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空き家の整理と拗らせ源屋

朝早く、僕はリナとまごころ源号で依頼者の自宅に向かっていた。結衣ちゃんの保育園はリサにお願いしたが、大丈夫だろうか?昨日の夜、結衣ちゃんは「リサママといっしょにいくー」って喜んでたし、なんか僕と一緒に行くよりも、リサと一緒に行くほうが楽しいのかと思うほど喜んでたし……勘違いしないでほしい、別に嫉妬しているわけじゃない。

「親方、どうしたんだ?ぼーっとしてると危ないぞ」リナの声で心が戻った僕が視線を向けると、彼女は気づいたのかニコッと笑ってみせた。

「いやな、保育園をリサに頼んだだろ。今さらになってちょっと心配でさ」

「大丈夫だろ、親方に怒られてから、もう結衣を乗せて、空は飛ばないって反省してたしな」

それはすなわち、結衣ちゃんを乗せていなければ飛ぶってことなのか?まあいい、リサに何かを言ったところで、まともに聞いてもらえる気はしないから、好きにさせておこう。

「なあ、親方。空き家を片付けるのって、楽しいのか?」

「楽しい?なんでそう思ったんだ?」

「昨日の夜、親方が楽しそうに話してたから、あたいも楽しみだったんだ。それに、うなされずに寝てたしな」

うなされずに寝てたってどういうことだろう?「なあ、リナ。僕は毎晩うなされてるのか?」僕が問いかけると、リナは僕の横顔に「にひひひ」と笑ってから、前方に視線を戻した。

「ずっとじゃないぞ。寝入ってしばらくするとうなされるんだぜ。親方のほっぺたにチューってしてやると止まるけどな」

何だと……恥ずかしいことを言われなかったか?僕は毎晩うなされて、リナに口づけをされて、すやすやと眠りにつくのか?それじゃ、甘えん坊の子どもじゃないか。恥ずかしさと気まずさで黙り込んだ僕に、リナは「親方は甘えん坊だな」と言い放ち、僕の心に致命傷を与えてくれた。

「あっ、そうだ、昨日もリサが親方の部屋に侵入しようとしたから、阻止しといたぜ」

「あ、ありがとう……」それについては感謝の言葉しか出ない。リナへの感謝は当然だが、懲りずに『マスターの部屋に侵入大作戦』を続けるリサにも少し感心していたら、「それで、空き家の片付けって楽しいのか?」リナが再び問いかけてきた。

「いや、楽しくはないだろうな。僕の両親と兄夫婦が死んでさ、リサと一緒に実家を片付けていたときに考えたんだ。僕は実家を手放さないといけなかったから早めに片付けたけど、もし手放さなくてもよかったら、ずっと後回しにしたんじゃないかって」

「そうかもしれないな。親方は仕事以外はからっきしダメだから、百年くらい放置しそうだな」

「なんだよそれ。だけど何年も放置してて、面倒になった人もいるかもしれないし、商売にしてもいいかなって思った。それでチラシを作って、みんなで配っただろ?それが実を結んだから、嬉しかったんだ」

「ふーん、そうか」——おい、リナ。人に聞いておいて最後がそれじゃ、心が折れるだろ。そんないつもどおりの会話を交わしながら、僕たちは依頼者の元へ向かった。


目的の住所に到着し、僕はまごころ源号から降りると、「ここかな?」とひとりごとを漏らしながら門扉の表札を確認する。『浦島』と書いてあるから間違いないと思うが、初めて訪問する家のインターホンを押すのは勇気がいる。なにせ、初対面では第一印象が大切だ。顔を合わせて挨拶するなら、先代直伝の営業スマイルで乗り切れるが、このインターホンというやつは声が第一印象になる。深呼吸をして喉を「んっ、うん」と鳴らしたところで、横からリナの手が伸びてきてインターホンを押した。

