ウェイ・トゥ・ミラ
岐路に立っている。
もしまたあそこに行けば、きっと正気ではいられないのだろう。
考えるべくもない一択の設問、理性があるのなら選ばない選択肢。それでも俺は悩んでしまっていた。
なぜなら、今日がつまらないから。
騙されてみるといいわ。
またしょうもない自問自答が湧き出すのをぶつりと叩き切る。本当は、肥大したこの頭をぐちゃぐちゃに破壊してくれるなら、騙されるのも悪くないのだ。その実、俺は恐れているだけなのだ。
救い出してほしい。少年デュクスと、名の知らぬ少女が俺をも救うというのなら、そうして見せてほしい。
ああ。起き上がるのも面倒だ。
俺は跳ね起きた。
タオル地のかけ布団を跳ね飛ばして、何かそういうおもちゃのように、バンと跳ね起きた。
起こした上体の中で心臓が鳴る。自分自身を驚かせるほどの急激な動作で、膝立ちになってよくよく確かめる。この不快な鼓動が、俺を肯定する。
まるで悪夢だ。悪夢は、確かに俺が体験していたあの時間であり、なおも続くこの時間である。
それを覚ますのは、俺一人で難しいかもしれない。
つまり、なんというかその、とりあえずデュクスに会いたい。
勘違いだとか術中に嵌まるとか、騙されるとか遊ばれてるとか、いろいろ思うこともあってそんなことを考えている自分が気持ち悪くて嫌になるが、あのダイヤ柄の部屋にもう一度行かない限り、晴れ間が見えない気がするのだ。
着古したシャツに緩いズボンのまま、ベランダに出る。願わくば真実の熱さを持つ太陽が、俺を焼き殺さんことを。
果たして、今日も今日とて白い地獄は灼熱をもって俺を出迎えた。後ろ手に窓を閉める。
感謝を感じた。
俺は馬鹿だった。決心がついた。
「行くか」
ぶよぶよに水を吸った俺の体は一瞬で蒸発し、汗がにじみだす。
忌々しい太陽が、この時ばかりは俺の味方であった。
暑い日差しがすぐに鬱陶しくなって、さっさとクーラーのきいた部屋に戻ることにする。
ガラリ、と。
「あれ、来たのね」
「わあ。また会ったね!」
「……は?」
なんの奇妙か、俺のベランダは、次の瞬間にはダイヤ柄のあの部屋につながっていた。
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「……どうも」
少女がカフェオレを注いでくれた。
いい匂いだ。紅茶派の俺も、この香ばしい匂いはかなり好意的に感じている。
「別に、気にしなくていいのよ」
少女はカップを傾けるとそう言った。俺が答えかねていると、少女は続けた。
「あら?昨日の態度を後悔していると思ったのだけど」
「……はは」
嫌な奴。実際そうでもある。どんな顔で、どんな姿勢でこのカップを手に取ればいいのかわからなくなった。
単純に湯気の立つそれを手に取り難くもある。
「小さな夢を見つけたわ。それを刈りに行こうと思う」
「はあ」
「安心なさい。命の危険はあまりないわ」
「……あまり、ね」
「……怖がりさんね」
言葉の端を掴み合う。プロレスというやつだ、多分。
「ねえ、なんて呼ぼうか」
デュクスが俺の隣に座る。
「俺?普通に、何でも。名前でいいよ」
すると少女が首を横に振る。
「そうはいかないわ。悪夢に本名を知られるのはまずい」
「そうなのか」
「街で名前をよばれたら知り合いかと思うでしょ?夢に名前をよばれたら目覚めるのが遅くなるものよ」
少女は角砂糖をカップに放ると、小さなスプーンで混ぜた。
「無難にヒュートにしましょう」
「そうなるよね」
デュクスは苦笑した。ヒュートは無難な名前らしい。最後にあだ名を付けられたのも随分昔のことで、少しくすぐったい。
「さあ、行きましょ。夢は昼に刈るものよ」
二人に続いて俺も立ち上がる。デュクスがドアを開けると、見慣れない路地に出た。
「どうなってるんだ……」
二人は迷いなく進んでいく。日の差す路地は季節と明るさに反して、背の冷えるような空気を湛えていた。
暑い。暑いが、冷たい。その温度差が不気味で、一歩分だけ二人の近くを歩いた。
