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一番星と敗北の童貞

朝から始めた庭木の剪定が予想以上に手こずり、夕方近くになって僕は焦りはじめていた。庭とまごころ源号を何往復もして、剪定した木の枝を運び続けているが、半分くらいは運べたのだろうか。だが、まごころ源号の荷台はもういっぱいになりそうだ。向こうでは、リナがまだ黙々と庭木の剪定を続けている。彼女も疲れたのだろうか、少しペースが落ちてきたように見える。

「リナ、あとどれくらいだ?」「剪定はもうちょっとだな。親方は終わりそうか?」「いや、まだ積めていないのがこんなにあるんだ」と僕は積まれた枝を指差す。けっこう運んだつもりだったけど、まだ庭に残る量を見ると、「はあ——うんざりだな」とため息も出る。

朝になってから急に剪定する庭木を増やしてほしいと頼まれたのを、安請け合いした僕に原因があるんだし、文句を言っても仕方がない。リナが「二日に分けて作業したほうがいい」と言ったのを聞いておけばよかったと、僕は少し前から後悔していた。

「リナ、とりあえず剪定を終わらせてくれないか」「いいけど……親方、一度捨てに行かないと、もう積めないんじゃないか?」「そうなんだけどさ……」リナの言うとおりだけど、僕はなんとしてでも早く終わらせたい。

「明日は天気が悪そうだし、もう少ししたら結衣ちゃんを迎えに行かないといけないから、どうしてもあと一回で運びたいんだ」リナはまごころ源号の荷台を見て「危ないからやめといたほうがいいぞ」と首を振る。たしかに今でも少し積み過ぎのような気もするし、これ以上積むのは、やっぱり無理か……

リナが「結衣はリサに任せたらどうだ?」と勧めてきた。僕もそれを一瞬考えたが、リサが保育園に行けば、余計なトラブルを起こしそうな気がする。悩む僕に、リナは「大丈夫だ。リサは親方がいないところでは、けっこう真面目だぞ」と言って笑う。

僕の考えを見透かしたような言葉だが、腑に落ちないところもある。「何だよそれ。僕はからかわれているのか?」「親方に甘えてるだけだ。それに、いつか絶対に頼まないといけない日が来る」

「——たしかにそうだな。よし、リサに電話するよ」僕はスマホを取り出し、店に連絡した。リサは快く引き受けてくれたけど、不安は残ったままだ……まあ、ここまできたら考えても仕方がない。「リナ、急ぐ必要はなくなったし、少し休憩しようか」


腰を下ろし「ふーっ」と一息つくリナに冷たいジュースを手渡す。受け取った彼女が僕の手元を見て、「親方、手を怪我してるぞ」と教えてくれた。見ると手袋に血が滲んでいる。「本当だ、焦って仕事をするとろくな目に遭わないな」「親方があたいに教えてくれたことだな」いつも忙しないリナに、そんな注意をしたことがあったな。「そうだな……親方失格だ」と笑って、僕もリナの隣に腰を下ろした。

焦りから解放されたせいか、少し気持ちに余裕ができた。新たな不安も生まれたが、ここで考えても仕方がない。いつもどおり、変わった形の雲を探そうと空を眺めていたら、リナが「なあ、親方」とふいに声をかけてきた。「どうした?」「真琴のこと、どう思ってるんだ?」三浦先生のことか……少し変わった人だと思っているけど、ここで話すと、いずれ三浦先生にも伝わりそうだし黙っておこう。

「別に……なんとも思ってないよ」「そうか。じゃあ、あたいは?」今度はリナのことか……女性はそういうことを気にして知りたがるものなのか?「リナは頼りになるよ。それに信頼してるから、僕の部屋に入っても何も言わないだろ」「にひひひ、照れるな」「なんでよ」「内緒だ」いったい何なんだ。そんな言い方されると、余計に気になるじゃないか。

リナが「なんか、こうしてると恋人みたいだな」と言って、飲み終えたジュースの缶を地面に置いた。何を言っているんだ?——いや、待てよ。僕が知らないだけで、世間では親しい間柄の男女が作業着を着て、山積みになった木の枝を前に愛を語り合うのかもしれない……そんなわけないよな。