「おい、リナ、何やってんだよ」

「親方を見てるとまどろっこしいぞ。そんなの押すだけだろ」

「あのな、小心者の僕には心の準備がいるんだよ」

リナと言い合っていたら、「あのー、なにかあったのー?」とインターホンから女性の声が割って入る。

「あっ、お、おはようございますー。まごころ堂源屋の篠田です」

「あたいはリナだぞ!」

ブツッとインターホンが切れた音を確認してから、「おい、リナ、挨拶くらいちゃんとしろよ」と注意する。

「いーじゃんか。親方のバーカ」

「バカって何だよ。だいたいな、僕のことを親方、親方って呼んでるくせに、親方だとは思ってないだろ」

「はははっ、やっぱり面白いや」切れたはずのインターホンから、再び女性の声が聞こえてきた。焦る僕に「すぐ出るから、ちょっと待ってて」と残してインターホンは切れた。


最悪だ……初の空き家の片付けだったから、張り切って、昨日風呂場で想定会話を考えて、寝る前に発声練習もしてきたのに、全てが台無しになってしまった。しかも、インターホンから聞こえたのが、若い女性の声だったから恥ずかしさも倍増だ。

「あっ、僕が練習してたの知ってて、わざとやっただろ」僕がリナを振り返ると、リナは「にひひひ、ばれたか」と笑う。そして、急に真面目な表情を浮かべたかと思うと、目を細めて眉間にシワを寄せ、「おはようございます」と低い声で言った後、ウインクをしてみせた。「にひひひ、昨日の親方の真似だ」リナは腹を押さえて息も絶え絶えに笑いだす。

「にひひひ、昨日の夜の親方は面白かったぞ。ひひひ、顎に手を当てたり、ニヒルな笑みを作ったりしながら、鏡の前で『おはようございます』って何回も言ってんだぜ。にひひひ」

最悪だ……もう、帰りたい……いや、もうどこかに行ってしまいたい……そうだ、明日から南極を探検しよう。南極を縦断して帰ってきた頃には、昨日の夜の僕を覚えている人なんて、誰もいなくなってるはずだ。


「おっはよーございまーす!」明るい声の挨拶に振り向くと、ショートボブの眼鏡っ子が駆け寄ってくる……何だろう、想像していたのと全然違うし、何なら、高いテンションと地味な見た目のミスマッチが、二度と記憶から消えないほどのインパクトを与えてくる。

「あっれー、どうしたの?僕にひとめぼれかな?」ニコッと笑って僕を見ているが、女性でいいんだよな?でも、一人称が『僕』だった……ま、まさか……これが噂に聞く『僕っ娘』ってやつなのか?

たじろぐ僕に彼女は「ふふっ」と笑って「源屋さん、童貞なんでしょー」とか言ってきた。まさか、園長先生と同じように、童貞の匂いを嗅ぎ分けられるのか?いや、あれは匠の技のはずだ。こんな若い子が……待て、この子は若いのか?本当に女性なのか?その前に、初対面の僕に『童貞なんでしょー』ってなんだよ。

「へへっ、リサちゃんに聞いたんだ」彼女の口から、思いもよらなかった名前が飛び出した。「リサに?」僕が聞き返すと、彼女は「そーだよ。僕は浦島沙奈恵、この間、源屋さんの写真撮影に行ったんだ」と言って、眼鏡を押し上げた。写真撮影……そういえば印刷屋の親父が、カメラマンは浦島さんの親戚とか言ってたな……

「そうだったんですね。その節はありがとうございました」とは言ってみたものの、あのミニコミ誌の件で礼を述べる要素はどこにもないじゃないか。何なら、あのミニコミ誌に載ってた、リサが一番星号で飛んでる写真もこの子が撮ったんだろうな。

「亀太郎爺の家でリナちゃんにチューしたのも見てたしー、何なら写真も撮っちゃったしー」

不思議だ。普段ならなんとも思わない程度の会話なのに、なぜかこの子に言われると、腹の底から『なに笑ってんだ、この野郎』という言葉が湧き上がってくる。

「おい、沙奈恵!写真に撮ったのか!」突然声を上げたリナが沙奈恵さんに顔を近づけた。よし、リナ、女性同士でビシッと言ってくれ。僕の願いが通じたのか、笑顔でうなずく沙奈恵さんを見て、リナは深く息を吐いた。

