ジュースミキサーと幼馴染
「なあ、親方。あれ、しんべーじゃないか?」
仕事を終えて店へ帰る途中、信号待ちのまごころ源号の助手席から、リナが声をかけてきた。つなぎ姿なのに、なんか色っぽく見えるリナの視線は、目の前の横断歩道を渡る二人に注がれている。
見ると小豆沢さんがスタイルの良い女性と腕を組み、笑顔で会話を楽しんでいるのがわかる。だが、僕は女性の方に興味が向いた。小豆沢さんより一回りほど年上で、体のラインにフィットした艶やかなワンピースを着て、小豆沢さんの腕にしっかりと抱きついたまま歩く女性……なんとうらやましいことか……いや、そうじゃなかった。
「なあ、あれ、この間店に来たエイダってやつじゃないか?」リナに問いかけると、「にひひひ、親方も気づいたんだな。あの日しんべーと一緒に帰った女だ」と僕に流し目を送ってきた。
仲睦まじい二人を見ながら、「親方と違って、しんべーは女に興味があるみたいだな」とか言っているが、リナは何か勘違いしてないか?
「僕も女性に興味があるさ。なんなら、男性には興味ないから間違えるなよ」
「そうなのか?あの日の夜、リサと真琴と話したんだけどな」
「なにを話したのさ」
「親方はゲイだってな」
不本意ではあるけど、想像どおりの内容にため息が出た。あの夜の三人は僕をゲイに仕立てて盛り上がってたんだな。
信号が青になり、まごころ源号を発進させる。二人の世界に浸っている小豆沢さんとエイダを横目に見ながら、「あのな、勘違いするなよ。僕は魔女っ娘になるために頑張っているだけだ」と反論したが、リナは「リサは『魔女っ娘になる』を理由にしてゲイを隠してるって言ってたぜ」と笑っている。
「いったいリサは何を吹き込んで……まさか」僕は思い出した。リサのしたたかさを……
「三浦先生を遠ざけるために、わざと誇張して話したんじゃないか?」
「にひひひ、当たりだ」
やっぱりそうだったか……とため息をついたとき、リナが「あたいは真琴と親方が仲良くなってくれれば嬉しいんだけどな」と言った言葉に僕は驚いた。
「意外だったな……リナは三浦先生を嫌がっているように見えたけど」
「まっ、たしかにそうだったな。でも、あの夜話をしていて気づいたんだ」
「何を?」
「真琴は本気で親方を好きだってな」
——はーっ?何を言い出すんだ、リナは!
「親方!前を見ろ!」リナの大声で気を取り直すと、電柱が猛スピードでまごころ源号に迫ってきた。慌ててハンドルを切ると、今度は対向車が迫ってくる……再びハンドルを切り、間一髪でまごころ源号を立て直すと、額を流れる冷や汗を拭った。
「ふーっ、危なかったな」
「リナが変なことを言うからだろ……」
僕の心臓は張り裂けそうなほど激しく鼓動している。
「にひひひ、親方はかわいいな」
「なんでだよ。まあ、たしかに動揺はしたけど」
ハンドルをしっかりと握りしめて深呼吸する僕の頬に、リナがいきなりキスしてきた。
「ちょっと、リナ……」
「もう、何回もしてるだろ」
「それは、リナが勝手にしてるだけだし……」
歯切れの悪い僕の言葉を聞いて、リナは「なあ、もう少し女に慣れた方がいいと思うぜ」と笑う。「慣れようがないだろ……」と口ごもったが、女性どころか男性の友達もいない僕には、めちゃくちゃハードルが高い。
突然リナが「親方のチューフリー券を作ろうぜ!」とすごくいいことを思いついたかのように、弾む声で言い放ったが、正直、その券がなんのことだかわからない。
「女性なら誰でも親方にチューしてもらえる券をあたいが配る。親方はその券を持ってきた女にチューしてやる。これで親方も少しは女に慣れるだろ」
助手席のリナは満足げな表情だが、その解説を聞いた僕は、さらに意味がわからなくなった。
「あのな……そんな券、誰が欲しがるんだよ」
「んー、そうだな。あたいとリサは欲しがるぜ」
それじゃあ、その券は僕の拒否権を強制的に奪うためのものじゃないか。
「やめろよ。てか、リナは昨日の夜も僕の部屋にいただろ?」
「気づいてたのか?」
「最近、わかるようになってきた。僕は魔女っ娘の素質に目覚め始めてるからな」そう言って胸を張った僕に、リナの深いため息が聞こえてきた。
「親方がそれでいいなら、いいけどな。あたいは悪い女……主にリサから親方を守るよ」
リナはなぜそんなに残念そうなんだ?