「そうか?誰がどこからどう見ても休憩中だろ」「はあ——親方が童貞の理由が分かった気がするぞ」とリナはため息をついた。「そりゃよかったな。さて、仕事を再開するぞ」僕は自分の頬を軽く叩いて気合を入れ、山積みになった木の枝に立ち向かった。


——まごころ堂源屋の店内では、大智からの電話を受けたリサが浮かれていた。「ついに私が結衣さんのお迎えに行く日が来ました」そんなリサの様子を見て、リゼは「なぜ我ではないのだ」と頬をふくらませる。

「いいですか、リゼ。今日の私はマスターに試されるのです」胸を張るリサに、リゼは首を傾げる。「試される?」「マスターは最重要任務である結衣さんのお迎えを私に託したのです。この意味が分かりますか?」静かに立ち上がったリサは、優越感に浸った表情でリゼを見下ろした。「これは私がマスターの伴侶にふさわしいかどうかの試練なのです」

リゼはため息まじりに「絶対に違う……主様は仕事が終わらなくて困っただけ」とリサを見上げた。「我が結衣姫を迎えに行っても問題ない。だから代われ」とスカートを引くふくれっ面のリゼに、リサは「何を言っているのです?マスターははっきり私に頼むと言いました」と余裕の笑みを向ける。

「リサは頭がおかしい……結衣姫を我が迎えに行くのは闇の掟」恨めしそうに見るリゼに、「頭がおかしいのはリゼのほうです」と言うと、リサは静かに目を閉じた。「いいですか、リゼにはたった今、店番という崇高なる闇の使命が課せられたのです」と言いながら、リゼの頭を優しく撫でる。

「リゼは影から人類を支配するマスターにふさわしい従者かどうか、試されているのです」リサの言葉にリゼは目を見開く。「なに……我も試されているのか?」リサは大きくうなずき、「そうです。本当はマスターに口止めされていたのですが……」

思わせぶりな表情を見せたリサは、リゼの耳元に顔を寄せて、「支配者たるマスターにふさわしい従者とは、一週間に一回くらいしか鳴らない電話を三コール以内に取れる力を持つものです」と小さな声で伝えた。

リゼは真剣な顔でリサの顔を見る。「むっ、リサが電話に敏感なのは……」「やっと気がつきましたか……私も支配者たるマスターに認めてもらおうと日々努力を重ねました」リサとリゼはうなずき合う。「では、リゼ、店番をお願いします」「任せよ……我が闇の力でこの店を守り抜く」リゼはそう言ってカウンターに座ると、心を鎮めるように深く深呼吸をした。

「マスターからのこの依頼を完璧にこなせば、今夜の私は床上手になれるのです」機嫌よく出かけるリサを見送ったリゼは、カウンターに置かれた電話機をじっと見つめたままつぶやく。「我はリサの口車に乗せられてしまったようだ……」


愛車の一番星号に乗り、ご機嫌で保育園へ向かうリサに、「あれっ、リサちゃん!」と声がかかった。キーッとブレーキ音を立て、一番星号を停めたリサが振り向くと、『肉の三段腹』の大将が手を振りながら、自転車で近づいてくるのが見えた。リサは大将の笑顔を見て「出ましたね、ストーカー」と目を細める。

大将はリサの隣に自転車を停め、「ストーカーじゃねえよ。それより、リサちゃん……すげー自転車に乗ってんだな」と言い、一番星号をまじまじと眺め始めた。「マスターが愛する私のためにと、愛車を譲ってくださったのです」と胸を張るリサを見て、「へー、でも源屋さん、こんな自転車に乗ってたか?」と大将は首を傾げた。

「私がバッカル二号改Ⅱを、マスターのために改造したところ、バッカル三号に乗り換えることになってしまいました。不幸な事故のようなものです」「そうか……源屋さんが自転車を買い替えたのは、リサちゃんのせいじゃねえか」「そうです。私のおかげでバッカル三号に乗り換えることになりました」得意げな顔のリサを見て、大将は「やっぱり……源屋さんも苦労してんだな」とぼやいた。