「その写真、あたいにくれよ!リサに見せてやるんだ」——リナ、何でそんなに瞳を輝かせてるんだ。

「オッケー、プリントして後で持ってってあげよー」——ああ、配達までしてくれるんですね。

僕は、たまに見かけるポスターの船に乗って、世界一周の旅に出て、南極で途中下船したい気持ちを抑えて、「あの、それで家の鍵は……」と仕事の話を切り出した。

「あっ、ごめん。はい、これ鍵ね。住所は聞いてるでしょ?」と言って、沙奈恵さんは僕に鍵を手渡した。

「おじいちゃんが住んでた家なんだけどさ、おじいちゃん死んじゃってから、誰も入ってないんだよね」

「一度もですか?」僕が問いかけると、沙奈恵さんは少しさみしそうにうなずいた。

「うん、あの家壊して売るってお父さんが言い出したから、片付けて、思い出の品があったら、取っておいてほしいんだ」

「分かりました」僕の返事を聞いて沙奈恵さんは、少し微笑んだ。

「あっ、それとガラクタはリサちゃんが欲しいって言ってたから、持って帰っていいよ。リサちゃんが直して、また誰かが使ってくれると嬉しいし」

「では、一旦店に全部運んで整理しておきますから、後日、取っておきたい物は持って帰ってください。それ以外は買い取りますので」

「わかったよ。じゃあ、よろしくー!」

手を振る彼女に軽く会釈をして、リナと一緒に目的の空き家へ向けて、まごころ源号を発車させた。


依頼を受けた家に到着すると、まず目に入ったのが、ポストに詰め込まれたチラシだった。はみ出したチラシが腐ったような色になっているところを見ると、相当前に無理やり突っ込まれたのだろうが、なぜか嫌な気持ちになる。

「思ったより小さい家だな……」家を眺めているリナに、「ゴミ袋を取ってくれないか?」と声をかけると、「おう!」と返事をして、ゴミ袋を持ってきてくれた。リナは、僕がポストからチラシを引っ張り出すのを見て、「なんだよこれ、ひとんちにゴミ捨ててんのか?」と呆れている。

「まあ、だいたい百枚配って一枚読まれればいい世界の宣伝方法だから、ゴミといえばゴミだな。見てないで分別してくれないか?もしかすると郵便物が混ざっているかもしれない」

「わかったぞ、親方」リナは張り切って、チラシを一枚ずつ広げては、必要なものが挟まっていないか確かめ始めた。彼女は手を休めることなく「なあ、親方。少し草刈りをしたほうがよさそうだぞ」と話しかけてきた。

「そうだな……まずは片付けを済ませよう。草刈りは依頼されていないし、時間が余るようなら目立つところだけでも、少し手を入れようか」

「親方は、仕事のときは頼もしいよな」リナから漏れたその言葉に、「仕事以外はどうなんだ?」と視線だけを向けると、「リゼより甘えん坊だぜ」彼女はなぜか頬を染めて微笑んだ。


ポストのゴミを片付け終えた僕たちは、玄関の鍵を開けて家に入る。意外ときれいだったが、ところどころに生活感が見て取れる。突然いなくなったきれい好きな住人を、ただ静かに待っているような——少し切なさを感じさせる。

「今日はこの家を片付ければいいんだな」楽しそうなリナに、「そうだね、きれいに片付けよう」と応えて一緒に部屋を見て回る。

「なあ、親方、どこから始めるんだ?」リナの問いかけに「そうだな……」と室内を見回した僕の目に台所が映った。そこもまるでさっきまで料理をしていたような状態のままだった。

「リナはさっきの布団が敷きっぱなしだった部屋を頼むよ。布団をのけてから、押入れとタンスの中身を全部出して、ゴミ以外は箱か袋に詰めてくれ」

「よし、あたいに任せな!」張り切って部屋に向かったリナを見送って、僕は再び台所を見る。「先にあそこをどうにかしなきゃな」ひとりつぶやくと、僕は台所に立つ。立ったはいいが、流しの中に転がる暗黒物質に手が止まった。「これは何だ?」遠巻きにじっくりと観察してみるが、おそらく食べ物だったのだろうということ以外は何もわからない。ゴム手袋をはめているとはいえ、触るのをためらってしまう。

