【第八子】揺らぎの中で
「今日は、少し遠くまで歩いてみない?」
その一言で、ふたりは街の中心から少し離れた河川敷まで足を運んだ。
風は涼しく、季節の移り変わりを告げているようだった。
普段は混雑する時間帯なのに、なぜか今日は人が少ない。
その静けさが、ふたりの距離を自然と縮めた。
ミサキがゆっくりと口を開く。
「昔ね、制度が始まる前、私……保育士を目指してたんだ」
「……えっ?」
「子どもが好きだったから。けど、制度が本格的に強制的になって、親の同意を取らずに相手を選ぶようになって……なんか、夢がすごく遠くなっちゃって」
ユウは黙ってミサキの横顔を見つめていた。
小さな声で語る過去は、彼女の中にまだ癒えていない傷を残しているようだった。
「皮肉だよね。子どもに関わりたくて勉強してたのに、今は“制度に従って産む側”になってるなんて」
「でも……」
ユウは言葉を選びながら、静かに返す。
「ミサキは、ちゃんと向き合ってる。逃げずに」
「そうかな……。ありがとう」
その言葉が嬉しかったのか、ミサキは少しだけ目を伏せて笑った。
■ 帰り道のニュース速報
ふたりが帰路につく頃、近くのデジタル広告塔に政府の速報が表示された。
【速報】交配適齢期制度、一部改定へ
『同意の明文化』『適合率アルゴリズムの見直し』などを含む改正案が国会で可決。
なお、選択制の導入に向けた協議は引き続き継続中。
ユウが立ち止まり、画面を見上げる。
「……少しは変わろうとしてるのかもな」
「うん。でも、“選べる”ようになるって、本当に喜ばしいことなのかな?」
ミサキのその言葉には、単純な喜びではない、複雑な想いがにじんでいた。
「この制度がなかったら、私たち出会わなかった。なのに、今それが“なかったこと”になるのって……なんか、こわい」
ユウも頷いた。
「選べるってことは、選ばれない可能性もあるってことだからな」
制度が生み出した運命。
それは不自然で、理不尽で、だけど――どこか人間的だった。
■ その夜
仮住まいの部屋に戻ると、ミサキは湯を沸かしながら言った。
「ねえ、今日ね、すごく思ったの」
「ん?」
「一緒にいる時間って、不思議だなって。朝起きて、料理して、歩いて、しゃべって……それだけで、だんだんユウさんのことが“制度の人”じゃなくなってきてる」
ユウはそっと彼女の湯呑みに手を添える。
「俺も、そう思ってた。少しずつ、だけど。ちゃんと、ミサキとして見てる」
「……嬉しい」
「ユウさん……今日も、隣で寝てくれる?」
ミサキの声は、小さくも真剣だった。
「うん。……もちろん」
その返事に、ミサキは安心したように微笑んだ。
灯りを消すと、外は雨の音に包まれていた。
ふたりの静かな鼓動だけが、部屋の中に響いていた。