「何を言っているのですか?苦労しているのは私のほうです。毎晩マスターの部屋に侵入を試みていますが、いまだに成功したことがありません」声を荒げるリサを一瞥した大将は、遠い目で空を見上げた。「源屋さんが気の毒になってきたよ」


「ところで、大将は仕事をサボって、こんなところで何をしているのですか?」リサが問いかけると、大将は一瞬鼻で笑い、「サボってねえよ。ほれ、これを見てみろ」と右腕につけた腕章をリサに見せつける。

「これは……」そのピンク色の腕章には、白抜きの黒文字で、『聖はむはむ保育園見守りパトロール(結衣様親衛隊)』と書いてある。「どうだ、結衣様親衛隊の任務中だよ」と得意げに笑う大将を見たリサは、急に悲しそうな表情になり、目に涙を浮かべ、大将を見つめる。

「そんな……大将がストーカーをやめてしまっては、ただの変態お肉屋さんになってしまいます……」「そこは、ただのお肉屋さんでいいじゃねえか」「ただのお肉屋さん……大将はそれでいいのですか?見損ないました」ぷいっと顔をそむけたリサに、大将は「何言ってんだよ……」とため息を漏らす。

リサが「それでは、今日はお肉屋さんは休みですか?」と首を傾げると、「いや、かみさんに任せてきた。一時間くらいだからな」と大将は照れくさそうに笑う。「ああ、例の三段腹の奥様ですね」「ちょっ、リサちゃん。絶対かみさんに言うんじゃねえぞ」焦る大将に、リサは「ご安心ください。口が裂けたら言いません」と笑顔で答えた。

「そりゃ、口が裂けたら言えねーよな……それで、リサちゃんはこんなところで何をしてるんだ?」大将の声にリサは目を見開いた。「いけません!こんな変質者の相手をしている場合ではありません!」

「急いでんのか?引き止めて悪かったな」焦るリサを気遣う大将に、リサは「マスターの床上手になりたければ、結衣さんを迎えに行くように言われたのです」と恥ずかしそうに少し顔を伏せ、上目遣いを向ける。

「何だよそりゃ……まあいいや、リサちゃん、気をつけていきなよ」「大将も、警察を見かけたら全力で逃げてください」そう言い残して走り去るリサの背中に、「いや……絶対その自転車のほうを止めるだろ……」と大将はつぶやいた。


——「結衣さんはどこでしょうか……」保育室に入ったリサは、はりもぐら組を見回した。「あー!リサママだー」声のした方に視線を向けると、結衣が笑顔で駆け寄ってきた。「結衣さん、お迎えに来ましたよ」と言って、リサが頭を撫でると、結衣は「へへっ」と笑い、リサのスカートにしがみつく。

「あれ、今日はリサさんがお迎えですか?」真琴の声を無視して、リサは結衣に話しかける。「結衣さん、すぐに帰りの支度を整えますので、少し待っていてください」「はーい。リサママ、もうちょっとあそんでくるね」そう言い終える前に、友達のところへ走っていく結衣を、リサは優しい笑顔で見つめる。

リサは結衣の棚の前にしゃがむと、静かに帰りの準備を始めた。「リサさーん、聞こえてますかー」何度も呼びかける真琴には見向きもせず、黙々と片付けをするリサに、「——もういいです」と言って真琴がため息をついたとき、結衣の荷物をまとめ終えたリサが、静かに立ち上がった。

「結衣さん、帰りますよ」と結衣に声をかけたあと、リサは真琴に振り向き微笑む。「私のことを『奥様』と呼んだら、お相手して差し上げます」「ぜーったい、いや」

リサは、結衣が連絡帳だけを入れたかばんを肩に掛けるのを見つめながら、「まあ、百歩を百回譲って、私が奥様になれなかったとしても、マスターにはあなたより美緒様のほうがふさわしいと思っています」と呟いた。

