モノクローム・ダイヤ
「……長居するつもりはない」
「えー。つれないなぁ」
華奢な腕を振りほどけないまま、裏路地の地下に連れ込まれた俺は、しばらく少年からのラブ・コールを受けることになった。
コントラストが映える衣装に赤い靴を履いた少年は、俺をソファーに座らせると、質問攻めを開始した。
生まれ、育ち、年齢、通っている学校─これは答えなかった─、好きなもの嫌いなもの。趣味、特技、休日の過ごし方……。
美人局や宗教勧誘のような危険なにおいがしていながらあれこれしゃべってしまったのは反省している。
決して ころころと表情を変えながら話を聞く少年が可愛かったからとかでは断じてない。普段人と話さないがために、興味を持ってもらえることが気持ちよかったとか本当に思っていない。
あと美人局ってそういう意味じゃないから。本当にそう。
ぐるりと部屋を見回す。
床は白黒のダイヤ柄、落ち着いた臙脂の壁紙が何とも言えない高級感だ。
薄暗く、オレンジがかったライトも相まってお洒落な雰囲気。未経験の連続で居心地が悪い。
ソファーは俺が座っている大きいもの以外に、小さなものと木でできたものがいくつか。テーブルには筆記用具や書類、ボード・ゲームに使われるような道具かおもちゃが散乱している。
ゲームに関する商業施設と言えなくもないが、数奇者の秘密基地というほうが納得感がある。一体、何が起こっているのか。
お友達ごっこのサービスを押し売りされている?あとでぼったくられるのか?入店したということは同意の上、と判決がくだるのか。あるいは不法侵入?思考をめぐらすたびに顔が青くなったり白くなったりする。
そんな俺を知ってか知らずか、少年がまだまだ話しかけてくるのを、奥にいる少女が制した。
「ねえ、もういいんじゃない。おしゃべりのために連れてきたわけじゃないんだから」
腕時計を見ながら、呆れたように言う。まるで意図して俺を捕まえてきたかのような口ぶりに眉を顰めるが、少年も「そうだったね」と静かになる。
「お、俺に何か……」
「デュクス、あれ持ってきて」
「うん。ちょっと待ってね」
少年──デュクスが黒いドアの向こうに行ってしまう。途端に心細くなった俺は、このツインテールに何を言われるのか恐れ固唾を飲んだ。
「急に引っ張ってきてごめんなさい。あなたにお願いしたいことがあって、こんなところまで呼ばせてもらったわ」
「お願い?……ですか。俺に何を……」
俺よりもいくつか年下に見える金髪の少女には、どことなく距離を詰めさせない雰囲気を感じた。
「口で説明するより見てもらったほうが早いわ。来て」
そう言うと、デュクスが消えたドアを開く。
一つの灯りもない、真っ暗なその部屋に踏み入った瞬間、どっと寒気が押し寄せ、俺は思わず立ち竦んだ。
冷たいというよりも、寒い。どろどろと不気味な音を立てる暗闇の中に、微かな明滅が見えた。
「───。」
目だ。瞬きをしている。
ドアから差す部屋の明かりを反射して、爛々と輝いている。闇に目が慣れ、その全貌がうっすらと浮かび上がる。
見上げるほどの巨躯は炎のように揺らめいて不明瞭で、グロテスクなほど生々しい眼球と溶け合わない。
何本かの槍らしきものが揺らめきを刺し通し、それがなければ霧散するか暴れ出すか、いずれにせよ良くないことが起こることが直感的に察された。
「悪夢というわ」
「アルプトラム……」
「あなたに、これを無力化するのを手伝ってもらいたいの」
「無力化……。」
怪物の視線に射止められていて、少女を見ることもできない。
「これは、これは何なんだ」
「これは悪夢。悪い……とても悪い夢よ。人や場所に魔法をかけて、おかしくしてしまう怪物」
目が熱い。