「僕の部屋に忍び込もうとするのは、リサしかいないだろ」
「にひひひ、それもそうだな」
急に静かになった車内で、リナが再び口を開く。
「でもな、親方。チャンスは突然来るんだぜ。後悔しないようにしろよ」
表情は見えないが、リナの真剣な声に、僕は「わかったよ」と答えるしかなかった。チャンスか——思えば何度もあったのかもしれない。でも、あの時がチャンスだったと気づいたときには、手遅れなんだよな。
——その頃、ぴより野駅近くに建つ築五十年のアパートの一室では、一人のマッチョが鏡の前に立ち、身だしなみを整えていた。その様子を呆れた表情で見ている痩せた男が、声をかける。
「ゴードン、どこへ行くのですか」その声が聞こえているのかも怪しいほど、身だしなみのチェックに余念がないゴードンを見て、ニコラは大きなため息をついた。
「まったく……ゴードンといい、エイダ様といい……任務を忘れたのですかね」その言葉を聞いて、ゴードンは笑顔で振り向いた。
「ワイは結衣様に貢物をしたらすぐ帰ってくるんや。毎日、しんべーにべったりなエイダ様と一緒にせんといてんか」
「聞こえていたのですか。じゃあ私はあいつらが立ち寄りそうな場所を回ってみますかね」
アパートを出た二人は、駅前の広い通りを商店街へ向かって歩き始めた。
「エイダ様はどこに行ったんですかね」
「そりゃ、しんべーのところに決まっとるで」
「大智と親しいあの男から情報を聞き出すなんて言いながら、実際はべたぼれですからね」
「まったく……困ったもんやで。最近は自転車屋の手伝いもしとるって話や」
そんな会話をしながら並んで歩く二人の背中には、どこか哀愁が漂っていた。
「ただいまー」と声をかけて店に入ると、リゼが女性と話をしていた。「いらっしゃいませ」とひと声かけて店の奥に進もうとする僕の背中に「篠田君、久しぶり」と、どこかで聞き覚えのある声が届いた。その声の主を振り向いた僕の目に笑顔の女性が映った……
「み、宮坂さん?」たったひと言なのに声が震えてしまった。なぜか焦ってしまっている僕は、平常心を保とうと大きく息を吸う。
「にひひひ、リゼ、親方は緊張してるな」
「うん、わかりやすい単純な男……主様はあの女が好み……」
ちょっ、リゼは何を言い出すんだ。宮坂さんまで「ふふっ、そうなのかしら?」と僕をからかうようなことを言い始めるし……
「ち、違います!違わないけど、違います!宮坂さんが好みとか……僕なんかが言える立場じゃないじゃないですか。ねえ」
「親方……誰に話してるんだ?」
「主様……ちょっとかわいい……」
「篠田君、私はいやじゃないよ。篠田君って結構もててたから、声をかけにくかった頃もあったけどね」
これは……もしかして、さっきリナが言ってたチャンスが到来したのではないか?だが、勘違いする男は女性から見たらキモいだろ……とりあえず無難に返しておこう。
「もてたことなんてないですよ。ところで、今日はどうしてここに?」
「これを見てほしくて」そう言って宮坂さんが指差した先には、一台のジュースミキサーが置かれている。
どこか懐かしさの漂う花柄の本体に、僕は見覚えがある。
「これって、リサが作ったやつじゃないのか?」
「そう……この前、この女が買ってくれた」
「リゼ、この女とか言っちゃダメだろ」
「わかった……気をつける……」
僕はそっとリゼの頭を撫でたあと、ジュースミキサーを手に取った。
「前に見たときから変わってるな。随分シンプルになってる」
じっくりと眺めてみるが、スイッチ類が全くついていない。だが、コンセントはあるから、電源は必要なのだろう。試しにコンセントを挿してみるが、うんともすんとも言わない……
