パンツの色としびれる男
「結衣ちゃん、忘れ物はないかな?」
チャイルドシートの結衣ちゃんに声をかけると、右手を上げて「ないー!」と元気に答えてくれる。僕は結衣ちゃんのシートベルトとヘルメットをもう一度指差し確認してから「よし!」と一声かけた。チャイルドシートにちょこんと座って、僕をじっと見ていた結衣ちゃんに、思わず微笑むと、バッカル三号にまたがり、指で眼鏡を押し上げて、ハンドルをしっかりと握る。
「じゃあ、保育園に行きますかー!」
「いきますかー!」
いつもどおり、僕の掛け声に続く結衣ちゃんの声を合図に、軽快に走り出したバッカル三号は、今日も平和なぴより野町を駆け抜けて保育園へ向かう。
「結衣ちゃん、遠足どうするか決まった?」
途中、僕はすっかり忘れてた遠足のことを、ごきげんな結衣ちゃんに聞いてみたら、「いくのー!」と元気な声が返ってきた。
「行くのは知ってるよ、誰と行くのか決まった?」
「リサママー!」
そうか……リサか。やっぱりか……リサはいつもあんな感じだけど、何かあると結衣ちゃんはリサを頼るからな。ま、まあ……僕が行かなくて済むなら良かったよ。その日はすごく仕事を頑張る予定だし。
「そうか、じゃあリサにお願いしないとね」
「うん!リサママにおべんとうもおねがいするのー」
結衣ちゃんの元気な返事が、僕の繊細な心を容赦なくへし折る……寂しいんじゃない……でも、ほんのちょっとだけは寂しかったかも。
思いのほか心に深い傷を負った僕に届いた「おじちゃんは?」と、少し不安げに問いかける結衣ちゃんの声が、折れて倒れていた僕の心を叩き起こした。「僕も遠足に行っていいの?」と遠慮がちに聞いてみたら、「いくのー!さんにんでえんそくー!」と結衣ちゃんは声を弾ませ、その声が僕の心を弾ませて、心なしかバッカル三号のスピードも上がった。
「あっ、源屋さん……」どこからともなく聞こえた声に顔を向けると、メランコリックのマスターがいつの間にか自転車で並走していた。相変わらず存在を消すのがうまい。——いや、存在を現すのが下手なのか?
「おはようございます。どうしたんですか?こんな早くに」
僕が話しかけると、マスターは「これ」と言って、右腕につけたピンクの腕章を指差した。あー、結衣様親衛隊の活動か……
「パトロールでしたか。夜遅くまで営業して、朝からパトロールは疲れるんじゃないですか?」
「そうなんだけどさ……やらないと忠太郎さんがうるさいし……夕方のパトロールに行くと、すずちゃんが店のケーキ、勝手に食べちゃうし……」
もう僕はマスターになんと声をかければいいかすら分からない。しばらく黙ったまま並走していたら気まずくなってきた……何かネタはないか……
「あっ、そうだ。先日、リサがケーキをご馳走になったって言ってました。ありがとうございます」
「ケーキ!リサママ、ケーキたべたの?」突然、結衣ちゃんの声が会話を遮った。さらに「んー、リサママずるいー!」とチャイルドシートを揺らす。
「結衣ちゃんも源屋さんと一緒においでよ。ケーキご馳走するから」そう言って、穏やかな表情で目を細めるマスターを見ると、意外と子ども好きなんじゃないかと思う。「ほんとー?」結衣ちゃんの弾む声に、「本当だよ」とマスターが微笑んだ……微笑んだのだろうか?なんか口元が引きつっただけのようにも見えた。
「いいんですか?リサもご馳走になったのに」
「いいよ。どうせ、すずちゃんに食べられるんだし……」
かすれて消えたマスターの声が悲壮感を滲ませる。あの子、どれだけ店のケーキを勝手に食ってるんだろう?
