さんに向き合う。
「住み込みの意味をご存知ありませんか?おはようからおやすみまで私の生活はマスターの気分次第、いわば都合のいい女です。さっきは胸を鷲掴みにされて揉まれました。もうお嫁にいけません……」
恥ずかしがるように身体をくねらせるリサをよそ目に、水無瀬さんは静かながらも恐ろしい表情で、僕をじっと見ている。最悪だ……以前、水無瀬さんが僕にくれたお守りの呪いが発動して、今夜僕は死んでしまうのではないだろうか。——そうか、僕の人生はどっちにしても今日で終わってたんだ……せめて、死ぬ前におっぱいを揉みたかった。いや、事故とはいえさっき揉んだか……我が生涯に一片の悔い無し……
「許さない……絶対許さないんだから……」水無瀬さんがうつむいたまま近づいてきて、僕の手を両手で掴むと、「大智くん。一緒に死にましょう」とか言い出した。水無瀬さんは何を言い出すんだ……「いや……水無瀬さん落ち着いて……」なだめようと声をかけた僕を見て、彼女は寂しそうに微笑んで見上げた。
「私が殺してあげるから、ねっ」
「いや、ねっじゃなくて。落ち着きましょう……ねっ」
「そうです、落ち着いてください、お花屋さんのお姉さま。胸を揉みしだかれて、お嫁にいけなくなったのは私であって、お姉さまではありません」
なんでこの状況を見て、リサは火に油を注ぐようなことを言うんだ?
「リサ、ちょっと黙っててくれないか」と僕が言った直後、水無瀬さんが僕の手を強く握ってきた。
「うふっ、名前を呼び捨てする仲なんだ……」
「いや、そういう意味じゃないんです」
「じゃあ、私のことも薫子って呼んでくれる?呼べるよね。そういう意味じゃないなら、呼べるよね」
自分で言っておいて、そういう意味がどういう意味なのかさっぱりわからないが、義姉さんの友人を呼び捨てするなんて、僕にできるわけがない。
「薫子さん、マスターの代わりに私が呼んであげますから、安心してください」
リサ……本当に黙っていてくれないか……もしかして、リサは水無瀬さんのことを知っていて連れてきたんじゃないのか?本物の安心要素をよこせと声を大にしたいが、また水無瀬さんの何かのスイッチを踏んでしまいそうな気がして、声に出せないでいると、水無瀬さんは僕の手を離して、リサに向き合った。
「あなたが私の大智くんに手を出さなければよかっただけでしょ?」
「なにを言っているんですか?私はマスターに手を出していません。それと、あなたのマスターではなく、私のマスターです」
「私の大智くんなの。でも、よかった。じゃあ今後も出さないでくれるよね」
「もちろんです。私がマスターに出したのはパンツだけですから。よかったですね、薫子さん。もちろんマスターに求められればもっと凄いものを出します」
「リサさんでしたよね。うふっ、私の大智くんはあなたのパンツなんて見てないの」
「いいえ、目の前で見ました。なにせ私が見せたんですから間違いありません」
なんだかリサのパンツを僕が見たか見てないかで、二人の間に険悪な空気が漂い出した。恥ずかしさも相まって、逃げ出したい気分だが、二人を放置してここを立ち去ると何が起こるかわからない。
「私、大智くんにお守りプレゼントしたんだから、他の女が寄り付かない呪いのお守り……」
あーやっぱりあのお守りは、僕の身を案じたわけじゃなく呪われてたんだ……でも、考えようによっては身を案じてるのかな?
「どうやらその呪いは効果がありませんでしたね。私は毎夜呪いの儀式を行って、マスターに悪夢を見せているのです」
リサ、胸を張って言うことじゃないし、いったいなんの言い争いをしてるんだ?
パンツと呪いの応酬が続く中、どうしたものかと立ちすくんでいたら、ふいに「主様……」と呼ぶ声が聞こえた。助かった……リゼだ。振り向くと、白百合・コルサパレットに乗ったリゼが、「結衣姫のおもちゃの材料を買いに来たら、リサは大声を上げて何をしている」と言ってこっちを見ている。
「リゼ、なんかあの二人が大変なことになってきたんだ。何とかできないか?」
リゼはリサと水無瀬さんを一瞥すると、「我に任せよ」と言って白百合・コルサパレットから降り、何かを探し始めた。
何かの準備をしているリゼを待っている間、僕は一触即発のリサと水無瀬さんを、何事も起こらないよう祈りながら見ていたら、リゼが「主様……まずは我に求婚せよ……」とか言ってきた。「今、そんな話をしている場合じゃないだろ」と応じた僕に、彼女は「我の唇を奪い、秘密を知ってなお……」と怒り出したが、本気で今はリゼと遊んでいる場合ではない。リサと水無瀬さんがこれ以上揉めるようなら、止めなければ……
その時、突然、リゼが後ろからかけてきたロープで、僕の体は縛り上げられた。そのロープの端を手に持ったリゼが、白百合・コルサパレットの前に立つと、車体にロープをくくり始めた。
いったいなにをするのかと不安な気持ちで見ている僕の前で、リゼは白百合・コルサパレットに乗り込み、「我とデートに連れて行く……」と呟いてにこりと微笑んだ。
「リサとそこの女……主様は我の主様……貴様らの争いは無意味だと思い知れ。主様は我が貰っていく……」と珍しく大きな声を出し、リゼはコクピットを閉めた。おい、まさか……急発進した白百合・コルサパレットに引き倒された僕は、そのまま道路を引きずられる。
「マスター!」
「大智くん!」
大声を上げてリサと水無瀬さんが追いかけてくるが、追いつけるはずがない。体があちこちを擦りつけたり、ぶつけたりしながら、ズザザザーッと道路を滑走し、無事に店に帰り着いた。
引きずられたせいで、体のあちこちを怪我した僕を、うれしそうに治療してくれるリゼ……これが彼女の言う『デート』だったのか……傷口を診る彼女の表情を見て、身にしみて思い知った。——一番怒らせてはいけないのは、リゼなんだと。
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