真琴は、結衣に目を細めるリサの横顔をじっと見て首を傾げた。『あれ?もしかして、美緒さんが結婚しているのを、リサさんは知らないんじゃ?』「そうですか。じゃあ、おじさんは美緒さんに譲って、リサさんは諦めてください」と笑顔を浮かべる真琴を一瞥したリサは、「そうですね。その時が来たら考えます」と言い残し、結衣の手を引き保育園を後にする。真琴はそのリサの背中を、優越感に満ちた笑顔で見送った。


——大智からの依頼を達成した。それも、完璧すぎると言われても過言ではないほど完璧に。「これで、マスターが『お部屋の侵入許可証』をくださるのは確定です」リサは大智からの褒美に期待しつつ、一番星号をのんびりと走らせる。

「しかし……それはそれで物足りないような気もします……」——ひとりごとを呟くリサに、後ろのチャイルドシートから「リサママー!」と不満そうな声が届いた。リサが「どうしました?結衣さん」と尋ねると、結衣は「おーそーいー!」と足をばたつかせる。

「遅い?でも、結衣さんを乗せてスピードを出すと、マスターに叱られてしまいます」

「いーのー!もっとだしてー!」チャイルドシートでごねる結衣に、「困りましたね……少しだけですよ」と言い、リサは一番星号のスピードを少し上げた。

「きゃー!もっとー!いっぱいだしてー」結衣のはしゃぐ声を聞き、リサはため息を漏らした。「どうやらリゼは、結衣さんの教育を誤っているようですね……帰ったら注意しましょう」結衣の教育について頭を悩ませるリサに、「リーサーマーマー!もっとだしてー!」と可愛い声で繰り返し催促する声が届く。

「結衣さん、これ以上スピードを出すと空を飛んでしまいます」

「えー!ほんとー?」結衣の期待に満ちた声に、リサが「本当です」と答えると、結衣は「やったー!だしてとばしてー!」とはしゃぎ始めた。

「結衣さん、もう少し言い方を考えましょうね。それと、このことはマスターに内緒ですよ」と結衣に念を押し、リサは一番星号のハンドル中央にあるボタンを押した。

金属がこすれる音を立て、一番星号のサイドバンパーの中央部が広がり翼を形成し、サイドバンパーの後部が上に跳ね上がると、中から小型のエンジンが姿を現した。リサが「結衣さん、いいですか?」と声をかけると同時に、エンジンがキーンと音を立ててうなり始める。

次第に大きくなるエンジン音を聞き、計器類にも異常がないことを確認したリサは、「結衣さん、飛びますよ」と声をかけ、滑走を開始した。チャイルドシートに押し付けられる加速と、体がふわっと浮く感覚に、「きゃー!リサママー!すごーい!きゃー!」と、結衣が上げる歓喜の声を置き去りにして、一番星号は離陸した。

一番星号は、町並みが一望できる高さまで一気に高度を上げたあと、水平飛行に移行する。「結衣さん、どうですか?」「すごいね。おうちがちいさくなったー!」はしゃぐ結衣に、リサは表情を緩める。

「結衣さんは何が見たいですか?」リサの問いかけに、「えーっとねー……おうちみたいー!」と結衣がリクエストする。「お店ですか?」「ちがうのー、パパとママとゆいのおうちー」——結衣の声に言葉を失ったリサは、ただ静かに進路を変えた。「リサママー!ひとがちっちゃいのー!」喜んでくれる結衣に見せてあげたいと……


——チリンチリン、小気味よい音を響かせて店に入る。「親方、疲れたな」と肩を回すリナに、「そうだね……でも、日が暮れる前に片付いてよかったよ。リナありがとうな」と僕は感謝を伝えた。

「にひひひ、とりあえず風呂に入ろうぜ」と僕の手を引き、居間に向かおうとするリナの手を引き返した。「いや、まだ片付けてないだろ?『貴仁』もまごころ源号に積みっぱなしだし」「じゃあ、何か飲んでからにしようぜ」

リナの提案はすごく魅力的だが、今腰を下ろすともう二度と立ちたくなくなる気しかしない。「そうだな……僕が片付けるから、リナは飲み物を取ってきて」そう頼むとリナは「おう、任せとけ」と台所に向かった。