「じゃあ、僕こっちだから……」そう言って方向を変えたマスターに「あっ、お気をつけて……」と声をかけたが、なぜだろう、あの人を放っておくことに罪悪感を覚えた。
結衣様親衛隊のパトロールのおかげかわからないが、いつもどおり保育園に到着した。パトロールがなかった頃から問題なく着いてはいたが、今日はパトロールのおかげだとしておこう。そうしないと、メランコリックのマスターが夢に出てきそうで、なんか怖い。
ママチャリで走り去るメランコリックのマスターの物悲しい後ろ姿が、目に焼き付いたのか、無事に着いたことへの感謝より、マスターがいろいろと大丈夫なのか気になって仕方がない。不思議と保育室に向かう僕の足取りも重くなる……
「おじさん!」保育室に入ると、余計なお世話で沈み込んでいた僕に、明るい声が届いた。その声の主を見た結衣ちゃんが、「まことせんせー!おはよーございます」と笑顔で挨拶すると、肩にかけているかばんも一緒に揺れて、尊いほどのかわいさを振りまく。
「はい、結衣ちゃん、おはようございます」結衣ちゃんに挨拶をした三浦先生は、荷物を棚にしまっている僕に「親子遠足の回答、今日までですよ」と話しかけてきた。回答は今週中だと勘違いしてた……さっき聞いておいてよかったな。
「そうでしたね、参加します」僕が勘違いしていたことなど微塵も感じさせない余裕の口調で答えると、結衣ちゃんは「リサママといくのー!」と三浦先生の足にしがみついて嬉しそうに笑う。
「えっ、リサさんが来るんですか?おじさんは?」
「もちろん、僕も行きますよ。リサだけだと……なにを仕出かすかわからないので……」
「私は?」——私?私って三浦先生のことかな?なぜそれを僕が答えないといけないんだろうか?
「えっと……先生は引率だから、絶対行くんじゃないですか?」
「そうですね……そうじゃないけど、そうですね……」
ぶつぶつとつぶやくように言った三浦先生は、膝を落として結衣ちゃんに目線を合わせると、「ねえ、結衣ちゃん」と微笑みかけた。かわいらしく小首を傾げた結衣ちゃんの頭を撫でると、「先生も、おじさんの家族として遠足に行ってもいいんだよ。おじさんにそう言っておいてくれない?」と言って僕を一瞥した。三浦先生はいったい結衣ちゃんに何をさせる気なのだろうか。彼女をまっすぐに見て「うん!」と答えた結衣ちゃんのかわいくて無邪気な返事が、大人の汚さをいっそう際立たせる。
「あの、全部聞こえてるんですけど……どうしたんですか?」
「おじさん、私にプロポーズしたくせに、最近冷たいんじゃないですか?」
——何を言ってるんだこの人は?だいたい僕は三浦先生だけでなく、誰にもプロポーズどころか告白すらしたことのない、鉄の心を持つ男なんだぞ。まあいい、結衣ちゃんのお着替えも片付け終わったし、面倒なことに巻き込まれないうちに帰ろう。
「では、よろしくお願いします」と声をかけ、保育室を出ようとしたところ、三浦先生が「園長先生が職員室に寄って欲しいって言ってましたよ」と、とても面倒そうなことを教えてくれた。
「おはようございます」職員室の受付窓口から声をかけると、書類に目を通していた先生が振り向いて「おはようございます。どうかなさいましたか?」と窓口まで出てきてくれた。
「園長先生が御用があると聞いたんですけど」
「あっ、ちょっと待ってください」
先生が職員室の奥の園長室に向かい、扉を開けて声をかけると、すぐに「大ちゃーん。待ってたわよー」と百貫デブのひげ面が、見事な腹をゆさゆさと揺らし、ニコニコしながら出てきた。
「何か用があると三浦先生に聞いたんですけど」
「そうなのよー。園舎の裏の木の枝を少し払ってほしくって。ついでに少し草も刈ってくれないかしら?」
「ありがとうございます。先に見積もりをしたほうがいいですか?」問いかけた僕に、「いいわよー、全部あたしの体で払うから。んふっ」とサングラスの奥の瞳から、色目らしき気持ち悪い視線を放ってきた。すばやく防御姿勢を取り、視線を防ぎ「作業はいつがいいですか?」と問いかけると、園長先生は「そうねー……」と首を傾げる。
