【第三子】距離と温度
― 相田ユウ ―
シャワーの音が止まると、部屋に静寂が戻ってきた。
湯気のこもる浴室の鏡に映る、自分の表情が妙にぼやけて見えた。
服を着て、窓辺のカーテンを開ける。
川沿いの開けた都市景観は、きれいに整いすぎていて、どこにも「自分がいる感覚」がなかった。
ミサキの手のひらが触れた肩に、何も残っていないのに、
それを“思い出す”たびに、どこかで脈拍が変わる気がした。
彼女が、ただの“義務対象”なら、こんなふうに何度も考えたりはしない。
「もう一度会いたい」と思った。
それは、恋でも、好奇心でもなく、もっと正体不明の衝動だった。
もしかしたら、自分は「誰かに触れられた感覚」を、
もう一度、確かめたかっただけかもしれない。
― 川原ミサキ ―
「触られるの、嫌?」
ユウの声が頭の奥で繰り返されていた。
あのとき、自分が置いた手は、
“制度に従うふり”でも、“駆け引き”でもなかった。
ただ――確かめたかった。
男の体温が、怖くないかどうか。
過去の記憶が、疼かないかどうか。
……疼いた。
ほんの少し。
でも、それは恐怖じゃなかった。驚きだった。
——それが、温かかった。
——嫌じゃなかった。
過去に一度だけ、同じように誰かの胸に顔を埋めた夜がある。
手が背中をなぞって、太ももに触れた時、優しさだと思った。
次の瞬間、それは力に変わった。
「なにもしないって言ったのに、どうして……」
そのときから、身体の記憶が感情を信じなくなった。
それでも――昨日の手のひらだけは、
なぜか、消えてほしくなかった。
― 神永ツバサ ―
「またこの反応率、誤差処理してんの?」
隣の男性職員が、無感情に画面をスクロールしている。
ツバサはその声に反応せず、自分の端末に集中していた。
目の前にあるのは、ユウとミサキの面談映像。
ふと、ミサキがユウの肩に手を添える場面。
触れるか、迷っているような、でも確かに決意があった。
「──この手、怖がってない」
誰に言うでもなく、ツバサはそうつぶやいた。
国家交配制度は、データで適合を判断する。
でも、彼女は信じていない。
「ほんとの感情は、数字にしちゃいけない」
自分がこの職に就いた理由。
それは、妹が制度内で「適合率98.9%」の相手に抱かれた夜、
泣きながら家を出た日の記憶が、今も消えないからだった。
感情がなかったと証明されたのに、泣いていた。
「この人たちは、泣くために選ばれたんじゃない」
だからこそ――ツバサは、このペアを追う。
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【登場人物紹介】
相田ユウ(28歳)
制度面談を通して、ミサキに芽生えた感情が「制度上の興味」ではなく、
“個としての好奇心”であることに自分でも気づき始める。
長く閉ざしていた心が、彼女との接触をきっかけにわずかに軋み出す。
その軋みが痛みではなく、「確かめたい」という熱へと変わってきている。
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川原ミサキ(25歳)
かつてのトラウマによって、誰かとの“身体的接触”に警戒心が強く、
制度には従いつつも、自身の感情と向き合うことを避けてきた。
だが、ユウとの接触が、自身の記憶を呼び起こし、
それが「恐怖」ではなく「温かさ」だったことに戸惑いと希望を感じ始める。
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神永ツバサ(24歳)
国家交配管理局の若手女性職員。AI分析と心理スコアを扱うが、
実際の人間の“沈黙”や“目線”に宿る感情を重視するタイプ。
自分の妹が制度の中で「泣いた」経験を経て、
制度に組み込まれた“感情の不在”に対して疑念を抱いている。
ユウとミサキの接触記録を非公式に追跡し、彼らに「制度を超える何か」を見出そうとしている。