【第十子】選び取る未来
目覚めた瞬間、微かな温もりがまだ隣に残っていた。
ユウは掛け布団の中で静かに息を吐いた。
肌に感じる朝の冷気が、現実へと意識を引き戻す。
横を見るとミサキがまだ眠っていた。
頬を枕に押しつけ、小さく丸まった背中。
昨夜のことが嘘のように穏やかな寝顔だった。
制度に背中を押される形で始まった関係。
でもあの瞬間の涙も、言葉も、熱も全部嘘じゃなかった。
ユウはそっと布団を抜け出しカーテンを開けた。
窓の外にはうっすらと曇った空が広がっている。
秋の気配が街にじんわりと染み込んでいた。
政府の広報アプリを起動すると、最新のニュースが飛び込んできた。
【制度改訂案】
一部世論を受け、次年度からの「交配適齢制度」運用に関する再検討開始。
国民生活局長官「制度の形骸化を防ぎつつも、個人の尊厳を最大限考慮する方向で」
意見公募は来月より開始予定。
「……やっとかよ」
思わず声が漏れた。
この国では「少子化は個人の選択の問題ではない」という価値観が、あまりに長く支配していた。
交配適齢制度――
それは、生殖能力の高い年代に国家が“妊娠”を促し、実行させることで出生数をコントロールする仕組みだ。
強制力は年々増し、恋愛や結婚の自由は形だけのものになって久しい。
けれど最近になって、若者を中心にSNSやフォーラムで制度批判が可視化され始めていた。
“制度で選ばれた関係では、心は育たない”――そんな投稿が共感を呼び、署名運動も広がりつつある。
「……なぁんか、遠い話みたい」
振り向くと、いつの間にか起きていたミサキが、寝ぼけた声で呟いた。
「おはよう。……起こしちゃったか?」
「ううん。ユウがニュース見てちょっと眉しかめたから……」
ミサキはこちらを見つめたまま静かに毛布を抱きしめた。
そこにいるのは“制度の対象者”ではなく、ただの女性――水城ミサキだった。
「制度、変わるのかな?」
「どうだろうな。でも、俺たちが“選ばされた”ことは、もう消えない」
ミサキのまつげが、わずかに揺れた。
「……ユウは、それでも一緒にいたいって、思ってくれる?」
問いはあまりにも真っ直ぐで。
嘘をつけば楽になるかもしれない。
でもそれでは、昨夜のすべてを否定することになる。
「……思ってるよ。制度のせいでも、義務でもなく、俺自身がミサキといたいと思ってる」
「それに反対運動は続いているけど、実際この制度で適合率90%以上のスコアが計測されたペアはほぼ円満な夫婦生活を送っているそうだし」
それがどれだけ無力な言葉でも、彼の本音だった。
ミサキは、ゆっくりと目を伏せ、頷いた。
「……私も。もう、制度のせいにしない。誰かに決められたことを、ただ受け入れるだけの人生やめたい」
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朝食後、二人は並んで食器を片づけた。
カーテン越しの光は柔らかく、外からは子どもたちの登校する声が聞こえてくる。
けれど街の雰囲気は決して穏やかではない。
ニュースでは連日、制度への反対デモの様子が映し出されている。
「昨日も首都で集会があったんだって」
ミサキがスマホを見せる。そこには「愛を選ぶ権利を!」と書かれたプラカードの群れ。
「こういうの、昔ならすぐ鎮圧されてたのにね」
「今はさすがに無視できなくなってる。出生数は持ち直したけど、副作用も大きい。……制度を押しつけられたままじゃ、国民の不満は爆発する」
悠の言葉に、ミサキは頷いた。
けれど、その目には迷いが宿っていた。
「でも……私たちは、どうなんだろう。適合率も高くて、こうして“うまくいってる”って見られるのかな」
「どう見られるか、より……俺たちがどう感じるか、じゃないか?」
悠はタオルで皿を拭きながら答えた。
「制度があろうとなかろうと、俺はミサキと笑っていたい。そのために選ぶ。それだけだよ」
短い言葉だったが、ミサキの頬がわずかに赤く染まった。
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午後、二人は近所の市場へ買い物に出かけた。
秋の果物や、新米が並ぶ。
どこにでもある生活の一コマ。
だが、その背後には制度が作った現実が息づいていた。
市場の掲示板には「制度に従って結合したペアの声」が貼り出されていた。
「はじめは不安でしたが、今は子どもと夫に恵まれ幸せです」――そんな文言が並ぶ。
「……こういうの、宣伝にしか見えない」
ミサキが小声で呟く。
「うん。でも、全部が嘘じゃないんだろう。適合率が高ければ、それなりにうまくいくこともある。……ただ、それを“義務”でやらせるのが問題なんだ」
ミサキは、少し黙り込んだあと、かごに林檎を入れた。
「じゃあ、私たちは……どうやって“義務”を“選択”に変えていけばいいんだろうね」
その問いに、悠はすぐ答えられなかった。
けれど、彼の胸の奥には昨夜の温もりがまだ残っている。
あれは義務の産物じゃない。確かに、自分が望んだものだった。
「……少しずつでいい。今日みたいに、普通のことを一緒にやって、積み重ねていけばいいんじゃないか」
「……普通のこと、か」
ミサキは微笑み、林檎を撫でる。
その仕草はどこか母性的で、未来の片鱗を思わせた。
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夕暮れ。
帰宅した二人は、ベランダから茜色に染まる空を眺めた。
「ねぇ、ユウ」
ミサキが言った。
「制度が変わるかもしれないって話、もし本当にそうなったら……私たちは、どうする?」
「……どうって?」
「制度に守られなくても、一緒にいられると思う?」
悠は少し考え、それからゆっくりと頷いた。
「俺はもう、制度がなくてもミサキを選ぶよ。むしろ、そのほうが嬉しい。誰に強制されなくても、ミサキを選べるから」
ミサキは息をのんだ。
そして、夕陽を背にしながら小さく囁いた。
「……私も、そうありたい。だから……一緒に考えてくれる?」
「もちろん」
二人は目を合わせ、短く笑い合った。
街の喧騒や制度の議論がどれだけ荒れようとも、今この瞬間だけは――確かに、自分たちの意志でつながっていた。