「枝は道路にはみだしちゃってるし、早いほうがいいわ」
「では、今日お伺いしましょうか?」
「あらっ、嬉しいわー。頼りになる男は大好物よ」
園長先生が胸の前で手を組んで、ウインクを飛ばしてきた。とっさに身を躱した僕に向かって、今度は投げキッスを飛ばしてきた。まずい……僕は身体を大きくひねり、園長先生の不吉な大好物コンボ技を間一髪で避けた。
「み、店に電話してくれればよかったのに」
「もちろんしたわよー。何回も……でも、いつもパンツの色を教えてくれるだけで切れちゃうの」
「パンツ……ですか?」僕は思わずため息を漏らしてしまった……「そうよ、昨日は白って言ってたわ」
園長先生にパンツの色を教える……そんなことをするやつは、一人しか思い当たらない。
「ちょっとかけてみます」と、僕はスマホを取り出して、店に電話をかけてみる。ワンコールでつながった電話からはリサの声が聞こえてきた。
『お電話ありがとうございます。まごころ堂源屋のアイドル、リサです』
「なに言ってんのリサ……アイドルってなんだよ」
『マスターではありませんか。私が恋しくなったのでしたら、早く帰ってきてください。それとも、まごころ堂源屋の若奥様のほうがお好みでしたか?』
「いや、アイドルでいいよ……それより、園長先生が店に電話すると、パンツの色だけ言って電話が切れるって言ってたんだけど」
『なにを言っているのですか?そんなことあるわけないじゃありませんか』
「そう……ならいいけどさ……もう少ししたら戻るけど、保育園で仕事をもらったから、リナに枝打ちと草刈りの道具をまごころ源号に積んでおくように伝えてくれないかな」
『分かりました。お仕事が入ったのですね』少しつまらなそうなリサに、「ああ、じゃあ、頼むね」と言って、しばらくスマホの画面を見つめてから電話を切った。
前に教えたとおり、僕が通話を切るまで電話はつながったままだった。アイドル以外は余計なことを言っていないし……スマホの画面を見つめたまま首を傾げる僕を見て、園長先生が「どうだった?」と顔を近づけてきた。さり気なく躱しながら、「いや、普通に出ました」と答えたが、なにか違和感が残る。
ちょっと待て……店の電話には僕のスマホの番号が登録してある。それなのに、リサは気づかなかったかのような口ぶりで電話に出た。どうでもいいことにまで気がつくリサが、表示された僕の番号に気づかないはずがない。もしかして……僕の胸に嫌な予感がよぎる。
僕が「園長先生、保育園の電話を貸してもらえませんか?」と頼むと、園長先生は「いいわよ」と言って一台の電話を指差した。「ありがとうございます」お礼もそこそこに受話器を手に取り、店に電話をかけると、さっきと同じようにワンコールでつながった。
『おっはよー!まごころ堂源屋の看板娘GカップのRさんよ。今日は紫のパ・ン・ツ……レースがふりふりなのー』
一方的にパンツの色を聞かせただけで、電話はガチャッと切れた。リサ……何やってんだよ……もう僕はため息すら出なかった。
「園長先生、すみませんでした……本当にパンツの色だけ言って切れました……」
「そうでしょー。あのミニコミ誌が出てからRさんは噂の的だし、源屋さんのことも話に聞くわ。注意しておいたほうがいいわよ」
「そうします……教えていただいて、ありがとうございました。では、後ほどお伺いしますので……」
「頼んだわよ、大ちゃん」と言いながら、腹をなびかせくるっと回った園長先生から、ひげ面のウインクと投げキッスが容赦なく放たれた。急いで帰ることしか頭になかった僕は、巨体の思わぬ身軽さと、揺れる腹に気を取られてしまい、躱すことができなかった。
——チリンチリンと軽やかな音色を奏でるまごころ堂源屋の扉を開け、僕は店内を見回した。リサはいつもどおり、カウンターの電話の前に陣取っている。僕を見たリナが「おっ、親方!準備できてるぞ」と声をかけてきたが、ただ静かに小さくうなずき、黙ったままリサの元へ歩み寄る。