「本当に、そのまま放置してたんだな……」ふっと息を吐いて暗黒物質を手に取ってみると、意外と固くて安心した。これで手の中でぶにゅっと潰れたりなんかしたら、僕は立ち直れない自信がある。強敵をゴミ袋に放り込んで、ホッとした僕の目におぞましいものが飛び込んできた……その名は『冷蔵庫』

「絶対中身もそのままだろうな……」恐る恐る開けてみたら、予想どおり暗黒物質が保管されていた。しかも、暗黒物質になりかけなのだろうか、異臭を放つ物質まで大切なもののように並んでいる。ため息をついた僕は、暗黒物質の保管庫との戦いに挑むことにした。

どれくらいの時間が経ったのだろうか……暗黒物質を二重にしたゴミ袋に詰め終わり、腕時計に視線を落とすと、十分も経過していない。体感的には二時間以上かかったように思えた。一度ゴミを外に運び出さないと、これを踏んだりしたら仕事が増えるうえに、僕の心が砕け散りそうな気がする。


ゴミを外に出して戻ったときに気づいたけど、リナがいるはずなのに妙に静かだ。これまでの経験から、こんなときは大概ろくなことにならない。「リナ、どこにいるんだ?」と少し大きな声で呼んでみても、返事も物音もしない。胸騒ぎがして、リナに任せた部屋に向かったら、積まれた段ボール箱とガラクタに囲まれて、リナが何かを見ていた。

「リナ、何やってんだ?」声をかけると、リナはこっちを振り向いて「親方、これ見てみろよ」と手招きをする。何か珍しいものでも見つけたのかなんて考えながらリナの隣に立つと、彼女はアルバムを広げていた。

そのアルバムの写真は相当古いのか、白がクリーム色っぽくなり、変に赤が強調されたように変色している。「古い写真だな」僕が漏らすと、リナは一枚の写真を指差して、「これ、この家だろ?」と尋ねてきた。

ランニングシャツに半ズボンを履いた二人の男の子が、さっきまで僕がいた部屋の窓辺に並んで腰掛けて、スイカにかぶりついている。「多分そうだな」とだけ答えたが、僕にはこのありふれた写真が切り取った、ありふれた日常の幸せの一瞬で、主を失ったこの家が生きていたことを見せてくれているように思えた。

「親方もこんなときがあったんだろ?」リナがぼそっと呟いた。「そうだな、僕にもこんな頃はあった」言ってはみたものの、はっきりと覚えていないことのほうが多い。「いいな……」寂しそうに漏れたリナの声に、「どうしたんだ?」とリナを見ると、彼女はアルバムをパタンと閉じて、積んである段ボール箱の上に置いた。

「親方……」突然リナが僕に飛びついてきたのを、とっさに抱きとめて「どうしたんだよ、リナ」と声をかける。

「あたいはアンドロイドだろ?小さい頃の思い出もないし、歳を取ってからの思い出もできないんだ」

「たしかにそうだな。でもな、リナ、昨日の思い出はないのか?」

「あるぞ、夜は親方にチューしてるしな」

「まあ、それがいいか悪いかの話はしないけどさ。でも、そんな小さな思い出が、これから積み重なっていくんじゃないかな?もし不安なら、僕が思い出を作ってみせるさ」

少し強く抱き寄せた僕に、リナは「本当か?親方、大好きだぞ」と微笑んだ。でも、どこか寂しさが漂うその笑顔に僕も微笑み返すと、リナは恥ずかしそうに頬を染めたあと、僕の胸に顔をうずめた。

カシャッ!突然響いたシャッター音に、僕とリナが同時に振り向くと、沙奈恵さんがレンズをこちらに向けて、カメラを構えていた。

「リナちゃんに頼まれた写真を持ってきたら、ラブラブしてるんだもんなー。びっくりだよー」

何撮ってんだよ……思わず口にしそうになったが、仕事をそっちのけで抱き合っている僕がそんなことを言うと、十倍ぐらいになって返される未来しか見えない。

僕に抱きついたままで、「おい、沙奈恵!その写真もくれよ」と嬉しそうなリナに、「もちろんだよー」と明るく応じる沙奈恵さん……僕は二人にはめられたのだろうか?まあいい、そんなことより仕事再開だ!