隣で様子を見ていた宮坂さんが、「ね、何も動かないの」と少し顔を近づけてきた……こ、これはやはりチャンスが到来したのではないか?それにしても美しい……小学生の頃のかわいさに美しさが加わり、その困惑した表情で見つめる瞳が僕の心を鷲掴みにした。宮坂さんが望むなら、僕は魔女っ娘になる夢を捨てられるかもしれない。
そうじゃなかった。このジュースミキサーだが、僕にはどう扱えばいいかさっぱりわからない。
「まあ、リサが作ったやつだからな……」とつぶやいた僕にリナは「たしかにそうだな……」とうなずき、リゼも「うん、リサはもうすぐ戻るはず」と納得したようだ。宮坂さんだけが、首をかしげて困った顔をしている。
動かないミキサーを前に四人が沈黙する店内に、チリンチリンと小気味よい音が鳴り響く。
「ただいま戻りました。あら、マスターが私を出迎えてくれるなんて、ついにこの日が来ましたか」
帰ってきたリサは僕を見て微笑んでいるが、ついに来たこの日がいったい何の日なのか、あえて聞かないでおこう。
「リサ、おかえり。このミキサーが動かなくてさ。リサに使い方を聞こうと待ってたんだ」
「それはすなわち、私よりもミキサーが好きということですね。そうですか、そうですか」
僕はリサに好きと言ったことはないし、ミキサーが好きと言ったこともないんだが……
ぷいっと顔をそむけたリサは、「私は準備をしてきますので、そこで息を止めて待っていてください」と言い残して居間へと消えていった。
「なあ、親方。息を止めないといけないのはなんでだ?」
リナのその声を最後にみんな黙り込んだ。ミキサーを前に悩む四人を包んだ長い沈黙を、リゼの「はっ!」という声が切り裂いた。
「我は理解した……息を止め中断した生命活動から湧き上がる闇の力を、このミキサーが取り込み洗練し、世界を支配する糧として主様に与える……」
「本当か、リゼ!」僕は思わず声を上げ、息を呑んだ。
これは、影から人類を支配する僕の計画のために作ってくれたのか……釣れない態度を見せてはいるが、リサも計画を進めてくれているんだな。
真剣な顔で見つめ合うリゼと僕は、無言でうなずき合った。全人類は我が手中に収まりつつある……言葉は交わさずとも互いにそれを認識したのが理解できたからだ。
「そんなわけないと思うけど……」宮坂さんの声が僕とリゼに水を差した……
「そうだぞ親方、この宮坂とかいう女の言うとおりだ」
リナにはまず失礼な呼び方をやめさせよう……
「ごめんなさい、私は美緒っていいます。自己紹介が遅れましたね」
「美緒か……いい名前だな。あたいはリナ、親方の一番弟子だ。よろしくな」
「我はリゼ……主様の忠実な下僕……」
今更ながらの挨拶だが、得意げな顔で胸を張るリゼの自己紹介はどうかと思う……
「私はリサと申します。マスターにとって都合のいい女です」
いつの間にか戻ってきたリサが、もっとやばい自己紹介をしてくれた……
リサは無言でテーブルにまな板を置くと、その上にりんご、バナナ、みかん、砂糖を並べた。「これで作ってください」リサの声に反応するかのように、ミキサーが勝手に向きを変えた。
「えっ、これ動くの?」宮坂さんの驚く声が響くなか、ミキサーは材料を確認するように左右に動いた。
「おい、牛乳とレモンが足りないだろ!」
——しゃべった?ミキサーがしゃべったよね……リナを見ると驚いた表情で僕を見てうなずいた。やっぱり僕の幻聴ではなくて、こいつがしゃべったんだ……リゼは目を輝かせ、宮坂さんは少し顔色が悪い。
「口が悪いですね。分解しますよ」
「うるせー!とっとと足りない分を持ってこい」
「仕方ありません。ちょっと待っていなさい」
リサは居間へ入ると、牛乳とレモン、それにヨーグルトを持ってきて、まな板の上に並べた。
「おっ、ヨーグルトも持ってくるとは、なかなか気が利くな、奥さん」
「奥さんだなんて……マスター責任を取ってください」
リサは恥ずかしがっているが、ミキサーの発言でなぜ僕が責任を取らなければいけないんだ?