何気なく、カウンターに目を向けると、リゼがつまらなそうにちょこんと座っている。「リゼも一緒にジュース飲もう」と誘うが、リゼは顔をそむけた。「リゼ、どうしたんだ?」と声をかけると、リゼはそっぽを向いたまま「主様……我を膝に座らせろ」とか言い出した。

その口調はいつもどおりだが、声のトーンから機嫌が悪いのは分かる。「リゼ、片付けが終わるまで待ってくれないか?」僕は優しくお願いしたつもりだったけど、リゼは急に顔をしかめて泣き出してしまった。

「どうしたんだよ、リゼ」慌てる僕にジュースを手に戻ってきたリナが、「親方、リゼをいじめたのか?」とか言い出すし、リゼは泣いたまま何も言わないしで、どうすればいいか分からない僕の額を冷たい汗が伝う。「親方、片付けはあたいがするから、リゼを慰めてやれよ」リナの言葉に僕はうなずいた。

「リゼ、こっちにおいで。一緒にジュースを飲もう」と声をかけ、僕が椅子に腰を下ろすと、トテトテと歩いてきたリゼが、僕の膝に座った。三人でジュースを飲み始め、少し落ち着いたところで、僕は「リゼ、何があったんだ?」と聞いてみた。

「主様が結衣姫の迎えをリサに頼んだ……」そうか、それで拗ねていたんだな……「でも、リゼは一度も結衣ちゃんのお迎えに行ったことがないだろ?一度僕と一緒に行ってから頼むよ」僕なりの理由を伝えたつもりだったが、リゼはまた頬を膨らませた。

「それだけではない……リサは我を騙し、電話番をさせた」どういうことだ?リゼに電話番をさせるのに、なぜ騙さないといけないんだ?だが、これはリサに聞かないと分からないな……「そうか、リゼは電話番をしてくれてたんだ。ありがとうな」そう言ってリゼの頭を撫でると、リゼは「ふひっ」と小さな声を漏らした。

その様子を見ていたリナが、「リゼは親方に甘えたいんだな」と笑うと、リゼは「違う、我を甘やかすのは主様の義務」と顔を伏せた。その様子が恥ずかしがっているように見えたのか、リナが「親方、リゼと一緒に風呂に入ってやれよ」とからかうように言うと、リゼは即座に「却下……エロ眼鏡が童貞のくせに、我の裸体に欲情する……」とリナから顔を反らした。

——こいつら僕がいないところで、僕のことを好き放題呼んでるな。だいたい何だよ『エロ眼鏡』とか『童貞のくせに』とか、僕の膝に座って言うようなことじゃないだろ……なんだか気分が悪くなった僕は、黙ってリゼを膝から降ろした。

ジュースを飲み終わったリナが、頬をふくらませるリゼを見て、「リゼは素直にならないとダメだな」と笑いながら席を立ったとき、どこからかゴーと音が聞こえてきた。


次第に音が大きくなり、キーンと耳につくような高音も混ざり始める。「いったい何なんだ?」「……これはエンジン音」「そうだな、ジェットエンジンの音……まさか、リゼ……」リナがリゼに視線を向けると、二人はうなずき合った。

僕が焦って外に出ようとすると、「親方、外に出るほうが危ないぞ」と、リナから羽交い締めにされ、リゼも「主様……もうすぐ止まる。少し落ち着け……」と僕の前に立ちふさがった。

「いや、二人は気にならないのか?」

「あたいは何も気にならない」

「我は何も聞こえない……」

「いや、さっきエンジン音って……」

「それ以上口を開くと、我の闇の力が発動する」

「なんでだよ……」

そうしているうちに、音は段々と小さくなり、そのうち聞こえなくなった。

「何かが通り過ぎたのか?」

何もかもが腑に落ちないが、音が静まった以上、騒いでも仕方がない。でもすぐに外に出れば、通り過ぎた何かを見られるかもしれない。そう思った僕が店の外に出ようとした時、チリンチリンと音を立てて扉が開き、結衣ちゃんが一人で入ってきた。