「リナ、荷物を積み込むぞ。弁当を食べたら、僕は一度ゴミを捨てに行って、運べるだけの荷物を店に運ぶからさ」

「任せろ、親方!すぐに積み込んでやるぜ」

「僕が出ている間、リナはこの家の片付けを続けてくれ」

「あんたたちさー、抱き合ったまま何言ってんの?僕は一回帰って写真をプリントしてくるからねー」

沙奈恵さんは露骨に呆れた声を残して、家を後にした。——ふー、今日の仕事は一筋縄ではいかないような気がしてきた。


——その頃、まごころ堂源屋では、音が鳴らないようにそっと開いた扉から、リゼがコソコソと店に入る。

「よし、我の作戦は成功した……」誰にも見つからずに店に入ったリゼが、ほっとため息をついたところに、「リゼ、何をしているんですか?」とリサの声が届いた。驚いたリゼはとっさに手に持っていた紙袋を背中に隠すと、「こ、これは結衣姫の教材だ」と言って目を泳がせる。

「怪しいです……はっ、もしかしてマスターにエッチな映像が満載の変態的DVDを買いに行かされたのではありませんか?」

「違う……我のことより、リサは買い物に行く時間ではないのか?早く行ったほうがいい……今日は雨が降りそうだ……」

リサは店の外に視線を向けるが、どう見ても晴天にしか思えない。「リゼ、今日は雨は降りませんよ」首を傾げたリサに、「いや、我が闇の同胞が降ると言っていた……だから降る……」とリゼは目を細めた。

「そうですか……でも、花屋さんは先に行ったので、今日はもう買い物はありません」

「いや、それなら……そ、そうだ……我が闇の盟友が喫茶店でリサを待っている」

「困りましたね……今日は雨が降るのでしょう?それに闇の盟友とは誰なのです?」

「あ、雨は降らない……心配するな……それと、我が闇の盟友とは一人しかいない」

「一人……もしかしてマスターですか?」リサの問いかけに、小さくうなずいたリゼを見て、リサは顔をほころばせた。

「そうですか、そうですか。マスターは私と喫茶店での逢引を希望されたのですね。自分で言わずにリゼに頼むところがかわいくて仕方がありません。さっそく行きましょう」

浮かれるリサを気遣うように、リゼがカウンターの電話の前に座ると、リサは「リゼ、電話番をお願いします」と言い残し、弾む足取りで店を後にした。

リサを見送ったリゼは、ホッと胸を撫で下ろし、紙袋から一冊の本を引っ張り出すと、「これで我も……」と呟いて本を読み始めた。


——カランカラン……純喫茶メランコリックの小気味よい音を奏でるドアから、女性が入ってきて、暇そうな店内を見回す。カウンターに座り、顔を伏せていたすずが、顔を上げて振り向くと「ん……あ、いらぁしゃいませー」と寝ていたと自白するような、息の混じった鼻にかかる声で出迎えた。

「おかしいです……マスターがいると聞いてきたのですが、あなた一人ですか?」

リサの問いかけに、すずは「マスターならいますよ」と答えて少し首をひねると、何かに気づいたように目を見開いて、にっと微笑んだ。「マスター、彼女が来ましたよー」すずが厨房に向かって声をかけると、リサは「彼女だなんて、正直な人です……奥様でもいいのですけど……」と口元を緩ませ、身体をくねらせる。