突然、ミキサーからナイフを持った腕が伸び出てきて、器用に皮をむき、小さくカットしていく。さらに自ら蓋を取り、次々とボトルに材料を放り込んで、丁寧に混ぜ合わせていく。時折、モーターが止まり、材料を追加していくが、そういうレシピなのだろうか?——しばらく動いていたモーターが止まると、「できたぜ。飲んでみろよ」と言い、ミキサーの腕が本体に収納された。
リサがジュースをグラスに注ぎ、全員に配った。僕は手に持ったグラスをじっと見つめる。「これは飲んでもいいのか?」思わず口にして見回すと、リサ以外は全員グラスを見つめている。
「マスター、失礼です。いつも私のスカートの中から出てきた液体を飲んでいるではありませんか」
いろいろと誤解を生む言い方はやめてくれ。
「それは麦茶とかだろ」
「麦茶だけとは限りません」
——たしかにお茶や水、時にはコーラを出してくれるが、今は黙っておこう。——それより、この液体だ……
ふと目を向けると、心なしかグラスを持つ宮坂さんの手が震えている。よし、ここは彼女の不安を払拭するために僕が人柱になろう。この液体に害があろうとなかろうと、きっと宮坂さんの瞳には、僕が凛々しく映るはずだ。そうだ、チャンスは戻ってこない、今こそ掴み取るときなんだ。人類支配計画が頓挫するかもしれないが、そのときはそのときだ。今は今の後悔をしないようにしなければ、男が廃る。
『南無三』と心の中でつぶやいて、僕はジュースを一口飲んだ。「う、うまいな。これ!」思わずこぼれた声にリサは胸を張った。
「当然です。このジュースミキサー『ブレンダー・サブロー君』には、あらゆるジュースやスムージーのレシピが標準搭載されており、揃えられた材料に応じて適度な分量を自ら切り出し、一番おいしい割合と口当たりで仕上げてくれる。世界にたった一台、私以外の奥様にとって羨望の商品です」
「おいしい」
「うん、うまいな」
宮坂さんとリナはこのジュースを気に入ったようだ。リゼは黙っているが、黙々と飲んでいるからきっと気に入ったのだろう。商品名とリサが誰の奥様なのかは置いておいて、たしかにこれは優れた商品だとは思う。だが……正直、これは世に出していいものではない。
「宮坂さん、これはナイフを持って勝手に動くし、何より口が悪い。お金はお返ししますので返品してもらえませんか」
とんでもないものを売りつけてしまった後ろめたさもあって、僕は宮坂さんに遠慮がちにお願いした。
「我も主様の意見に賛成……このようにすばらしきものは全て主様と我の手中にあるべき……」
リゼ……僕が返品をお願いしたのはそんな理由じゃないぞ。
宮坂さんは何も返事をせずに、ブレンダー・サブロー君を紙袋の中にしまった。
「あの、そのままここに置いていってくれれば大丈夫ですから」僕が声をかけると、宮坂さんはにこっと微笑んで、「返しません。これ気に入りました」と言って、ブレンダー・サブロー君が入った紙袋を膝に置いた。仕方がないか……
「気に入ってもらえて光栄です。故障したらいつでも持ってきてください。私が修理します」
「リサさんがそう言ってくれると安心です。とてもいい買い物をしました」
宮坂さんは嬉しそうにしているし、これ以上は何も言わないでおこう。
「そうでしょう。また何かを作ったらここに並べますので、時々立ち寄ってください」リサの言葉に宮坂さんは、「はい、そうします。楽しみが増えました」と瞳を輝かせた。
「ところで、私のマスターとどのようなご関係で?」急に声のトーンが落ちたリサに、宮坂さんは、「小学校から中学まで同じ学校でした。幼馴染ですね」と笑顔で答える。
「なるほど……マスターを好きだったと」
「リサさんにはお見通しですね」
な、なんだと……す、好きってこと?僕のことを宮坂さんが好きってことだよね?
