【第六子】距離
目を覚ますと、静寂が部屋を包んでいた。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、灰色の壁紙を淡く染めている。
隣には、水城ミサキの寝息。小さく、規則的な呼吸音が、ユウの耳にやさしく届いていた。
同じベッドで眠ることに、まだ慣れてはいない。
ただ、拒む理由も、もう見当たらなかった。
「……朝か」
呟いてから、そっと起き上がる。ベッドの軋む音にミサキが微かに動いたが、またすぐに静かになった。
ユウはキッチンへ向かい、無意識にコーヒーを淹れ始めていた。
朝のルーティンは、まだ“自分だけのもの”として残しておきたい。それが、わずかな理性の拠り所だった。
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その日の夕食は、豚の生姜焼きと豆腐の味噌汁だった。
「今日の豚肉、ちょっと厚めだったから、火加減難しくて……」
「いや、美味いよ。ミサキの料理、毎回助かってる」
ありきたりな会話。それでも、それが妙に心地よい。
しかし――それは同時に、怖くもあった。
この平穏が、制度によって“与えられた”ものだという事実を、完全に忘れてしまいそうになるからだ。
「ねえ、ユウさん」
箸を置いたミサキが、不意に言った。
「もしこの制度が無かったら、今、何をしてたと思う?」
その問いに、ユウは言葉を失う。
「想像、つかないな……。きっと普通に働いて、時々飲みに行って、惰性で時間を潰してたと思う。恋愛なんて、遠ざけてたかもしれない」
「そっか。……私は、誰かと出会ってたのかな。選ばれてなかったら、誰にも選ばれないまま、年を重ねてたのかなって、ふと思う」
言葉が空気に沈む。
制度によって“選ばれた”という現実は、時に安堵を、時に虚しさを運んでくる。
ミサキは続けた。
「最近、母から連絡があったの。“安心した”って。“誰かと一緒にいてくれてよかった”って」
「……親は、やっぱりそう思うんだな」
「でもそれって、私が“誰かといる”ことが前提の安心なんだよね。ひとりではダメって言われてる気がして、少しだけ……悲しくなった」
静かに、ミサキは笑った。
その笑顔は柔らかいが、どこか張り詰めていた。
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夜。風呂上がりのミサキが、濡れた髪をタオルで拭きながら、ぽつりと呟いた。
「ユウさん、昔って、誰かと付き合ったことある?」
「……あるよ。学生時代と、社会人一年目の頃。それぞれ、短かったけど」
「どっちも、“自由恋愛”だね」
「そうだな。今とは、全然違う」
ミサキは、少し視線を伏せたまま言った。
「私、誰かに“選ばれた”ことがなかったから、ずっと自信がなかった。恋愛も、自分から行動できなかった。怖くて……自分が傷つくのも、相手をがっかりさせるのも」
「でも、こうして一緒にいるのに、“自由”じゃないって思うんだよね?」
「うん。でもね、少しずつだけど、自分の意志で隣にいたいって思えてる。それって、ダメかな?」
ユウは返事をしなかった。
ただ、タオルを受け取り、彼女の髪をそっと乾かし始めた。
ドライヤーの音の下で、心臓の鼓動が重なるのを感じる。
“この手を、ちゃんと握れるだろうか?”
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眠る前、ミサキが小さく言った。
「夢を見たの。“普通の夫婦”になってる夢。スーパーで買い物してて、子どもが駄々こねてて……私は焦ってて、ユウさんが笑ってる」
「……それ、俺も見たことあるかも」
「本当?」
「いや、たぶん違う。でも、そんな未来があるなら、悪くないって思った」
ミサキは枕に顔を埋めながら、くすっと笑った。
「私も、そう思う」
その言葉が、本当に“心”から出たものだとしたら――
この制度の中で、確かに希望を見つけられるのかもしれない。
明日が、少しだけ怖くなくなった気がした