「こんにちは……」挨拶をしながら厨房から出てきた純喫茶メランコリックのマスターは、リサを見ると「あっ……」と声を漏らして固まった。

「あれ?……あなたはたしか……変な格好をして結衣さんを付け回していたストーカーじゃないですか」

「その節はどうも……源屋さんにもご迷惑をおかけしました……」

バツが悪そうにペコペコと頭を下げるメランコリックのマスターに、リサは「それで、マスターはどこにいるのですか?」と問いかける。「源屋さん?今日は来てないですよ……」ボソボソと呟くような返事に、リサは「リゼに騙されましたか」と漏らしてため息をついた。

「仕方がありません、せっかく来たのですから、あなたの奢りでコーヒーとケーキをください」

カウンターに座るすずの隣に腰を下ろしたリサの横顔を、すずが覗き込むように見ながら「あれ、マスターの彼女じゃなかったんですか?」と問いかけると、メランコリックのマスターが「すずちゃん……リサさんは源屋さんの恋人だよ……」とすずに耳打ちする。

「えええー!」急に大声をあげたすずは、カウンターに肘をつくと、頭をうなだれて、「マスター、今日は上がっていいですか?」と漏らす。「体調でも悪いの?」すずを気遣うマスターに「だってー、源屋さんに二人も彼女がいるなんて……私、三番目じゃないですか……」とため息をついた。「そんな理由で帰らないでよ……」呆れたマスターもため息をつくと、「だってー、私だって源屋さん狙ってたのにー」とすずは頬を膨らませた。

「二人?リナのことですか?」静かに二人の話を聞いていたリサが問いかけると「うん、そんな名前だったと思う……」元気のない声で、すずが返した。

「心配しないでください、もう一人リゼがいるので四番目……あっ、保育園の痴女先生を入れると五番目……さらに、花屋の店員を入れると六番目です」

「マスター……私、退職します……」

「ちょ、ちょっと、すずちゃん、困るよ……」

「そう落ち込まないでください。私が幸せになってあげます。マスター、ケーキはまだですか?」

「あ、はい、ちょっと待って……あっ、すずちゃん、また勝手にケーキ食べたでしょ?」

「えーん、リサさーん、マスターがいじめるー」

「私はマスターをいじめてますよ」

「えっ、源屋さんを?どんなことしてるんですか?教えてくださいよ」

純喫茶メランコリックの時間は穏やかに過ぎていく。


——ゴミを捨てに行って、店に戻った僕は運んできた荷物を下ろすのを手伝ってもらおうと、扉を開けて「リサいるか?」と声をかけた。静かな店内を見回すと、リゼがジャージ姿でなにやら変なポーズをして僕を見ている。

「リ、リサは出かけた……」

「そうか……リゼ、ちょうどジャージを着てるんだし、少し手伝ってくれないか」

店に入ると、打ち合わせテーブルに置かれた一冊の本に、僕の目が止まった。手にとってみると『1日5分の簡単エクササイズ——重力に負けない!バストアップ』と書かれたタイトルの横で、お姉さんが笑顔でポーズを決めている。

「返せ……」リゼが僕の手から本を奪い取ると、胸に抱き締めてうつむいた。「リゼの本だったのか、その本を見てエクササイズしてたのか?」問いかけても返事がない。見るとリゼは涙をこぼし、嗚咽を漏らしていた。僕はリゼを抱き上げて椅子に腰を下ろすと、彼女を膝の上に座らせた。

「どうしたんだ、リゼ?」頭を撫でながら問いかけても、リゼは嗚咽を漏らしているだけで何も話してくれない。しばらくそのまま待っていたら、「なんでもない……」とリゼがこぼした。

「なんでもないのにリゼは泣かないだろ。今は二人だけだし誰も聞いてないから、話してくれないか?」

「我も……我も……リナくらい胸が大きくなりたい……アンドロイドの我がこんなことをしても、効果がないのはわかっている……」

「そうだったのか……なあ、リゼ、効果がなくてもやっていいんじゃないか?でも、僕は今のままのリゼがかわいいと思うよ」

「嘘をつくな……」うつむいたままつぶやくリゼに「嘘じゃないよ」と答えると、彼女は少し顔を上げた。「本当にそう思うのか?」今度は少し声が大きくなったリゼの頭をそっと撫でた。「本当にそう思ってるさ」