「結衣姫……おいで」その声に、結衣ちゃんはリゼに駆け寄り、抱き上げられた。「おかえりなさい。結衣姫」——実に尊い光景だが、僕は何かが引っかかる……結衣ちゃんがリゼにべったりなのが、気に入らないとかじゃなくて、何かはぐらかされたような、そんな気分だ。

「おじちゃん!」と声を上げた結衣ちゃんを見ると、リゼに抱き上げられたまま、かわいい目を大きく開いて、何かに感動したような、驚いたような、そんな感じで僕を見ていた。

「どうしたの?」「びゅーってとんだの!」結衣ちゃんがこんなに興奮して話をしてくれるのは、初めてかもしれない。きっと、さっき轟音を響かせて飛び去った、飛行機かなにかを見て興奮しているのだろう。

「そうなんだ。何が飛んでたの?」「とんだの!びゅーってかえってきた」なに……飛んだ?不思議そうに首を傾げた僕を、リナは少し焦った顔で、リゼは何かを諦めた顔で見ている。——こいつら何か隠してるんじゃないのか?

「ねえ、結衣ちゃん。何が飛んだのかな」「リサママといっしょに、おそらとんだのー!」リナとリゼを見ると、リナはわざとらしく顔を反らして、「そうだ、まだ、片付けが残ってた……」とかひとりごとを言い始め、リゼは「結衣姫……我と遊ぼう……」とか結衣ちゃんに言い始めた。

「結衣ちゃん、お空はどうだった?」僕がにこやかに微笑んで聞いたら、結衣ちゃんは、興奮した声で「すごいよー、みんなちっちゃくなっちゃった!」と言いながら、親指と人差し指で輪っかを作って覗き込んでみせてくれた。

「リナ……なにか知ってるのか?」リナに聞くと「あたいは何も知らないぞ……」と、なんとも歯切れの悪い返事……「リゼ……どういうことだ?」リゼに聞くと「我は知らぬ……リサに聞くべき……」と逃げた。仕方がない、リサを待とう。


静かになった店内に、チリンチリンと音を響かせ、「ただいま戻りました」とリサが帰ってきた。

「リサ、話があるんだけど……」僕が声をかけると、リサは静かに僕の前まで歩み寄り、深々と頭を下げる。「申し訳ございません、マスター。『お部屋の侵入許可証』は必要なくなりました。実力で床上手になってみせます」……何言ってんだコイツは……待て、ここで何かを言い出せば、リサの術中にはまる。僕が黙っていたら、リサが僕の顔を覗き込むように見て、「マスター、怒っています?」と首を傾げた。

「はっ、もしかして……」リサがニンマリした顔で僕に流し目を向ける。「お肉屋さんに嫉妬しているのですか?」……本当に何を言っているんだ?「それなら心配ございません。私はマスター一筋だと、はっきり伝えてありますから」いや、もうわけがわからない……よし、今日こそはリサが音を上げるまで戦おうじゃないか。

「結衣ちゃんと空を飛んだって聞いたんだけど……」「はい、飛びました」リサは微笑んでいる。

「どうして飛んだんだよ」「飛べるからです」リサはまだ微笑んでいる。

「なんで飛んだのか聞いてるの」「一番星号です」リサは少し首を傾げた。

「はあー、そうじゃない。結衣ちゃんを乗せてるんだぞ、危ないだろ」リサは少しうろたえた。

「なぜ……なぜ、マスターは今日が初飛行だと知っていたんですか?」全然違う方向の答えが返ってきて、僕もうろたえる。初飛行だと?今まで飛んでなかったのに、いきなり結衣ちゃんを乗せて飛んだのか?いや、違う、もっと根本的な問題だ。

「初飛行かどうかは知らないけど、飛ぶこと自体が危ないって言ってるの」少し声を上げた僕の顔を見たリサが、心配そうな表情を浮かべ「マスター、熱があるのでは?空は飛ぶものですよ」と僕の額に手をあてる。