角を曲がると、不気味さは一層増して、底冷えするような怖気に身震いする。
「まさか、このまま悪魔と戦うのか?」
「そのまさかよ、ヒュート。大丈夫、ちょっとしたレクリエーションだから」
少女は余裕の態度を崩さない。熟練の夢刈り人なのだろう。
入り組んだ路地の行き当たり。何となく避けていた、街に潜む袋小路。それは単なる地図の一部であって、間違っても、そう、悪意や恐怖の集積地などではないはずだった。
「出て来なさい」
紫がかった炎が巻き上がる。円を描き、螺旋状に空を昇り、見上げる位置に姿を現す。
昨日目にした悪夢とは少し様相が異なる。異質な眼球と不鮮明な輪郭は同じだが、丸っこく、二回りほど小さい。
そして細く長い腕のような部位が、俺たちの前を薙ぎ払った。
「っ!うわっ!」
「……!」
そのまま腕を交差し、守りこむような姿勢をとる。
瞬間、少女は飛び退き、デュクスが俺の前に出る。
それぞれの動きに驚く間もなく、悪魔の叫びが響き渡った。
ごおおおおおおう──。
心臓を掴まれた。もう身じろぎの一つもできない。あの時と同じだ。地下の悪夢と目が合ったときと同じ、魂を掌握されたような感覚。
やばい。
「目覚めよ」
「は……っ!!」
デュクスが微笑みかける。愛だ。この子がいれば何事もどうということはない。
「破邪の光よ!」
少女の拳に白い光が集まる。駆け込んだ少女が驚異的な跳躍力で飛び上がり、輝く拳を悪魔の額に叩き込んだ。
悪魔がうめき、腕を振り回す。空を切ったそれが狭い路地を作る外壁に当たって炎を散らす。
間髪入れずに小さな身体が再び飛び込み、靄の中心に拳を打ち込む。収束する光が眩く弾け、小気味良い音ともに悪魔を後退させる。
「押してる……!」
「すごいでしょ。腕利きなんだ」
デュクスが自慢げに言う。どれだけ高位なことが行われているか正確にはわからないが、少なくともあの運動能力だけでもアスリートだって目じゃない勢いだ。
「ッらあ!」
「ゴアアア……!」
渾身の一発。悪魔が霧散していく。俺の中に渦巻いていた恐ろしい冷たさもいつの間にか無くなり、少女の華麗な武闘劇に興奮さえ覚えていた。
「恰好よかった」
少女に歩み寄りそう言った。言ってから、格好つけすぎだとか、恥ずかしいことをとか思ったが、少女は「ありがとう」と笑顔を作った。
心臓がどきりと軋む。まるで、そう、大スターと会話しているみたいだ。
「さ、後始末をしなきゃね」
少女は悪魔の方に歩く。
「眠れ」
会敵時とは比べ物にならないほど小さくなった靄に、少女の魔法がかけられる。温かな光がそれを包んで──。
瞬間。
「ッ……!」
「あっ!」
紫色の炎が爆発した。
少女が足をつける位置が誘爆するように、二度、三度、次々に地面が爆ぜる。
デュクスが俺をしゃがませたとき、振り上げた視線の先を見て俺はようやく何が起きたか理解した。
新手の襲撃。
逆光に白飛びする中でもはっきりとわかる、黒く細長い実体。精密かつ高速の射撃が少女を襲ったのだ。
「このッ…!」
接地点と本体を巧妙に打ち分ける弾幕が、少女の体勢を崩し続ける。デュクスは俺を守るために、その救出に動くことができない。
安全なんじゃなかったのか。言葉が零れ落ちた。
足への被弾をかわそうと跳躍した先への狙撃。輝く彼女の手が魔の炎を撃ち払ったが、都合第三撃。
華奢な体が吹き飛ばされる。
赤と白の服が焼け、少女が苦しげに呻く。
歪んだその表情に、自分の無力さを呪った。
俺がいなければデュクスが助けに行っただろう。あんな傷を負うこともなかったはずだ。俺はこうして守られているばかり──。
この体に彼女らのような特別な力があれば、二人を助けることができるのに。
「デュクス、俺はもういい。あいつを助けてやってくれ!」
「でも、ヒュート……!」
「いや、でもし、し、死ぬぞ、あいつ!俺なんかま、守っても意味ないって!」
デュクスの肩を揺さぶる。
雨のような追撃を少女は辛くも躱すが、もはや消耗戦だ。回避は迎撃へ、迎撃は被弾へ。魔炎と白光がぶつかるたび、光が輝きを失っていく。