今すぐに顔を背けなければ、取り込まれてしまいそうだ。取り込まれてしまいそうだ。
顔を背けなければ、背けなければ……。
「目覚めよ」
ぱっと視界が明るくなり、いつの間にか隣にいた少年の方を向くことができた。
デュクスは「あんまり見ないほうがいいよ」と笑いかけると、少女のほうにちょんちょんと歩み寄る。
「ちょっとはわかったんじゃない?アルプトラムの脅威が」
デュクスもあわせて苦笑する。さっきまでのかわいらしい少年は、この数秒のうちに俺を窮地から掬い上げた熟練者に変貌してしまった。この二人は一体、何者なのか。
「今、あなたはあれの呪いにかけられていたわ」
「呪い?オカルトか?」
「残念だけど、これは迷信や伝承の類じゃない。アルプトラムは人に呪いをかけ、そのこころを自分の世界に連れ込んでしまうの」
「……連れ込まれた人間は、どうなるんだ?」
「死ぬとか失踪するとか、そういった表面上の奇事は起こらないわ」
少女は闇の中の炎に正対し、ぎろりと動くその目を見つめた。
「でも、心を連れ込まれた人間はみんな、未来を見失ってしまうの。明日の予定を決めることさえ難儀する程度には、先の出来事を考えられなくなる」
「連れ込まれたこころは、悪夢を祓うまで救われない……。僕たちは彼らを解放するために、こいつらと戦ってるんだ」
明日の予定が決められないことの、なにが苦しいのか理解ができなかった。
救う?戦う?なにをばかなことを言っているんだ。
悪夢?それはたった今この瞬間、俺が見ている光景の異名に違いない。交差点で出会ったのが少年ではなく暴走した車で、轢かれて死にかけというほうがまだわかる。
いい年した他人のお遊戯会など見るに堪えない。
「訳が分からないって顔ね」
「……ご明察」
心臓がドキリと跳ねる。俺の疑問に言及しているようで、不信を見抜いていることがわかった。
表情を繕うこともできず、苦し紛れに戯けて見せる。
「あなたがここに来たのは、偶然や私たちの気まぐれではなく、まして運命でもない。必然より少し下位の道理に従った結果と言えるわ」
「何が言いたい」
少女はちらりとこちらを見て言った。
「あなたはあの時既に、こころを囚われかけていたということよ」
デュクスが俺に近づいてくる。先程とは異なる微笑を湛え、真っ直ぐな栗色の眼で俺を見る。
「僕たちにはアルプトラムに対抗するための魔法がある。あなたがそれをどの位使えるかはわからないけど、きっと上手くいくと思うよ」
「あなたが未来を失いたくないと思うなら、私達と戦わなきゃいけない」
「馬鹿馬鹿しい……」
まるでカルト宗教だ。今思えば、この怪物もなにか仕掛けがあって、俺を騙そうとしているに違いない。宗教団体に限らず、受付や売り子は美人なものだ。あなたは選ばれた人間なの、って?
魔法は比喩か、まさか本気で炎や雷を出すつもりか。なんにせよ厨二病だ。
「断る」
言い切った。
少女は俺の方をじっと見て、またおかしなことを言い出した。
「あなたも恐れているのね」
「なに?」
「明日が変わってしまうことを、恐れているのね」
「……はぁ?」
明日だとかなんだとか、また適当なことを。
当たり前だ。妙なことに巻き込まれるのは御免というだけの話。問題に巻き込まれて嬉しいわけが無い。
「まあ、いいわ」
少女はデュクスとともに元の部屋へ踵を返す。俺も慌ててそれを追った。
幻影だとわかっていても、あの怪物はちょっと怖い。
「することがないなら、明日も来るといいわ。ドアは開けといてあげる」
ああと生返事を返して足早にダイヤ柄の部屋を出る。
扉を押すと同時に真夏の熱風が肌を撫で、汗がじわりと滲んだ。
「騙されてみるといいわ。きっと退屈しないから」
わずかに楽しげな少女の声に、俺は小さく舌打ちをした。