「リサ、紫色のパンツってなんなんだ?」僕の問いかけに、リサは頬を染めて「なぜマスターが私のパンツの色を知っているのですか?」と流し目を送ってきた。
「さっき電話で聞いたからだよ」と声を大きくした僕を見て、リサは目を見開いた。
「まさか……私のパンツの色を知りたいばかりに、偽りの電話をかけてきたのですか?」
リサは両手で顔を覆うと、体をくねらせはじめ、指の隙間からチラチラと僕に視線を送ってくる。
「そうじゃない、なぜ店の電話であんなことしてるのか聞いたんだ」
「そうですか、そうですか。マスターが一言おっしゃれば、お見せしますのに……でも、そんな初心なところも素敵です」
こいつ……人の話を聞いているのか?呆れる僕に、作業机に座っているリゼが「主様、我が教えてやろう」と声をかけてきた。
「あのミニコミ誌が出回ってから、店にはGカップのRさんのパンツが何色か問い合わせる電話が毎日かかってきている」
なんだよ、その相当古い類のいたずら電話は……まあ、事情は理解したが、そのいたずらに対する今の対応は間違っているだろ。
「だからって、かかってきた電話全部に言う必要もないし、そもそも聞かれたからといって教えることじゃないだろ……」
「違います、マスター!」と店内に響いた声を聞き振り向くと、リサが開いた通帳を掲げて見せていた。
「パンツの色を教えると、店の口座に『パンツノゲンサン』という方から、毎回二千円が振り込まれるのです」
パンツの源さん……いや、まさかな……おっと、余計な詮索をしている場合ではない。
「仮にそうだとしてもダメだ!」と注意すると、「仮じゃなくて事実です!」と言い返したリサに、僕は心を鬼にして「それでもダメだ!」と厳しく叱った。
「もしかして……嫉妬ですか?かわいいマスターです。わかりました、次からはマスターだけに教えることにします」
もうダメなのは僕のほうだ……一気に全身の力が抜けるような感覚に見舞われ、リサの件は諦めることにした。僕には手に余る相手だった……
「リゼ、頼みがある」僕が両手をリゼの肩にかけると、彼女は「うむ、述べてみよ」と言って左目を細めた。
「今日から、店の電話番はリゼにやってもらいたい」
「任せよ……電話をかけてきたやつを、残らず闇の深淵に葬り去ってみせる……」
リサよりやばいやつに、僕は電話番を任せてしまったかもしれない……いや、きっと大丈夫だろう、見た目は痛い子だがリゼは真面目だし。
「待ってください、マスター。私はどうすればいいのですか?ずっとマスターに抱っこしてもらえるってことですか?」
「そんなわけないだろ。リサは修理に専念してくれたらいい、一部のお客さんには評判だからな。だいたい、パンツの色だけ言われて電話が切れたとか、朝から言われた僕の身にもなってみろよ」
「えーんえーん」——はあ……リサの嘘泣きが始まった。これが始まると、僕にはろくなことが起こらない……
「これというのも、マスターの甲斐性がないからなんです……私も恥ずかしかったのに……マスターの稼ぎが少ないから、目先のお金に目がくらんだんです……えーんえーん」
「親方、ギルティだぞ」リナの冷たい視線に、僕が目をそらすと、今度はリゼが「うむ、我もそう思う……悪いのは主様であるのに、リサを泣かせた……」と目を伏せて首を小さく横に振った。なんなんだ、いったい……僕が悪いことになってしまったのか?だけど、リサの言ったことが事実なら、謝らないといけない……
「ちょ、ちょっと待ってくれ、リサ、そんなに家計が厳しいのか?」
「えーんえーん、貯金は増える一方なんです……でも、結衣さんをお医者さんにするためにはお金がいるって、リゼに脅されたんです」
「うむ……間違いない……金はいくらあっても足りない……リサは結衣姫の将来のために恥をしのんだ……」
「そうだぞ、親方。リサだって結衣のために頑張ったんだ。リサに謝れ」
ちょっと待て……それなら悪いのはリゼなんじゃないか?リナはともかく、なぜリサを脅したリゼにまで僕が責められているんだ?