「なあデュクス!」
バチリと目が合う。澄んだエクルベージュの瞳が抱える葛藤を覗いたとき、俺は絶望した。
俺を守っていた人間が飛び出す。
「キャトレ!」
デュクスが叫んだ気がした。しかし俺はその喪失感でどうしようもなく呆然としてしまった。
少女が死の危険にさらされ、自分の罪悪感を忘れたいがために、俺は自死を選んだのだ。対岸に安住した愚か者の発言が、十七年の人生を終わらせる。
影は剥き出しになった肉を見逃さなかった。デュクスが飛び出すと同時に放たれた紫色の殺意が、俺を確実に仕留める。
「ヒュート!」
その直前、デュクスの声が凛と響く。
「叫んで!破邪の光よ!」
「っ…! ヴァンクル……」
有無を言わせぬ声音に、続けて発音しようとするが被弾が先だった。
「うぐっ…」
猛烈な威力で吹き飛ばされ、炎がバチバチと服を焦がす。直撃した背中は大火傷だろうか。今は何も感じられない。
「ヒュート…!」
「ば、バンクルマレ!ヴァンクルマーレっ!!」
もうヤケクソだ。敵に正対することもできない。
ただ災害が通り過ぎるのを待つ時に埋め合わせるように唱える念仏に相違ない。
言葉の意味も効果も知らない。ああ痛いのは嫌だ。痛いのは怖い。苦しみたくない。痛いのは嫌だ。
どうして誰も守ってくれないのだ!助けてくれ。助けてくれ!
気づけばデュクスも少女も見えなくなっていた。
怒りが燃え上がる。ああ、よかった。二人は無事に逃げおおせたと見える。俺という無垢な一般人を見捨てることで、力のある人間が生き残ったのだ。
あの光の力を使って、夜に蔓延る悪夢を蹴散らし、世界に平和をもたらすのだ。結構なことだ。
「あああっ…!ヴァンクルマーレ!ヴァンクル──」
硬い影のほうが降りてきた。沈むようにゆっくりと、ビルの上から降ってくる。
舌が痙攣し、言葉も息も出なくなる。惨めな俺に一瞥くれてから、それは靄の悪魔の方へ歩み寄った。
もはや俺は脅威ではない。そのまま息を殺して、小さく蹲ってこの状況が終わるのを待った。
硬い悪魔は靄の悪魔を小脇に抱えると、ビルの影へ踵を返す。そして足を止め、振り向き、俺の方に手を翳す。
紫色の炎が滲み出す。撃ち出される。
しかし、最後も白い光が俺を守った。
デュクスが助けに来てくれたのだ。
「ヒュート、ごめんね。君のおかげで、キャトレはもう大丈夫」
「俺のおかげで……?」
馬鹿なことを、と笑おうとしたのに、命が助かって、誰かに見つけてもらえて、あんまり嬉しかったもんだから、目からぼろぼろと溢れた感情がそれを止めてしまった。
デュクスは「うん。きみのおかげだよ」と続けた。
魔炎は今度こそ脅威を潰そうと威力を増して襲いかかる。だが恐れることはなかった。白光が紫炎を打ち砕き、俺の頬に微風さえ届かない。
「落ち着いて、ヒュート」
深呼吸する。影を真正面に捉え、上体を起こして手を翳す。
「いくよ」
「ああ」
「「破邪の光よ」」
純白がぱっと光った。
こんなにも眩く、暖かな光があったのだ。心臓が高鳴り、熱い血液を全身に満たしていく。
炎を霧散させていた防護現象は、今度は大きな音を立てて火花を散らしている。
俺の超能力が、デュクスのそれと合わさり、力強く魔を跳ね除けているのだとわかった。
黒い影はそれから少しのあいだ炎を撃っていたが、守護の光が一向に消えないのを見てか、靄の悪魔を抱えてビルの影に溶け沈んだ。
俺たちは邪悪を退けた。
「……」
「はぁ──」
大きなため息をついた。
デュクスが嬉しそうに微笑む。
「ヒュートならできると思ってたよ」
「ほんとかよ」
笑みが溢れる。
まさか俺にあんな力が発揮できるとは。魔法使いのようだった。それこそ夢のような、不思議な体験だった。
「さあ、あの部屋に戻ろう」
いつの間にか辺りは暑い夏を取り戻しており、もう一刻も早く涼しい場所に移動したい。
来た道を戻って何処へ続くとも知らない裏口のドアを開けると、そこはダイヤ柄の床がお洒落な、臙脂の壁の部屋につながっていた。