思わずジュースを吹き出しそうになったのをこらえると、一気に胸の鼓動が激しくなる。手には得体の知れない汗がにじみ、呼吸も早くなる。ここは落ち着いて……そうだ、今は気づいていないふりをしておこう。
そうすれば『篠田くん……聞いてくれた?私、篠田くんのことが好き……』『宮坂さん……』『美緒って呼んで……』『僕も美緒のことを……』『うれしい……これからよろしくね。大智……』なんて展開になるはずだ!
「にひひひ、親方、鼻からジュースが出てるぞ」リナの声に振り向くと、リゼが「困った主様……」と言いながら拭いてくれた。
「ふふ、篠田くんは相変わらずみたいで、安心しました」とおかしそうに話す宮坂さんの声が聞こえてきた。
「ご安心ください。マスターはだいたいこうです」
「そうみたいね。リゼさんなんて慣れた手つきですもの」
僕は恥ずかしくて宮坂さんの顔を見ることができない……
「ところで宮坂様、当時のマスターはどのようなクソガキだったのですか?」
リサ……幼き僕をクソガキ前提で話さないでくれよ。
「そうね。いつも一人だったかな。私が一番印象に残ってるのは修学旅行です」
宮坂さん、せめてクソガキだけでも否定してもらえませんか?
「興味があります。教えていただけませんか?」
「修学旅行って六人で班分けされたんです。でも、なんの手違いかわからないけどね、篠田くんはどこの班にも入っていなかったの。それで、修学旅行中ずっと一人で行動していたわ」
「その頃から存在感が皆無だったのですか」
リサは妙に納得しているけど、それはそれで僕は楽しかったんだと、声を大にして言いたい。
「帰りにね、トイレ休憩で高速道路のサービスエリアに寄ったんだけど、全員がバスに乗って、先生が人数を確認したはずなのに、篠田くんは乗っていなかった。私、気づいてたんだけど、言っていいのか迷っているうちに、バスが出発しちゃって。あのときはゴメンね、篠田くん」
——いや、宮坂さんが謝ることじゃないし、後で迎えに来てくれたから別にいいんだけど……言わないでほしかったな。
「それでこそ私のマスターです。惚れ直しました」拳を握りしめて納得するリサに、僕は「なんでだよ」と思わず声が出てしまった。
「私は常々疑問に思っていたのです。なぜマスターはそのようにかわいい顔をしているのに、女性にもてたことがないのかと……それが宮坂様の話で全て解決した気がします」
——何を言ってるんだコイツは……言い返そうとする僕の袖がそっと引かれ、振り向くとリゼが僕を見上げていた。
「主様、結衣姫を迎えに行く時間」
壁の時計を見ると、そろそろ出ないとまずい時間になっていた。
「ありがとう、リゼ。迎えに行ってくるよ」そう言って立ち上がる僕に、「私も同じ方向だし、一緒に行ってもいい?」と宮坂さんが声をかけてきた。
「あっ、はい。喜んで……」焦ってしまった……このあと僕は宮坂さんに何を言われるのだろうか。——ついに彼女いない歴=年齢を脱する日が来たんじゃないか?