リゼは僕の膝から飛び降り、本をテーブルに置くと僕の膝に向かい合わせに座った。無言で僕の両手を取るといきなり自分の胸に押し付ける。「これでもか?」僕の手を胸に押し付けながら問いかけるリゼに「ちょ、何やってんだよ」と言って、手を引こうとすると、リゼは「もっと触れ」とさらに強く僕の手を胸に押し付ける。

このままでは何か大切なものを失ってしまいそうな気がして、「ああ、かわいい。だから手を離してくれ」と頼んだが、時すでに遅し……リゼは僕の元気になった部分に視線を落とし「よし、許す……」と言ってから、手を離してくれた。そして、いきなり僕に顔を近づけてきた。

一瞬の出来事で何が起こったか分からなかった。目の前では顔を紅潮させたリゼが、僕に流し目を向け、自分の唇を指でなぞっている。唇と唇が触れたのか?いや、そんなことはない、あんな一瞬で僕の唇を的確に狙ってくるなんてありえない……だいたい、キスって目を閉じてするもんだろ?僕の目は開いてたぞ……僕の目は開いてたけど、リゼの目は……閉じていた……あと、なんか甘い香りがした……

「リゼ、お前……」言葉を詰まらせる僕に、リゼは「案ずるな、主様……舌は入れなかった……」と言って恥ずかしそうにしている。僕の心の中は、驚いたような、嬉しいような、悔しいような複雑な感情が渦巻いている。

「それと、その本は我にはもう必要ない。主様に二千円で売ってやろう」

「いらないよ……だいたいそんな本ってもっと高いんだろ?とっておきなよ」

「うむ、千二百円だった……」

リゼの言葉は僕の心に渦巻く複雑な感情をさらにかき乱してくれた。かき乱された挙句、なぜか僕の脳裏に園長先生のひげ面の笑顔が浮かんできた。——僕はもう二度と戻れない世界に足を踏み入れてしまうのだろうか……


結局、リゼに振り回されたのと、リサが帰ってこなかったせいで、荷物を下ろすのに時間がかかってしまった。リゼは『我の本懐は主様にかわいがらせること、そのようなことはせぬ……』とか言って、まったく手伝ってくれなかったし……でも、リゼのキスは何だったんだろう?好意なのか……からかったのか……考えてみればリナだってそうだ……女性の気持ちはよくわからない。

よくわからないことをぼんやり考えてたら、いつの間にか現場の家を通り過ぎてしまっていた。「あれ、ちょっとぼんやりしすぎだな」まごころ源号を停めてルームミラーを見ると、リナが手を振っているのが写っている。

「まあ、Uターンしないといけないし、ちょうどよかっただろ」誰もいない車内で言い訳をして、家の前まで戻った僕は、まごころ源号の窓から見た光景に驚愕した。

「おーい、親方!遅かったな」リナが手を振っているけど、そんなことはどうでもいい……まごころ源号を降りた僕は、目を閉じて深呼吸をしてから、もう一度家を確認する。それでも理解が追いつかず、指で眼鏡を押し上げてもう一度見る。

「なんだこれー!」

瓦もねえ、屋根もねえ、壁もなければ柱もねえ。風呂場もねえ、床もねえ、そこにあるのは基礎ばかり。おら、南極さ行くだー。——思わず浮かんだ替え歌が脳内でリピートする。

「にひひひ、親方が遅かったから、あたいが家を全部片付けてやったぜ!」リナが指さす方向には、おそらく家であったであろう木材、板、瓦、浴槽やキッチンまで整然と積み重ねられていた。

「おい、何やってんだよ……」立ち尽くす僕にリナが駆け寄ってきて「すげーだろ」と抱きつく。たしかにすごいかもしれないが、僕は取り返しのつかない現実に背筋が凍りついている。