「なんでだよ……」思わず声を漏らした僕に、「主様が悪いからに決まっている……」とリゼは追い打ちをかけ、「親方、さっさとリサに謝れ」とリナには急かされ、リサは「えーんえーん」と嘘泣きを続けている……
なぜだろう、体の力が抜けて、「僕だって……僕だって……」とつぶやきながら膝から崩れ落ちてしまった。
「リサの電話のせいで、園長先生のウインクと投げキッスをまともに喰らったんだよ!」そう叫んだ僕の悔し涙が、両手を叩きつけた床を濡らした……
——リナに肩を支えられ、とぼとぼと仕事に向かう大智を見送ったリゼが、小さくため息をついた。
「我と唇を重ねし闇の支配者たる主様がかわいそうになった……」
「ふんっ、いいんです。私より先にリゼとキスをするからですよ」
リサは頬をふくらませ、リゼを睨みつけるが、リゼは構うことなく、大智が出ていった扉をずっと見つめ続けている。
「我は主様と肌を重ね、慰めるべきではないだろうか……それも下僕たる使命……」
「リゼ、一線を超えたら……殺しますよ」
「分かっている……だがリサは作戦を変えたほうがいい……それと……」と言いかけたところで、リゼが両手に工作箱を抱えてリサに歩み寄った。「電話番を代われ……」
——気落ちしたまま保育園での作業を始めた大智だったが、仕事の大半が片付く頃には、すっかり調子を取り戻していた。
「おい、リナ。子どもたちが触ると危ないから、使い終わった道具はすぐに片付けてくれよ」
「わかったぞ、親方」いつもどおりの大智を見て、胸をなでおろしたリナは、言われたとおり使い終わった道具をまとめて抱え上げると、駐車場に停めてあるまごころ源号へ向かう。
——僕はリナが運び忘れたものがないか確認して、時計を見る。まごころ源号に積んだ枝や草を捨てに行って、店に戻ってから、バッカル三号で保育園に来ると、だいぶ遅くなってしまいそうだ。
「あー、今日は結衣ちゃんのお迎えは無理だな……」僕はスマホを取り出し、店に電話をかける。
『ふっ、我はまごころ堂源屋の下僕……AカップのRさん……我の唇を奪い、胸を揉みしだいたエロ眼鏡は留守にしている……』
なんだよエロ眼鏡って……最初は陰口だったのに、最近、面と向かって言うようになったよな。
「リゼ……わざとやってるだろ?」
『うむ、初めてが主様で、嬉しかっただけだ……』
もっと普通の表現はできないのか?それに、嬉しいなら、他の言いようもあると思うが、リゼなりのジョークだったんだろう。
「リサに代わってほしいんだけど」
『リサは主様を殺すとつぶやきながら、拳銃を手入れしていて忙しい……』
「とりあえず、代わってくれないかな?」
『しばし待て……』リゼの声の後に軽やかな保留音が流れる。しばらくすると、『私の仕事を奪ったマスターのくせに何の用ですか……』とあからさまに不機嫌ですとアピールするような声で、リサが電話に出た。
「リサに仕事を頼みたいんだ。結衣ちゃんのお迎えをお願いできないか?」
『任せてください!やはり、マスターは私のマスターです。きっと重大な任務を与えてくれると信じていました』
急に明るい声を出して信じていたとか……僕を殺すとか言ってたくせに、よく言うよ……