「じゃあ、行きましょう。篠田くん」宮坂さんに促されて、僕たちは店を後にした。
——自転車で並んで走る大智と美緒の後ろ姿を三人がじっと見つめる。
「私はあの方にならマスターを任せられるような気がします」ひとり言のようにつぶやいたリサに、リナはため息をついた。
「真琴の方が親方を大事にすると思うぞ」
「いえ、あの女はしたたかすぎます……」
「そうか、リゼはどう思う?」
「我は結衣姫を大切にするなら誰でもいい」
「それなら、やはり私でしょう……」
「結局そうなるんだな、リサは」
——結局、何事も起こらず保育園に着いた。よからぬ期待をしていた僕だったが、よくよく考えてみれば、宮坂さんとこんなに話をしたのは初めてなんだし、まずは互いの今を知ることが大切なんだろう。ここまで、僕は無難に会話を続けられたはずだ。
「じゃあ、僕は結衣ちゃんを迎えに行くので」宮坂さんにそう伝えて、保育園に向かう僕の後ろを、なぜか彼女はついてきた。「あの……」戸惑う僕に宮坂さんは「私も結衣ちゃんに会ってみたいです」と微笑んだ。
「結衣ちゃんにですか?」
「そう。だって、篠田くん、ずっと結衣ちゃんのことを楽しそうに話してるんだもん」
そんなに楽しそうだったかな?僕と一緒なら宮坂さんが保育園に入っても問題ないだろう。
「じゃあ、一緒に行きましょうか」彼女に微笑んだ僕の脳裏に魔女っ娘の直感が降りた……宮坂さんは僕との将来を見据えて、今から結衣ちゃんと親しくなっておいて……余計な詮索はやめよう。
保育室に入ると、「おじちゃーん」という声とともに結衣ちゃんが駆け寄ってきた。
「結衣ちゃん、帰りの準備ができるまで遊んでていいよ」僕が言い終わる前に、結衣ちゃんは再び友達のところに走っていった。結衣ちゃんはいつもあの三人と一緒にいるよな。
結衣ちゃんの棚の前にしゃがみ込み、帰りの準備をしていると、宮坂さんも隣にしゃがみ込んで、「篠田くん、ちゃんとお父さんしてるんだ」と声をかけてきた。
「お父さんですか……どうなんでしょうね。結衣ちゃんのためにできることをやっているだけなんで」
「やっぱり優しいんだね」
「なんか、そう言われると恥ずかしいです」
いままでお父さんなんて言われたことはない。自分では意識していなかったけど、改めて言われると顔が赤くなっているのが自分でもわかるほど恥ずかしい。
「おじさーん」その声に赤くなった顔が一気に冷えた。これは気のせいだ、幻聴のはずだ。
「結衣ちゃんのおじさーん」
「篠田くん、呼んでるよ。しかもすぐ後ろで」
宮坂さん、教えてくれたのはありがたいのですが、僕は存在を隠蔽しているつもりだったんです……こうなっては仕方がない。僕は存在隠蔽のスキルを解いて、振り向きざまに営業スマイルを浮かべる。
「み、三浦先生。今日もありがとうございました」
三浦先生も笑顔だが、目だけが笑っていない。
「おじさん、今日も女性と一緒ですか?」
「ええ、まあ……そう見えますかね?」
「そうしか見えません」三浦先生はそう言い残して、園児たちの方に行ってしまった。
「なんか、先生怒ってました?」宮坂さんが心配げな表情で僕の顔を見た。
「前にリサが問題を起こしたし、その後もリナがやらかしたので……たぶんそれが原因かと……」
「私……違うと思うな……」
帰る支度ができた僕は立ち上がって保育室を見渡す。全てが小さいサイズで、よく見渡せる室内の窓際で、結衣ちゃんはやっぱりあの三人と遊んでいた。きっと仲良しなんだろうな……
「結衣ちゃん、そろそろ帰ろうか」と声をかけると、駆け寄ってきた結衣ちゃんの足が止まった。「おねえちゃん、だーれ?」その視線は宮坂さんに向けられている。
「こんにちは、結衣ちゃん。私は篠田くん……大智くんの友達で美緒っていうの」