「リナ、何でこんなことになったんだ?」

「親方が家を片付けておけって言ったんだろ。あたい、頑張ったんだぜ」

「あのな……家ごと片付けるやつがどこにいるんだ」

「違ったのか?」僕に抱きついたまま首を傾げるリナ。「片付けるのは家の中だよ!」思わず大きな声が出てしまった直後、僕に抱きつくリナの腕に力がこもる。

「じゃー、どうするんだよ。あたい、家を片付けちゃったぞ!親方がいけないんだ、家の中ってちゃんと言わなかった親方のせいだぞ!」

「なんでだよ!まさか家ごと片付けるなんて誰も思わないだろ!」

「あたいは思ったんだ!親方のバーカ!」

「いててて……おい、リナ離せ!」


「なんであんたたち、僕が来るたびに抱き合ってんの?」

呆れた声が耳に届くと同時に、妙に胸がざわつき、振り向くと、沙奈恵さんがカメラを構えていた……

「抱き合ったまま喧嘩するなんて、ラブラブすぎだよー」にんまりと笑みを含んだ顔で僕たちを見る沙奈恵さんに、「おい、沙奈恵!今から親方とチューするから写真撮れよ!」とリナが叫んだ。

「オッケー!任せてよ。バッチリ撮ってあげるからさー。ブチューっといっちゃって」

沙奈恵さんの声を合図に、リナが僕に鯖折りを仕掛けてきた。何なんだ今日は……いや、まだリゼとの余韻を感じさせてくれ。ていうかこんなの嫌だ。なぜだ……また園長先生のひげ面の笑顔が脳裏に浮かんだ。絶対、南極に行ってやる。

「やめろ、リナ……離せ……」必死に逃れる僕に「親方、逃げるな!」とか言いながら、リナは顔を近づけてくる。リナ……鯖折りをかましているから、顔はそれ以上は近づかないぞ。

「あっ、あっれー!家なくなっちゃってるよー!」

突然、沙奈恵さんがリナの残念さを消し去るほどの大声で叫んだ。おかげでリナが僕を離してくれたけど、沙奈恵さんは今まで気づいていなかったのか?

「沙奈恵さん、本当に申し訳ございません……家の中を片付けるつもりだったんですけど、間違えて家ごと片付けてしまいました」

土下座をする僕を見たせいか分からないが、沙奈恵さんは大声で笑い始めた。

「何をどう間違えたら、家ごと片付けちゃうんだよー。面白すぎだよー」

「本当に申し訳ありません」重ねて謝罪する僕に、沙奈恵さんは「いいよ、いいよ。どうせお父さんも取り壊すって言ってたんだし」と笑い、リナは「親方、ごめんなさい」と言って少し落ち込んでいる。

「ところでさ、なにかおもしろいもの見つかった?」

笑顔で問いかける沙奈恵さんに、リナが「これ、沙奈恵のだろ?」と小さな猫のぬいぐるみを手渡した。

「うわー、これおじいちゃんの家で失くして泣いたんだよー。すごく嬉しいよ。リナちゃんありがとう」

「あと、これもだ……天井裏に隠してあったぜ」リナが茶封筒を差し出した。「なに、これ?」沙奈恵さんが受け取った茶封筒には『沙奈恵結婚資金』と達筆で書いてあった。恐る恐る封筒を覗いた沙奈恵さんは目を見開き、「うわっ、お金いっぱい入ってる」と言った後、封筒を胸に抱きしめる。

「おじいちゃん、急に死んじゃったからさー。良かったよ、リナちゃんが見つけてくれて……源屋さんもありがとう……」

「そう言ってもらえたので、僕も少し安心しました……」

「でも、困ったな……結婚資金をもらっちゃったけど、相手がいないよ」

そうだな、業者によっては気づかなかったり、気づいても懐にしまったりするかもしれない。そう思うと、真面目なリナが見つけたのは、沙奈恵さんにとって幸運だったのかもしれない。家ごと片付けたのも無駄ではなかったのか……リナには夜にでも謝っておこう。

——その日の夜、リナが写真をみせたのとリゼがキスを暴露したせいで、マシンガンを手にしたリサが「マスターを蜂の巣にします!」と喚き散らし、大荒れに荒れた……

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。

毎週土曜日投稿予定。よければブックマーク・評価のひと手間を。誤字は各話末の『誤字報告』からお願いします。

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