「じゃあ、頼んだよ」電話を切り、ため息をついたところで、三人の子どもがこっちに駆け寄ってくるのが目に入った。「あっ、こっちにきたら危ないよ」僕が声をかけると、子どもたちは足を止めて、興味深そうにこっちを見ている。
「おっちゃん、なにやってんだ?」声をかけてきた男の子に返事をしようとすると、「あー、このひとしってるー!ゆいちゃんのおじちゃんだー!」と一人の女の子が僕を指差した。僕は作業の手を止めて、どこかで見覚えのある子どもたちに歩み寄る。
「君たちは?」僕が問いかけると、男の子が「おれは、りくだ」と自分を指差し、「わたしは、すみれです」と女の子が丁寧にお辞儀をしてくれ、もう一人の女の子は「おじさま、こんにちは。わたくしは、えみかですわ」と流し目を送ってきた。まあ、最後の子は言動はさておき、この子たちは結衣ちゃんといつも一緒に遊んでいる子だから、見覚えがあったんだ。
「璃久くんと、スミレちゃんと、絵美花ちゃん……だね。いつも結衣ちゃんと仲良くしてくれてありがとう」
「いやですわ、おじさまったら。え・み・かとよんでくださいませ」と絵美花ちゃんは体を少し斜めにしてウインクをした。——なんなんだ、この妙に色っぽい保育園児は……
少し子どもたちと話をしていたら、道具を片付け終えたリナが戻ってきて、「何やってんだ親方?」と僕と子どもたちを交互に見る。
「いや、この子たち、いつも結衣ちゃんと遊んでくれてる子たちなんだよ。話を聞かせてもらってたんだ」
リナは僕の隣に立ち、「ふーん、そうか」と子どもたちを笑顔で見ると、膝を落として子どもたちに目線を合わせた。
「おっす、あたいはリナだ。よろしくな!」
「おー、ねえちゃんのふく、かっこいいな」
「うん、なんかかわってるね」
「わたくしは、たまにゆいちゃんをむかえにくる、おねえさまのほうがすてきだとおもいますわ」
僕が絵美花ちゃんに「リサかな?」と尋ねると、彼女は大きくうなずいたあと、なぜか頬を染めた。
「あのおねえさまが、『おんなはいろけです』とおしえてくださいました」
リサはよその子に何を教えてくれたんだ……僕は絵美花ちゃんの親御さんに謝罪をしなければならない気がしてきた……
「なあ、あのひと、おっちゃんのおよめさんなんだろ?」
このガキ……おっといけない、璃久くんは何を言い出すんだ。「いや、違うよ」きっぱり否定した僕に、スミレちゃんが「うそだー、だってゆいちゃんはリサママってよんでるもん」と言いながら指差してきた。
「おじさま、えみかなんてどうです?おねえさまより、とてもわかいですのよ」
この絵美花ちゃんは……まともに相手をするとリサより強敵かもしれない。
「えみかがおとなになったら、おっちゃんじじいだぜー」
「そうよ、リサママがおじちゃんのおよめさんだよー」
「違います!」ふいに聞こえた声が、リサの話で盛り上がっていた子どもたちを止めた。見ると、三浦先生が「三人とも、お昼寝の時間に抜け出したらいけません」とかわいい声で怒りながらこちらに歩いてくる。
「わー、まことせんせーがきたー!」と蜘蛛の子を散らすように逃げ去る子どもたちの背中に、三浦先生は「結衣ちゃんのおじさんのお嫁さんは先生です!」と声を上げた。——なに言ってんだこいつ?