何気ない自己紹介だったが、名前で呼ばれた瞬間、僕の心は完全に宮坂さんに奪われた……
「ふーん。おねえちゃん、かわいいね」
「ありがとう」と優しく微笑む宮坂さんに結衣ちゃんを任せて、僕は「今日もありがとうございました」と三浦先生に声をかけ、三人で保育室を後にした。
自転車置き場に向かう間、結衣ちゃんはなぜか宮坂さんと手をつないでいる。楽しげに話をしているが、そのところどころに入る『おねえちゃん』という呼び方……僕は宮坂さんと同級生なんだ……なのに『おじちゃん』と『おねえちゃん』の違いはなんなんだ?——いや、当然と言えば当然か。僕は結衣ちゃんの叔父だし、おじちゃんと呼ばれるのが当たり前だ。わかっている、わかっているのに……
「おじさん、少しお話があります」自転車置き場の前でふいに声をかけられ振り向くと、あからさまに怒った表情の三浦先生が立っていた。その手にはスタンガンが握られている。
「それは?」と問いかける僕に三浦先生は微笑んだ。
「おじさん捕獲器です」
——なにそのオヤジ刈り専用の秘密兵器みたいな名前。
「いや、それはこの間、ニコラから奪った……」
「私のおじさん捕獲器です!」
三浦先生は笑顔のまま近づいてくる。
「そ、そのおじさん捕獲器を何に使うのですか?」
まあ、名前から何に使うか想像はできるが、念のために確認しておきたかった。
「おじさんが他の女にちょっかいを出したときに捕獲するためですよ」
「えっと……僕は捕獲されるんですか?」
「はい」——まずい、逃げなければ。あの日のゴードンと同じ目に遭う。
「あの……」宮坂さんの声が三浦先生の足を止めてくれた。「なんですか!」露骨に敵意むき出しの三浦先生に、「私、結婚してますよ」と言って宮坂さんは笑った。その声はそこはかとなく優しかったが、その言葉は僕には優しくなかった……
「なーんだ。そうだったんですか。勘違いしちゃいました」三浦先生の声は弾んでいるけど、僕の心は深い闇に沈んでいく。
「篠田くん!大丈夫?」
「おじさん!」
その声に顔を上げると、二人が心配そうに僕を見ている。そうか……体の力が抜けて膝をついてしまったんだな。こんなにつらいとは……いや、今日のことは僕が勝手に思い込んでいただけだから、自業自得なのか。
僕は黙って立ち上がり、無理やり笑顔を作る。
「宮坂さん、結婚してたんですね。びっくりしました」
「ごめんね。私、『立花』になってるの」
「そうだったんですか……教えてくれればよかったのに」
「ごめんね、篠田くん。なんか言い出せなかったのと、『宮坂』って呼ばれるのが懐かしくて、嬉しくなっちゃって」
申し訳なさそうにはにかんでいるけど、宮坂……立花さんは何も悪くない。なのになぜ僕の心はもやもやするのだろう……
僕は深呼吸をして気を取り直し、結衣ちゃんをバッカル三号に乗せる。
「結衣ちゃん、リゼにおやつを買って帰ろうか」
「うん、べにぱりにいくのー!」その声はどこまでも明るく楽しげで期待に満ちていて、僕の心を癒やしてくれた。
「じゃあ、僕は帰りますので、み……立花さんも気をつけて帰ってくださいね」
「うん、篠田くん、今日はありがとう。また、お店に行くね」
「はい、リサも喜びます」
バッカル三号にまたがった僕に「おじさん、大丈夫ですか?」と三浦先生が声をかけてきた。
「ちょっとびっくりしすぎて……でも、考えてみれば僕の年齢なら結婚していてもおかしくないですもんね」
なぜか「私もそろそろ……」とつぶやいた三浦先生が頬を染め、上目遣いで僕を見つめる。
三浦先生はまだ少し早い気もするが……「いい人がいればチャンスを逃さないようにしてくださいね」まるで自分に言い聞かせているようだが、三浦先生には後悔してほしくないと思い、笑顔で伝えた僕に、三浦先生は「バカ……」と小さな声でつぶやいた。