「そうだな、リサの言うとおりだ」リナがリサの援軍に加わった。

「我もそう思う」リゼもリサの援軍に加わった。

「ゆいもー!」結衣ちゃんまで、いや、ここはちゃんと教えなきゃいけない場面だ。

「ゆ、結衣ちゃん、お空を飛ぶのは危ないんだよ……」「やーだー!」結衣ちゃんのひと言で、僕は致命傷を負った……もう今日の件については負けを認めよう……


「だいたい……誰かに見られたらどうするんだよ……」とつぶやいた僕に、リサが静かに寄り添い、そっと手を握ってきた。

「ご安心ください、マスター以外にパンツは見られていません」——リサは頬を染めているが、これまでの話のどこをどう聞いてそうなったのか、考えると三日くらい寝込みそうな気がする。

「誰がそんなこと言った……」ため息まじりの声に、リサは「マスターです」と胸を張る。僕は「見ないよ」とはっきり伝えたが、「あっ、そうでした。マスターはパンツの中身にしか興味がないのでしたね」とリサは耳まで真っ赤にして僕を見る。なんでそうなるんだ……それはリサが勝手に言い出したんだろ……

リナは「にひひひ、そうなのか?親方」と興味深そうに、リゼは「童貞エロ眼鏡……最低……」と汚物を見るかのような顔で、僕を見ている。もうなんとでも言ってくれよ……


「なんか、疲れたよ」ため息すら出ず立ち尽くしていると、ふいに袖が引かれた。見るとリゼが「主様がリサに頼んだのが間違い……次からは我に命じよ」と期待に満ちた目をしている。「そうだな……考えてみるよ」と言ってはみたが、今の僕には、そんなことを考える余力は残っていない。

「心配するな、我が白百合・コルサパレットも空を飛べる」リゼの言葉で考える手間が省けた。「却下」僕がひと言で伝えると、リゼは抱いていた結衣ちゃんを降ろし、「もはや、やむなし……死んでもらう」と言いながら、胸元から小瓶を取り出した。

「だいたい、リゼのもリナのも一人乗りだしな」「むむむ……不覚」「あたいの仏恥義理・愛三輪も飛べるけど、結衣は乗せられないな」——僕はようやく気づいた、この人たちの中の自転車は、空を飛べることがデフォルトなんだな……そうか、僕が間違えていたんだ……まあ、小豆沢さんが聞いたら腰を抜かしそうな気もするが。

ともあれ、結局頼めるのは一人しか残らない。「あのさ、リサ……頼めるのはリサしかいないんだし、少しは考えてくれないか」と僕が言うと、リサは珍しく「分かりました……もうこれ以上は聞かないでください」と、しおらしく答えた。

「それとさ……」言いかけた僕の言葉を、リサが「マスター、これ以上説教するなら、服を脱いでください」と遮った。「脱がないよ」と即答すると「では、私が脱ぎます」とリサが恥ずかしそうにしているので、「脱ぐなよ」と止めておく。

なぜかリナが「じゃあ、あたいが脱ぐ」とか言い出したので、「なんでだよ」と突っ込むと、リゼが「ならば……我が脱ぐしかない……」と怒りの表情を僕に向けてきた。

面倒になったので、「もう、全員で脱いだらどうだ?」と逆に勧めると、「初めてが複数……マスター冒険が過ぎます」「親方……好色家だな」「……処す」と、なぜか冒険が過ぎる好色家が処される話になってしまった。

無視してしまいたいところだが、「あのさ、結衣ちゃんもいるんだから、もうおとなしくしてろよ」と注意だけして、居間に入ろうとすると、リサが「マスターはどちらに」と尋ねてきたので「風呂に入る。疲れた……」と言い残し、僕はその場を後にした。


大智が去るのを見送って、リサとリナとリゼはうなずき合った。「リナ、リゼ、やりましたね」「よかったな、ドキドキしたぞ」「飛行を禁止されなかった時点で我らの勝利……」——結衣はじっと三人の話を聞いていたが、その内容が大智に伝わることはなかった。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。

毎週土曜日投稿予定。よければブックマーク・評価のひと手間を。誤字は各話末の『誤字報告』からお願いします。

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