「もうっ、お昼寝している結衣ちゃんに洗脳……お話を聞かせている隙に逃げ出すんだから……」
三浦先生はかわいく言ってみせたが、僕にはすでにぶりっ子の悪人にしか見えない。かわいいハリモグラがプリントされたエプロンをつけ、子どもたちを洗脳し手懐ける悪人だな。
「おっ、真琴いいぞ……あたいも真琴を応援するぜ!」
「えっ、リナさん本当ですか?」
ハリモグラのエプロンをつけた悪人に、つなぎを着たリナという強力な助っ人が現れたようだ……
「おじさん、結衣ちゃんの件でご相談したいことがあるんです」と言いながら、三浦先生が笑顔でエプロンのポケットからスタンガンを取り出した。
「親方、覚悟しろよ。あたいから逃げられると思うな」リナがじわじわと僕に近寄ってくる。——だめだ……完全に二人とも悪乗りしている。
「ストーップよ!真琴ちゃん先生!」突然聞こえた声に振り向くと、園長先生がティアドロップサングラスを光らせて、こっちを見ている。
「もうっ、真琴ちゃん先生ったら、大ちゃんが来ると人が変わっちゃうんだから……ゴメンね、大ちゃん」
園長先生は三浦先生の前に立つと、「真琴ちゃん先生、仕事に戻りなさい」と追い払ってくれた。——本当に助かった。あのスタンガンを喰らったゴードンと同じ目には遭うところだった……園舎に戻る三浦先生を見送った園長先生が、安堵する僕に振り向いた。
「真琴ちゃん先生には、あたしからも注意しておくから、大ちゃん気を悪くしないでね。ついでに、真琴ちゃん先生と結婚してくれると助かるわー」
なんで気を悪くしないついでに、僕が三浦先生との結婚を決めないといけないんだ?
——園長先生が去った後、刈り取った草や枝をかき集めていたら、「マスター!」と聞こえてきた声に手を止めて顔をあげる。
「おっ、リサ。結衣のお迎えか?」リナが声をかけると、リサはにこりと微笑んだが、僕が時計を見るとまだ迎えには早すぎる。「リサ、早すぎないか?」と問いかけた僕に、リサはかわいい犬のイラストが描かれた水筒を見せた。
「マスターがここでお仕事をしていると聞いたので、飲み物を持ってきました。それに……電話番はリゼに奪われてしまいましたから」
「あっ、そうだ。保育園の親子遠足だけどさ……」少し時間がありそうだから、朝、店で言いそびれた親子遠足の話を切り出したら、「親子遠足ですか?」と言って、リサは首を傾げた。
「そう、ぴより野中央公園に行くだけなんだけど、結衣ちゃんが僕とリサと三人で行きたいって」
「それなら、いつでも行けるじゃないですか」
そりゃ、いつでも行けるのは間違いないけど……リサには少し親子遠足の説明をしておいたほうがよさそうだな。
「そうじゃないんだよ。親子遠足って、みんなでどこかに行って楽しく過ごすだけじゃなくて、親子の絆を深めたり、友達同士や保護者同士で交流したり、ルールを学んだり、保護者も普段は見られない、子どもの成長を実感できる機会なんだ」
「なるほど……親子の絆が深まれば、夫婦の絆も深まる。結衣さんの成長を見たマスターは、必然的に自らも成長を求める……すなわち、その日の夜から私は床上手というわけですね。——行きましょう!」
何をどう考えたらそうなるんだ?いや、何をどう考えてもそうなることを称賛すべきなのか?納得したように見えたリサだったけど、また首を傾げて僕を見た。
「しかし、それなら保護者同士の交流は余計なのでは?」
「いや、そういうのも大事だと思うよ。実際、僕は挨拶程度しかしたことないし。それに……謝らないといけない相手もいるし」
「謝る?謝る相手でしたら目の前にいますが?」
「リサじゃない。絵美花ちゃんって子だよ。リサが『女は色気』とか教えたんだろ?」
「ああ、あの、ませガキ……んっん。失礼しました、あのクソガキですか」
——リサ、言い直したほうがひどくなかったか?もう少しオブラートに包むような表現はできないものだろうか。
「あの子はマスターのことが好きなんだそうです。それで、何を血迷ったか、マスターと結婚するにはどうしたらいいか、私に聞いてきたので、適当なことを教えてあげました」
「そういうことを、よその子に教えるなよ……話し方も仕草も、妙に色っぽくなってしまってるんだぞ」
子どもが年上の異性が好きなんてよくある話だろ。僕が幼いころもそんなこと言ってる女の子だっていたし……たしかにいた……いたけど僕自身が言われたことはなかった……落ち込む僕に「あの子、元からです」とリサの声が届いた。元から?どういう意味だと思って顔をあげると、リサは不思議そうに僕を見ていた。
「あの子、以前からマスターにウインクしたり、マスターを流し目で見たりしていました。気づいていなかったのですか?」
「いや、全く気づかなかった……」いつも窓際で結衣ちゃんと遊んでいるのは知っていたが、そうだったのか……やはり女性はそういうことに敏感なのだろうか?それとも、僕が鈍感なだけなのか?