そんなこと改めて言わなくても、馬鹿なのは自分でわかっていますよ……心に流れる涙を見られないように、僕は保育園を後にした。
紅巴里に着くと、相変わらず結衣ちゃんは店に駆け込んでいく。
「あー、ゴンちゃん!」聞こえてきた結衣ちゃんの声に、僕は首を傾げた。僕も店に入ると、タキシードに蝶ネクタイのマッチョが近づいてきた。
「はじめましてやで、ワイは結衣様に貢物をしたくて待っとったんや」
「お前、この間うちに来ただろ?」
「なんのことや?」ととぼけているが、コイツは本気であの変装でバレていないと思っているのか?だいたい結衣ちゃんに『ゴンちゃん』って呼ばれてただろ……
「それで、ゴードンが何の用なんだ?」
「ゴードン?誰やそれ?」焦った顔で言われると、もうネタとしか思えなくなってきた。
「もういいよ。それで貢物って?」
「この店のお菓子を結衣様に買うたろうと思ったんや」
「よくここに来るのがわかったな」
「巴里ママに聞いたんや」
この婆さん、余計なことを言いやがって……
「まあ、いいじゃないか。ここでずっと待ってたんだから、うちの売上に貢献させてやりな」
巴里ママからすれば誰が買っても一緒だろう。
「それで、あんたはなんでそんなしけたツラしてんだよ」巴里ママが僕の顔を見てにやけている。
「別にいいだろ」
「女にふられたね」
なっ、年季は入っても女か……勘は鋭いな。
「大智さん。ワイで良かったら聞くで。話したら楽になるってもんや」
僕の名前を知っている時点で、もうコイツは自分の正体を隠す気ないだろ……
僕はオブラートに包んで今日の立花さんとの出来事を話した。
「やっぱりあんたはクソガキのままだねー」と巴里ママは大声で笑っている。まあ、僕の勘違いが生んだ結果だから笑われても仕方ないが、心が折れる。
「ゴンちゃん、これ買って!」結衣ちゃんがキャラメル三個を両手に持ってきた。
「結衣様、三個でええのか?」と尋ねるゴードンに結衣ちゃんは「これはゆいの、これはリゼちゃんの、これはゴンちゃんの」と笑顔で巴里ママの前にキャラメルを並べた。——ゴードンの分はあるのに僕の分がなかったことで、さらに心が折れた。
「なんちゅー優しい子や……天使や、結衣様はほんまもんの天使や……」ゴードンは涙を流している。
「自分の分を自分で買うのはなんか違うだろ。お前の分は僕が出すよ」僕が声をかけると、「違いますのや。ワイの分を選んでくれたことが嬉しいんや」とゴードンは涙を拭いている。
「まあ、それでいいなら、僕はいいけどな」
店を出ると、ゴードンが僕の肩に手をかけてきた。
「大智さん、ワイは同情するで……ワイも兵役で海外に行っとる間に嫁を他の男に取られたんや……」
今日の僕とはだいぶ違う気はするが、こいつもいろいろあってここにいるんだろうな……
「ただ、ワイも任務や。任務中は容赦せんで」
「そうか、僕は僕の目標のために、降りかかる火の粉は払うつもりだ」そう言った僕に、ゴードンは握手を求めてきた。僕がその手をしっかりと握ると、ゴードンはしっかりと僕の目を見て、「任務以外ではよろしゅう頼むわ」と握手する手に力を込めた。
「ほな、ワイは失礼しますわ。結衣様、今日はありがとうやで」と立ち去るゴードンに結衣ちゃんは、「ゴンちゃんまたねー」と手を振っている。なぜだろう、なんかゴードンとはうまくやれそうな気がしてきた。仲良くしていれば魔女っ娘の秘密も教えてくれるんじゃないか?——淡い期待を胸に僕はリサたちの待つ店に向かった。
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