真剣に考えていたら、「さすが童貞です」とか言ってきたリサに、「童貞は関係ないだろ」と反論したら、「さすが童貞だぜ」と横からリナにとどめを刺された。朝もそうだった……絶対に勝てる相手じゃない……
「あ、リサさん……何をしにきたんですか?」
再び三浦先生がやってきて、不機嫌そうにリサに声をかけた。この人は保育士の仕事をしなくていいのだろうか?
「結衣さんのお迎えです」
「へー、じゃあ、おじさんの仕事の邪魔をしないでください」
「あなたこそ、マスターの邪魔をしにきたのではありませんか?」
「私は少し落ち着いたので、子どもたちは他の先生にお任せして、おじさんをねぎらいに来たんです」
——いや、仕事をしろよ……と呆れていたら、リサが余裕の笑みを浮かべた。
「私は疲れたマスターを癒そうと、リゼと一緒に開発した疲労回復薬『シビレル君』を持ってきました。ねぎらいは私のほうが上手でしたね」
リサは、かわいい犬のイラストが入った水筒を自慢げに見せているが、本当にそれは疲労回復薬なのか?不思議だ、水筒に描かれた犬が苦しがっているように見えてきた。
「むむむ……」と悔しがる素振りを見せる三浦先生だが、さっきの会話のどこに悔しがる要素があったのか、僕には分からない。
「なぜあなたは私を目の敵のように見ているのですか?」
「だって……リサさんだっておじさんのこと狙ってるじゃないですか」
「ええ、毎晩童貞を狙っていますが、マスターの部屋に侵入することすらできません」
「むむむ……」再び悔しがる三浦先生だが、やっぱり僕には悔しがる要素が分からない。
「どうやらあなたは諦めたほうがよさそうです……マスターの童貞は私が美味しくいただきますから、安心してください」
「私だって……私だって……」
まったく安心要素のないリサの言葉に、なぜ三浦先生は涙目になってるんだ?リナを見ると、何か期待に満ちた表情を浮かべている。
「では、マスターの童貞を奪ったほうが勝ちということで、マスターを賭けて勝負しますか?」
いったい何のために何の勝負が始まるんだ?というか、人を巻き込んだり、人を景品にする勝負はよくないと思います。あと、童貞、童貞って言い過ぎだと思います。もう一つ言わせてもらえば、ここは保育園ですよ……
「リサさん……ちょっと、それは……せめて、おじさんのファーストキスとかにしませんか?」
「それは無理です。既にリゼに奪われてしまいました」
リサが言い放った次の瞬間、体の中にジジジっと鈍い音と振動が広がり、何が起こったかわからないまま、僕はうつ伏せに倒れてしまった。
薄れる視界の中で、スタンガンを手にした三浦先生が、僕を見下ろしている。「リサさん、私、受けて立ちます!」と聞こえたような気がした……
「親方!大丈夫か!」——リナが僕を抱き起こしてくれたようだ。「おい!真琴、ひどいことするな!」リナは三浦先生に怒っているようだが、リナ、もういい……僕はここまでだ……死ぬ前に……死ぬ前に、せめて……おっぱいを……生で見たかった……
「マスター、大丈夫ですか!リナ、この疲労回復薬『シビレル君』をマスターに飲ませましょう」
天国への旅立ちを覚悟した僕に、恐ろしい言葉が聞こえてきた……リサ、やめろ……「おう、わかったぜ!」リナが僕の口を無理やり開けてくる。抵抗したいが体が動かない……流し込まれる液体が喉を通ると、僕は完全に意識を手放した……
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